2009年12月29日火曜日

姫野カオルコ 『もう私のことはわからないのだけれど』

動けないし、しゃべれないし、
もう私のことはわからないのだけれど……。

母は、だれかが自分を訪ねて来てくれたことが、よくわかっています。
いちばんきれいな顔で迎えてくれますから。


母、父、子ども……。家族について
日本のどこかに暮らすごく普通の人がふともらしたつぶやきを、
作家・姫野カオルコが写し取った掌編小説集。

だれにも言えない本当の気持ちを
この本を開く時ならぶつけてもいい。

ひとりで泣くこともある、あなたに贈る愛の詩。


しっとりといい本です。新聞かなにかへの投稿のような形式を取っていて、おやっと思いますが、すぐに引き込まれます。とても優しい世界。まだないけれど、これから親やら親族やらを介護していかなくてはならないことになる。それはきっと愛憎が文字通り渦巻く世界で、とてつもなくしんどいことなんだろう。けれども、そのなかで彼らが呟く言葉、それら一つ一つはとってもシンプルなものの積み重ねなんだけれど、なんともいえない重み、温かさが詰まっている。それが何にも知らない僕にも伝わってくる。そして僕もいつか彼らの側に立つ。その次は彼らに介護される側に。それはどうしようもないことで、ただその日が来るのを待つしかない。けれどそれを待っているあいだに彼らの呟きが聞けたこと、これはやっぱりいいことだったと思う。

2009年12月17日木曜日

上野修 『スピノザの世界』

スピノザの思想史的評価については多くのことが言われてきた。デカルト主義との関係、ユダヤ的伝統との関係。国家論におけるホッブズとの関係。初期啓蒙主義におけるスピノザの位置。ドイツ観念論とスピノザ。現代では、アルチュセール、ドゥルーズ、ネグリ、レヴィナスといった名前がスピノザの名とともに語られる。スピノザはいたるところにいる。が、すべては微妙だ。たしかにスピノザについてはたくさん言うべきことがある。そのためにはスピノザの知的背景と時代背景、後代への影響、現代のスピノザ受容の状況を勉強する必要がある。けれども、まずはスピノザ自身の言っていることを知らなければどうしようもない。そのためには、スピノザがどこまで行ったのか、彼の世界を果てまで歩いてみるほかない。彼が望んだようにミニマリズムに与し、彼の理解したように事物の愛を学ぶほかないのである。

いい本。
僕はこれまでスピノザには惹かれるものを感じてたんだけれども、なかなか近づくことができなかった。これまで読んだのは「小エチカ」と「エチカ」の前半くらい。「小エチカ」も旧仮名遣いだから難儀しながら(慣れればそれほどでもないのだろうけど、いまだに訓練が足らずあまり得意ではありません)読んだ記憶があり、内容もふむふむと思いながらもとても咀嚼し切れなかった。「エチカ」もあの装置の中になかなか飛び込んでいけずに、よいしょ、と飛び込んではみたけれども上手く行かず途中で投げ出してしまった、という恥ずかしい(これは本当に恥ずかしい…)記憶があります。
上野さんはこの新書で「エチカ」の読解を中心に据えています。ポイントを抑えた引用と丁寧な解説、入門書としてこれ以上ないほどオーソドックスな形。上野さんの思想とスピノザの思想が実に上手く噛み合っているような印象をうけます。でも、この1冊だけじゃ分かったつもりにならない。それがこの本のいいところ。この本を読んだ人は、きっと「エチカ」を読みたくなる。あるいはスピノザのほかの著作を。またはドゥルーズの「スピノザ」を読みたくなるかもしれない。スピノザの哲学には何かが息づいているのだろうか。上野の新書も、またドゥルーズの『スピノザ』も、それぞれの書き手のスピノザと彼の思想に対する共鳴・思い入れで溢れている。そして、それが読む人の心をうつ。不思議なことです。スピノザの思想を「理解」する前に、そうした共感が先立っているかのようです。
僕もスピノザの何たるかなんて全くわかっていないけれども、不思議な親近感を抱いてしまっています。嫌なことがあったときや自分の有り様にうんざりしたとき。そんな時に哲学というものがこれほどまでに人を助けてくれるとは思いもよらなかった。ちょっとした予感がある、それは僕がこれからの人生でスピノザを読み続けることになるだろう、ということ。
『エチカ』を読み直そう、と決意。

2009年12月7日月曜日

岡田英弘 『歴史とはなにか』

 歴史は科学ではなく物語である。インド文明は「歴史のない文明」だ。「中世」なんて時代区分は不要。資本主義経済はモンゴル帝国が世界に広めた。フランス語は人工的に創り出された言葉。十九世紀末まで「中国人」はいなかった。文献通りなら邪馬台国はグアム島あたり。神武から応神までの天皇は実在しない。『古事記』は最古の歴史書ではない……など、一見突飛なようでいて実は本質をついた歴史の捉え方。歴史学者としての年来の主張を集大成した、まことにエキサイティングな論考です。

んなこたーない。
いま、「歴史」にまつわる新書の企画を立てていて、関連書籍をとりあえず斜め読み。だめだね、これ。Amazon高評価=面白いってわけではない何よりの証拠(あるいは僕の感覚がずれているという証拠か)。歴史は物語って、そんな簡単に言えちゃうもんですか。もう少し考えてみたいなぁ。とにかく「アイデンティティ」やら「文明」やら文脈依存的な言葉を説明もせず使いすぎですって。あなたのいう「アイデンティティ」って何よ?とか「マルクス主義歴史学」の弊害ってそういうことなの?それって寧ろ近代主義批判でなくて?とかつっこみたくなります。亀井勝一郎のほうが数段まともな批判をしていたのではないかと。「インド文明は歴史のない文明である」って、そりゃ「インド」なる概念が構築されたのがイギリスの植民地主義の下でのことなんだから、そんな大仰に言わなくても…。
うーん、どう考えても岩波新書の『歴史とは何か』の方がいいよねぇ。明らかにタイトル被せているのに全く言及がないってのも不思議な話ですが。あぁカーのやつも読み返さねば。

とはいえ、とはいえです。ちゃんと読んでみたら面白いのかもしれません、一応。

2009年12月3日木曜日

プブリウス・オウィディウス・ナソ 『恋愛指南』

愛の名著か背徳の書か.詩人に名声と流刑の運命をもたらした教訓詩は機知と諧謔で人の世の望みに応える.航海術や馬術同様,恋愛にもわざがある.遊びの恋,戯れの愛,洒脱と雅を離れることなく,知的にことを運ぶには…当時の男女に伝授する奇手巧手の話から〈黄金のローマ〉の社会や文化へと読者はいつしか誘われる.

定評のある沓掛さん訳、なんともくだらな面白い本です。3巻構成で、1巻は男性が女性を口説き落とすためのテクニックの伝授、2巻目は落とした女性をどうやってキープしておくかの秘訣の伝授、3章は女性はいかに男性の誘いを引き寄せるかの技法の伝授。とはいえ、この本の内容を本気にした人は(まさかいないだろうけど…)まぁ痛い目にあるでしょうね。
なんてゆうか、こういう発想の人って今の時代にもいるし人間なんてものはそう変わるものではないんですね、どの時代でもどの地域でも。とはいえ古代ローマというのはひどく男性中心的な社会だったんですね、まぁそれも今でも大して変わらないですか。

オウィディウスの活躍した時代のローマ、あるいはオウィディウス自身の生涯について、僕はほとんど知らなかったので、この解説はとても興味深く読みました。

しかし、恋愛=異性愛となったのはいつからなのだろう。『饗宴』を読む限りでは、恋愛=異性愛という図式は必ずしも成立していない気がする。一方、この本が想定しているのは、異性愛であることは明らかだ。この間に一体何があったのか。よく分からないけれど、あるいはこうした著作それ自体がこうした図式を強化・再生産させる作用を果たしたと言えるのかもしれないし、『饗宴』の中にも、僕が忘れているだけであるいは、恋愛=異性愛図式が成立していたのかもしれない。

2009年11月25日水曜日

フェルナン・ブローデル 『歴史入門』

二十世紀を代表する歴史学の大家が、代表作『物質文明・経済・資本主義』における歴史観を簡潔・明瞭に語り、歴史としての資本主義を独創的に意味付ける、アナール派歴史学の比類なき入門書。時間軸を輪切りにし、人間の歩みを生き生きと描き出す、ブローデル歴史学の神髄。

周知の通り『物質文明・経済・資本主義』の要約版です。資本主義のダイナミクス。
アナール学派について、詳しいことは全く知らない状態だったので、なかなか勉強になりました。面白いのは、この本にほとんどいわゆる「歴史上の人物」が登場しないこと。人物と人物を、出来事と出来事を線で結ぶ歴史ではなく(そして単線的ではなく)、長いスパンの内部での様々な変動をそれこそ教会簿などの諸史料を分析することによって市井の人々の動き(人口変動)、生活などを浮き上がらせる、歴史「空間」のようなものを作り出すこと、それが彼らにとっての歴史を書くことなのかな、と感じながら読んでいました。資本主義についての彼の認識は面白いですね、「近代」を特権化することなく、それこそ数百年単位の(緩慢にも見える)変動のなかで捉えようとしていく。ウォーラーステインの世界システム論と響きあうところがあり、また相違するところもある、とはブローデル自身が言及していること。この辺も勉強不足なので何ともいえないのですが。
また、「資本主義が階層を発明したのではなく、資本主義は階層を利用しているだけ」である、という指摘は面白いですね。どっちが卵かという話ではなくて、再帰的に両者が結びついているということでしょうか。彼の言う「物質文明」について、もう少し詳しく知りたいなぁ。

あと一つ二つ。「世界史」というのが実質的には「ヨーロッパ史」であったことについて。この「世界史としてのヨーロッパ史」というのは、「世界時間」の章で触れられるとおり、このときの「世界」とはそれがひとつの「世界-経済」でしかないのに、あたかもそこに外部のない普遍的な「世界史」として描かれてきたこと。非-西洋地域の歴史をヨーロッパ史の味付けでもなく、発展史的に位置づけることもなく語ることの重要性を、ブローデルはある程度言及しているように思える。でもアナール学派って、基本的にはヨーロッパ史にとどまるんですよね。
あと、ブローデルがもし生きていたとすれば、今日の世界をどのように見たか。今日の世界は単一の都市を中心に形成される秩序としてはもはや捉えられないだろう。ニューヨーク、ロンドン、東京などの「グローバル・シティ」の上部はもはや切り離すことのできないひとつのネットワーク構造だろうし、もはや明確な中心もない。この点を彼ならばどのように考えるのだろうか。

2009年11月24日火曜日

イタロ・カルヴィーノ 『くもの巣の小道』

少年ピンが加わったパルチザン部隊は、“愛すべきおちこぼれ”たちのふきだまりだった。普段、酒や女で頭がいっぱいの彼らが「死」をもってあがなおうとしているのは何なのだろう。なんとも嫌らしくて、不可解な大人たちである。パルチザンの行動と生活を少年の目を通して寓話的に描く。奇想天外な現代小説の鬼才・カルヴィーノの文学的原点の傑作。

パルチザン。なんともかっこいいイメージ。ファシストによる弾圧を耐え忍び、来るべき社会にために武器を手に取る闘士たち。そんなイメージをこの小説はこれでもか、っていうくらいに打ち壊してくれます。1946年にこの小説が発表されたこと、それ自体が大きな驚きでした。この時代、恐らく人々は解放感でいっぱいだっただろうし、自分がその解放のためにいかに闘ってきたか(実際にどうであったかは置いておいて)を盛んに主張していたことだろう。そんななかでこの小説はひとつの「爆弾」だったかもしれない。マスター・ナラティヴに抗すること。民衆の側から、「そうではなかった」、あるいは「そうであったのになかったことにされてきた」歴史を描くこと、これがネオ・レアリズモ文学というものなのかな、と僕は思います。タブッキの『イタリア広場』しかり、ヴィットリーニしかりパヴェーゼしかりギンズブルグしかり、そしてカルヴィーノのこの小説しかり。イタリアの文学にはそうした伝統が脈々と流れ着いているようです。あるいはオルミの『木靴の樹』もそうした系譜に位置しているのかもしれません。

ピンにとって大人たちはみな不可解で信用の置けない存在に見える。黒シャツのファシストもパルチザンも大差なく、大人たちはみな酒やら女やらピストルやら、そんなものに夢中になっているだけだ、と。ピンの所属する師団は吹き溜まりのようなところで、そこにはパルチザンの理念も、全体主義社会への反発もなにもない。それは闘士というよりも落伍者の集団だった。
確かにパルチザンに参加した者たちみなが、崇高な理念の下に結集した、という訳ではないだろう。やむにやまれぬ事情があったり、行き場所がどこにもなかったり、そうやって人が集まっていったのかもしれない。小説の後半部で、キムという人物が登場する。彼の発言・思想はこの小説のなかで奇妙に際立っている。キムもまた、ファシストたちと自分たちパルチザンの間にはほとんど違いはない、ただ向きが逆なだけだと。自分たちは正しい方向を向いているが、彼らのそれは誤っている、私たちは「歴史の一部」になることができるけれども、彼らは歴史を作ることはできないのだと。その上で、いわば偶発的に集まってきた人々を、正しい方向に向けさせるのが自分の役割であると、キムは考える。ここでの「歴史」とはマスター・ナラティヴのことではないだろう。むしろ一人一人の血が通うような生きられた「歴史」とでもいうのだろうか(難しい、少し保留で。けど竹内好ならば恐らくこうした「歴史」が息づいた文学のことを「国民文学」と呼んだだろう)。解説やあとがきを読んでいると、カルヴィーノはピンとキムの両方に自分を照射していたのではないか、との指摘がある。そうであれば、キムが「人々を正しい方向に向けさせるのが自分の役割」と思ったように、カルヴィーノもまた解放後の浮ついた社会の中で、再び人々を正しい方向に向けさせていくのが自分の役割であると考えたのだろうか。

2009年11月23日月曜日

ロドリゴ・レイローサ 『船の救世主』

「恐怖や脅威は、私の小説の主要なテーマのひとつだ。特定の人間に対して感じる恐怖ではなく、見知らぬ環境や状況がもたらす恐怖だ」

「小説家としての私のキャリアにおける最大の事件は、モロッコへ出かけたことと、グアテマラで生まれたことだと思っている」             
         ・・・・ロドリゴ・レイローサ

なんとも奇妙な中篇です。冒頭、主人公である海軍大将が沈んだ船を引き上げる作業を監督している(すでにこの時点でどこかおかしい)。そんななか、「各国を戦争に追いやったウイルス」や「地球規模に広まった自殺熱」への恐怖から軍人を対象に心理検査が行われることになり、そのために大将は嫌々ながら首都に帰っていく。このあたりは(軍人による)独裁体制やそれに起因する(のか?)世界大戦を念頭においているのだろう。その後、心理検査で「異常」と見做されることを恐れる、「厳格で模範的な軍人」である大将はこっそり図書館で心理学の本を漁り予習しようとするのだが(小心というかせこいというか…)、そこに妙な男が現れ、彼に謎めいた冊子を手渡す…
という感じです。短いですけど面白い。そして何より「奇妙」です。正常と異常の間と現実と幻想の間。視点も大将の側になったかと思えば、次の章では分析医のそれになる。読んでいくとその「妙な男」は実在したようにも読めるし、大将の幻覚に過ぎないような気もしてくる。
マクレランド図版のある図版になぜあんな過敏な反応を大将が示したのかもよく分からないし、パンフレットの内容も謎めいている。荒唐無稽なようにも見えるけれども、それなりに意味があるないようにも読める…。そしてラストである人物がそのパンフレットの一句を想起するのは何故だろう…、とかよくわからないところも沢山あるけどそれもまたよし。ラストにはびっくりですが。「正常」と「狂気」の線引きを混乱させる、そんな小説。いつから「頭がおかしくなった」なんて、あまり意味はないですね。ここでの狂気は、個人のそれでもあるし、組織におけるそれでもあり、また世界にウイルスのように蔓延するものでもあるようです。面白いですよ。

2009年11月22日日曜日

松浦寿輝 『花腐し』

多国籍な街、新宿・大久保の片隅、夜雨に穿たれた男の内部の穴に顕現する茸と花のイメージ。少女の肉体の襞をめくり上げ見える世界の裏側。腐敗してゆく現代の生と性の感覚を鋭く描く「知」と「抒情」の競演。

うーんなんとも…。じめじめぬらぬらした世界です。嫌いじゃないけど、なんともどんよりしますね。松浦さんの仕事はこれまで読んできていないので(それこそ古井さんとの『色と空のあわいで』くらいしか)、変なこと言えませんが。評論のなかで彼がやってきたこと、それとこの小説とはぴったりとくっついているのでしょうか。僕は年を取れば取るほど、「官能」から自由になれるものかと思っていたけど、そんなことはないみたいですね。むしろ年月を経るほどそれは身体のなかに、それこそ澱のように沈滞していくみたいで。うーむと。都市と人生と性。この重なりは面白いですね。襞のような路地に誘われていく男、「フリダシモドル」と「とまれみろ」…なんともじっとりした官能の世界が広がっています。僕はおなかいっぱいですが。
…全く整理が付いていないのが見え見えですが。それだけ混乱させられた、というのが正直なところです。申し訳ありません。

2009年11月21日土曜日

ダナ・アーノルド 『美術史』

巨匠の傑作や様式中心の考え方を批判し,美術を社会や文化,人間との関わりの中で捉えかえす現代の美術史学は,何をテーマとし,どんな議論を行なっているのか.イースター島の巨像からモネの絵画,前衛芸術,さらにはビデオゲームのキャラクターまで,多様な視覚的素材を用いながら,美術について考えるさまざまな視点や方法を解説.

岩波の「1冊でわかる」シリーズ。Oxford University Pressから出ているVery Short Introductionsシリーズの翻訳ですね。この岩波からの翻訳は最新刊が今年の2月にも出ており、翻訳自体も続いているようです。でもそれ以上のペースで原著が刊行されているようで。あんま売れないかもしれないけど(僕が買ったのは2刷)がんばって欲しいものです。このシリーズはいいですね。ポスト構造主義についてキャサリン・ベルシー(『文化と現実界』は面白い)が書いていたり、文学理論をジョナサン・カラーが書いていたり、ヨーロッパ大陸の哲学をクリッチリーが書いていたり。多くは積読状態が続いていますが、本棚に並べてるだけでもきれいですね。

この本は美術史を叙述する(それこそ高階さんの『近代絵画史』のような)ものではありません。それを期待すると間違いなく肩透かしを食らうことになります。どちらかというと美術史や美術史学の有り様、系譜、問題点などについて整理しています。ポスト・コロニアリズム批評やフェミニズム批評、そしてマルクス主義が美術史(学)に与えた影響にも眼を配りつつ、更には視覚文化研究との結節点にも言及した、とてもバランスのよい入門書ではないか、という印象を受けました。美術と思想の関係についても、決して十分とはいえませんが、ある程度分量を割いて言及しています。キーワード集も、ちょっとした勘違いや知ったつもりになっていた言葉を捉えなおすのにいいかもしれません。また巻末の解説も、美術史学、また日本近代美術に対して関心がある人には役に立つものだと思います。まぁ1500円を高いと思うか安いと思うかによるとは思いますが、個人的には買ってよかったな、という感じです。

2009年11月19日木曜日

角田光代 『対岸の彼女』

30代、既婚、子持ちの「勝ち犬」小夜子と、独身、子なしの「負け犬」葵。立場が違うということは、時に女同士を決裂させる。女の人を区別するのは、女の人だ。性格も生活環境も全く違う2人の女性の友情は成立するのか…?

読みさしの本を終えてしまい、なんとなしに買った本。わからないような、すごくよくわかるような。男性作家が女性をある種のステレオタイプとして描いてきたこと、これはよく聞く話で、だけど女性作家が男性を、特に「夫」を描こうとするときもまた似たようなメカニズムが働くのだろうか。主要な役割を果たす人物をのぞいて、人物造形があまりにも平面的な印象を受けた。「いかにも」な夫、姑、母親、周囲の母親たち…。分かる、というよりも分かった気になる。けどよく考えてみると分かるわけないのだけれど。たぶん、この小説は、それを手に取る人によって全然感じ方が違うのだろう。例えば僕の母はこれをどう読んだんだろう?そんなことも考えた。何れにせよ僕にとっては「分かったつもり」になってしまう、よくない本だった。きっと僕は何も分かっちゃいないんだろう、との自戒も込めつつ。話自体は嫌いじゃないけれど、すっきりせず。

そうそう、あらすじのところに「勝ち犬」やら「負け犬」やら変な言葉が踊っているけど、あれは刊行当時の流行りかね。そんな話じゃないと思うけど、まぁいいや。

2009年11月14日土曜日

コーマック・マッカーシー 『すべての美しい馬』

1949年。祖父が死に、愛する牧場が人手に渡ることを知った16歳のジョン・グレイディ・コールは、自分の人生を選びとるために親友ロリンズと愛馬とともにメキシコへ越境した。この荒々しい土地でなら、牧場で馬とともに生きていくことができると考えたのだ。途中で年下の少年を一人、道連れに加え、三人は予想だにしない運命の渦中へと踏みこんでいく。至高の恋と苛烈な暴力を鮮烈に描き出す永遠のアメリカ青春小説の傑作。

『越境』の流れで読んでしまいました。またも一気読み。『血と暴力の国』を読んだときは、いいなぁと思いつつもそこまではまらなかったので、コーマック・マッカーシーにどっぷりしたのは今月が初めて。来月は『ブラッド・メリディアン』の邦訳も出るらしく、年内はどっぷりし続けでしょうか。<国境三部作>のうち、『平原の町』は未読ですが、例によって版元品切れ。古本屋を漁るか、洋書を買うかですが、どちらも安くはないですね。文庫化して欲しい。こないだThe Roadを安く買えたので、とりあえずそっちで紛らわそうかと。

『越境』とどっちが好きかとなると、僕は『越境』の方を推しますが、どちらもすばらしい作品であることは間違いないと思います。自然や動物(特にこの小説では馬)の描写が卓抜。マッカーシーにとってこうした自然や動物は、単なる書き割りでも舞台でも小道具でもない。
いいなぁ。

2009年11月8日日曜日

コーマック・マッカーシー 『越境』

十六歳のビリーは、家畜を襲っていた牝狼を罠で捕らえた。いまや近隣で狼は珍しく、メキシコから越境してきたに違いない。父の指示には反するものの、彼は傷つきながらも気高い狼を故郷の山に帰してやりたいとの強い衝動を感じた。そして彼は、家族には何も告げずに、牝狼を連れて不法に国境を越えてしまう。長い旅路の果てに底なしの哀しみが待ち受けているとも知らず―孤高の巨匠が描き上げる、美しく残酷な青春小説。

この小説に出会えてよかった。とにかく圧倒されました。
ギリシャ悲劇のような、そんな感じです。
どう感想を書けばいいのかわからないけれども、とにかく揺さぶられる。
緻密に構成された小説です。3回の越境と、その度に老人から語られる物語。それは物語だけれども、寓話めいていて、それがビリーの「運命」とも共鳴する。それらの話は全て、「世界」と人間の「運命」に関わるもので(だからとても哲学的であり神学的でもある)、それはビリーの「世界」とかれの「運命」にも関わりあう。そしてそれにビリーはとめどなく押し流されていく。でもそれにたいしてビリーは立ち向かうのではなくて、むしろ積極的に押し流されていくように感じた。「運命」に抗うのではなくて、それを肯定するように。
そのビリーの様も、織り込まれる挿話も、一つ一つにとても魅了された。
このなかでのアメリカとメキシコの「越境」、狼がアメリカに「越境」したことに物語は始まり、その狼を捕らえたことによってビリーはある意味で「越境」を経験する。そしてそのあとに、メキシコに「越境」し、ふたたびビリーは変わる、そして「ホーム」であったアメリカも変わっていく(少なくともビリーにとっては)。「越境」は物理的な行為ではない、おそらく。ビリーも国境横断自体は何てことなく遂げるのだから。なによりも「越境」というのは精神的な行為で、それは越境者の「世界(像)」を変えるものなんだろう。眼を吸い取られた老人もまた越境者であるだろう。神に論争を仕掛ける男に出会った司祭もまたそうなのだろう。そうした「越境」によって形作られ壊された「世界(像)」はもとの姿に戻ることはないのだろう。

とても透き通っていて脆いようにも見えるけれども、それゆえに鋭く美しい文章。ハードボイルドな小説?って聞かれたけど、そうじゃないです。また、動物や自然の描写、それらと人間とのやり取り、関わり合いの描き方もとても美しい。いいです。

2009年10月31日土曜日

アーロン・スキャブランド 『犬の帝国』

現代日本人にとって,今や欠かせない伴侶となった犬.しかしほんの一五〇年ほど前,「野蛮な」日本犬と「文化的な」洋犬は,日本と西欧の文化的軋轢の象徴でもあり,「文明開化」の掛け声とともに在来の犬は受難の時代をくぐってきた.ところが昭和に入ると一転して「日本の犬」こそが帝国のシンボルにふさわしいと「忠犬」ハチ公がもてはやされ,挙国一致の戦争に多数の軍犬たちが動員され,死んでいった.そして,現代.ペット大国日本の犬たちは,主人たちとともに大量消費の時代を迎え,生活習慣病に悩むものまで現れている.犬という鏡に映し出された近現代日本の姿を,気鋭の米国人歴史家が鮮やかに切り取る.

面白い。日本研究、ポスト・コロニアル研究、歴史学、社会学の間を行くような。ウマ・ナラヤンの「文化を食べる」(『グローバリゼーションの文化政治』収)という論文のことを思い出しました。「近代化」、「文明化」そして「帝国主義化」、このなかで「犬」はどのように語られ、また何を語ってきたのか。「犬」(の表象)が果たしてきた役割とは何なのか。そして、現代のペットブーム(「かわいい」犬たち)とは何なのか。この現代のペットブームについての分析は十分とはいえないけれども、これは面白いですね。日本に主軸をおきながらも、常にその他の地域「非‐西洋」やその対蹠としての「西洋」というものに絶えず目を向けているところも評価できます。面白いですよ。

アラン・ムーア 『フロム・ヘル 上・下』

鬼才として知られるコミック原作者アラン・ムーアによるグラフィック・ノベルの傑作。ムーアが自作のなかでも特に達成度の高い一作と自負し、彼の際立った作家性に触れることのできる格好の作品である。
いわゆる「切り裂きジャック」の連続殺人事件が本作のモチーフ。ノンフィクション・ノベルに奇想をはめこんだような巧妙なプロットに、ムーアの本領たるダイナミックな構成力、奥行きのある世界観・人間観が活かされている。丹念に再現されたヴィクトリア朝末期の英国社会に、いくつもの象徴が生み出す複雑な磁場がはりめぐらされる。キャンベルの画との絶妙のコラボレーションにより、狂気の犯人しか知らないはずの場面までが、まさに圧巻の幻視力をもって描き出されている。
静止画の存在感をもつ各コマに込められた意味とニュアンスを読み解きながら、その世界に浸りたい。19世紀末ロンドンの陰鬱な景色が、巻を閉じた後も読む者の目に焼きついているだろう。
小説的な読み心地と鮮烈な絵の力を兼ね備え、サスペンスとイリュージョンに満ちた、無類のエンターテイメント。全2巻。


一気読みでした、正確にいえば上巻と下巻との間に食事を取ったけど。おもしれーなぁ、エログロ満載でフリーメイソンやらも絡んでくる、サブカル臭がむんむんします。切り裂きジャックのことはよく知らないし、さほどの興味もないんだけど、へぇ~、とかふーんとかえぇっ!とかグロっ!!とか呟きながら読んでました。終わったと思ったら、今度は膨大な注記が…途中まではちゃんと見返したりしながら読んでたのですが、途中で力尽きて流し読みでした。全部読み返したいとは思うけど、さすがにげっそりしてしまって、また今度にしようと思います。しかし、世紀末ロンドンの街並みや広告、衣装、部屋の造りなんかもここまで描いてみせる力はすごいですね、なんというかどんよりじめじめとした空気が伝わってくるようでした。

真面目に感想を書きたいところもあるのですが、それはいつか読み返した時にでも。

2009年10月25日日曜日

アティーク・ラヒーミー 『悲しみを聴く石』

戦場から植物状態となって戻った男。コーランの祈りを唱えながら看病を続ける妻。やがて女は、快復の兆しを見せない夫に向かって、誰にも告げたことのない罪深い秘密を語り始める……。

アティーク・ラヒーミー(今年のノーベル賞のオッズにも顔を覗かせていましたね)の邦訳としては2作目。「エクス・リブリス」よくやってくれました。前回は『ミスター・ピップ』なるひどく凡庸かつ西洋中心主義的な作品を紹介して(しかも誤植だらけの)唖然とさせられたものですが、これでよしとしましょう。

舞台はアフガニスタンのどこか、あるいは別のどこか。アフガニスタンでの出来事を強く意識しながらも、それを他のどこかでも起こっているような普遍的な問題として捉えてほしい、というラヒーミーの意図なのでしょうか。

更に冒頭の掲げられるエピグラフ;
「身体から、身体を通して、身体とともに、身体に始まり、身体に終わる」(アントナン・アルトー)

このエピグラフを掲げた目的は何なのだろうか。率直に言って、僕は精神分析には疎く、これから先に書くことはあまり自信がないけれど。
恐らくこの小説は「分裂症」をめぐるものだ。女の引き裂かれる感覚、幻覚、肥大した身体感覚…この女が「分裂症」に陥る、その原因は「オイディプス・コンプレックス」と結びつけて解釈されうるようにも読める。パパ‐ママ図式の中に囚われているようにも。「分裂症」を患った女性が、植物状態となった男(しかし精神科医とはこのようなものではないだろうか?)に対して、語り続ける。自らの「秘密」を次々と。その告白の過程は、自由連想法的な治療の過程そのものなのではないか。人が自らの悲しみを告白する、その告白は「サンゲ・サブール」に転移して、その告白が終わった時、その石は砕けるという。
彼女を抑圧しているのは、あるいはパパ-ママ図式ではないのかもしれない。オイディプス云々も関係ないのかもしれない。彼女を抑圧するものは社会そのものであって、そこに含まれる暴力や家父長制でもあるのだから。その全てが極めて男性性的なものなのは間違いないけれども。その象徴たる英雄=夫が植物状態となり単なる「石」と化す。それによって彼女はその抑圧から離れ、自由に語りだす。そして彼女の欲望は解放される。

なんだかよく分からなくなってきた。あまりよく知らないことをつなげて言いたいことを組み立てるというのはちょっとムリがありますね。なんだろう。この女性があまりにも西洋化しすぎているのではないかという批判がある。それはあとがきにも触れられていることだし、Amazonのレビューにも早速そんな趣旨のコメントがあった(その人はイスラーム圏の女性のことはよく知らないけれど、と但し書きを付けてはいたが)。
しかし、その意見はひどく高圧的なものだ。イスラーム圏の女性は、アフガニスタンの女性は西洋化されてはいない、性を露にすることはなく、雄弁に語ることはない、そういった前提の下に、この小説に出てくるムスリム女性は「西洋的すぎるね」とか、これは「いかにも厳格なムスリム女性だねぇ、イスラームはけしからん」とか言ったりする。そんなものオリエンタリズムの焼き直しではないか。あるべきオリエンタルな女性のイメージを勝手に抱き、それをそこにいるであろう女性に押し付ける。アフガニスタンで過ごし、フランスに移住することになった男性の語る女性像よりも、彼らの抱く表象としてのムスリム女性、アフガニスタンの女性は絶対的なものらしい。そんな一括りにアフガニスタンの女性はこういうものだ、なんてイメージをもつことはどう考えてもこっけいでしょう。「近頃の若いもんは~」っていうのと同レベル(もっと性質が悪い)の戯言でしかないだろうに。


何の話かわからなくなってきたけれども、この小説はなかなかよいですよ。削ぎ落とされた描写と女性の時に饒舌すぎるほどの語り。それをつなぎとめる空白。短い小説ですが、じっくりかみ締めながら読むことができる作品です。

2009年10月21日水曜日

オノレ・ド・バルザック 『グランド・ブルテーシュ奇譚』

妻の不貞に気づいた貴族の起こす猟奇的な事件を描いた表題作、黄金に取り憑かれた男の生涯を追う「ファチーノ・カーネ」、旅先で意気投合した男の遺品を恋人に届ける「ことづて」など、創作の才が横溢する短編集。ひとつひとつの物語が光源となって人間社会を照らし出す。

おもしろいなぁ、バルザック。他も読みたい。
どれから読めばいいのかわかんないとき、光文社古典新訳文庫は本当に助けになります。これからも良質な作品を次々と送り出してほしいなぁ、と。

しかし宮下さん、ラブレーもモンテーニュもご苦労様です。完結したらまとめて読もうと思っているのでこれからもがんばってください。

2009年10月14日水曜日

アントニオ・タブッキ 『イタリア広場』

舞台は中部イタリアの小さな村。三十歳で死ぬことが宿命づけられている一家の主の三代にわたる物語。ファシズム期をはさむ、激動のイタリア現代史をある家族の叙事詩として描く。

ある種の小説を読み終えた時に、頭の中がぐちゃぐちゃになるような、妙な混乱を感じるときがあります。それは一方ではとても心地よくて、けれどもそれをどこかに発露したくて仕方なくなる、そして実際に言葉にしてみようとするけれども、それは往々にして上手く行かない。最近読んだ小説では、ガッサン・カナファーニーの『ハイファに戻って』やボフミル・フラバルの『あまりにも騒がしい孤独』、あるいはフリオ・リャマサーレスの小説のあとでも同じような感覚をおぼえました。僕にとってこのごちゃごちゃした感覚は「いい小説」を判断する試験紙のようなものです。そしてこの小説を読んだ時にも。

タブッキを読め読め、といわれ続けていたけれどもなかなか読むことができず、『イタリア広場』が僕の読んだ初めての彼の小説でした。そしてこれまで読んでこなかったことをやっぱり後悔しましたし、これから読んでみたいな、と思っています(せっかくuブックスに幾つも入っているわけですし)。

30歳で死ぬことを宿命付けられた、ある家族の叙事詩。それだけでも興味が引かれるところですが、手にとって目次を開いてみると「エピローグ」から始まります。映画ではよくあるヤツですし、単なる回想という形でしたら別に目新しいこともない(中勘助の『銀の匙』)。けれどもこの小説の「回想」は、ある個人の記憶が呼び起こされてストーリーが展開していくのではなく、彼の家族の系譜そのものが「回想」される。あるいは、「彼」(まぁ読めばすぐ分かるので伏せることもないのですが)がそれまでまさしく吟遊詩人のようにアコーディオンを片手に各地を放浪しながら、その家族の物語を歌っていたことも含めると、まさしくここで回想されるのは叙事詩そのもののようです。そしてその家族の叙事詩は「イタリア近代史」そのものを描き出すことになります、ただしそれは「公的なイタリア近代史」として語られるような一種のマスター・ナラティヴとは異なった技法で、ですが。「叙事詩」は往々にして英雄譚ですし、彼を讃美することによってその統治を正統化する役割を果たすこともあります。それはそれまでの統治や政治体制を承認させ、下支えをする(上部構造の私的次元におけるヘゲモニーの問題を提起したのはグラムシでしたか)。であるならば、その統治に対する抵抗もまたこの位相において要請されるものなのだと思います。そしてタブッキはこの「公的な」イタリア近代史では消し去られてしまったある家族の叙事詩を紡ぎだすことによって、それにあくまでも文学的に抗おうとしているように感じました。この家族の男たちが30歳で死ぬことを宿命付けられているとはいえ、誰が彼らを実際に殺したのかということを思い起こした時、この抗いはより鮮明なものになるのではないでしょうか。この家族の叙事詩はそれ自体が一種の抵抗史であるとともに、それをつむぐこと自体もまた抵抗である、つまり二重の抵抗がこの小説には含まれているのではないでしょうか。
ただこういう謂いは、あまりにもこの家族だけに注目を寄せたものですね。この家族の傍らには常に共に闘う人々が、あるいはそれを見守る人々がいます。だからこれは、一つの「民衆史」なんですね。

特に最後の言葉、「平等は、小麦の分配装置では、手に入らない」。
教皇絶対的なカトリシズムからも、そして経済決定論的なマルクス主義からも一定の距離を置き、洞穴に隠遁したこの司祭の言葉に、そしてそこに込めたであろうタブッキの思いに、心が揺さぶられざるをえませんでした。

2009年10月6日火曜日

徳永誠 『現代思想の断層』

神は死んだ──ニーチェの宣告は,ユダヤ・キリスト教文化を基層としてきた西欧思想に大きな深い「断層」をもたらした.「神の力」から解き放たれ,戦争と 暴力の絶えない20世紀に,思想家たちは自らの思想をどのように模索したか.ウェーバー,フロイト,ベンヤミン,アドルノなどの,未完に終わった主著から 読み解く.

なんだかかっこいいタイトル。けど帯を見るとそこに並ぶ思想家はウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノ。彼らの思想を「現代思想」と括る人はほとんどいないと思いますが、彼はそう括ります。ドゥルーズもデリダもラカンもフーコーさえも顔を出さない。アドルノなどフランクフルト学派を中心に研究をずーっと続けてきた彼にとって「現代思想」とは彼らの思想なのか、と。この時の「現代」とはcontemporaryというよりもmodernなのかだと思いますが。それはいいんです、それは重要なところではないと思います。

この本の目的、徳永さんはそれを最終章で「『大きな物語』を発掘すること」だとしている。彼は「大きな物語」とは地下を流れる伏流水のようなものであり、あるいは時に地殻をも揺るがす大断層だという。そうした「大きな物語」を発掘するためには、単線的な「時間概念」とそれに則った「歴史記述」という発想から離れようともがかなくてはならないと。曰く、

歴史を見る・読む・書くという言語行為の主体は、流れる時間のただ中にあって、共に流れつつ、自らが切り開き、せき止める断面を通して流れを透視し、その重ねあわされた断面を透かして歴史を言語化し、視覚的な図面へと構成する。そのように物語ることに伴う視座制約性への反省は、正しい歴史認識の条件であると共に、また錯誤の源泉をも意識させる。(235)


そしてこの記述は恐らく序章において彼がハーバーマスに示している共感と対応している。ハーバーマスが擁護し続けている近代的理性、それに僕が疑問を感じるように、この記述を僕はすんなりと受け入れることはできなかった。いや、この記述の大半は理解できる、「流れ」なるものがあるとすれば、という留保つきだけど。僕は、歴史というものは「書き換えられる」(竹内)だと思うし、歴史を記述することとはまさしく創造的な行為だと。しかし、それは「正しい歴史認識」云々とはまったく別の話だ。徳永さんはこの種の反省を通じて「正しい歴史認識」が可能だと考える。なぜ?そのとき「正しさ」を確定するのは誰なのか?なぜ全き外部に立つことができず、自身もその中におかれていること、その「流れ」を透視するしかできないことが「正しさ」を担保することになるのか?この点を理解することができないでいる。

そこで止まっては勿体ないので、この点は置いておいて次に進もう。この本は、ニーチェの死以降の「神なき時代」(こういう安直な謂いもどうかと思うのだが…)の思想を幾つかの断面によって、つまりウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノという4つの断面を通して浮き彫りにすることを目指している。おぉ…かっこいい。

けれども…、やはり勉強不足の僕にはこの4人の未完の思想を通して何が浮き彫りになったのかさっぱりわからなかった。書いていくうちにそれが分かってくるかもしれないので最後のとこだけちょっと復習してみたい。

ウェーバーの章の終盤部、ウェーバーの思想(その説明は目新しいというよりも、配慮のない言葉遣いをすれば凡庸ですらあるように感じる)を追いながら、それがニーチェの議論からの論理的帰結であるという。ウェーバーの教説の根底にはニーチェに由来する「価値ニヒリズム」と「宗教的無神論」があり、それは「啓蒙」の一つの帰結であったと。
そして次の文章でこの章を閉じる。

ウェーバーの舞台装置は、今やヤーヴェの主宰する神政の風土を去って、異教の神々の遊ぶオリュンポスの山に移っている。学問的にも、人間的にも。そこにはアポロンに交ってディオニソスの姿も見える。さらにはアフロディテの姿も、それらの陰に見え隠れしているように思われる。(65)

フロイトの章。僕はフロイトの最後の研究『人間モーゼと一神教』を未読なので、面白く読んだ。そしてなぜフロイトはこのような研究を行ったのかという当然の疑問を持った。著者はそれをモーゼの脱ユダヤ化することを介した、反ユダヤ主義への一種の応答として読もうとする。かなり強引にユダヤ教に絡めて議論を展開させようとしている印象も持つが。そんなこの章の最後はこうだ。

神は図像としては表せない。しかし象徴としてアレゴリーとして、しかし象徴としてアレゴリーとして、端的に言って、偶像として自らを示し解釈される。彼の死んだロンドンのフロイト記念館には、彼の愛した数々の土偶、異教の神像たちが、偶像の虚実のアウラを漂わせながら、小物展示棚から我々を見下ろしている(111)

ベンヤミンの章も、それなりに面白く読んだ。きっと長く読み込んできたんだろうな、という印象。けれども、ここでも彼はあまりにそれをユダヤ神学に結び付けて解釈しているように思う。それが正しいとか正しくないとかそういう話をしているんではなくてあくまでも解釈の問題だけれども、そうした読みがどれだけ創造的なのかなぁと思う。第一テーゼだって、それを「マルクス主義とユダヤ神学の結合」と読むよりも、孫歌さんのように「ベンヤミンは『歴史』のなかに『人』がいるということをよく分かっていた人間なんですね」、というほうが好きだ(単なる好みの問題なのかな?)。史的唯物論が神学を「使いこなす」か、神学が史的唯物論の「助けになる」のか、という訳の問題に僕はさほどの重要性を感じなかった。第九テーゼにしてもそれをユダヤ神学という点から考察するよりも、僕自身は、「歴史の天使」はそれでも「死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて組み立て」る力をもっているということ、そして強風に抗い廃墟から「歴史」を積み上げていくことこそが歴史学者の使命なのだ、というように理解することのほうが僕は好きだなぁ。

アドルノの章はさすがに長年研究してきたこともあって読み応えありますね。数十年前の自分の研究をなんの衒いもなく再録するあたり、貫禄あります。ハイデッガーとの対比はなかなか。もっと勉強してから出直します、という感じでした。ハイデッガーの「故郷」がここで言われるほど「素朴」なものなのか、考える余地はありそうですが、もっと勉強しないと何ともいえません。


さて、なんだか後半部分は粗くなってきましたが。徳永さんは最後のところで、断層は1本ではなくて無数にあり、複雑に絡み合っているのだ、といいます。そのようなものとしての「大きな物語」(それは大きな物語と呼びうるのか??)を想定したとき「神なき時代」としての現代には、その代わりになる存在とは何なのか?(という問いを彼は提起したいんだと思う。元の文章が意味を成していないのでなんともいえませんが)
ついでにここで描かれた断面とは思想家個人の断面でもあるのだよ、といってこの本を閉じます。

ここまで書いてもぼんやりしたまま。決して悪い本ではないとは思うのですが、ひょっとしたら何かが欠けているのかも、と思わずにはいられませんでした。
今日読んでいた本に次のようななかなか面白い一節がありました(孫引きですご容赦下さい)

ある本に存在価値があるとしたら、てっとり早く言って次の三つのアスペクトを体現しているものだと、私は思います。つまり、人がしかるべき立派な本を書くことができるのは、(1)同じ主題あるいはよく似た主題が、一種の全体的な“誤り”に陥っていると考えられる場合(この場合、本は論争的機能を果たす)、(2)その主題について大事なことが“忘れられている”と考えられる場合(この場合、本は発明的機能を果たす)、(3)新たな“概念”を創造することができると思われる場合(この場合、本は創造的機能を果たす)、この三つです(『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』 129-130頁)

2009年10月5日月曜日

岡田利規 『わたしたちに許された特別の時間の終わり』

あ、始まったんだねやっぱり戦争。イラク空爆のそのときに、渋谷のラブホで4泊5日。――井上ひさし氏、野田秀樹 氏らに激賞された、岸田賞受賞作を小説化。フリーター夫婦の日常を描いた「わたしの場所の複数」を併録。とらえどころのない現代を巧みに描く新鋭、チェル フィッチュこと、超リアル日本語演劇の旗手、待望の小説デビュー!

「三月の五日間」と「わたしの場所の複数」、どちらも面白く読みました。好きなのは後者かな。
チェルフィッチュの舞台、行きたいなぁと思い続けてなぜか叶わない。行きたいなぁ。

さて、この小説。Amazonのレビューではぼろくそでしたが、僕はいいなぁ、わかるなぁ、という感じがした。なんというんだろうか、自分と感覚的に近いものを書く作家に初めて出逢ったのかもしれない。この言い方は語弊があるけど、そんな複雑なことではなくて、時代背景というんだろうか、それをある程度共有できる作家なのかもしれない、そう感じました。いままで、僕の読んだ本は全て僕より上の世代が書いたもので、見た映画も、みんなそうだった。それゆえにどうしようもない乖離がそこにあったように思う(この小説を読むまでそんなことに気付く術もなかったのだが)。そう、共感できるとか文体に惹かれるとか以前に「わかる」という感覚、それを抱いていた。きっと何を言っているんだか分からないと思いますが。
Amazonの痛烈なそして的外れなレビューを読みながら、それ書いた彼(あるいは彼女)と僕、あるいは岡田利規とのズレはきっとどうしようもないことなんだろうな、と感じています。

もちろんだらだらした文章は読んでいてうんざりさせられるけれども、それは恐らく意識的にやっていることで、このだらだらした感覚はある意味では僕も共有している(僕はそれを嫌悪しているけれど)。
何よりも、あの5日間に何をしていたのだろうと思わずにられなかった。そして僕にとってのその5日間のことを思い出せないことに―分かっていたけれども、それでも―ショックを受けた。勿論あのときテレビで流れていたイラク侵攻作戦の報道、ニュースキャスターの興奮した声色、「信長の野望」のようにマッピングされた米軍部隊とイラク全図。僕はあの出来事を、実際のところ経験しなかったしそれは僕の生を通過しさえしなかった。それはある意味ではどうしようもないことだけど、それでもそのことに対する負い目を感じる。それはさておき、声を上げることの妨げになるのは一体なんなのだろう?

もう一つの小説、これもよかった。古いアパート、ここで物語は始まって完結する。主人公の女性はそこから歩み出ることはないし、正直のところほとんど動かない。けれども、世界は広がっていく、ネットや携帯を介して、そして夢想を介して。だからその視点は自由に浮遊して時に夫が仮眠を取るベッカーズを描写し、時にブログの書き手のそれと一体となる。それがとても面白い。何よりもこのラストの部分を読んで「おぉ!」となった。このシーンをどう解釈すればいいのだろう…?
ともあれ、「個人的には」一読の価値はあります。他の人がどう感じるかは知りません。

2009年9月29日火曜日

ヨシフ・ブロツキー 『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』

本書は、アメリカ亡命後の72年から17年の間、ほとんど毎年のようにヴェネツィアを訪れた詩人の、ヴェネツィア滞在の印象記。彫琢された、美しい文章 の、散文詩のような51の断章からなる。ヴェネツィアの水と光をモチーフに、多くの隠喩やアフォリズムを織り込んだフーガのような作品。ノーベル賞受賞作 家の小説、本邦初紹介。

150ページ足らずの短い小説(というより随想だと思うけど)。ここ10日間くらいかけてじっくり読みました。寝る前に少しずつ。なんといえばいいのかわからないけれど、文章というものがここまで色彩豊かに、質感を伴った形で立ち現れてくるんだなぁ、と感じざるを得なかった。終わって欲しくなかったし、ずっと読み続けていたかった。ことあるごとに読みかえすであろう1冊。引用したいというよりも、自分に刻み込むために手元に控えておきたい!そう思うような箇所が幾つもあって、けれどそんなことをするよりもこのままブロツキーのリズムにたゆたう方が心地いいから結局そのままにしてしまった。そう、なによりも心地いい。装丁もシンプルでいいなぁ。

2009年9月28日月曜日

ジョナサン・キャロル 『天使の牙から』

「死にかけてるのってどんなものかって?もう生きてないんだ。バランス取ってるだけ」男は癌で余命幾許もないかつてのTV の人気者。「人生でほしいと思うものには必ず牙があるのよ」女は若くしてハリウッドを去り隠遁生活を送る元女優。男は死神から不思議な力を授かり、女は報 道写真家と恋に落ちた…やがて二人は戦慄に満ちた邂逅をとげる。愛と死の錬金術師が紡ぐ傑作。

この本のことをどこで知ろうと思ったのか。ここ1年の間に誰かに薦められたと思うんだけど、それが誰か全く憶えていないしどんな風に薦められたかも憶えていない。気付いたらリーディング・リストに書き込んであって、ふと書店で見つけて読んでみた。

あっさり読んでしまったけど、今年読んだ小説のなかで印象に残ったものの一つ。出だしの奇妙としかいいようのない話から、一気に引き込まれてしまい、ラストまでそのままの勢いで読んでしまった。
けど、ただのスリリングな勢いだけの小説じゃない。なんていえばいいんだろう…生/死、天使/悪魔、現実/夢などの二項対立について、小説という形態はこういうアプローチをすることができるのか、という驚きがあった。こういう紋切り型の図式に対して、それを外的に反駁するか、内破(脱構築)する、というのがいわゆる哲学や思想の領域で行われることだと思う(この時点で間違っていたらすみません)。けど、文学は、あるいはこの小説は、その間をただ漂泊する。生と死が自在に交錯し、死者は生者と邂逅を果たし、夢は記憶よりも鮮明な現実であって、夢は記憶よりもリアルなものになる。何を言ってるんだろう?と自分でも思うけれども。

人が「死神」に勝つことはできるのか?人は限られた時間しか生きることはできない。始まりがあり、終わりがある。終わりとは死であり、人は死を免れることはできない。死を司る何か、生と死の線引きを行う何かを「死神」と呼ぶならば、それに勝つ術などないような気がする。死はどこまでも「リアル」なものであって、それは私たちの理解の外部にある。死を象徴化することはできない。それが私たちの間近に現れたとき、結局のところそれに恐怖するしかないのだろう。

そういえば星新一のショートショートにこんな話があった。ある男が犯罪を犯し、廃墟の後に刑務所と化した火星に送られる。火星には水がないが、囚人たちはみなある機械を手渡され、その機械のボタンを押すことで水を得ることができる。しかし、その機械には爆弾が仕込まれていて、ボタンを押した時にランダムでその爆弾が起動するように設計されている。男は渇きに迫られ、恐怖で気が狂いそうになりながら水を得ようとボタンを押し生き延びていく。あるいは途中で気が狂ってしまったのかもしれない。その後に彼は気付く、結局のところ「何も変わらないのだ」と。死はいつかやってくるし、それを避けることなどできない。地球でも、火星でも、私たちは日々、ある意味では死を引き寄せながら毎日を過ごしている。大きな違いがあるとすれば、それが「可視化」されているかどうかという点かもしれない。1杯のビールと火星の水発生装置、これは「それが死を招くかもしれない」と言う意味では等価だけれども、「可視化」の度合いが相当に違う。火星の装置は死と直結しているように見えるがビールはそうは見えない。あと、この小説を読んでいて思ったことだが、星新一はここにもう一つの違いを見出すべきだった。(あるいは見出してて、僕が忘れているだけかもしれないけど) それは周りを誰かに囲まれている、ということだろう。私たちの生活は、ある時点までは(その時点がいつやってくるかは誰にもわからないけれど)、「死」の相手をしているほど暇ではないのだろう。私たちの日常は、色々なことに満ち溢れている。死を間際にしても光と影で遊んでいた子どものように、私たちはいつでもそこに楽しみや喜びを見出すことができる。それがキャロルにとっての希望であるし、繰り延べでしかない束の間の勝利なのだろう。

2009年9月27日日曜日

イワン・トゥルゲーネフ 『初恋』

16歳の少年ウラジーミルは、年上の公爵令嬢ジナイーダに、一目で魅せられる。初めての恋にとまどいながらも、思いは燃え上がる。しかしある日、彼女が恋 に落ちたことを知る。だが、いったい誰に?初恋の甘く切ないときめきが、主人公の回想で綴られる。作者自身がもっとも愛した傑作。

今更ですが。さくっと読んでしまったので、何を書くべきか困ります。冒頭、3人の男が館の中で初恋の経験について話し合う。主人は誰なの?とかなんでこんな構成にしたの?とか不思議ですが。まぁ初恋=回想、告白っていうのは今も同じですけど、大の大人が3人集まって初恋体験について話し合うってのも変な感じ。まぁそれも今も同じなのかもしれませんが。
しかし、まぁ甘酸っぱい話を期待しちゃうとびっくりするよ、というのは昔から聞いてた話なのでこんな話だったのか、と思いながら読んでいました。全然関係ないけれども、この小説の舞台である別荘がある土地が、チェーホフの『中二階のある家』という短編に出てくる田舎となんだか似てるようなイメージを抱いてしまったので重ね合わせながら読んでいました。
社会的背景と全く無縁にも思えるこの初恋の体験談のなかにも、色々織り込まれているような気がして、それはそれで興味深かったですが。この父子関係やら、ジナイーダのことやら、没落した公爵のことやら、フランス語やら。でもそんなことを考えてもなぁ…。まぁ、初恋って叶わないもんだよねー、くらいの感想しかもてなかった自分にもがっかりですが。正直そこまでの名作とも思えなかったんだけど、感性の乏しさゆえですかね。

清水高志 『セール、創造のモナド』

ポスト構造主義の限界をえぐり出し、西田哲学との通底性を探り出す本格的なミシェル・セール論。ミシェル・セールの哲学が、いかなる独創を有し、またどのような意図を持ったものであるかを解明する。

ミシェル・セールが気になっていて、けれどもただ読んでいくと彼の文体に幻惑されてなんだかわからぬままに終わってしまう、そんな危惧もあって彼の思想に分け入る指針のようなものを探していて手に取った本。まぁ勿論彼の文章に陶然となって引きずり込まれる経験をするという手もあったのだけれど。
しかし、まぁなんというか僕にはえらく難解でした。何回挫折しそうになったことか。セール自身の思想は「従来の思想」との相違という形をとって丁寧に繰り返し説明しているので読んでいくうちにつかめるだろう。だけど、その前提としてライプニッツ以降の哲学史についてのある程度の理解が必要とされる。とりわけライプニッツの解釈についての「従来の」思想史の中での理解、という点があまりに僕が知識が浅かったので、セールの思想の特異性というのをぼんやりとしか掴むことはできなかった。これはとても惜しいことだったと思います。ただ、基本的に他の思想家との比較、対比に基づいて議論を進めていて、セールの思想の重要な要素についてはかなり繰り返し指摘してあるので、背景知識が欠けていても我慢して読んでいけば少しずつ、分かってくる…かもしれない。しかしセールといわゆる「ポストモダン」の思想家との隔たりは、とりわけドゥルーズとの隔たりはそこまで大きいのかなぁと思ったりもした。とくにドゥルーズの内在平面が、それが全てを内在する「一=全体者」を志向しているとする批判。こうやって言葉で書いていると「あぁ、そうかもしれない」とも思ってしまうんだけどどうもすっきりしなかった。とりわけ最終章の西田における「場所」についての考察を読んでいくなかで。いや、ドゥルーズの議論にそういった「限界」があるのか、ということに僕が思い至らなかっただけのことなんだろうけど。むしろ、僕は内在平面というものをここで扱われるような西田における「場所」に近いものとして捉えていた。まぁそれが単に誤読だっただけかも知れないけど、そうした方向にドゥルーズを読み深めることもあるいはできるんじゃないか、とか思ったりもしました。最終章だって、西田の思想についてもう少し読んでいれば、きっと面白い発見が幾つもあったろうなぁ。
とにかくもっと勉強しなきゃ、と。それに尽きますね。そしてまた読み返したいなぁ。『来るべき思想史』、すぐに手を出そうか、すこし後にしようか。

…やっぱり思い直したんだけれども、このドゥルーズ批判はいかがなものかと。バディウのドゥルーズ批判を検証なしに受け入れてしまっているのではないかと感じます。バディウのドゥルーズ理解はあまりにも一面的だし、彼の批判自体は極めて恣意的なものだと思うことがある。そしてセールが語るドゥルーズについても、もう少し注意深くなる必要があるのかもしれない。

2009年9月22日火曜日

青木淳悟 『四十日と四十夜のメルヘン』

配りきれないチラシが層をなす部屋で、自分だけのメルヘンを完成させようとする「わたし」。つけ始めた日記にわずか四日間の現実さえ充分に再現できていないと気付いたので……。新潮新人賞選考委員に「ピンチョンが現れた!」と言わしめた若き異才による、読むほどに豊穣な意味を産みだす驚きの物語。綿密な考証と上質なユーモアで描く人類創世譚「クレーターのほとりで」併録。

なんだかここんとこ日本の最近の若い作家さんの作品を読んでばかりですが。読んでるとそこそこ面白かったんだけど、読後になるとどうも感想を書きづらい。困ったことですね。『四十日と四十夜のメルヘン』もまた然り。駄作か傑作かと聞かれたら、「まぁ傑作っていうには程遠いかなぁ」としか答えようがない。読んでる時はそれなりに楽しいんですけどね。「チラシの裏」は日記というか、どうでもよくて誰のためにもならないようなぐだぐだした記述を書くところ。ネット掲示板で、かつてはそんなことを言われたものですが、この小説ではそのチラシの裏になんだかよくわかんないメルヘンを書いてみたり。けど最近は裏紙の使える広告ってほとんどないんですよね、わかります。
さて、この小説は迷宮ってほどかっこよくはないけれども、どこか歪な感じ。なんだか下井草だかそのへんのどうでもいい描写から始まり、隣駅のスーパーが安いとか、駅の出口が片方しかないのは商店街の陰謀だとかこれまたどうでもいい話になって、お師匠さんと仰ぐなんとか先生の小説についてながながと。読んでいるとなんかおかしいなぁ、ってなって最後は「あれ?」ってなる。読んでいく途中で出てくる話はどっか前に出てきたことあるなぁ、って思ったり、気づいたらなんとなく人が代わってたり。別に適当に書いてるってわけじゃなくて、まぁ確信犯でやってるのが若干見え透いてるあたりがやらしいとこですが。ただ、僕の場合「あれ?」とは思ったけど読み返そうとは思わなかったですね。なんか億劫で。これ読み返す時間あったら別の本読むかなぁ。つまらないってわけではないですが。ついでに言えばこの文庫本、級数大きいよね。もっと小さくしてページ数減らせばよかったのに。文庫でこのサイズだとかえって読みにくいんですけど。

あぁそうだ、ピンチョンは現れていませんので、ご安心を。『ヴァインランド』、ようやく次回の配本ですか。まぁ新訳じゃないし、さっさと新潮版を買えばよかったとも思うんだけどなぜかここまで待っちゃいました。早く読みたいなぁ。

森見登見彦 『夜は短し歩けよ乙女』

「黒髪の乙女」にひそかに想いを寄せる「先輩」は、夜の先斗町に、下鴨神社の古本市に、大学の学園祭に、彼女の姿を追い求めた。けれど先輩の想いに気付か ない彼女は、頻発する“偶然の出逢い”にも「奇遇ですねぇ!」と言うばかり。そんな2人を待ち受けるのは、個性溢れる曲者たちと珍事件の数々だった。山本 周五郎賞を受賞し、本屋大賞2位にも選ばれた、キュートでポップな恋愛ファンタジーの傑作!

さて。今日二冊めですが。
これだけ読みながら吹き出したり、ニヤニヤしながら読んだのは久しぶりです。「あー、わかるわかる…」って共感してしまうあたり、ダメ人間ですが。古本市のくだりは諸手を挙げて同意せざるを得ないし(図書館や古本市が好きなダメ院生なら誰だって妄想したことある…よねぇ?)、学園祭のところでは涙を禁じえない(まぁ大学の学園祭には結局足を踏み入れなかったけれども)。古本屋の神様は個人的には信仰してるし、だってじゃないと偶々足を踏み入れた古本屋で欲しかった本が偶然に見つかるなんてこと、普通ないでしょう。神保町の古本検索で見つからなかった本が、すぐに最初に足を踏み入れたお店で見つかる、なかなかないよね、こんなこと。
じゃなくて、『夜は短し歩けよ乙女』の話。このストーリーも舞台も文体も、全てがぶつかっていない。よく似合っている。繰り返しになるけれども、この主人公のダメっぷり(ってか学園祭でこれだけ突っ走れるんならもっと早くなんとかできるだろうに)には共感してしまうし、風邪を引いた時に「咳をしてもひとり」を思い出してしまう気持ちもよく分かる。この黒髪の乙女も乙女でかなり変わった性格(というか思考回路)だし、こうゆう女の子に恋に落ちてしまうダメおとこって、うーんわかるなぁ、と。
まぁちょっとこの小説はあまりにも共鳴するところが多かったので、僕は大好きです。っていうか客観的な評価なんかとてもできません。僕の周りには好きそうな人多いかもしれませんが。

2009年9月21日月曜日

奥田英朗 『サウスバウンド上・下』

小学校6年生になった長男の僕の名前は二郎。父の名前は一郎。誰が聞いても変わってるという。父が会社員だったことはな い。物心ついた頃からたいてい家にいる。父親とはそういうものだと思っていたら、小学生になって級友ができ、よその家はそうではないことを知った。父は 昔、過激派とかいうのだったらしく、今でも騒動ばかり起こして、僕たち家族を困らせるのだが…。―2006年本屋大賞第2位にランキングした大傑作長編小 説。

元過激派の父は、どうやら国が嫌いらしい。税金など払わない、無理して学校に行く必要なんかないとかよく言っている。そんな父の考えなのか、僕たち家族は東京の家を捨てて、南の島に移住することになってしまった。行き着いた先は沖縄の西表島。案の定、父はここでも大騒動をひき起こして…。―型破りな父に翻弄される家族を、少年の視点から描いた、新時代の大傑作ビルドゥングスロマン、完結編。


なかなか面白かったです。奥田英朗、敬遠してたんだけど食わず嫌いはよくないですね。
過激派だか、1968年だかにもう辟易って思っていたので長らく読んでこなかったんですが、これは面白かった。なんだか昔の事を思い起こしながら傷を舐め合うような図式にうんざりしてたんだけれども。まぁこの小説もそんな雰囲気がなくはないけれども―両親の理想主義的なとことか―、基本的にはそうした運動にうんざりした「元・活動家」という設定だったので受け入れられたのかも。西表に行く前と行ってから(文庫だと上巻と下巻)ではだいぶ風合いが違うけれども、どちらも好きですね。西表の世界を前‐資本主義的な互酬制の社会として描いて、それを理想化しているところはそれでいいのかなとも思いましたが、まぁ最終的には更にその先の理想の世界まで行っちゃうわけで、そこまで突っ走るんならまぁそれはそれでいいのかな。とはいえ、沖縄やら石垣やらに「癒し」を求めて出かける人々と、この家族がどれだけ違うのだろう?
まぁいいや、なんだかスカスカな感想ですが。

2009年9月15日火曜日

加藤周一 『言葉と戦車を見すえて』

「プラハの春」を弾圧するためにソ連軍戦車がチェコの首都に侵入した1968年の事件についての鮮やかな論評「言葉と戦車」を中心に、1946年の「天皇 制を論ず」から2005年の「60年前東京の夜」まで、著者が何を考えつづけてきたかを俯瞰できる27の論稿群を集成。たんなる学究の徒の貌ではなく、現 実の政治と社会に対する透徹した思考と強靱な思想が屹立する。全篇発表時の初出より収録。

昨年亡くなった加藤周一の論文集。岩波から全集(なのでしょうか?)が出るみたいですが。
彼の記述は理路整然という言葉がぴったりと当てはまる。ここまで理詰めで語られると反駁しにくいだろうなぁと思いつつ。「知識人」「理想主義」「民主主義」「日本」などのキーワードを軸にしながら彼はこれまで実に多様な分野で様々に意見を表明してきたのだなぁ。「知の巨人」という謂いがいいのか悪いのか、というか意味があるのかないのかわからないけれども、彼の誇る圧倒的な知識量、そしてそれと周囲から得る情報を元に、あくまでも合理的に意見を引き出してくる手法は、最近の、殊に若手の知識人(そんなひとたちがいるかどうかすらも怪しいものだけれども)には見られないものだろう。竹内や丸山がもっていて、無論加藤周一ももっていた「思想」のアクチュアリティとでもいうべきもの、それが失われてしまって久しいような気がする。「思想」をもつ、ということを最近考える。どこかからの借り物ではなく、自身に根ざした「思想」をもつこと。ナショナリズム然り、マルクス主義とかのイデオロギー然り、それはただの借り物に過ぎない。そんなの空っぽだよ。けどそれは他の人の思想に全く頼るなということではない、大事なのは、その中で自分の思想を自身の「根っこ」に根ざしたものとして育んでいくことでしょう。それは簡単な道じゃないし、借り物の思想を引き受けてしまうだけのほうが楽に決まっている。こんな偉そうなことをいっている僕だって、自身に根ざしたものとしての思想が立ち上がっているかといわれたら怪しいものだ。もっと知識と時間、自分で考えようとする時間も必要だ。けれどもそうしなければ「思想」というものがこの世界で意味を成さなくなってしまう。それはこれまで人間が続けてきた営為を踏みにじることだろうし、「思想」を失った人間が「人間」足りうるのかも怪しいものだ。

完全に話が逸れた。加藤やこの世代、あるいはこの前の世代も含めた知識人が抱いていた思想、彼ら自身の生と深く結びついた思想を、もっと僕は吸収していきたいと思う。話が逸れたついでに言うならば、これら世代の知識人のなかの過ち―その中の幾つかは決定的なものだ―を弾劾するのは容易い。けれども、それが単なる弾劾に留まっていたら、それは全く生産的な行為ではない。重要なのは、彼らがなぜ過ちに陥ってしまったのか、彼らをそこまで駆り立てたものは何か、その過ちに気付いた後彼らはどう対処したか/しなかったかをしっかりと認識することなのだろう。加藤の幾つかの知識人論を読みながらそんなことを考えていた。

最後に。この成田氏と小森氏の解説は全く意味を成さない。誰が解説でそれぞれの論文を冗長と要約することを期待しているのか、この両編者は考えてほしい。小森氏がなかば「身体的ともいえるほど」の危機において加藤の論文に救われたというならば、加藤が一貫して問題化してきたことを、自身がどのように引き受けたのか、あるいは批判的にではあってもそれを継承してきたのかをじっくり考え記述してほしかった。小森氏だからこそ、あるいは成田氏だからこそ書けるはずのことがあるだろうに。こんな解説は誰にでも書けるし、なくても誰も困らない。

2009年9月13日日曜日

エリオ・ヴィットリーニ 『シチリアでの会話』

スペイン内戦に強い衝撃を受け、反フランコの活動に身を投じたヴィットリーニ。本書はファシズム当局の弾圧に脅かされながらも版を重ね、来るべき反ファシズムレジスタンスの精神的基盤となる。パヴェーゼ『故郷』と並ぶイタリア・ネオレアリズモ文学の双璧。

あちこちで薦められていたヴィットリーニ。ようやく読みました。読み終えた後にすぐに読み返す。こんなことはなかなかないのだけれども、そうせずにはいられなかった。黙示録的でさえもあるような、謎めいた寓話的な物語。漠然とした「不穏さ」があり、それは反復を多用する文体によって増幅される。これをネオリアリズモ文学を代表する作品として、そして反=ファシズムの基盤となったものとして認識している読者はきっとこのアレゴリーの先にあるものをぼんやりとであっても掴むことができるだろう。位置づけとしてはビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』に近いものがあるかもしれない。内容云々ではなく、あくまでも外的な条件において、ではあるけど。鷲平さんの解説はこの小説の解釈を大いに助けてくれる。ぼんやりとした印象をくっきりと、ピントを合わせるように明らかにしてくれる。あまりにも「解読」的な性質を持つことが、この小説の広がりを妨げてしまうことになるかもしれないが、むしろ僕にとっては彼女の解説は読み返すに当たっての裁量の指針になってくれたようにも思われた。

2009年9月10日木曜日

芹沢一也他編 『フーコーの後で 統治性・セキュリティ・闘争』

コレージュ・ド・フランス講義録を媒介に、1970年代後半のフーコーの問題系にフォーカス。 この時期のフーコーの関心は、社会防衛、セキュリティ、統治論、自由主義論などに あり、それらは私たちの(たとえば現在の日本の)日々の問題の核心とつながっている。 気鋭の論客たちが、理論、運動 - 政治、社会それぞれの側面から、フーコーを読み、 使いまわし、今日の社会・世界に向かう新たな視座を提示する。

フーコーを、とりわけ「後期」のフーコーを使うこと。彼の思想をただなぞり紹介する、そうではなく彼の思想を掴み、それを自身の思想に組み入れつつ、論考を組み立てていく。そんなコンセプトに基づいた論文集。

なかなか面白い論考があって、読みがいがありました。フーコー自身の思想についてある程度含蓄があれば、彼らの議論に共鳴したり反発したりすることができるはず。フーコー講義集成そろそろ手を出そうか、と思っているけれども、仕事の関係もあって、ちょっとムリかも…。ハイデガーを中心にドイツ哲学を勉強しなければならなくなりそうなので。

話を戻すと、高桑さんの「インセンティヴ」概念とフーコーを組み合わせる論考はとても面白かった。まだ単著ないんだなー、色々翻訳は多いけれども。あと芹沢さんも箱田さんも、そして最近気になる廣瀬さんも、それぞれ面白い論考ですよ。通して読んでいると、ぼんやりとフーコー思想が3Dで浮かび上がってくる…ような気がするのも面白いですね。もちろん3Dを見るには色眼鏡が必要ですが。

フーコーの思考を、アガンベンは強制収容所という空間に引きずり込んだ。それはある人から見れば酷く強引なやり方だったのかもしれないし、アガンベンの『ホモ・サケル』における議論にはフーコーの恣意的な解釈が多い、とかもよく聞く話だ。けれどもあとがきで芹沢さんが引用したフーコーの言葉を借りれば、彼はフーコーを「利用し、それをねじ曲げてキーキー言わせた」のかもしれない。アガンベンが例外状態の恒常化というとき、私は第二次世界大戦後に世界各地で起動するアメリカによる軍統治、<占領>のことを想起せざるを得ない。この<占領>について、フーコーの思想を上手く「使った」研究はないものだろうか?

2009年9月2日水曜日

ルイ=フェルディナン・セリーヌ 『夜の果てへの旅 上・下』

全世界の欺瞞を呪詛し、その糾弾に生涯を賭け、ついに絶望的な闘いに傷つき倒れた“呪われた作家”セリーヌの自伝的小説。上巻は、第一次世界大戦に志願入隊し、武勲をたてるも、重傷を負い、強い反戦思想をうえつけられ、各地を遍歴してゆく様を描く。一部改訳の決定版。
遍歴を重ねた主人公バルダミュは、パリの場末に住み着き医者となるが―人生嫌悪の果てしない旅を続ける主人公の痛ましい人間性を、陰惨なまでのレアリスムと破格な文体で描いて「かつて人間の口から放たれた最も激烈な、最も忍び難い叫び」と評される現代文学の傑作巨篇。

バタバタしているうちに放置気味でした。
あまり読書に時間が割けないようになり、なかなか進みません。そんななかでようやく『夜の果てへの旅』を読了。朝の通勤ラッシュの中で読むセリーヌはなんともいえないですね。僕の後ろに立っていた人は、「朝っぱらからなんて本読んでるんだ」、って思ったことでしょう。

なんて凄まじい呪詛だろう、資本家への、国家への、家族への、戦争への、人々への、自己への。人間の禍禍しい生き様を、全ての上っ面を剥ぎ取ったその中にある醜さを(あるいはその空虚を)、バルダミュ=セリーヌは暴き続ける。時に辟易し、読み飛ばしたいと思いながらも、結局読み進めてしまいました。モリーとの別れのシーンは非常に心に残った。そこには何かきらきらしたものがあるような気がして、他が仄暗さに包まれている分、一層。そう感じてしまうのは僕の「若さ」なのだろうか。バルダミュが「世界が閉じられてしまった」と感じた時、そして「自分の番が終わった」と感じた時の心情を、僕は理解することはできなかったように思う。「なしくずしの死」へと向っていることを認識すること、それは僕には難しい。まだこの小説を読むには早かったのだろうか?

2009年6月28日日曜日

ロベルト・ボラーニョ 『通話』

スペインに亡命中のアルゼンチン人作家と〈僕〉との奇妙な友情を描く「センシニ」をはじめ、心を揺さぶる14の人生の物語。ラテンアメリカの新たな巨匠による、初期の傑作短編集。


エクス・リブリスの先頭を華々しく飾るはずだったボラーニョ、延期が決まってどうなるかと思ったんですけど無事刊行されてなによりです。チェーホフ、カフカ、カーヴァー、ボルヘス、ウディ・アレン、タランティーノ、ロートレアモン…錚々たる面々の融合と受容がある、とか書いてあって、「ホントかよ!」とか「どんなんだよ!」突っ込みながら買ったんですが、まぁそれはさておき、非常によかったです。総じてドライな文体、マッカーシーやカーヴァー、デリーロやデニス・ジョンソンを髣髴とさせる。淡々と物語る姿勢、それによって悲哀やら可笑しさが際立ってくる。自分からも遠く距離を置いたような独白や、その対極にあるかのような率直な表現、不遇や何かしらの喪失感を抱えて生きる人々の生、節合的で刹那的なふれあい、それが一体となって読み手の心を揺さぶる、そんな感じです。会話だけで小説を構成したり、あるいは改行をほとんど設けずに語り続けたり、小説ごとに様々な技巧を凝らしている、それがそれぞれの物語ととてもよく調和しているように思います。
長編も同シリーズから刊行されるようなので、こちらも楽しみです。

2009年6月22日月曜日

ジェームズ・グラハム・バラード 『結晶世界』

忘れられぬ人妻を追って、マタール港に到着した医師サンダーズ。だが、そこからの道はなぜか閉鎖されていた。翌日、港に奇妙な水死体があがった。四日も水につかっていたのにまだぬくもりが残っており、さらに驚くべきことには、死体の片腕は水晶のように結晶化していたのだ。それは全世界が美しい結晶と化そうとする不気味な前兆だった。バラードを代表するオールタイムベスト作品。星雲賞受賞。

美しい。その一言に尽きる。僕なんかはFF世代ですから、あぁこの小説の森をイメージしてあのゲームの森は作られたのかな、なんて思ったりしました。結晶化していく世界とその結晶にどうしようもなく魅了されていく人々。ディストピア?いやユートピアなんだよ。この結晶の森の描写は怖いくらい魅力的、というか怖いから魅力的なのかもしれない。崇高。どんな科学的分析も意味を失ってしまうような美しさ。なぜ宝石は結晶に対抗する力をもつのか。宝石もまた人々を本当に長い間魅了し続けている。宝石の美しさは権力や権威と一体になっている。しかし結晶は森から生まれた。なぜそれが生まれたのか、それについて解き明かされることはないけれども。アフリカの奥深く、そこは宝石の産出地域ではあるけれども、(近代以降、と留保をつけるべきだろうか)その宝石を享受することとは縁遠かった地域だろう。そこから結晶は生まれ、世界を覆いつくす。宝石は結晶に対抗する力を持つけれども、それはやがて磨耗していく。いつかは私たちもみな結晶化していく。この小説で主人公がたびたび二項対立を発見する。その対立は結晶が拡大するにつれて消え去っていく。やはりこう訂正するべきなのか、結晶世界はディストピアでありユートピアなのだと。その二つは案外似通ったものなのだろうか。西洋-非西洋も、宗教も貧困も豊かさも全て結晶は覆い尽くしていくのだから。

ヴィクトル・ペレーヴィン 『眠れ』

コンピュータゲームの世界と一体化した中央官庁に働く職員、自我の目覚めを経験して苦悩する倉庫、夢の中で生活する学生、死の意味をめぐって怪談を続ける子供たち…。この時代に存在するものすべてを哲学的幻想で包み込み、意識のまどろみの中で変身話から東洋の宗教思想まで味わいつくす作品をつぎつぎと生み出すロシア新世代の作家ヴィクトル・ペレーヴィン。20世紀の終りに現われた異才の浮遊する世界。

なんというか…、こんなぶっとんだ短編集読んだことなかったかもしれません。倉庫が主人公かと思えば、ブロイラーが主人公だったり、ゲームと現実が渾然一体となった世界を描き出したかと思えば、眠りながら生活する術を学び、みんなが眠っていることを発見する…。
でももちろんただ面白いだけではない。この一つ一つの話がそれぞれ寓意的だし、その根底には様々な思想がない混ぜになった哲学のようなものが流れている。社会諷刺ももちろん。例えばブロイラーの話であれば、それを擬人化して描くこと、それ自体が一つの有効かつ意表をつく表現方法だけれども、それが再び人間に跳ね返ってくる。鶏の話のはずなのに、工場の中の話のはずなのに、なぜかそれが社会諷刺としても読めてしまう面白さ。
あちこちに鏤められたオリエンタリズム(というかロシアなんだから東じゃなく南なんだけど)的演出をどう考えるのかは、解説でも指摘されていた通り微妙な問題だとは思います。作為的ですらあるような気もしますけれど。しかし、これは面白い。62年生まれなんですね。ロシアの現代文学ってこんな人も出てきているのか、と驚きました。他の著作にも手を出してみたいなぁ。

2009年6月17日水曜日

前田司郎 『夏の海の半魚人』

「力みゼロ、の演劇界の鬼才」が描く、 リアルな響きの「エデンの園」
小学5年・魚彦。ちょっとオカシイ母、足の不自由な親友・今田、転校生の海子……。魚彦の日常と、日常に潜む「エデンの園」からの旅立ちを描いた、不思議でリアルな物語

今年の三島由紀夫賞ですね。短いですが、とても好きな小説です。
なんというか「分かる」んですよね。そして思い出す。
あぁ、こんなだったかもしれないって。確かにこんなこと考えてた、こんなことしてた、こんな風に過ごしていた。ヘドロの海坊主のような魚彦の感情の爆発も、主人公気取りも、悪人ぶりたい気持ちも、ヒーローになりたい気持ちも、大人になりたい気持ちもそれを表に出すことを恥ずかしく思う気持ちも。これは僕たちが通ってきた路なのだろう。

タイトルもこれでいいのか分からないし、文章も不自然なところもいくつかある。けれどもそれはさほど気にならない。最後の終わり方も、恐らくこれ以外には考えられないだろう。
「瑞々しい」という言葉はあまり好きではないけれども、そう使わざるを得ないような、澄んださらっとした美しさがある。
友人は「エロい」と評していたけれどもそれもわかる。ただ、その「エロさ」ってのは例えば僕たちが小学生の時に思っていたような「エロさ」なんですけどね、官能性の対極にあるような。

そういえば、僕はこの街に生まれたらしい、彼らと同じ五反田に。その後物心つく前に郊外に越してしまったけれども。そんなこともあって、僕はこの小説は好きですね。

岡田温司 『キリストの身体―血と肉と愛の傷』

キリスト教にとって大切なのは、身体ではなく精神、肉体ではなく霊魂ではなかったか。しかし、このキリストの身体をめぐるイメージこそが、この宗教の根幹にあるのだ。それは、西洋の人々の、宗教観、アイデンティティの形成、共同体や社会の意識、さらに美意識や愛と生をめぐる考え方さえも、根底で規定してきた。図像の創造・享受をめぐる感受性と思考法を鮮烈に読み解く、「キリスト教図像学三部作」完結篇。図版画像満載。

読み終わった本が何冊かあるんですが、ちょっと忙しいのであんまり書けていません。
中高がミッションスクールだったので、ミサやらなんかは偶にあったんですね、聖水なる液体をかけられたり、信者の学生がウェハースを食べてたり。僕は当時全く関心がなかったのでなんだこれ?って感じだったんですけど。あぁでも聖書を読むのは好きでした。どこへいったんだろう?

この本はなかなか面白かったです、なかなか内容が濃い。内容は5つのチャプターに分かれていて、(やや冗長ですが)それぞれの内容を紹介してみようと思います。
1章ではキリストは美しかったのか、醜かったのか
2章では聖体拝領という「儀礼」について、あるいはキリストの肉や血を食す、ということについて
3章ではキリストのイコンと聖遺物について
4章では「鏡」としてのキリストのイメージについて
5章ではキリストの受難の傷がいかに「愛」についてのイメージを喚起してきたかについて
それぞれ考察を行っています。

たとえば1章でキリストの美醜について取り上げる際、彼が注目するのはその歴史的な変遷です。様々な教父の発言、そして絵画からその揺れ動き、移り変わりに注目していく。美しい/醜い、あるいは醜いから美しい。画家はある時代には醜さを描くことに最大限の努力を払い、別の時代には理想的な美しさを追求しようとする。キリストを描く際、美/醜は美意識の位相にあると同時に宗教感情の位相にもある。キリストの想像を絶する受難の様は人々の心に深く訴えかける。それは行き過ぎるとキリストに対する冒涜として見做されるかもしれない。逆に理想的な美をもって描くことはその超越性や美しさを訴えかけることになるが、時にそれは官能性、異教性を孕むことになる。その揺れ動きが今日も続いており、例えば映画においてキリストを描くこと(「パッション」)に対する批判や評価もこういった問題の延長線上にあるのだという。

この本の面白さは、彼の自在で横断的なアプローチにあると感じます。例えば聖体拝領についてはその儀礼的な側面に注目し、人類学的なアプローチで接近する。パンは肉であり、ワインは血である。だとすればそれは最大の禁忌であるカニバリズムではないのか?あるいはそれは「神」を食べることではないのか?メアリ・ダグラスやヴィクター・ターナーやらも出てきたり。

読んでみて、改めて図像解釈学(イコノロジー)って面白いなぁと感じました。本書のように人類学的であったりジェンダー研究的であったり神学的であったり、宗教学的であったり様々なアプローチを用いることで1枚の絵画から本当に沢山のことを知ることができるんだなぁと。「おわりに」で著者が語るように、それぞれの時代の人々がその絵画をどのように見つめていたか、そしてその視線が絵画を鏡として人々にどのように跳ね返ってきたのかを考えることの難しさと面白さ。彼は人々の想像力や欲望、感情を度外視した美術史の有り様には批判的であって、そうではない美術の語り方をめざしている―それにはヴァールブルグから受けた影響が大きいのだというが。900円以下でこんな面白い本が買えるなんてって感じです。中身のない感想で本当に申し訳ありませんが。

後日書き直します

2009年6月7日日曜日

仲正昌樹 『今こそアーレントを読み直す』

アーレント的思考が、現代社会を救う! 閉塞した時代だからこそ、全体主義を疑い、人間の本性・公共性を探る試み 20世紀を代表する政治哲学者が、なぜいま再評価されるのか。人間の本性や社会の公共性を探った彼女の難解な思考の軌跡を辿り直し、私たちがいま生きる社会を見つめ直す試み。

さて、かなり売行き好調な講談社現代新書の新刊です。仲正はやっぱり売れますね、何でだろうと思いますが。
3月にアーレントの『カント政治哲学講義録』の翻訳を上梓し、引き続いて『〈学問〉の取扱説明書』なる新刊も。絶好調ですね。

さて、「いまなぜアーレントなのか?」
ある研究者によると90年代以降のアーレントの再評価は東欧などにおける同時革命が端緒になったという。東欧における非‐暴力的な革命の解釈を巡ってラディカル・デモクラシー(ムフを筆頭として)など「デモクラシー」にまつわる新たな地平が切り開かれた。齋藤純一も『政治の複数性』のなかでラディカル・デモクラシーを思想的に練り上げる中で(ニーチェらと並置しつつ)アーレントについて言及を行っていた。こうしたやり方でアーレントを扱うことに疑問を覚えると先の研究者は指摘していたが。とはいえ、本書において仲正がアーレントを扱うのはそうした文脈とは異なっている。一言でいってしまえば「分かりやすさ」批判の一端としてだ。それでいいのか、とは思わなくもないですが、まぁ色々な読みができるということで。

はっきりいって彼の文章は好きではありません。癖があるとか独特とかそういった次元ではなく、美しくない、全く練り上げられていない。まぁ新書だからあえてこういう書き方をしているんだと好意的に解釈しましょうか(新書だから文体が適当でいい訳はないと思いますが)。
内容は悪くないんじゃないでしょうか。1~3章は彼女の思想の最も際立つ部分だけを掴み取り、「分かりやすく」噛み砕いて(噛み砕きすぎ感もありますが)説明しているなあと。アーレントに触れたことがある人は、さくさく流して読んでいくことと思います。
個人的には4章がとても面白かったですね。アーレントがなぜ最後にカントの『判断力批判』に依拠して思想を展開しようとしていたのか?この問いに対する一つの答えを非常に理知的に説明していたのではないかと。むしろこの4章の内容だけに絞ってもっと詳しく議論を展開して欲しかったくらいですが。あ、それは『カント政治哲学講義録』の解題でやってるのかな?
アーレント、あまり読んでこなかったなぁ。ちくま学芸文庫から『人間の条件』『暗い時代の人々』『革命について』は出てるんですよね、できれば他の著書も出して欲しい。とくに『全体主義の起原』は。みすずが版権を手放さないのかな。どれも学部生の時に読んだはずなのにほとんど印象に残っていないというのは、きっと読めてなかったってことなんですね。あーあ。時間があれば読み直したいけれど。


ってことで、値段的なことも踏まえればアーレントの入門書としてはいいんじゃないでしょうか。僕は彼の文章と相性が良くないようですが、それなりに評判はいいみたいですし。

ハリーム・バラカート 『六日間』

1948年、イスラエル建国の美名のもとに押し潰されていったカナンの地、故郷パレスチナの運命と西欧的自我、イスラム殉教者の娘との愛との間で苦悩する主人公ソヘイルを劇的な六日間を通して描く。古い土着的なアラブが崩れパレスチナ解放の萌芽が生まれるまで。


まず、ハリーム・バラカートについて簡単に。例によってウィキぺディアですが。
Halim Barakat (Arabic,حليم بركات), is an Arab novelist and sociologist. He was born in 1933 into a Greek-Orthodox Arab family in Kafroun, Syria, and raised in Beirut. Barakat received his bachelor's degree in sociology in 1955, and his master's degree in 1960 in the same field. He received both from the American University of Beirut. He received his PhD in social psychology in 1966 from the University of Michigan at Ann Arbor.

From 1966 until 1972 he taught at the American University of Beirut. He then served as research fellow at Harvard University until 1973, and taught at the University of Texas at Austin in 1975-1976. From 1976 until 2002 he conducted research in the field of society and culture at The Center for Contemporary Arab Studies of Georgetown University.

Barakat has written almost twenty books and about fifty essays on society and culture in respected books and journals such as the British Journal of Sociology, the Middle East Journal, Mawakif and al-Mustaqbal al-Arabi. His publications are primarily concerned with difficulties facing modern Arab societies such as alienation, crisis of civil society, and a need for identity, freedom and justice. He has also published six novels and a collection of short stories. These are rich with symbolism and allegory to world events.
(http://en.wikipedia.org/wiki/Halim_Barakat)

社会学者さんなんですね、全然知りませんでした。この本を読むに至った経緯は、①岡真理の『アラブ、祈りとしての文学』を読んで、②ガッサン・カナファーニーの『ハイファにもどって』を読む。その内容に衝撃を受け、文学からパレスティナと、そこに生きる人々の生活、苦悩、葛藤にアプローチしたいを思う。③『ハイファにもどって』の訳者の他の翻訳を探す。その結果としていま、この本は僕の手元にあります。
1980年刊行(初版です)のものが版元に在庫が残ってるのもすごい話ですが、1200円でこの本が手に入るということにも驚きました。安い、ですよね。

1948年、パレスティナのデイル・バハル(デイル・バハルは架空の都市だがそれゆえパレスティナそのものである)。シオニズム勢力との協定によって残された最後の1週間…のはずが6日目に彼らは侵攻を受けることになる、この6日間を一日ずつ追っていく形で物語は進行する。ロンドン帰りのキリスト教徒ソヘイルと英雄と見做される殉教者を父に持つ娘ナヒーダの恋愛を軸に、彼の友人であるファリードやラミア、ナヒーダの家族の模様も絡めながら。単なる恋愛物語ではないです。恐らくバラカートは様々な問題や主張をこの中に詰め込んでいる、象徴化させた形で。それが明確に示されるのは最後のシーンだけれども。全てが灰になった。けれども灰は土を豊かにする。将校とのそんなやり取りは全く噛み合わない。灰が土を豊かにするという真の意味を将校は汲み取れない。ソヘイルにとって「灰が土を豊かにする」ということは、デイル・バハルに住まう人々が、パレスティナ人が蒙った被害、苦悩がむしろ「パレスティナ人」を団結させる―ソヘイルはそれまで口々に形式だけまとまってるように見えるけれども中身はてんでばらばらな街の人々を批判していた―ということだ。そして、それは彼らの血と灰から築き上げられた土台となる。ソヘイルの6日間の変化もそれを傍証する。ロンドンから帰り、故郷に馴染むことができず、かといって逃げ出すこともできず、思いもしない演説をぶち、ナルシスティックな一人語りを繰り返す。そんな彼が次第に変わっていく。なぜだろうか?なぜ彼は拷問に耐え抜いたのか?ナヒーダと再会するため?それとも友情のため?それともデイル・バハルの人々を真摯に思って?
どれも間違ってはいないのだろう。彼はそれら全てのもののために耐え抜いた。それが彼の「居場所」そのものだったから。故郷に居場所を見つけられなかったソヘイルは最後にそれを見出す、けれども同時にそれは破壊され、失われてしまう。彼はもはやナヒーダに出会うこともないだろう。デイル・バハルからも放逐されることだろう。けれども、血と灰によって築き上げられた場所が彼にある限り、それを守り続け、デイル・バハルをいつか取り返すことが出来る。そうソヘイルは(そして恐らくバラカートは)信じているのだろう。
しかし、現実はそうではなかった。2009年に生きる私たちは知っている。パレスティナが侵略され続けていることも。パレスティナが決して一枚岩にはなりきれなかったことも。何も変わらない。悪くなり続けている。そこには絶望しかないように見える。希望が相容れる隙が全くない状況に。それでもまだ希望はあるのか?

なぜアラブ文学を読むのか、なぜパレスティナ文学を読むのか。それは上にも触れたように、彼らの生活・心象風景・生き様・苦悩に触れる最良の術だからだ。僕は知りたいと思う、彼らに出会いたいと思う。もっとパレスティナ文学は多くの人々に読まれるべきだ。ここには「力」がある。その「力」は読んだ者の中で生き続ける。たとえ形にならなくても、それがいつか、何かを変えるかもしれない。

2009年6月4日木曜日

村上春樹 『1Q84 1・2』

1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行した。そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。私たちが生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。

Book 1
心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。心から外に出ないものごとは、そこに別の世界を作り上げていく。

Book 2
「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。


さて、どうしたものか。やはりこれくらい経つとぼちぼちブログなどでもレビューが出始めて、色んな人が色んなことを考えているのだなぁと(しかし彼の作品のレビューの多くはなぜか文体まで村上春樹風ですね)。あまり僕が何か書くようなこともないのかもしれない。きっと彼の作品に精通している人であれば、過去の作品のテーマや95年以降の彼の転回などと絡めながらこの作品を語ることができるんだろう。また全く知らない人であれば、面白いとかつまんないとかで終わらせることもできるんだろう。

とりあえずこの小説がこれだけ売れていること(ほとんどの書店では品切れで8日の重版待ち状態)には驚きを禁じえないし―私の書店でも各400冊が2日ほどで売り切れた―、これを手に取った何十万もの人々がこれをどう読むのかというのはとても興味深いことだろう。こうした小説が何十万部も売れる…率直にいって信じがたいことだ。この小説で彼が描く世界について考えれば考えるほど。

この小説が孕む「不穏さ」、それは文体上の問題ではない。ヤマギシ(大学紛争から農業コミューンまでの過程はそれを想起させる)、オウム(1984年はオウムの母体が創立した年でもある)、エホバの証人を思わせる宗教団体への言及、あるいはビックブラザーの対置としてのリトルピープル、そして消しがたい大学紛争の痕跡。夫婦間のDV(当時はこんな言葉もなかっただろう)と殺人、そしてセックス。これだけ「不穏さ」を孕んだ小説が何十万と売れること(しかもこれだけ出版不況が叫ばれる時代に!)はブームということ以上の意味を持つのではないだろうか。

この小説には、それまでの彼の作品、あるいは考えてきたことが溶かし込まれているように思う―そういった意味では彼は実直な作家だ、似通ったテーマを様々な形で反復していく。「さきがけ」はオウム真理教を間違いなく想起させるし、青豆と天吾はまるで「四月のある晴れた朝に100%の女の子に出会うことについて」に登場する2人のようだ。リトルピープルの描写はTVピープルを否応なしに連想させるし、こちらとあちらの世界は村上が一貫して扱ってきたことだろう(厳密に言えば本作では少し違う、つまりそれが現実‐物語という関係とも交錯するから)。
しかし、従来の作品とは異なる不穏さをここから感じずにはいられない。ビッグブラザーに対置されるものとしてリトルピープルがいる。「1984年」はビッグブラザーという単一の独裁者によって完全に全てが統制された世界だ。歴史は絶えず書き換えられる。言葉も、思想も、本も。Big Brother is watching you.
しかしこの小説にビッグブラザーは登場しない。それが本作の不穏さを助長する。ビッグブラザーのいない全体主義。そんなことがありえるだろうか?この問いに、否をもって答える人はいないだろう。戦前の日本こそビッグブラザーなしの全体主義国家であったのだから。
だからこう考えるべきだろう、村上春樹はこの小説で「日本」を扱っていると。戦前の日本を独裁者なしの全体主義というときに、「天皇は?」と問うことは村上の意図に沿ったものでしかない。一見全てを統治しているかに見える「リーダー」はリトルピープルの傀儡としての役割を果たしている。
しかしここで村上は更に混沌とさせるような設定をおく、つまりパシヴァとレシヴァだ。知覚するものと受け取るもの(ここには「伝える」役割もある)を分離することレシヴァなしにはパシヴァは意味を成さず、パシヴァなしにはレシヴァは意味を成さない。何かを感じ取ることとそれを適切な手段で伝えること。ここはよくわかんなかった。ただ、ふかえりのたどたどしい語り口は観念としてのふかえり(もう1人のふかえり)が造られたせいなんですよね、その一方で老婦人に保護される女の子(つばさでしたっけ?)は観念としてのつばさなのに、ほとんど口を聴くことが出来ない。伝える能力はいったいどこへ行ってしまったんだろう?それと対照をなす「リーダー」の饒舌っぷり。
あと、空気さなぎ。リトルピープルが紡ぎだすもの。観念としての人間を作り出す。現実と観念の世界を分割して、その行き来を扱うのは彼お得意の構成だけれども。ここもよくわからないんだけれども(こんな複雑な構造を一読で分かる人はすごいと思う)、リトルピープルによる全体主義のようなものを想定した時に、空気さなぎから観念としての存在を作り出すことは何を意味しているのだろう?そもそもリトルピープルは誰か?何か?それもまた観念なのだろうか?彼らは大きさも数も自由に変えられる。主要人物には手を出すことはできないけれども、その周りを掘り崩すことによってその人自体を破壊することもできる。(なぞなぞじゃないけど)これは何か?意識?観念?言説?ちょっと読み直さないことにはなんともいえません(つまり今手元にないので何もいえません)。
ただ、エルサレム賞受賞時の彼のスピーチが一つの参照軸にはなるのかなとも思います。壁としての「システム」ですね。

反リトルピープル的モーメント?小説によって世界は変わるのか?あぁそうか、この小説自体が反リトルピープル的モーメントなのか。村上は神の子どもたちが感じたものを伝えるレシヴァなのか。何れにしろ「日本社会」批判として読めてしまうのが面白いところですね。

また違う話をすれば、青豆と天吾。この2人の奇妙な恋愛が軸となっているわけですが。一方はエホバの証人、もう一方はNHKの徴収人の親をもち、休日は親に付いていくことを余儀なくされる。一方に新宗教、もう一方に労働。この2つを同じ位相に載せて2人だけの関係性を描き出す意図も汲まなくてはいけないだろう。

この小説は終わってはいない(これで終わりだったらかなり多くの部分の埋め合わせを読者に要求することになる)。だからまぁよくわかんないですけど、これだけはいえる。これはカルト集団を扱った話「ではない」、決して。というよりもカルト集団として特異化してしまうこと(オウムを典型として)は適切ではない。彼らを「異常者集団」として括るべきではなかった。それは間違いなく私たちの社会が生み出した鬼子なのだから。だから私たちは「オウムとはなんだったか?」を問い続けなければならない。それが私たちの社会そのものに根ざしていることに気づくまで。だから彼が扱ったのは「日本社会」そのものであって、これは「私たち」の物語でもあるのだろう。

ってかゆうかタイトル、英語だとどうなんだろうって思ったんですけど、1984と1q84だから十分ニュアンスが伝わるんですよね、さすがというかなんというか…

あまりに混沌としているので又書き直します。

2009年5月27日水曜日

今福龍太 『身体としての書物』

書物はたえず世界へと生成する!
ボルヘス、ジャベス、ベンヤミン、グリッサン・・・。作家、詩人、思想家たちの独創的なテクストを読み解きながら開示される、「書物」という理念と感触をめぐる新たな身体哲学。

ってゆうかこの1年間の今福龍太さんの刊行ペースはどうなんでしょう。去年の5月の『ミニマ・グラシア』(岩波書店)を皮切りに、11月には『ブラジルのホモ・ルーデンス』(月曜社)、『サンパウロへのサウダージ』(みすず書房)、『群島‐世界論』(岩波書店)…岩波から出た2冊にしたってかなりの分量があった気がするし、書き溜めていたものをここのとこでまとめて刊行したってことなんですかね。『群島‐世界論』はあの巻頭の地図にやられかけましたが、踏みとどまってしまい買ってません。なんとなく面白そうだけど、何やってるのかいまいち分からない、そんな研究者の一人です(まぁ例によって僕が悪いんですが)。

さて、そんな彼が外語大で行っているゼミナールの講義録(のようなもの)が本書です。
書物とは何か?書物の本質とは何か?そんな問いを提起した上で、ボルヘスやジャベス、ベンヤミンなどを読み進めながら、その問いについて考え、問いを立て直していく、そういった内容となっています。そしてそれに答えようとするのではなく、問いを絶えず更新し続け、思考を深めていく。実際にはその答えは開かれているといいつつも、彼は幾つかの鍵となる喩えを挙げていくことになりますが。試みとしては面白い。
「身体」、「図書館」、「砂漠」、「水」、「はじめての本」、「水牛」…、様々な書物に登場するメタファーを通じて、彼は書物の多様性/多義性を洗いなおしていく。しかし、「書物としての身体」というタイトルに現れるように最終的には、身体性や感覚といったものに書物の本質を見ているような印象を受けました。それがいいのか、悪いのか。身体性からの乖離が問題なのか、それを呼び戻すことが必要なのか。ノスタルジーを批判しつつも、彼はやはりそこに帰っているのではないか。いやそうではない、ベンヤミンにおける「憧憬」が、完全には取り戻すことのできない過去をそれでも希求し想起し続けることによってそれがその人の生の錘となる―したがって現在、未来へと投げ返される性質をもつ―ように、身体性を呼び戻そうとする営為それ自体によって、新たな書物との関わり方が生まれるのだと今福は考えているのだろう、など色々な意見がありそうですが。

ところで「身体としての書物」と「書物としての身体」は何が違うのでしょう?
「身体としての書物」とは書物自体に身体性がはらまれていること、これはその文字や単語それ自体が身体性を帯びているのだという理解から、書物は誰かによって書かれる、その書き手と書かれるものとの格闘(それはまさしく身体的なものでしょう)の痕跡が、一見書物においては消え去っているように見えても実際にはどうしようもなく刻み込まれているのだという理解、更には読むという行為それ自体が身体とは切り離された行為ではありえない―書物を読むという行為は、その内容や言葉を(そこに直接は登場しないものも含めて)自らの身体に刻み込むことでしかありえない―とする理解など、非常に様々に解釈することができます。今福は(恐らくは)そうした多義的な理解を踏まえたうえで、「身体としての書物」という地点に到達したのだとは思います。さて、他方の「書物としての身体」とはどういったものになるでしょうか。これを言い換えると、「私たちの身体は、一種の書物である」となります。私たちの身体には断片的かつ無数の書物の集成ではないか、「書物としての身体」とはこうした問いを提起します。私たちがいかにして私たちであるか、私たちが喜び、怒り、悲しむ際の基準、度合い、やり方、あるいは考え方、世界観、価値観、使う言葉、語彙、マナー、振る舞い、こういったもの全てが書物によって規定されているのではないか。そうであるならば私たち一人一人の中には、各々の書物があり、それは絶えず書き換えられ、更新されている。私たちは本を読み、映画を見、美術館に通い、テレビを見、友人と語らう。それらによって私たちの「書物」は絶えず書き換えられていく。したがって、その書物は同じものではありえない。しかしどんなに内容が変わっても、それは同一の本である。ベンヤミンの「1900年頃のベルリンの幼年時代」のように。そんな発想はあまりに現実離れしているのだろうか。これを推し進めれば、「あらゆるものはテクストである」に行き当たるわけですが。

とはいえ、僕は本を読み続けています。理由を聞かれてもうまく答えられず、いつも「習慣だから」とか嘘ついていますが。そうそう、須賀敦子さんのエッセイで興味深い場面があります。彼女がフランスに留学していた時にカトリック左派の指導者がデモに際して人々にこう語りかけます、「このデモのあいだ、君たちにとって『精神のパン』とは何かをよく考えてください」、と。
「精神のパン」とは何か?パンについては次のように考えることとします、私たちが味わい、咀嚼し、消化し、栄養素を抽出することによって自身を再生産させていくものだと。であるならば「精神のパン」とは、「精神」においてその役割を果たすものに他ならないわけです。
だから僕はこう思うのです、僕にとって書物は精神のパンなのだ、と。その文章を味わい、噛み締め、時に喉につっかえつつも体内に送りこみ、取り入れられやすい状態に消化し(牛だったら反芻するところですが)、栄養素を抽出し、新たに自分自身を組成しなおしていくものだと。

2009年5月23日土曜日

村岡晋一 『対話の哲学―ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』

〈わたし〉は世界の中心ではない。〈あなた〉から語りかけられるときに初めて〈わたし〉が生まれる。コーヘン・ローゼンツヴァイク・ローゼンシュトックなど、本邦未紹介の近代ドイツのユダヤ哲学とフンボルトの「双数的」言語論を起点に、プラトン以来2500年の自己中心主義の呪縛を解く。

講談社メチエは割りと好きです。講談社自体はさほど好きでもないですが。いわゆる「出版不況」の風を受けて完全に浮き足立っている、可哀想になるくらい迷走してしまってます。この会社は近いうちにこのシリーズからも手を引いてしまうんじゃなかろうかと、心配になりますが。オピニオン誌を休刊にしたかと思えば、アフタヌーン新書なる意味不明且つ有害無益な新書を創刊して、かたや他社と協同してブックオフの筆頭株主になったり、ネット上でコミックを無料かつ同時に公開したり(その割にはホームページはかなりダサい…)。
全てのジャンルをカバーしてるけどどこにも長じていない、そんな自信のなさの現われでしょうか、何がしたいんだか良く分かりません。とりあえず、メチエとラチオだけは手放さないでほしいものです。まぁそんなことは置いといて…

この著作は非常に面白かったです。20世紀初頭のユダヤ教神学の影響を受け独自の発展を見せた哲学自体にも興味がありましたし、これまでの哲学を「対話」という観点から掘り崩し新たな姿を現出させようという試みも魅力的でした。
表紙の見開きにご親切にも「本書の内容」が箇条書きにしてあってそれによると、
・啓蒙主義のモノローグ思考
・ローゼンツヴァイクの西洋哲学批判
・新しい思考とメタ倫理的人間
・フンボルトの対話的言語論
・呼びかけと応答の文法
・対話者という〈他者〉
だそうです。ということで本書のポイントは、①プラトン以来(ギリシャ思想とキリスト教神学の結託といえるかもしれません)の西洋哲学への批判、②コーヘンやローゼンツヴァイクらユダヤ思想家の紹介、③彼らの議論と更にフンボルトの言語論に基づいて、「対話」という観点から哲学を立ち上げ直すこと(ここではバトラーの『自分自身を説明すること』と同様に「応答可能性」というのがキーワードとして出てきます)にあるといってよいのではないか、と思います。内容としては盛り沢山ですが、著者は平易な文体で、内容を掻い摘みつつ議論を展開していくので、それを追うことはさほどの困難を伴わないでしょう。

村岡による、「従来の」西洋哲学(つまり「プラトンの脚注としての西洋哲学」)に対する批判は、それが「モノローグ」であること、「全体性」の哲学であり本質主義を纏っていること、個別・具体的な存在としての人間を見てこなかったこと、としてまとめられます。「伝統的哲学」は、私たちの日常生活の彼方にある「本質」や「普遍」への問いかけであり、「言語」を、「他者」を、「時間」を消し去っている、と彼は指摘します。それゆえ、こうした哲学は「ひとりごと」に過ぎない、と。こうした志向が西洋哲学の根底にある以上、人々から哲学が遠ざかるのは自明のことだった、というわけです(「あとがき」において彼は、ヘーゲルの研究をしつつもどうしても彼の根本的な思想の契機が理解できなかったと述懐しています)。
その上で、彼はコーヘンやローゼンツヴァイクといったユダヤ神学の影響を色濃く受けた思想家による研究に言及していきます。19世紀後半からの民族主義の勃興を受けドイツのユダヤ人は幾つかの道を選ばざるを得なくなった。ある者は社会主義に希望を見出し、別の者はシオニズムに希望を見出し、またある者は、啓蒙主義のより一層の徹底化によって民族主義を抑えようとした。そのような状況下で、次第に彼らの中にある疑問が生じる、つまり「なぜ啓蒙主義はこうも容易く民族主義に敗北してしまったのか?」と。答えとしては、啓蒙主義も民族主義も実のところ大差はない、どちらも線引きの問題であって「我々」と「彼ら」という図式から免れてはいないから―すなわちどちらも同一性を基盤とする「モノローグの思考」を包含しているから―ということになるのだろうが、そうした啓蒙主義への問いかけというのがユダヤ人のあいだで行われるようになったと村岡は指摘する。その問いかけの中で実はそうした「モノローグの思考」というのが、近代啓蒙主義に留まらない西洋哲学が一貫して保持してきたものであることを発見する。そうである以上、これまでの啓蒙主義や西洋哲学からは「対話の思考」、つまり同一性を前提とせず、差異や異質性を保持したまま関係を取り持つことは不可能ということになる。それゆえ彼らは、西洋思想の枠外にあったユダヤ神学を紐解くことで、一人語りではない対話の思考を、差異性や多様性を保持しながらも関係を築き上げ共に生きられるような環境、対話可能な空間といったものの創出を目指していく。
そのようにして村岡はコーヘン『ユダヤ教の源泉からの理性の宗教』やローゼンツヴァイク『救済の星』を読み進める。4章以降は彼らの紹介からは離れ、いかに西洋哲学において「モノローグ」というものが根底にあり続けてきたか、を改めて指摘し、そこから抜け出し「対話の哲学」の地平を切り開く作業を進めていく。この中ではオースティンの行為遂行性もまた批判的に検討され、更にフンボルトの『双数について』を取り上げることによって、〈私〉と〈君〉との関係に分け入っている。この辺も非常に面白く読みました。曰く、〈私〉と〈君〉とは一対の関係であって、〈君〉があるゆえに〈私〉が存在しうる。〈私〉の語らいは〈君〉の存在を前提とするのであって、そこには常に「対話空間」とでもいうべきものがなければならない。会話は、発話行為で完結するものではなく、かならず誰かによって聞かれなければならない。この聞くことに対してこれまで言語学はさほど関心を払ってこなかったのではないかという批判。更にブーバーを本書では重視しなかった理由として、彼が「私と君」(我と汝)という関係に注目しつつも、前者を後者に先行・優越するものとみなしていたことが明かされる。
終章では、固有名詞や命令文、呼びかけなどの事例を参照としつつ、「対話」について考察を進めていく。対話が成立している時、そこには対話者という〈他者〉がいなければならない。そして彼/彼女は私の語りかけに対して応答していなければならない。村岡にとってこの他者における「応答可能性」は奇妙な事態を孕んだものとされる。応答可能性とは私が「同胞」と「異邦人」との境界線を引く基準となるものであり、応答によって〈他者〉は私の世界に参入する。けれども、その応答は必ずしも私の予測したものではない。応答に対する私の期待は絶えず裏切られる、なぜならもし完全に予測可能ならばそれは私のモノローグとも等しいからである。対話において、君は私の世界に属してはいるが、同時にその世界における構造的な外部でもある。私の語らいは、他者に依存しその応答如何で途絶し、更新される。それゆえに私とは「そのつど新たに更新される瞬間の非連続性」なのであり、そこにこそ自由や主体性が見出されるのだという。

本書で村岡が取り上げ続けた「対話の思考」、それは差異性や異質性、多様性を保持しながら、同時にそれらを前提としつつ、両者の対話が可能にさせるような場(空間)が創出するものであっただろう。同一性を基盤とするのではなく、差異性や多様性を基盤とすること。それではこうした対話可能な場を如何に作り上げることができるのか。村岡が「応答可能性こそがいわば『同胞』と『異邦人』との境界設定をなしている」(pp.182)という時、彼はそれに応答できない存在のことをどれほど念頭においているのだろうか。あるいは応答したとしてもそれを応答として聴き取ってもらえない、そうした問題について彼はどれだけ自覚的なのだろうか。〈君〉は〈私〉の存在に先行するという。〈君〉の返答なしには私は存在し得ないと。であるならば発話不可能性の問題とは同時に〈君〉が返答しない(あるいはしようとしない)、という問題でもあるだろう。スピヴァクがサバルタンは語ることができないという時に彼女が提起したのは「語ったとしてもそれを聴き取ってはもらえない」という問題ではなかったのか。サバルタンは語ることができない、それは「モノローグ」の問題ではない。むしろ対話しようとしても応答してもらえないという対話不可能性の問題だろう。あるいはランシエールは、どれが応答すべき人間の声で、どれが動物の鳴き声に等しいかを線引きする感性的なものの分有について語ってはいなかったか。「対話の思考」の重要性はよくわかる。けれどもその対話空間において前提とされているものは何なのか。言い換えれば、誰が「君」として、あるいは「私」としてその対話空間に参入できるのか?誰が彼/彼女の語らいに応答してもらえるのか?私はそれを知りたいと思う。

2009年5月20日水曜日

エドゥアール・グリッサン 『多様なるものへの詩学序説』

三島賞作家の小野正嗣による明解な翻訳で届ける、『全―世界論』で知られ、文学者であり、思想家のエドゥアール・グリッサンの講演/対談集。「移民社会」 が到来しつつある日本において、この本はひとつの処方箋的な役割を果たすだろう。。アングロサクソン的な「多文化主義」、およびフランス的な「統合」を共 に超える視座を開く「多様なるもの」の思想とはなにか。

ポスコロ御用達のファッショナブルな思想家。そんなこといったらポスト・コロニアル研究者に怒られてしまいますかね。彼の引用をエピグラフに載っけておけば、オシャレかな、みたいな。基本的に日本のポスト・コロニアル研究者はあまり信用していないので(まさしく自分自身がポスト・コロニアルな状況下に置かれていることに全く無頓着なのは何故でしょうか)、こんな辛口になってしまいました。もちろん、非常に素晴らしい仕事をしている研究者の方もいて、彼らの仕事には感銘を受けっぱなしな訳ですが。
そう、そんな風になってしまった中で、グリッサンの思想に分け入ってみること。これはなかなか面白い経験でした。語感とでもいうのでしょうか、非常に言葉を選ぶのがうまい、何かを掴むためにメタファーを彼は多用するんだけれども、その喩え方、表し方が抜群ですね。確かに引用したくなります。

さて、本書は4つの講演と、2本の対話(実は4本の対話を編集したもののようですが)からなっています。テーマはクレオール化と想像的なもの、詩学・文学の可能性について、とまとめられるかと思います。それぞれの文章は非常に読みやすく、彼の主張を読み取ることは難しくはありません。まさしく「グリッサンによるグリッサン入門」といったところでしょうか。

彼の議論の展開の中で、しばしば大陸的思考/群島的思考、システム的思考/非システム的思考、先祖伝来的文化/複合的文化、一つ根のアイデンティティ/リゾーム・アイデンティティという形で二項対立的な図式が登場します。こうした見方は講演という性格上―恐らくは分かりやすさを期して―語られるものだとは思いますが、質疑応答でも批判が出ていたようです。ちょっと安直ではないかと。彼の議論を追いながら、それが安直なのかどうかも含めて考えてみようかと思います。

「カリブ海地域とアメリカ地域におけるクレオール化」

この講演において、彼はアメリカ地域を3つに分類します。①メソアメリカ(先住民たちのアメリカ)、②ユーロアメリカ(ヨーロッパからやってきて、新大陸でも以前の慣習文化、伝統を保持してきた人々のアメリカ)、③ネオアメリカ(クレオール化しているアメリカ)、と。これらの分類は国境線とは無関係であることを強調しつつ、彼はネオ・アメリカの特殊性に触れます。つまり、「ネオアメリカは―ブラジルであれ、カリブ海沿岸であれ、島嶼部であれ、合衆国南部であれ―奴隷制や奴隷制的諸システムによる抑圧と剥奪をとおして、クレオール化を本当に経験してきた」のだと(pp.11)。そしてグリッサンは、こうしたクレオール化は全世界で起こっていることなのだ、といいます。今日、諸文化の絶え間ない接触や衝突、対話を通して世界中でクレオール化が起こっているのだと。
それではグリッサンにとってのクレオール化とは何なのか。彼はそのための補助線として、奴隷貿易によるアフリカからアメリカへの移動、「裸の移民」に注目します。その奴隷船とは、同じ言語を使う者は互いに隔離された、言語の消失する場所であり、彼らは「ありとあらゆる要素」から切り離されてしまった。そうしてアメリカに移住させられた人々が、記憶、つまり痕跡の思考を頼りにしながら予見できないような何か(例えばジャズ)を作り上げていく。グリッサンはクレオール化の条件として、共存する文化的諸要素が必ず価値的に等価であることを指摘します。つまり、一方の文化が貶められている所ではクレオール化は成立せず、関係付けられた文化的諸要素は互いに評価されあわなければならない、と。更にクレオール化は、混血とは違い「予見不可能なものを生み出す」ことだといいます。
その上で、グリッサンは様々な文化を、「先祖伝来的文化」と「複合的文化」に大分します。そして前者には「一つ根のアイデンティティ」を後者には「リゾーム・アイデンティティ」を当てはめていきます。前者は「一つ根のアイデンティティ」を擁護し、後者の文化は「リゾーム・アイデンティティ」が現実的なのだと。
したがって、「全世界のクレオール化」という彼のテーゼからすれば、「一つ根のアイデンティティ」から「リゾーム・アイデンティティ」へという移行が生じているということになります。「リゾーム・アイデンティティ」とはつまりは関係性の、開かれたアイデンティティであって、私たちは他の根を殺してしまうような「一つ根のアイデンティティ」から抜け出て、多様で関係的な「リゾーム・アイデンティティ」のほうへ向かわなければならないのだと、その移行に際して詩学や文学というのは多くの役割を果たすことができる、なぜなら詩学は人々の想像的なものの次元に訴えかけるものだから。こうした主張が最初の講演では語られています。
更に質疑応答の中で、現代の作家は単一の言語しか知らなくても、世界にあるあらゆる言語を前にして書いているから単一言語的ではないのだ、と言う指摘は、水村美苗の『日本語が亡びるとき』における国民文学についての言及と重なり合う点なのかなと感じます。この2冊を重ねて読むというのも非常に面白いことになるんじゃないかと(無論、水村の議論は幾つかの重要な部分で批判されるべきでしょうが)。

「言語と言語活動」

冒頭にグリッサンは議論の前提として2点指摘します。一つは反復、もう一つは「共通の場所」。前者とは繰り返しによって現れつつある新しいものが少しずつ見えてくることであり、後者は世界の一つの思考が、世界の一つの思考と出会う場所のことだといいます。
今日において初めて、それまでは文学においてしか予言されなかった「全体性‐世界」が実現されるようになります。同時に文学は一つの場所から生じるものであって、その場所と全体性‐世界を取り持つ役割を果たすことになります。
全体性‐世界が現れた今日、その全体的な共同体において、人々は他者と出会い認めることを余儀なくされる。したがって、今日の詩人や作家は、2つの問題系に直面していることになります。一つ目は、全体性‐世界との関係のなかでおのれの共同体を表現すること。もう一つは、絶対的なものと非絶対的なものを、エクリチュールと口承性とを同時に探求しながらおのれの共同体を表現することです。先の質疑応答でも触れたように、私たちはもはや単一言語的に何かを書くことなどできない。あらゆる言語は開放系のなかに、関係性のなかにおかれている。グリッサンにとって多言語主義とは、自分自身の言語を使う時に、そこに世界中の諸言語が存在していることを意味します。したがってある言語を守ることは他の言語、あるいは全ての言語を守ることにもつながることになります。そうした諸言語をのなかには言語活動が含まれていて、カリブ海地域ではそれぞれが異なる言語を用いながら、同じ言語活動を行っている。言語上は多様でありつつ、ひとつの言語活動を探求すること、それによってその多様な言語の出会いの場はまさしく「共通の場所」となります。
その上で、グリッサンはシステム的思考/非システム的思考、大陸的思考/群島的思考へと話を進めます。この箇所は恐らく、本講演においてもっとも重要な箇所であるので、かなり長いですが引用することにしましょう。

かつて、私がお話したような創設的書物〔引用者注:先祖伝来的共同体における「叙事詩」のこと〕とそれを用いるあらゆる文学が存在した時代、思考というものは―私がシステムの思考と呼んでいるものですが―諸言語のあいだに生じるゆったりとした感知しがたい反響を組織したり、検討したり、投じたりしてきました―思考は自分が正当に支配していた世界の動きを予見し、イデオロギー的な見通しを与えていたのです。私があえて「大陸的な思考」と呼んでいるこのシステムの思考は、いまようやく一般化した世界の諸文化の非システムを考慮しつつあります。より直感的で、より壊れやすく、脅威に曝されているけれど、混沌‐世界とその予測不可能な結果にふさわしい別の形の思考が、おそらく人文社会科学の諸成果に支えられて、とはいえ世界の詩的なものと想像的なものが与えるビジョンのなかを漂いながら、発展しています。私はこのような思考を「群島的な」思考と呼んでいます。…いま私に分かるのは、大陸が、少なくとも外から眺めたところ、「群島化している」ということです。(pp.57-58)

つまり、ヨーロッパもまた群島化している。全世界が島々の開かれた連なりのようになっている。そうした現状を鑑みるならば、私たちがすべきことは、互いに耳を傾けあい、理解しあうことであり、そうした関係性のなかに身を置くことに他ならない。
そのなかで「翻訳」というのは新たな意味を持ちうる。翻訳とは、作家が個々の言語の中に織り込んでいった全体性を掬い上げながら、一つの言語から他の言語へ移行させることによってその全体性を表現していくことにある。こうした言語活動はまさしく予見不可能性を孕んでいて、だからこそ翻訳とはクレオール化であり、文化的混交の新しい実践となる。かすかな接触と接近の技法である翻訳は痕跡の実践であることを指摘してグリッサンはこの講演を終える。


さて、2つほど講演の内容を整理してみましたが、これでなんとなくグリッサンの議論はつかめるのではないかと。もちろん講演や対話もそれぞれテーマ自体は違うので、議論の内容もより豊かに、複雑に折り重なっていくわけですけれども。世界全体がクレオール化している、こういったことはしばしば指摘されることで、いやそれはクレオール化じゃなくて平準化だとか、むしろ「純度」への志向が高まっているとか色々なことが言われるわけですが。そしてまた、単一のナショナルアイデンティティから複数のアイデンティティへということもそれ自体はよく言われることで私自身はさほど目新しい印象は受けませんでした。定言から当為へという飛躍がどうなのか、という意見もありそうですが。「現状はこうである」、と言う話をしていたらいつの間にか「こうしなければならない」とか「こうならなければいけない」という話に移り変わっていく。グリッサンの現状認識や見通しに対してユートピア的とか楽観的とか言う声は聞こえそうですし、グリッサン自身も十分その点は自覚しているみたいですが。ただ、僕個人としては詩学や文学にこうした可能性があることを信じたいものです。
しかし、「群島」っていう発想は面白いですね。今福龍太なんかもグリッサンから影響をかなり受けているのでしょうか。新しいことを得た、というよりも新しい見方、摑み方を学んだといったほうが適切かもしれません。概念よりもメタファーを。動態的に何かを摑むには概念で固着させるよりもこっちのほうがいいのかもしれませんね。

チェーザレ・パヴェーゼ 『美しい夏』

都会で働く16歳のジーニアと19歳のアメーリア.二人の女の孤独な青春を描いた,ファシズム体制下の1940年,パヴェーゼ31歳の作品.1949年にようやく『丘の上の悪魔』『孤独な女たち』とともに刊行され,イタリア最高の文学賞ストレーゼを受賞.そしてその翌年,パヴェーゼは自殺することになる.

ようやく手に取ることができたパヴェーゼ。ナタリア・ギンズブルグが描写していたような彼と、この作品との落差に最初は驚きましたが。女性の揺れ動く感情をここまで男性による作品でも追えるものなのだなぁ。
本書の河島さんによる解説が非常に優れていると思うので、僕の感想はその枠を出るものではないということは予め書いておいたほうがいいような気がします。
ギンズブルグの『ある家族の会話』にパヴェーゼはしばしば登場します。「背の高いうしろ姿。外套のえりを立て、頑丈そうな白い歯のあいだに火の消えたパイプを噛みしめ、大股に、足早に、肩をいからせて歩いて」いくパヴェーゼ(pp.165)。なにより無口で明晰、理知的で皮肉屋、そのようにギンズブルグは書いていたと思う、そして彼のような皮肉なものの見方は、もはやこの世界のどこにも存在しないかけがえのないものであったと。
彼の皮肉なものの見方がどこから来たのか、そんなことには答えようがないけれども(どこに由来したものでもないとも、全てに由来しているともいえるだろうし)、ここでは一つの仮定を立ててみよう。つまり、「美しい夏」が失われてしまったこと、過ぎ去ってしまったこと、あるいは何者かによって奪われてしまったこと、そこに起源があるのではないかと。「美しい夏」とは生の充溢の瞬間であり、人生における最高到達点(つまりそれ以前もそれ以後もその地点ほどの高みに達することはできない)のことなのだろう。ジーニアはそれを待ち侘び、アメーリアは既にその先にいる。パヴェーゼの生涯についてさほど知らない私がこんなことを考えるのは、単なる推測以上の何物でもないわけだが、パヴェーゼは「美しい夏」を経験できなかったのではないか。「美しい夏」とは生の充溢の瞬間ではあるが、それがあくまで一時的な、あるいは主観的な幻想に過ぎない。そしてパヴェーゼの知性はそれを既に見越してしまった。彼が自らの「美しい夏」を自身から奪い去ってしまったのではないだろうか。だからそれはノスタルジーですらない。「美しい夏」なるものが単なる幻想に過ぎないと看破した彼には平面的な空虚な生しか残されていない。彼の皮肉な姿勢も、あるいは女性に対する抑制のなさもそこに起源を見出せるのかもしれない。これ以上の推論は無意味だろうけれど。

解説で河島はこう指摘する、ジーニアはかつてのアメーリアであり、アメーリアは未来のジーニアであると。しかしパヴェーゼは次のようにも言っていた、これはレズビアンの物語である、と。ジーニアとアメーリアが、3年の時間差はあるものの実は一体であること、これは読んでいれば思い当たることだろう。ダンスホール、カッフェ、モデル、タバコ、物語が進めば進むほど、この2人が(19歳と16歳の)同一人物であることに疑いの余地がなくなっていく。序盤のジーニアは、終盤ではアメーリアのようになり、アメーリアに「どこにでも連れて行ってほしい」と懇願する。そして2年後の夏、アメーリア(となったジーニア)はジーニアと出会う。つまり、この物語は円環のように完結しているのだ。そこから出口がない、だからジーニアはアメーリアにどこかに連れて行ってほしいと懇願する。一方でパヴェーゼの言うとおり、レズビアニズムもこの2人の関係に深く根ざしている。一つの峠を境に向かい合う同一人物の恋愛関係。ジーニアは冒頭でアメーリアに惹かれ、アメーリアはジーニアは告白をする。そして最後にジーニアはそれに応えることになる。しかし、この2人の関係が成立するには、否定がなくてはならなかった。グィードによる拒否とモデル化、グィードは女性を愛することができず(グィードとロドリゲスの関係は同性愛的なものであることが匂わされている)、彼の近くにい続けることを望むならばモデルになるしかない、つまり「静物」のような客体に。この異性に認められないことを契機とする同性愛的関係、これは非常に奇妙で屈折したものにならざるを得ない。

河島は解説の最後に、『祭り』と『犠牲』という観点からこの物語を総括する。つまり、彼女らは『祭り』において必要とされる『犠牲』になったのだ、と。私も彼の意見に同意したい。そしてそれに付け加えるならば、パヴェーゼ自身もその『祭り』の『犠牲』としてその生涯を終えたのではないかと。パヴェーゼの自殺についても、『ある家族の会話』のなかでナタリア・ギンズブルグは回想しています。興味を覚えたら参照されてはいかがでしょうか。

2009年5月15日金曜日

廣瀬純 『シネキャピタル』

シネキャピタル――普通のイメージ=労働者たちの不払い労働にもとづく、新手のカネ儲けの体制!搾取されてるっていうのに、ぼくや彼女ら「普通の鳥」は、働くことにやりがいや喜びさえ感じている。それどころか、観客=投機家として無数の企業のために、いっそうタダ働きをしてしまっている。どんなやり方でシネキャピタルは、この剰余価値生産にぼくたちを組み込んでいるの?こんな暮らしから身を引き、「労働からの解放」、「解放された労働」を獲得するなんてできるの?

とても愉快な本です、革命的「シネマ」論、いやいや「シネマ」的革命論とでもいうべきでしょうか。ドゥルーズの『シネマ1・2』を「シネキャピタル」なる概念で読み替えながら、映画論でも凡庸なドゥルーズ論でもない、イメージ/労働論が展開されています。装丁も、挿絵も、注釈も、全てが面白い。これは手にとってみれば分かります。

『シネマ』はいまだ積読中のため、『シネマ』からの影響、彼の読みや解釈の面白さ等々については充分に語れないのが残念なのですが。初期のドゥルーズを追う作業を一通り終えたら突入しようかなと考えています。

さて。

エイゼンシュタインらの映画を取り上げながらドゥルーズは、「特異性の生産(質的飛躍)が普通のものの蓄積(量的過程)を通じてなされる」ことを指摘する。これはどういうことか。廣瀬は普通のイメージたちが「モンタージュ」によって特殊に配列され、その配列(つまりイメージの協働)によって特異なものを生産していく(正確に言えばシネキャピタルによって生産させられる)、そのように解説します。つまり映画とは普通のイメージの組み合わせでありながら、その組み合わせによって「特異なもの」を生み出す装置なのであり、言い換えれば、各々のイメージの和、つまり1+1の和は2、ではなく3になるのだ、と。それを廣瀬は次のように読み替えようとする、曰く「普通のものたちの協働が際立つものを剰余価値として生産する」と考えることができるのではないか、と。普通のイメージを余計に働かせ、搾取することによって映画=資本(シネキャピタル)はその剰余を簒奪しているのではないか、と。映画における剰余価値生産?その通り、そして廣瀬はそれを内包的ギャップとして、つまり潜勢的なものと現勢的なものという2つのアスペクトが孕むギャップとして説明していく。ヒッチコックの『鳥』に登場する鳥たちには2つのアスペクトがある、一つは「ヒッチコックの鳥」になる力、もう一つは「普通の鳥」というアスペクトが。彼らは「ヒッチコックの鳥」として映画に現れるにもかかわらず、その現勢的なアスペクトに対してしか、そなわち「普通の鳥」としてしかその対価を支払われることがない。それゆえ先の式、1+1に戻るならば賃金としては2しか支払っていないにもかかわらず、質的飛躍によって1+1は3になる。ここに余剰価値の収奪がここに見られるのだと。
価値増殖のメカニズムとしてのモンタージュ、それは時代を経るにつれに洗練され、定式化していく。そしてついには過剰生産によってそれ自体がクリシェ化していく。それこそが「行動イメージの危機」である。しかしシネキャピタルの力はそうした危機を逆用することによって乗り越えを図る、それが「パロディ化」だ。モンタージュのクリシェ化、そのクリシェ化をパロディとすることによって、更に映画は剰余価値の収奪を引き続けようとする。ただ、それは長続きしない、パロディ自体もクリシェ化していくことは自明のことだから。それではその先にあるのは映画=資本の死だろうか。そのクリシェ化の極限にある「映画内映画」、「イメージについてのイメージ」は「歴史の終焉」なのか?
こうした意見にドゥルーズは、そして廣瀬は真っ向から反論する。「映画についての映画」や「イメージについてのイメージ」は断じて「映画の死」「歴史の終焉」などではない、そうした「インチキな認識」からそれらを救い出さなければならない、それに加えてイメージたちを余剰価値増殖のメカニズムから解放しなければならない、と。そうした両面での格闘を可能にする概念こそ「結晶イメージ」なのだ。「イメージについてのイメージ」はまさにそうした価値増殖のメカニズムからの解放であり、イメージそれ自体が潜勢的にもつ力を見出していくプロセスなのだ。シネキャピタル的生産における剰余労働の拒否、潜勢力の現勢化そのものの拒否、それによって普通のイメージたちは結晶的体制へとなだれ込み、そこで新たな機械的アレンジメントを構築していく。そこにおいて、各々のイメージはそれ自体が結晶をなし、自律性を取り戻すのだ、と。すなわち結晶的な「自己価値形成」。

これが1章の大まかな内容です。意味分からんけど面白そう、そんな感じしませんか?実際読んでみるとそんな意味分からんでもないのですが、少し論旨が錯綜したり飛躍したりで追うのに戸惑ったりもします。2章以降もこんな感じで進んでいきます、『時間イメージ』のほうへ、とりあえず付いて行ってみて下さい、抜群に面白いですから。そしてここでは映画についてイメージについての表面的な整理に留めて置いたのですが、これには裏があるんですね。すなわち、ここで取り上げられているのはシネキャピタルなわけで、イメージたちの労働、剰余価値の収奪メカニズム、これをいかようにも「労働」というものについて読み替えていくことができる。ここが面白いんですね。そしてなによりも…


歴史の機関車の非常停止ブレーキに私たちが手をかけた時、そこに広がる光景に私たちは耐えられるのか。その記号の、イメージの、光の横溢に私たちは目を背けブレーキから手を離し、再び機関車は加速してしまうのか。



2009年5月10日日曜日

宮下誠 『20世紀絵画―モダニズム美術史を問い直す』

私たちは、ある絵画作品に出会い、そこに何が描かれているかを「再認」しえたとき、その絵を「わかる」という。しかし、なぜそれほどまでに私たちは絵を「わかろう」とするのだろうか?
20世紀に描かれた絵画は、それ以前の絵画が思いもしなかった無数の認識をその背景に持っている。
そして、絵とは具象/抽象の如何にかかわらず、作家のアイデンティティ、或いは民族のアイデンティティと深く結びつき、時代を映す鏡となり、私たちの「鏡像」となっているのだ。本書では「具象/抽象」「わかる/わからない」の二元論に終止符を打ち、"旧東独美術"も視野に収めた新しい解釈パラダイムを提案する。

久しぶりに実家に帰ったときに、書棚の中から見つけた本。そうだ、数年前に父に面白い本はないか?と聞かれ、この本を貸したんだっけな、と思い起こしながら回収。帰りに読み返していたら止まらなくなって結局読了しました。
光文社新書からはたまにこういった良書が刊行されるので侮れないですね、きっとよい編集者がいるのでしょう。この本は、僕の西洋絵画の見方、あるいは美術史というものの見方を揺さぶり、覆しました。そういう思い入れがある分、この新書は美術史に関心をもつ人々、あるいはただ美術館に通うのが好きな人にとって必読書なのではないか、と思ったりします。
さて、この本のどの要素が当時の僕にとってそれほど衝撃的だったのか、それについて触れましょう。それまで、僕は西洋近代美術史というものを一つの発展図式に落とし込み、そうした一方向の発展の系譜として、つまり一貫した語りとして理解してきたわけです。それは当時の僕が西洋絵画というものにあまりに無知であったこと、それゆえ美術史の概論のようなもので語られる教科書的な記述を鵜呑みにしていたことがありました、今となっては恥ずかしい話ですが。その流れこそ、印象主義、ポスト印象主義(と括られる画家とその作品)、ピカソやマティス、ダリらを経由してジャクソン・ポロックへ至るという、まさしく「具象から抽象へ」という物語でした。今日もこうした語りが一般的には優勢であるのかもしれません。こうした語りの問題については以前も(http://kentado.blogspot.com/2009/03/blog-post_26.html)触れたことがあるかと思います。こうした語りの問題点は①その系譜から抜け落ちてしまう存在について触れることができない、あるいは低い評価しか与えられない、②ある画家の作風の変遷に目を向けることができない、単なる「逸脱」としてしか見做されない可能性がある③従って、ある画家の生涯の結晶を、単なる歴史上の「役割」に貶めてしまう、④画家同士の同時代的な、あるいは超時代的な関係性―仮に「調和」と「抗争(コンフリクト)」とでも呼びましょうか―に十分な言及が出来ない、⑤そして本書で指摘されている通り、「具象」と「抽象」の間のせめぎ合い、その往来という問題を完全に捨象してしまう、例えば本書において重要な位置を占める旧東ドイツ、旧社会主義圏の具象絵画を単なる時代錯誤の作品としてしか評価できない。
本書を読んだこと(3~4年前のことですが)を端緒として、これらの問題群に否応がなしに気付かされた。だからこの本を最初に読んだ時の衝撃はよく覚えています。そうした一貫した物語が不可能な中でいかに美術史を叙述することができるのか。本書はこうした問題群から本当に自由なのか。そうした疑問は当然生じることだと思います。
ちなみに宮下はこの新書の中では、ほぼ時代順に、ある画家とその代表作を取り上げるというオーソドックスな方法を踏襲しています。ただ、それは断じてこの本が旧来の美術史テキストと何も変わらない、というわけではありません。少なくとも彼が一人一人の画家に、一つ一つの作品に注目する時、彼はそれを歴史的な「役割」に落とし込めることはしていないわけです。ある画家の作風の揺れ動きを無視せず、時にはその変遷が「役割」とは矛盾していることを受け入れながら、同時に当時の歴史的/社会的/地理的文脈や画家同士のネットワークにも言及しながら記述を進めていく。それゆえ、一つ一つの章はとても短いですが、非常に中身の濃い、読み返しに値する内容になっています。
それに加えて、宮下はその作品に触れる人々、観衆の視線を重視します。観衆と絵画の間に結ばれる関係性、それは人々にどのように見られてきたか、どのように見えるかという点。これは「わかる/わからない」という二項対立の無意味さを露にするためにも必要な視座なのでしょう。それは個別の作品の観衆史(という言葉があればですが)を語るというだけではなく、もっと普遍的な「絵画を観ること」という問題と密接に関わります。文中で宮下が指摘するように、私たちが絵画を見るとき、私たちは絵画に見られているのだということ。絵画は一種の<鏡>であって、絵画を見る私は、同時にその絵画を見る私自身に見返されているのだということです。<鏡>の同化効果と異化効果―「これはお前だ」と「これはお前ではない」―を私たちは絵画を見ることを通じて経験しているのだという視点、これは非常に重要な論点だと思います。絵画は<鏡>である。<鏡>の表面を見ることはできない、同様に絵画の表面を見ることはできない。私たちは絵画を見ているのに絵画を見てはいない、そのアポリアを出発点として近代の西洋絵画は存在する。ゴッホの「黄色い家」の黄色いだけの場所(宮下は適切にもブラックホールと喩えます)やマレーヴィチの「黒い正方形」、あるいはデュシャンの「大ガラス」、そうしたものを見るとき、私たちは当惑する、「これは何だろう?」と。つまり、「わからない」と思う。それは私たちが、<鏡>として絵画を見ることができないから。その私たちの視線はその表面に突き当たり、それから先に進むことができない。<鏡>のメタファーを推し進めるならば、それらの作品からはその作品を視ている私を視ることができない、あるいは鏡が歪んでいて、統一体としての「私」を形作ることができない、だから「わからない」と感じてしまう。
つまり「わかる/わからない」の問題は、「具象/抽象」の問題として理解してはならない。それは絵画を視る「私」自身にゆだねられているのだから。
本書はこうして具象/抽象という二項対立を解体して、わかる/わからないという問題を更に「アイデンティティ」(宮下は括弧なしにこの用語を使いますが)の問題へと話を進めていきます。この他にもセクシュアリティ、欲望、作品の存在/不在など様々な観点から西洋美術への言及がなされていて、非常に内容が富んでいます。旧社会主義圏の絵画についても言及したことは、西洋美術史のなかでも重要な点なのかな、と思います。僕はプラハの美術館に陳列されていた社会主義時代に描かれた無数の絵画(それらは決して社会主義的リアリズムという言葉で括りきれるものではない)に強い衝撃を受けた経験があります。そのときは「これは何なんだろう?」という疑問が湧きながらも、それらから目を離せずにずっとその美術館にこもっていました。この経験は宮下の経験と似たものであったのかもしれません。それゆえに僕は彼の視点に深く共鳴したのかもしれませんが。彼の『逸脱する絵画』や音楽論は未読ですが、こちらにも触れてみたいものです。

2009年5月8日金曜日

アルンダティ・ロイ 『帝国を壊すために』

2001年9月11日以降,暴力と偽善が世界を覆い尽くしている.ブッカー賞受賞のインド人女性作家ロイは,その状況に対して絶え間なく抵抗の声を挙げ, 帝国とは別の世界を求めるすべての人々に希望と勇気を与えてきた.「「無限の正義」という名の算術」「帝国の民主主義」をはじめ,海外で注目される8篇の 政治エッセイを収載.

こういう時事的なエッセイを少し後になって読み返したとき、その評価は真っ二つに分かれると思います。一方は時事的であるがあまり視野が狭く議論が先走りすぎて粗が目立つ、要は読み返すに耐えないケース。他方は、時事的であるがゆえに事態の切迫性をこれ以上なく伝えてくれるだけでなく、問題の本質の所在までも掬い上げているケース。この場合、同時代でしか描けない時事エッセイ(批評)というものは、後になって読み返すに値する、というより現時点においてもそこから幾つもの問題を取り出すことができる、そう思います。
このエッセイは後者に位置づけられると僕は感じました。理由としては3点ほどあげられます。
まず世界中で起こされた(ている)様々な暴力や虐殺、不正義に対する憤りや怒り、悲しみが読み手(聴衆)に強烈に伝わってくること。次いで、そんな中でも隠された問題の所在を透視するような鋭く、そして一貫したパースペクティヴを彼女が抱き続けていること。最後に痛烈な皮肉や批判、諧謔を交えた読者をひきつける語り口、言い回しを彼女が多用していること。
それゆえに総じて魅力的なエッセイになっていると思います。

この本の頁を捲ってすぐに感じることは、彼女の深い怒りや憤りでしょう。きっとただ漫然と読んでいるだけでも、彼女のこの感情を共有する事になるでしょう。アメリカやインドの政府高官の発言、あるいは多国籍企業と一体化した行政の腐敗状況に(もっとはっきり言えば<帝国>とでもいうべきグローバルな秩序に)彼女はその怒りを叩きつけます。その怒りは至極当然なわけですが。彼女の<帝国>の定義はネグリ=ハートから借用したものなのでしょうか。「帝国製インスタント民主主義」における<帝国>の説明からするとかなり近い位置にあるとは感じるのですが。
その上でブッシュの「敵か味方か」という極端な問いかけ(それ自体問いかけというよりも味方に付けという命令に他ならないわけですが)に答えること自体を放棄します。どちらでもない。あんたたちの味方に付くのはうんざりだけど、偏狭なイスラーム主義を支援する気はさらさらないよ、というわけですね。これは本書を通じて彼女が抱き続けている姿勢です。そんな二項対立は間違っている、それ以外の回答もあるはずだろう、と。けれどもこのどうしようもない圧力の中で、どこに出口があるのか。抵抗の線など引くことはできないんじゃないのか。そんな問いが頭を過ぎる、その瞬間は誰も避けることはできない。
そう、私たちは怒りや憤りや悲しみによって、どうしようもなく自身の無力感を痛感してしまう。悲観主義に陥ってしまう。しかし、悲観主義に身をゆだねてしまうことはその眼を曇らせてしまう、あるいは目を背けてしまう。そして曇ってしまった眼では、あるいは目を背けてしまったのなら、そこにあるはずの希望の芽を見つけることが出来なくなる。
悲観主義はそれ自体が批判の対象にはならない。というよりもそんな批判を繰り出せる人間なんかいないだろう。現実を具に観察すればするほど悲観的になることは避けられない。重要なのは、悲観に陥ったとしてもその眼を背けないこと、曇らせないことなのではないだろうか。サイードがそうであったように。彼は自分は悲観主義者であるが同時に楽観主義者なのだ、という。彼は見つめる、パレスティナの現状を、シオニズムのイデオロギーを、イスラエルの占領を、変わり果てたホームを、暫定政府の腐敗を。それらは彼を悲観主義にさせるには十分すぎるほどだ。けれども彼はそれでも見つめ続けた。見つめ続けることによって彼は希望の芽を見出す。そしてそれを自分自身でも育てていこうとした。悲観主義であると同時に楽観主義であるということは恐らくこういうことなのだろう。同じように彼女も、(恐らくは絶望に陥りかけながらも)どこかに希望の芽を見出す。アメリカも含めた世界各地で発生する反戦デモに、あるいは芸術に。希望があるが故に彼女は語り続け、書き続ける。本エッセイにはまさにそうした希望と悲観の葛藤の過程が透けて見える。その葛藤を追体験できる、それだけでこの本は今でも読み返すに値するのではないでしょうか。

ただ、彼女の憂慮する民主主義の衰退という問題。あるいは「真の民主主義」や「市民社会」に希望を見出そうとする姿勢、ここには留保がつくのかもしれません。とはいえ非‐西洋において、民主主義や市民社会という概念を導入することが本当に可能なのか、そしてそれが唯一の路なのか、これについてはもう少し考えてみる必要がありそうですね。

2009年5月5日火曜日

ミハイル・ブルガーコフ 『巨匠とマルガリータ』

焼けつくほどの異常な太陽に照らされた春のモスクワに、悪魔ヴォランドの一味が降臨し、作家協会議長ベルリオーズは彼の予告どおりに首を切断される。やがて、街のアパートに棲みついた悪魔の面々は、不可思議な力を発揮してモスクワ中を恐怖に陥れていく。黒魔術のショー、しゃべる猫、偽のルーブル紙幣、裸の魔女、悪魔の大舞踏会。4日間の混乱ののち、多くの痕跡は炎に呑みこまれ、そして灰の中から<巨匠>の物語が奇跡のように蘇る。SF、ミステリ、コミック、演劇、さまざまなジャンルが魅力的に混淆するシュールでリアルな大長編。ローリング・ストーンズ「悪魔を憐れむ歌」にインスピレーションを与え、20世紀最高のロシア語文学と評される究極の奇想小説、全面改訳決定版!

名前はよく聞くけど、読んだことのなかったブルガーコフです。これはいいですね。メフィストフェレス的な悪魔がモスクワにやってきて、燃やし放題、殺し放題、騙し放題です。すっきり。
ってことで終わりにするわけにもいかないので、感想まで。

悪魔って善い奴?悪い奴?って聞かれたら、恐らく100人中80人くらいは悪い奴っていうでしょう、もっと多いかな。けれども、善/悪を決めるのは誰ってことですよ。価値判断なんて社会的な要請によって変わるものです、ベルリオーズらにとっては神こそ悪で人間の理性こそが善なわけですし。その善であるはずの人間の姿が悪魔によって露呈されていく様、痛快です。悪魔=悪で読んでいって、なんだこの悪魔善い奴じゃん、って思っちゃうのも、同じことですね。価値判断は置いておきましょう。
この小説の面白さは一つには、キリストの4日間(エルサレム入城~復活)と悪魔の降臨と巨匠の小説の復活がパラレルになっているところですね。とりわけピラトゥスを巡る巨匠の小説、非常に面白いです。
焼かれた本(焚書)が悪魔によっていとも簡単に復活する。本を焼いたのは誰か?ソ連という強大な官僚システムと、その歯車と成り下がっている、文学界そのものでしょう。だから本作はソ連とその文学界に対する痛烈な批判となっている。初めにヴォランドがベルリオーズとイワンに語る物語、それは巨匠の小説の一部分だ。2人を当時のエルサレムに誘うほどの完成度の高さを誇っておきながら、それは評価されない。というよりも巨匠の小説をベルリオーズが全く知らないというのも奇妙な話ですが。
そして当のベルリオーズは首を切られ(死んだのはあくまで偶然ですが)、グリボエードフは燃やされる。イワンもリューヒンも偽善的にプロレタリアートを装いながらろくでもない詩を発表し、人々と焚きつける。官僚の一人は、ジャケットが勝手に署名した仕事を何のためらいもなく、自分の仕事として認める。金に、ファッションに飛びつく人々。
ソ連の実態がこれでもかと暴かれていきます。
そこから離れ、地下で平穏に暮らしてきたマルガリータと巨匠もその世界から真に逃れることはできない。本は燃やされ、彼らの生活は破綻する。しかし、マルガリータの愛は巨匠を精神病院から救い出し、真に平穏な世界へと彼らは旅立つ。ソ連というシステムに囚われず、書き続ける生活を送るにはこの道しかなかったということなのでしょうけど。結局のところ何も変わらない、歯車は取り替えられたかもしれないが、全体としては。今も、恐らくは。しかしそれだけだろうか。

最初に殺し放題と書きましたが、これは間違いですね。ヴォランドが直截に手を下した殺人はないといっていいでしょう。ベルリオーズはあくまでも足を滑らせた事故ですし、マイゲール男爵にいたっては猫を幻視した警察によって撃たれたわけですから。悪魔が行ったことは、実は予言したことと幻惑を見せること、あとは燃やすこと、これだけだと僕は読みました(誤読の可能性はありますよ)。そう燃やすこと。焼かれたはずの小説は復活し、それを焼失にいたらしめたいくつもの建物も燃やされ、破壊される。地下室も最後には燃え、巨匠とマルガリータは別の世界へと飛び立つ。マルガリータの愛はまるで炎のようだ。燃えること、それは既にある何かを破壊するだけでなく、新しく何かを生み出すこと。ブルガーコフは炎に何を託したのか。

ところでイスカリオテのユダを殺したのは誰なのか?聖書では確か、銀貨を神殿に投げ込み自殺したことになっている。けれども、この小説では誰かに殺されたことは明らかだろう。ピラトゥスが自分が殺したのだとマタイに語り、アフラニウスがニーザに会い、その後ニーザがイスカリオテのユダを郊外に案内してい ることから考えると、彼らが殺害に関与した可能性は十分にある。その場合問題となるのが、ピラトゥスとアフラニウスの語らいだろうが。この語らいは茶番だったのでしょうか。でも、殺害シーンに登場する第3の男はアフラニウスだと読めるわけですが。このアフラニウスという人物、とても謎めいています。
しかし、本当によく出来た小説だなぁとつくづく思います。伏線が無数に張り巡らされていて、まるで迷宮のよう。池澤が「巨大な建築」と喩えたのは言い当て妙だと思います。


2009年5月2日土曜日

檜垣立哉 『ドゥルーズ入門』

没後10年以上の時を経て、その思想の意義がさらに重みを増す哲学者ドゥルーズ。しかし、そのテクストは必ずしも読みやすいとはいいがたい。本書は、ドゥルーズの哲学史的な位置づけと、その思想的変遷を丁寧に追いながら、『差異と反復』『意味の論理学』の二大主著を中心にその豊かなイマージュと明晰な論理を読み解く。ドゥルーズを読むすべての人の羅針盤となる決定的入門書。

さて、ドゥルーズ入門です。ただ、このタイトル問題ありですよね。もちろんシリーズ化してるからしょうがないですけども。ホントにこの本を取っ掛かりにしようと思うとたぶん途中で挫折すると思います。私自身はところどころ難解(それがどこか、なぜなのかについては後述します)なところがあるように感じましたが、それでも非常に面白く読みました。なるほどね、という感じ。決してポップではありませんが、初期(つまり『アンチ・オイディプス』以前)のドゥルーズに注目することは、試みとしても面白いですよね。まず、哲学史家としてのドゥルーズが描かれなくてはならない。確かに。河出さんとかが頑張ってくれているおかげで、非常に幸いなことに初期の彼の著作は文庫化が進んでいて、手に取りやすい。こんな贅沢なことないよなぁ、と思ったりしますが。
初期のドゥルーズとガタリとの共同作業以降のドゥルーズ、確かに一貫しているところもあるんだけれどもなんとなく違う気がする、そんなことを感じていましたが、檜垣はそれを一つ「転回」として捉え、その根底にあったものを上手に説明しているなぁと思いました。

そんなわけで、3章まではとても分かりやすく、頷きながら読んだりしていたのですが、4章『意味の論理学』以降から少しわからなくなってきた。なんでだろうと思ったのですが、理由は単純で『意味の論理学』を僕は読んでいないから。つまりこういうことです、本書は全くドゥルーズの著作に触れてこなかった人にはちょっと難解すぎる。ある程度彼の思想に触れたことがあるか、著作を読んだことがあることが前提になっているような印象です。「『差異と反復』よくわかんなかったけどとりあえず読んだ」とかいう人は、きっとそうゆうことだったのね、となるのでしょう。(少なくとも僕にとっては)概説書と著作それ自体の反復作業、それを通して理解を深めていくことが一番近道なのかなと思います。本書を読みながら、久々に『差異と反復』を読み返していますが、以前よりも理解が深まっていると感じます。もう少し、継続的に初期のドゥルーズの思想にアプローチしていこうかと。

ただ、そんなことをいいながらも気にかけなきゃいけないことは、この本は檜垣なりのドゥルーズの読みでしかないということ。当たり前の話ですが、読む人の数だけ読み方がある。例えば、小泉義之の『ドゥルーズの哲学』なんかは典型で、あれは入門書というよりも彼流のドゥルーズ理解、あるいはドゥルーズを介した彼自身の生命哲学の議論に他ならないわけで。まぁあれはあれでかなり面白かったですが。檜垣がここで『差異と反復』を取り上げる時も、そこから抜け落ちる幾つもの要素、あるいは彼が取り上げなかったポイント、そういったものが間違いなくあるわけで、最終的には自分なりに読み込んでいくしかないわけです。ドゥルーズ自身、『対話』のなかで次のようなプルーストの一節を引用するわけですから。

美しい本は一種の外国語で書かれている。ひとつひとつの語の下に私たちのひとりひとりは自分なりの意味を盛り込み、あるいは少なくとも、自分なりのイメージを盛り込む。そのイメージは誤読になることもある。しかし美しい本のなかで作り出される誤読はすべて美しいのだ。




ジュディス・バトラー 『自分自身を説明すること』

他者との関わり合いにおいて主体は形作られ、他者への責任=応答可能性において主体は自らを変革する。道徳が暴力に陥る危険性を問い質し、普遍性の押し付けによって個性を圧殺する倫理的暴力の論理に抗いつつ、危機の時代に「私」と「あなた」を結び直して希望の隘路を辿る、剣呑な哲学。暴力論叢書第三弾刊行!

僕には少し難しかったです。バトラーがどこで格闘しているか、それを掴むこと自体はさほど難しいことではない。そういう意味では彼女は一貫している。真摯に向き合っている。バトラーが格闘する場所、それは「自分自身を説明すること」、あるいは「自分自身について真理を語ること」の可能性/不可能性が混交する領域であり、「私」に対して他者が語りかけ、それに応答しようとする場なのだろう。
バトラーは、フーコーをアドルノを主たる参照軸とし、それにカヴァレロ、レヴィナス、ラプランシュ、ニーチェらを批判的に読み解きながら、「倫理」について、そして「他者」について、なにより「私」について思考を進めていく。しかし、その思考のスピードに僕自身が付いていけなくなった。「分かっている」と思いながら読み進めているうちに、気づいたら字面を追っているだけの状態になっている。その繰り返し。完全に僕の知識不足なのだろう。これは仕方のないこと。僕の場合、恐らくもっと時間をかけて、あるいはノートなどに取りながら精読する必要があるのだろう。
ただ、分かった限りのこと、それだけでも取り出す価値はあるだろう。

バトラーがまず問題にするのは、「主体」の不透明性です。私は「私」自身を完全に説明することができない。その理由は、決して言語化しきれないような経験―「曝され」があるから、また、私の歴史には「私」にまつわる他者との原初的関係が存在していて、そういったものは私にとって「不透明」な領域にあるから、そして、他者から語り掛けられ、その応答として「私」自身を説明しようとするとき、私は他者や規範から「呼びかけ」られることでそれに応えるような位置に身を置いてしまうからだとバトラーは指摘します。その上で彼女が問いかけることは、こうした自分自身を説明することの不可能性、あるいは「主体」の不透明性は、他者との関係、あるいは倫理的な取持ちを不可能にしてしまう「失敗」なのだろうか、ということです。その後、彼女は私と他者との(原初的)関係について考察を進めるためにレヴィナスやラプランシュの議論を検討します。両者において、主体形成は他者への受動性を前提としています。レヴィナスにおいては「迫害」、ラプランシュにおいては「謎のシニフィアン」、これらが幼児に絶対的外傷を与えるということでしょうか。いずれにせよ、主体形成においては、〈他者〉が存在しなければならない。それだけではなく、私が自分自身を説明するとき、そこには語りかける対象―すなわち「あなた」―が存在しなければならない。したがって、

語ることはある行為を演じることであって、その行為とは、〈他者〉を前提とし、他者を措定し、練り上げ、どんな情報を与えるよりも前に他者へと、あるいは他者のおかげで与えられる。したがって、もし最初の時点で…私はあなたへの呼びかけにおいてしか存在しないとすれば、私そのものである「私」はこの「あなた」なしでは何者でもなく、他者への関係の外側では、自分自身への言及すら始めることすらできないことになる。(pp.148 強調部は原文では傍点)
他者からも、規範からも「私」自身を完全に語ることが制約される、そういったことでは全くない。そもそも私が(自分自身を含めた)何かを語る際には、そして私自身があるためにはそれらの中に身を置き、関係を取り持つことが必要とされる。それは主体が自在に語ることを不可能にするものかもしれないし、私が語ることを制約するかもしれない。けれども、それを決定するわけではない。両者の間にはやはり隔たりがあって、その隔たりのなかで―そして他者との関わりを前提としつつ―、自分自身を語ること、あるいは語るべきものとして自分自身を作り直すこと(それは文字通り反省的/再帰的なreflexive過程だ)それこそが彼女の主張する倫理なのだろう。

この読みがどこまで適切なものか、自信がもてないところではありますが。カヴァレロ、ラプランシュ…気になります。特にカヴァレロ。邦訳はないようですが、これは面白そうだと。本書で引用されたのはRelating Narrativesという著作のようですが、気が向いたら読んでみたいものです。




2009年4月30日木曜日

イタロ・カルヴィーノ 『見えない都市』

現代イタリア文学を代表し、今も世界的に注目され続けるカルヴィーノの名作。ヴェネツィア生まれの商人の息子マルコ・ポーロがフビライ汗の寵臣となって、さまざまな空想都市の奇妙で不思議な報告を行なう。七十の丸屋根が輝くおとぎ話の世界そのままの都や、オアシスの都市、現代の巨大都市を思わせる連続都市、無形都市など、どこにもない国を描く幻想小説。

マルコ・ポーロとフビライ汗の間で交わされる、都市を巡る55の物語。マルコの寓話的かつ幻想的な語らいに、時に没入し時に突き放される。そんな経験を繰り返しながら気づいたら読み終えていました。確かに奇妙な小説です。その幾何学的な構成にしても、登場する都市にしても。アルミニウムの屋根や蒸気船や、挙句の果てには空港まで登場するわけですから。「都市」なるものが何なのか、私たちの多くが住まうこの都市とは何なのか。グローバル・シティの画一性について思いを馳せているわけではありませんが、そんなことを思ったりしました。
この小説の面白さ、それは都市を語りながら、現実/幻想、生/死、存在/不在、記憶/忘却などの図式を解体していく語りそのものにあるのではないでしょうか。マルコがある都市を旅行し、それを報告をフビライに報告するというスタイルは、報告が進んでいくに連れて解体していきます。つまり、報告そのものによってその様態が掘り崩されている、けれども表面的には最後までそうしたスタイルで物語が進み続ける。これは一体何なんだろう、と。マルコが述べているのは、彼の幻想の中で練り上げられた都市の報告です。あるいはその幻想のなかには彼だけでなくフビライもともにあるのかもしれませんが。彼は現実に旅行し、現実の都市を報告しているわけではない。自明なことですがこれがこの小説の前提です。いうなれば彼は「幻想」を旅行し、それを報告している。あるいはヴェネツィアについて言及する箇所で触れられるように、その「幻想」は自律したものではなくて、彼自身の記憶にも根ざしている。更に言えば、フビライのアトラスには今日の都市の様子すら描かれているように、あるいはマルコの語らいで飛行機などが登場するようにそれは未来をも含んでいる。不思議としかいいようのない話ですが。そうした全てをひっくるめた「幻想」をマルコは旅し、それを報告するわけです。しかし、55の都市を幻想のなかから引っ張り出してくるのは簡単な作業ではない。読み進めていくにつれて、マルコは55の都市の有様を語っているようで、実は「1つの都市」を様々な観点から観察し、そのディテールを誇張して報告しているのではないか、とか思ったりもしました。そうした「1つの都市」(大文字の都市といってもいいですが)に含まれる多様な側面、特異点、そこにズームアップし誇張することで都市を想像する。あるいは都市そのものが「生き物」のように変化し続けることを考えればその進化の可能性の「種」を見出し、それを発芽させることで物語る。そういうこととしても理解できるのかな、と。深読みか誤読か、恐らく後者でしょうけど。

しかし、まぁ面白いですよね。読んでいて思わず線を引きたくなるような一文があったりして。こういう本ってずっと手元に置いていたいなぁと思います。


2009年4月29日水曜日

平井玄 『千のムジカ』

ドゥルーズとオーネット・コールマンのリトルネロ、サイード/バレンボイムの企て、ジョン・ゾーンの棘、マイルス・デイヴィスとガーヴェイ主義、パレスチナのクレズマー、セックス・ピストルズの空虚、そしてコザ暴動に響く島唄とロック・・・・・・。剥き出しになった資本主義の軋轢を、街頭に飛び散る抗争の唸りとして聴きとるために。大きく転回した時代に立ち向かう新たな音楽/思想の可能性。

音楽論と思想・哲学の交叉点に関心があったので、かなり面白く読みました。あちこちに掲載した連載や論文を加筆修正してまとめただけあって、かならずしも首尾一貫しているわけではないですが。
音楽自体にさほど精通しているわけではない僕にとってはいい取っ掛かりになったような気がします、最近はベント・エゲルプラダのようなヨーロピアン・ジャズばっかを聴いていた僕にとっては、ジャズというものにもっと向き合ってみようと思わせるのに十分でした。1章で提示される、ウェーバー-アドルノ-サイードとシャトレ-ドゥルーズ-ガタリという2つの音楽を巡る思想家の系譜は、面白いなぁと。いや当たり前っちゃ当たり前なのですが。こういう系譜を想定したときに一番アンビバレントな存在はやはりサイードですよね。少なくとも音楽においては明らかに彼は「西洋」的な人間でしょう。彼のことだから恐らくそんなことは千も承知なのでしょうけれど。音楽については彼は「西洋」の普遍性を信じていたのでしょうか。ある部分ではそうなのかもしれない。けれども、例えば、彼がウェスト・イースタン・ディヴァンのワークショップを開いたとき、ウェスト・ブロンクスの音楽家にコーランの英訳を提供しようとしたとき、そしてドゥルーズの思考に賛意を示したとき、彼はもはやその系譜には留まらない存在であった、そう平井は理解しているように思います。「西洋音楽」が非‐西洋にも開かれたものであること、それは「西洋音楽」の普遍性として捉えるべきではない。むしろ開かれているがゆえにその内部において攪乱され、その多義性―あるいは「普遍」とされるものの内部に孕まれている多数の特異点―を呈することになる。そこから無限の広がりを見せるのだ、そう考えるべきなのだと思います。
ギルロイの『ブラック・アトランティック』においても、本論においてもこうした越境的な音楽の交流というのが重要なポイントとなっています。人が移動するときに音楽は常にともに移動する。録音機器やラジオなどのテクノロジーの発展によって人が移動しなくても、音楽はまさに越境的な広がりを見せていく。思いもよらぬ場所で、思いもよらぬ音楽が登場する。その背景にはそうした越境的な音楽からの影響がある。リゾーム?イメージとしてはそれに近いものを感じる。そうした音楽に対して、「近代(資本主義や合理主義をひっくるめた曖昧な表現として)」はそれを掌握しようとする。パターン化し、類型化し、大量生産し流通経路に乗せ、マーケティング・広告を通じてショー化し、最後にゴミ箱かブックオフへ。しかし音楽はそれに抗い続ける。なぜなら、「近代」が音楽を掌握しようとするとき何かがそこから抜け落ちるから。そしてその「何か」こそ音楽の本質をなしているから。その何かを、「近代」は一番掴みたいのだがそれをすることはできない。掌握された音楽はいわば残余であってどこか「死んでいる」、そういったら言い過ぎだろうか。

じゃあ、と誰かは言うだろう。「生きた」音楽にはどこで出会うことができるんだ?と。資本主義から自律した空間で音楽と出会う?そんな夢みたいなこと本気で言っているの、と。確かにその通りだろう。平井もあとがきで述べている通り、私たちはみな資本主義の奴隷なのだ。そこに構成的外部など見出すべきじゃない。
とりあえずヒットチャートをにぎわす音楽のことは脇に置いておこう。それらの多くはからっぽだから。「近代」によって摘み取られ搾り取られた残滓のようなものだから。けれどもこの世にあるのはそんな音楽ばかりじゃない。それだけで十分じゃないか、と僕なんかは思ってしまいます。
音楽から歴史を、世界を眺めると、それらがこうも異なる様相を見せるのか、と。面白いですね。

ちなみに参考文献・ディスクには気になる本やディスクが幾つも載っていて、個人的にはいいリストだなぁと思いました。


2009年4月26日日曜日

古川日出男 『ルート350』

知的早熟児たちが集った夏期講習キャンプに現れた「狙撃手」。僕たちは次なるスナイプの現場を押さえるべく監視を始めた―「メロウ」など、現実とレプリカのあわいに立ち上がる圧倒的なストーリー世界が心を捉えて離さない。あらゆるジャンルを超えて疾走する作家が綴った唯一の「ストレートな」短編集。

さてフルカワです。彼の文体は結構好きです。解説で仲俣がフルカワの小説においては、dance, write, fightが特権的な地位を占めているとかいってましたが。間違ってはいないと思う。けどそれは本質じゃないだろう。それじゃあ本質はどこにある?danceとwriteとfightに通底するもの、それはリズムだ。フルカワの作品において決定的に大事なもの、それはリズムだろう。
彼の作品にはリズムがある。文体上の反復や短い一文にも、あるいは登場人物にも、起こる(あるいは起こらない)出来事にもそれはある。時としてそれは音楽に近い(本短編集でも音楽についての記述は随所に見られる。)たとえば、リバティーンズ。彼の作品は彼らの音楽に似ている。カールとピートの競い合い絡み合うようなヴォーカル。破綻寸前のところで絶妙なバランスを生み出す所。何より切り裂くようなリフ。そう、それはリズムというよりもリフに近い。これを持っている作家はそう多くないんじゃないだろうか。
それに付け加えるならば、「(恋愛に限定されない)愛/近接性(距離の近さ)」と「現実/レプリカ」といったところですかね。
「現実」に対して虚構でも幻想でも観念でもなくレプリカを対概念としてもって来るあたりが彼らしいのかな。レプリカ、すなわちオリジナルに対する模造、コピー。それではオリジナルとはなんだろう?増殖するレプリカの中で「現実なるもの」が次第に消尽していく。そんな中で「現実」はオリジナルはどこにある?「お前のことは忘れていないよバッハ」では「保護区(それは文字通りバカみたいな出来事から彼女たち自身の「現実」を守るためのものだ)」とバッハを介した3人の少女の友情が、「カノン」では男の子と女の子との愛が、「飲み物はいるかい」では僕とナカムラの語らいがそれにあたる。だから彼は「愛/近接性」のすばらしさを高らかに歌い上げるのだろう。誰かが言っていた(あるいはブログか何かに書いてあったのか?)、「旅は距離を縮めるためのものだ」と。誰かとの距離、「現実世界」との距離、それを縮めるために私たちは旅をするのだと。「ルート350」はまさにそのことをそのまま描いた短編だ。
これ以上この短編集について僕が言えることはない。こいつはホンモノだ、『聖家族』を読んだときにそう感じたけれども、やっぱりそれは間違ってなかった。


小森陽一・市野川容孝編 『思考のフロンティア 壊れゆく世界と時代の課題』

世界が大きく揺れ動き,時代は未曾有の転換点を迎えている──こうした言葉がレトリックではなく,実感として私たちに迫りくる現在,思考の向かうべき課題 とはなにか.姜尚中,高橋哲哉,杉田敦をはじめとする「思考のフロンティア」の編集協力者たちが再結集し,危機的状況からの突破口をさぐる.五つのテーマ をめぐって展開される白熱の討論.

きっと辛口の研究者や批評家ならば、予定調和のぬるい対談と切って捨てることでしょう、僕にはそこまでする勇気も知性もありませんが。もちろん読んでいて「やれやれ」と思ったことは幾度となくありました。1章の姜尚中の語らいには辟易しましたし、読むのをやめようかとすら思いました。けれども、それ以降の3章、4章はわりかし面白かったです。5章もそれなりに。

もう少し具体的な話に入ることにしましょう。
まず、「1章 アジア/日本を貫く<近代>批判のために」について。全く面白くなかったです。新しい話がひたすら出ず、どっかで聴いたことがあるような話を延々と繰り返しているだけ。これだけ大層な肩書きをもった学者さんたちが集まって、こんなお話しか出来ないのだから、確かに問題は深刻ですね。しかし、日本と「アジア」を考えるときに、アメリカについてここまで言及のない議論も珍しい。酒井直樹の「日本/映像/アメリカ」、「希望の憲法」などの研究と比較するとあまりに議論が稚拙な印象をうけました。これが姜尚中や小森陽一(彼には1~5章全ての対談でがっかりさせられました)ら、この手の研究を専門としているはずの研究者の議論なのかと。
第2章については全く印象が頭に残っていないため、割愛します。まぁその程度の議論だったってことでしょう。
第3章は一転、上野成利の基調講演から対談までとても興味深い(小森は除く)ものでした。上野、杉田両氏はさすがに頭が切れるなぁと感心しました。主権/権力の問題、あるいは暴力や生政治の問題について、今日の諸問題と絡めつつ面白い議論を展開していた印象です。彼らには明確な視座を感じます。ヴィヴィオルカが言及されていましたが、彼の議論も気になるところです。読んでみたい。
第4章もよかったですね。精神分析を切り口にしながら、そこにおける正義の不在を指摘する。その上で「正義」なるもの、さらには「人間性(あるいは人間の領域)」とは何か、という問いを改めて投げてみる。竹内の指摘した言語の行為遂行性のもつ可能性と、そこに安易に希望を見出してしまうことへの懸念というアンビバレントな評価は分かる気がします。ハーバーマス的な公共圏にも希望を見出すこともできず(彼はまさしく「近代西洋」的な合理的諸個人を前提としているわけですから)、そのオルタナティヴも見出すことが出来ない、そんな情況の中で、それでももがき格闘し続けるのが現代を生きる研究者の使命だと彼女は主張していたのだと思います。
そんなことに真っ向から反発するのが、第5章の金子勝でしょう。彼は、青臭いほどそうした研究者の姿勢に反発します。市野川が途中で本気になっているのが活字からも読み取れて面白かったですが(総じてこういった対談はお互いが気持ちよく終われる様、ぬるい感じで進むものですが。) 基調講演はわりと面白かったかな。もう少しアレントについて勉強しなければなんともいえませんが。

こんな印象です。膨大な脚注があるので(編集者の方はさぞかし大変だったことでしょう)、これだけでも役に立つことがある「かも」しれません。色々な事について考えるいいとっかかりになる「かも」しれません。ちょっと辛口だったかもしれないと、書き終えた後で少し反省しています。


2009年4月23日木曜日

フアン・ルルフォ 『ペドロ・パラモ』

ペドロ・パラモという名の,顔も知らぬ父親を探して「おれ」はコマラに辿りつく.しかしそこは,ひそかなささめきに包まれた死者ばかりの町だった…….生者と死者が混交し,現在と過去が交錯する前衛的な手法によって紛れもないメキシコの現実を描き出し,ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなった古典的名作

読むことの楽しさ、ただ受身になって字面を追うだけでなく、こちらから想像力を膨らませて読む楽しさをひさびさに味わわせてもらいました。ここまで切り詰めた構成にこれほどの内容を詰め込むことができるものなんですね。一読じゃ終わらせない、繰り返し読むに値する小説ですね。『燃える平原』という短編集とこの小説のみという非常に寡作な作家ですが、それだけに完成度が高い。
この小説は全てが「語り」なんですね。そして読み進めていくと、突然に語り手が変わる。それが誰なのかも明示されないことが多い。明示はされないのだけれども、それが誰なのかは必ずわかるようになっている。

この小説には3つの世界がある、そう言えるかもしれません。一つは現在の荒涼としたコマラの廃墟①、もう一つは死者の語らいによって明かされるペドロ・パラモの地主時代の「黄色く酸っぱい」コマラ②、そしてペドロ・パラモや母の語りの中のみに登場する豊饒で緑溢れるコマラ③。このうち、②が主要な舞台となるので、こういった区分はあまり生産的ではないかもしれません。そしてこの3つのコマラ、それは時間的には切断されている印象を与えてしまうけれども、この小説では全てが混淆しています。①における死者の語らいの中で、②や③は存在するし、②の独白の中で③は想起されるわけですし。更にこの小説では、生/死、現実/幻想という二項対立図式は崩壊しており、全てが入り混じっているわけですから、より一層混沌とした世界ですよね。これをまとめ上げたルルフォの筆力には圧倒されます。

総じて、非常にドライな文体だな、と思いました。それゆえ、③のコマラにまつわる語り、とりわけペドロ・パラモのスサナに対する叙情豊かな愛の語らいがとても心に残ります。
登場人物の死生観、宗教観などには困惑を感じる事もありますが、それは当たり前のことでしょう。カトリシズムとこうした死生観やたびたび登場する近親相姦の問題をどう折り合わせて理解できるのか。そうしたものも含めて、面白かったです。
解説で触れられているように、本小説には多様な解釈が可能だと思います。とりわけ、杉山が指摘する次の部分、

「ロバ追いアブンディオの役割が一番大きく、…末尾ではその代理として父親(自分の父親でもある)ペドロ・パラモを殺すのだ」(強調は引用者)

その代理とは、つまり「おれ」であるフアン・プレシアドだ。つまり、杉山はフアン・プレシアドに代わって、アブンディオがペドロ・パラモを殺したのだと理解している。プレシアドは母に代わってペドロ・パラモに会いに行くが、彼の死によってそれは果たすことができなかった。しかし、彼自身が①のコマラで死ぬことによって(あるいはこの街に着くまえから彼は死んでいたのかもしれない)、死者の語らいに耳を傾け、②の世界に触れる。彼の思い(それはそもそも母の思いが転移したものなのだが)がアブンディオに転移し、アブンディオは混沌とした意識の中でアブンディオを殺したのだ、そう解釈しているように思える。この錯綜する転移は、ペドロ・パラモの死の場面のみに生じるものであるだけでなく本小説に通底した点のように感じられる。死者の間で生じるリゾーム状の転移関係。これは面白いですね。

何よりも本小説は「語り」です。「語り」とは常に真実であるわけではない。客観的出来事を述したいのならば、わざわざ「語り手」などをおく必要はない。語り手を置く事によって、彼から観た世界、彼が(時に恣意的に)解釈した世界を提示できる。本小説のように複数の語りによって構成されているならば、そこには複数の出来事があり、世界が、そして解釈がある。どれが本当かどれが嘘か、あるいはどっちも本当でどっちも嘘なのか、そんなことに頭を悩ます必要はないだろうけれども。
少なくとも大切に読み返したい小説である事は間違いないでしょう。


酒井直樹 『希望と憲法―日本国憲法の発話主体と応答』

『死産される日本語・日本人』と『日本思想という問題』で新鮮なデビューをしたコーネル大学教授・酒井直樹氏による日本国憲法論。戦後日本で形成されてく る集団的感傷としての国民主義の限界を分析し、多義的な日本国憲法を応答可能性=普遍性として未来へ開く、壮大な投企。日本国憲法の成立をめぐる時代背景 の分析は、新しい歴史の大きな語りという可能性を示唆する。

この本、実によいです。
「残余」の視座から歴史を紡ぐこと、本書はその一つの試みだと酒井は言います。「残余the Rest」とはなにか?一つは、非‐西洋としての「残余」、つまりthe Westと対に置かれてきたthe Restの位置から歴史を紡ぐこと、それは彼が長年行ってきたDislocation of the West(『西洋の脱臼』、『西洋の脱地図化』)の試みでもあります。そしてもう一つの「残余」とは主権国家の管轄外(例外状態という言葉がこの場合は適切なのかどうかはわかりませんが)に置かれてきた人々のことです。つまり「残余」の視座から歴史を語ることとは、非対称な権力関係において客体化されてきた「残余」に注目し、その位置から、マスター・ナラティヴとは異なる歴史を語ること、そうした位置からこれまでの「歴史」を問い直し、ある意味では書き換えることによってナショナル・ヒストリーそれ自体を解体させる意図が見て取れます。
私見ですが、酒井が「残余」という言葉に拘るのは、単にその暴力性を批判するためではなく、おそらくその言葉によってある基準によって選び取られた人々以外の存在がすべて一緒くたに括られるからでしょう。「残余」には雑多な全てが抛りこまれます。したがってそれは単一ではありえず、常に重層的・多義的なものを孕んでいるわけです。その「残余」のなかにある無数の線、それは「残余」の世界を飛び出し、(奇妙な言い回しですが)「非‐残余」へと放射されます。「残余」に注目することでこうした無数の線の存在、それにあらゆる人が隔てられているということに改めて目が向けられることになるでしょう。

なにより本書の最大の意義は、帝国的国民主義や体制翼賛型少数者といった独特の用語を切り口として、第2次世界大戦後(あるいはそれ以前も含めた「近代」)の日本とアメリカ(西洋)の関係における国民主義の共犯性を明らかにした点でしょう。ウェストファリア条約以降の「国際社会」なるものは結局のところ西洋諸国のみが参与できる枠組みに過ぎず、その「残余」はそこから排除され続けた。そこに日本という非‐西洋とも見える国家が参与していく。その際に国際連盟に日本が提出した「人種平等」条項の追加案は西洋諸国に大きな影響を与えることになる。そこにはたとえば日本人とアメリカの黒人が西洋に対して共闘する可能性が秘められていた(現にデュボイスらはこの日本の姿勢に協調のメッセージを送るわけですが)わけです。けれども実際には日本は西洋に対峙するポーズを示しておきながら、実際にはアジア諸国の人々や国内のアイヌ人や沖縄人らに対して人種差別的な姿勢を強化していた。つまり、日本は西洋に対峙するというよりも、彼らの一員に加わろうとしていただけでした。その後、日本の敗戦後、アメリカによる占領が始まり、これ以降日本は「新たな植民地主義」下に置かれることとなります。植民地主義下の政策について先ず押さえなければならないのは、そこで行使される暴力がなければないほどそれは統治が有効に機能しているということです。被植民者が自らが統治されているとは気づかないほどにその統治が成功しているケース、それは戦後日本以外にありえないのではないでしょうか。本書に付されているライシャワーの覚書、彼は1942年の時点で日本の敗戦後の統治の有り様について極めて重要な点を幾つも指摘しています。まず、日本にはドイツのナチ党及びヒトラー、イタリアのファシスト党及びムッソリーニのように、「都合のよい」スケープ・ゴートが存在しないこと、それゆえ日本を統治するためには(それはアジアにおけるアメリカの存在を確固たるものにするには不可欠なものでした)、極めて周到に用意された「思想戦」を展開する必要があることを指摘します。その上で日本がアジアで統治を行うために設けた傀儡政権のコマ不足を指摘する一方、日本を傀儡政権によって統治する際には最良の傀儡が存在していることに注意を促します、その存在とはつまり、天皇です。つまり、日本の戦後統治において天皇が必要なことは当初から認知されており、彼の戦争責任なるものは最初から不問に付すことはアメリカにとっては戦中から決定事項だったわけです。つまり戦後日本の国民主義化を推進することは、そうしたアメリカによる間接統治にとってはより都合がいいということになります。かくして、日本の保守たちは、民族主義に訴えながら、同時にアメリカの支配による恩恵を蒙ってきたことになる。ここに帝国的国民主義の共犯性が見出されることになる。こうした共犯性を孕んだ国民主義の代表人物として、酒井は江藤淳を取り上げます。江藤に対する酒井の分析は実に見事なもので、非常に読み応えがあります。
自衛隊についても酒井は極めて興味深い指摘をしています。つまり、朝鮮戦争勃発時にGHQの命によって警察予備隊が設立されたわけですが、その当初の目的は「国内の治安維持」でした。つまり、国民を保護するというよりも、敵対的な日本人に銃を向けることを想定して設置された部隊なんですね。だれがその相手を決めるのか。勿論アメリカでしかないわけです。はっきりいって自衛隊はアメリカの軍隊なんですね。近年の自衛隊についてのもめごとをこうした文脈においてみると、更に保守を自認する国民主義者とアメリカの共犯性にも目を向けたとき、その事態は今日でも変わっていないことがはっきりと見て取れるわけです。例えば4月25日付けのこのニュース。細かい解説は必要ないですよね。


安倍元首相「集団的自衛権、解釈変更をマニフェストに」

 安倍元首相は25日、愛知県瀬戸市での講演で「集団的自衛権の行使を含めた(憲法)解釈の変更を、私たちのマニフェストに入れて選挙に臨むべきだ」と述べ、行使を禁じた政府の憲法解釈の見直しを自民党の選挙公約に掲げ、総選挙の争点にする必要があるとの考えを示した。

 安倍氏は、北朝鮮が米国に向けて撃った弾道ミサイルに対し、日本が現在の憲法解釈に従って迎撃しなかった場合には「その瞬間に日米同盟は終わりだ」と強調。「解釈を変えていくことによって日本はより安全になる」とし、集団的自衛権をめぐる解釈変更が必要だと主張した。

(朝日新聞2009年4月25日21時9分)

 http://www.asahi.com/politics/update/0425/TKY200904250168.htmlより引用



2009年4月21日火曜日

フリートマル・アーペル 『天への憧れ―ロマン主義、クレー、リルケ、ベンヤミンにおける天使』

本来不可視である天使が形象化されるのはなぜか。啓蒙主義による理性の強制に対する反抗の形象として出発し、近代から現代にかけて次第に世俗化する天使シンボリズムの文脈の中で、ロマン主義による天使描写の意味を探るとともに、リルケ、クレー、ベンヤミンにおける実存的な天使を論じ、神の死が喧伝される現代において〈天への憧れ〉はいかに変容したかを問う。〔美学・文学・芸術〕

ウニベルシタスらしく、非常にマニアックかつ晦渋な本でした。タイトルを見ててっきりロマン主義における天使から20世紀以降の天使への変遷やその比較を論じた本なのかなぁと思って読んだのですが、少し違います。明確にすべきだとは思うのですが本書の主眼はロマン主義です。クレーやリルケ、ベンヤミンについての言及はそれぞれ1章、10ページほどに過ぎません。

ロマン主義絵画についての記述(先も言ったとおりこれがほとんどの比重を占めているのですが)は、個人的にはとても勉強になりました。初期ロマン派からいわゆるナザレ派までの移り変わりを代表的な人物と彼らの作品を取り上げながら(分かりやすいとはいえませんが)丁寧に紹介しています。僕にとってこのあたりは未知の領域に近いものがあったのでとても面白く読みました。

天使と描くということがロマン主義にとってどのような意味を持っていたのか、これを啓蒙主義、合理主義との係わり合いの中に見出していく点に本書の重要なポイントがあります。啓蒙主義とそれと必然的に結びつく新古典主義(当時のフランスとドイツの関係を想起する必要もあります)への反発、不可視なものの形象化としての天使。誰が見てもそう見えるものを描くのではなく、私にとってそう見えるものを描く姿勢、これは後に印象派にも大きな影響を与えます。そしてそれだけでなく、見えないものを描き出すことに芸術を見出す姿勢。ロマン主義は自然、女性、天使に強い憧れを見出します。なぜロマン主義やラファエル前派において、女性が多く描かれるのか。それは結局のところ女性が啓蒙主義的男性の対になる存在として、つまり非理性的存在として当時理解されていたために他ならないのでしょう。本書でブレッヒェンの『スビアコ近郊のサンタ・スコラスティア修道院』が取り上げられていますが、まさにこの作品では自然と女性が結び付られています。しかしこの作品の魅力はそれにとどまりません。アルカディアへの到達不可能性、天への憧れとその不可能性がこの作品には同時に描きこまれています。天は見える、しかし私たちはそこに行き着くことはできない。アーペルがロマン主義における天使と、20世紀における天使の結節点としてブレッヒェンを置いたのはまさしくこのことゆえなのだと思います。私たちは天に憧れる、しかしそこに行き着くことができない。天使は私たちをどこにも連れて行ってはくれない。それでも天使を信じること。あるいは信じることによってしか存在しえない天使。これが20世紀における天使の姿なのだということでしょうか。

今日、天使はあらゆるところに存在している。ポスターに貼り付けられ、あるいはアニメに描きこまれたものとして。彼らは動くことができず、天に帰ることもできない。何も表象しない空虚な存在でしかない。無数に存在はしているものの、何の意味ももたず、誰もそれを信じてはいない。アーペルも言うとおり、「いまや翼は、バットマン・コレクションの玩具に過ぎない。帰り道は閉ざされている」のだろう。天使もまた死んでしまったのかもしれない。

最後に。本書は林捷さんの解説がとてもいいです。これだけでも一読の価値ありかな、と。

2009年4月20日月曜日

ジョン・トーピー 『パスポートの発明―監視・シティズンシップ・国家』

フランス革命以後、国家が国民の移動手段を合法的かつ独占的に掌握するのに決定的な役割を果たしたのがパスポートであった。本書は、近代以降のヨーロッパ各国およびアメリカの事例を具体的にあげながら、地方自治体や封建領主等から国家へと、合法的な移動手段が奪い取られていくプロセスを描き出し、パスポート制度という国際的なシステムの確立とその現代的な意味を問う。〔歴史社会学・ディアスポラ研究〕

邦訳を長らく待っていた本。最初と終わりだけオリジナルで読んでぜひ通して読みたいなぁと思っていたところ、邦訳が無事出版されたようで。
この本の意義はトーピー自身が整理しているように3つにまとめられます。
①近代世界発達の過程を、国家(系)が個人や私的な団体から「合法的な移動手段の排他的な独占」の過程として捉えること
②近代国家の発展の過程を、それまで支配的だった「国家が市民社会に浸透する」というメタファーではなく、「国家が市民社会を掌握する」というメタファーを通じて理解すること
③国民国家によってパスポート制度が発達したのではなく、パスポート制度の発達自体が国民国家やその諸制度の確立過程に決定的に作用していること

①について、マルクスが資本主義の発展過程を、資本家が労働者から「生産手段」を収奪する過程として捉えたように、更にはウェーバーが近代の特徴を国家が個人から「暴力手段」を収奪したことに見出したように、トーピーはこの点に第三の「収奪」を見出しています。その表れとして彼はパスポートに注目するわけです。このような視点に立てば、従来の移民研究の問題点は明らかになります。つまり、「移民政策の研究は、国家の役割を無視するというよりも、むしろ国家を所与のものとみなしたために、移住の規制によって、国家の『国家であるゆえん』がいかにして生み出されてきたのかを理解できなかった」(pp.10)わけです。このような視座は、例えばアーリが『社会を超える社会学』で移動から社会を捉えなおすことで社会学を再考しようとするような、新しい社会学の潮流といえるものでしょう。国家や社会を所与のものとするのではなく、移動を所与のものとするとき、社会学は全く新しい様相を呈することになります。例えば、「彼らはなぜ移動するのか」ではなく「私たちはなぜ移動しないのか」というように。
②その上で、彼は近代国家成立の過程を「浸透」ではなく「掌握」という言葉で捉えようとします。「浸透」というメタファーで国家の発展過程を捉えてしまうことには確かに幾つもの問題点が存在します。まず、それは不可逆的であり、一方的な流れとして捉えられてしまう。次いで、あたかも「自然」なものとして捉えられてしまう、つまり胡瓜を塩水に浸したら胡瓜は必ず萎びてしまうようにそれは当然のことのようにされてしまう。そしてなによりも、市民社会がどのように国家に対峙しようとしたか、そしてその抗いを国家はいかに押さえつけていったのかを描き出すことができない。それゆえ、彼がここで「掌握」というメタファーを提出したのは極めて妥当なように思われます。
③パスポート制度が今日のような形で成立するようになったのはごく最近のことに過ぎず、当初から明確にこの多様な側面を持つパスポート制度が存在していたわけではないということ。折々の時代状況や地理的・歴史的背景の作用を受けながら、パスポート制度はまったく一貫性を持たずに(あるとすれば、望ましくない誰かを排除するという点でしょうか。ただ、これさえもトーピーが言うとおり、パスポートの一側面に過ぎないわけですが)存在してきました。国民国家が明確に存在しており、その上で「望ましい人々」と「望ましくない人々」がパスポートによって規定されるというのは、本書を一読すれば全くの幻想であることが明らかになります。国民国家形成にパスポート制度が決定的に作用しているというトーピーの指摘は、一つの論点になるでしょう。

本書はパスポート制度の変遷を辿りながら、国家が市民を掌握する過程を描いていきます。その過程に興味がないのならば、2章から4章は飛ばしてしまってもかまわないのかもしれません。序章と5章、結論だけでも彼の論点は十分に理解できると思います。ただ、2章から4章は面白いですよ。パスポート制度自体が当時の様々な事情と係わり合いながら、時に強化され、時に廃止されながらも次第に今日の形態に近づいていく有り様を克明に描写しています。
もちろん本書は、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカなど一部の地域を扱ったものに過ぎません。おそらく「第三世界」諸国においては全く異なった問題を取り出すことができるでしょう。更に言えば、トーピー自身は植民地体制にさほどの関心がないように見られます。宗主国と植民地の関係にパスポートはどのように作用していたのか、というのも興味深いテーマなのではないかと感じましたが。とはいえなかなかの良書でした。




Chim↑Pom・阿部謙一編 『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』

昨秋の「ピカッ」騒動をあらためて検証し、美術関係者やジャーナリスト、被爆者団体などが、ChimPomへの批判を含め、さまざまな視点から考察する。「ヒロシマ(原爆、平和)」「美術と行政、市民」「表現の自由」など、美術の問題にとどまらない社会的命題に多角的に迫る1冊。筆者・話者は、ChimPom、被爆者団体の方々など、約20名。

昨年10月、Chim↑Pomというアート集団が広島の空に「ピカッ」の3文字を飛行機雲で書くという、いわゆるスカイ・ライティングを行った。それに対して、マスコミは大々的なバッシングを行い、彼らは謝罪することを余儀なくされた。その報道に触れたとき、私が思ったことは、まさにこのタイトルそのままの疑問だった。

「なぜ広島の空に『ピカッ』という3文字を書いたことがそこまで問題になるのだろう?」
「このバッシングが意味しているものは何なんだろうか?」

他の誰もそのことを表立って取り上げることなく、この行為はバッシング→忘却というお決まりのルートを辿っていく。そんななか、彼らはこの疑問と向き合い続け、それを1冊の本にまとめた。それは本来ならば彼らの仕事ではないだろう。彼らは、「これは面白そうだ」とか「こんなことやってみたらすごいことが起こるんじゃないか」とか、直観で何かを捉え、表現する。そこには論理的整合性など必要ない。私たちやあるいは研究者たちがそれを理論的に捉え、語ろうとするよりも彼らはより核心に近づくことさえできる。説明することは、本来であれば他の誰かにまかせればいい。それは彼らの仕事ではない。けれども誰もそれをしようとしなかった。だから彼らはそれをした。

彼らの行為/作品は面白い。アカデミックな美術教育を受けたわけでもない彼らが、アートを志向し、同時に社会的論題を扱っていることにその魅力の一つを見出せるかもしれない。社会問題などに興味を持ちそうにない人たちがアートを通して雄弁に物語る。そのアート自体ももちろん面白い。しかし語るはずのないものがそのことについて語る―しかも雄弁に―、そこにはランシエールが政治的なものの起源として位置づけたような「間違い」がある。しかも彼らは、「かくあるべき」と押し付けてくる権力に従順であるわけでも、それに反逆しているわけでもない。彼らは奴隷でも闘士でもないのだ。彼らはただそれをからかい、皮肉り、面白がる。そのことによって、支配的ヘゲモニーはある意味で無力化(というよりも脱力化)させられるのかもしれない。

さて、「ピカッ」に戻ろう。
写真を見れば分かるのだが、この「ピカッ」はどこかしら間が抜けている。そこからは原爆の激しさ(そもそもそんなものは表象不可能だろうが)や暴力性を微塵も感じ取ることができない。おそらく動画だとよりはっきりするだろう。飛行機がぐるぐる旋回し1画1画描いていく様。それはどっちかというと滑稽な印象すら受ける。それがどれほど人を傷つける力を持つのか、正直疑問に感じてしまう。この行為自体が、とても「戦後平和」的なのかもしれない。リーダーが言っているとおり、彼らは戦後の「平和」を撃ちたかったのだろう。だからこんな手法を取ったのだ。表象不可能なほど暴力的なものを漫画的な効果音で表現する。暴力の存在を忘却・隠蔽することによって成り立ってきた戦後平和なるもの。彼らはそれを攻撃したかったのかもしれない。そのことは原爆被害者の会との対話のなかでも明らかにされていく。マスコミが散々遺族の感情云々言っていたのに、彼らと被害者の会のメンバーの間には同志愛に近い感情さえ生まれている。両者はともに忘却・隠蔽というもう一つの暴力に立ち向かう同志なのかもしれない。記憶を語り継ぐこと。原爆の表象不可能性を考えれば考えるほど、そんなことはできないように思える。とりわけそうした出来事を隠蔽し無力化しようとする力が働いていれば働いているほど。戦後の平和なるものは、日本とアメリカの、相互に依存しあう翼賛的な国民主義、畸形の植民地主義の言い換えに他ならない。その中で原爆の経験は、一方ではシンボルとして無毒化され、他方では忘却されていく。原爆ドームは観光地なのだろう。それに抗うこと。

話は変わるが、蔡國強の作品との比較(+彼へのわずかなインタビュー)も面白かった。
蔡國強のエキシビジョンをニューヨークのグッゲンハイムで観たことがある。そのときの印象は、まず彼は極めて戦略的なポスト・コロニアル・アーティストではないか、ということ。極めて「中国的」な象徴物を彼は作品に多く導入する、西洋人を「喜ばせてあげる」ようなモチーフを。「正統的」美術は西洋のものであり、西洋人のものだ。評価するのは西洋人であり、国際的な名声を上げたいのならば、彼らを喜ばせるようなモチーフを扱うのが有効だ。おそらく蔡は自覚的にそれを行ってきた(これが村上との違いなのだろうか?僕にはわからないけれども)。彼が爆薬によって作った作品は水墨画を思わせるし、爆竹自体、極めて中国的(もちろん本来は中国の一部地域に過ぎないだろうが)な素材だといえる。そのとき蔡自身に、僕はのイメージを重ね合わせていた。火薬/花火の両義性、それは一方では祝祭、歓喜の象徴であり、他方では戦争、暴力の象徴であることに見出せる。どちらも「爆発」を経由して、対照的なものを表現する。作品に火薬を持ち込むことは、必然的にその作品自体にその両義性を孕ませることになる。つまり、その作品において、祝祭・歓喜と戦争・暴力は1枚のコインの表裏のようにどちらかだけを取り外すことはできない。ただ、歓喜を提示しているように見えても、あるいは暴力を提示しているように見えても、そこにはつねにその反対の意味が含まれてしまう。蔡が火薬を作品に用い続けるのは、そういった両義性を踏まえてのことなのではないか、と僕は思っている。
その上で彼がChim↑Pomの数日後に行ったアートを考えてみると、僕は困惑を禁じえない。広島は祝祭(カーニバル)の場になってしまったのだろうか。

ちょっとこれ以上は考えが進みそうにありません。この本自体はかなり読み応えのある論考もあったりしてなかなか面白いのではないでしょうか。



2009年4月19日日曜日

舞城王太郎 『山ん中の獅見朋成雄』

中学生の獅見朋成雄はオリンピックを目指せるほどの駿足だった。だが、肩から背中にかけて鬣のような毛が生えていた成雄は世間の注目を嫌い、より人間的であることを目指して一人の書家に弟子入りする。人里離れた山奥で連日墨を磨き続けるうちに、次第に日常を逸脱していく、成雄の青春、ライドオン!

さて、舞城です。彼はいわゆるストーリーテラーではないでしょう。寧ろストーリーを半ば破綻させかけながらも、そんなことは気にせず疾走し続ける、そういったところに彼の特色があるような印象を受けます。奇抜性や疾走感でごまかしているだけじゃないか、という批判もありそうですが。
枠組みとしてはこの小説は(かなり逸脱した)ビルドゥングスロマンなんでしょうか。

気になるキーワードはあるんですよね、人間性やらカニバリズムやらトンネルやら。ただそういったキーワードを軸にしてこの小説を考えてみようという気にはならないんですよね。別に舞城に限ったことではないですが、読んでいて確かに面白い、そして一気に読める(この小説の場合読みきるのに2時間もかからないでしょう)、けれども何も残らない。面白かったね、で終わってしまう。これはたぶんに僕の問題でもあるんだとは思いますが。
主人公の変化の契機をどこに見出すべきなのか。鬣が生えた時なのか、トンネルをくぐった時なのか、鬣を失った時なのか、人を殺した時なのか、食べた時なのか。まぁ素直に読めば鬣ということになるんでしょう。獣性の象徴のようで嫌悪し、恥じていた鬣が実は人間性の源泉だったとか。でもそれって設定としては安直じゃないですかね。ファルス的なものの去勢というわけでもなさそうだし。「アイデンティティの喪失」なるものと結び付けようとするのはそれに輪をかけて問題があるような。

繰り返しになりますが、舞城の作品自体は嫌いじゃないんですよ。むしろ好きです。ただ、それについてコメントするとなると、面白いねーとか、疾走感あるねー、とか設定がすごいねーとかゆう当たり障りのないことしか挙げられないだけです。『ディスコ探偵水曜日』は未読なので、これを読んでからもう少し彼の作品について考えてみようかなと。とりあえず保留で。

ポール・トーディ 『イエメンで鮭釣りを』

アルフレッド(フレッド)・ジョーンズ博士は、研究一筋の真面目な学者。水産資源の保護を担当する政府機関、国立水産研究所(NCFE)に勤めている。ある日、イエメン人の富豪シャイフ・ムハンマドから、母国の川に鮭を導入するため力を貸してもらえまいかという依頼がNCFEに届く。
フレッドは、およそ不可能とけんもほろろの返事を出すが、この計画になんと首相官邸が興味を示す。次第にプロジェクトに巻き込まれていくフレッドたちを待ち受けていたものは?
手紙、eメール、日記、新聞・雑誌、議事録、未刊行の自伝などさまざまな文書から、奇想天外な計画の顛末が徐々に明らかにされていく。

なんだか今日はすごく心を萎えさせるような出来事があって非常にげんなりしていたのですが、この小説を読んで少し元気をもらった気がします。白水社のエクス・リブリス、本当にいいシリーズですね。デニス・ジョンソンの『ジーザス・サン』もとても印象に残りましたが、それと打って変わってイエメンのワジに鮭を放流するというぶっ飛んだ設定と、メールやら日記やら議事録やらで構成されたチャプター、そして最後のオチがまたなんとも…。尋問官が何者で、なんでこの小説がこういった様々な文書で構成されているのかは最後で明らかになります、っていっても本当は最初の頁にしっかり書いてあるんですけどね。意外と気に留めずに読み進めてしまうものです。登場人物もまた実にキャラが濃く(戯画的過ぎるほど)、特に自己顕示欲とオリエンタリズム丸出しで雄弁だけど実は無教養なピーター・マクスウェル…この小説で一番気になるやつです。
著者の釣り愛が実によく伝わってくる、いい感じのフィッシング小説(巷で話題のチェス小説よりも面白いかも)です。釣りには哲学と美学があるんですよ。やったことない人にはそれがわからないのです。
待つこと、信じること、それができなきゃ釣りはできません。おじいちゃんが言ってました。

そう、信じること。一番大事なこと。信じることが何かを変える可能性を生み出す。何かが上手く行くと信じること、たとえ今回は上手く行かなくても次は上手く行くと信じること。あるいは誰かを信じること、自分を信じること。「信じる心がなければ希望はない。信じる心がなければ愛はない。」 希望とはより良き生に対する潜在可能性だろう。愛とはより良き生をもたらす他者へのコミットメントだろう。両者の根底に信じることがなければいけないという、このシャイフの言葉は実に含蓄のある言葉だと思います。信じることが希望や愛を経てよりよき生にたどり着く。あるいはより良き生の存在を信じるからこそ、そこに希望があり愛がある。最後にフレッドが引用する「私はそれを信じる、なぜならそれが不可能だからだ」という言葉、不可能に見えるもの(つまり潜在可能性がないように見えるもの)も信じることによってそこに潜在可能性を見出すことができる、不可能を可能へと転換していくことができる。半ば今の自分に言い聞かせているところもありますが、今のところはそう思わせてください。

他のブログを見ていて知ったんですが、この著者の写真を撮っている人物…あのコリン・マクファーソンじゃないですか。最初に気付いた人すごいですね。


2009年4月16日木曜日

アドルフォ・ビオイ=カサーレス 『モレルの発明』

現代アルゼンチンの洗練された小説家にして、あのボルヘスの親密な友人=共作者でもある著者が、SF的冒険推理小説的結構を借りつつ、現実とイマージュ、現実とフィクションとを巡る形而上学的思考を一篇の恋物語のうちに封印した。
ボルヘスに《完璧な小説》と讃えられ、欧米各国語に翻訳されて大きな反響を呼び、またアラン・レネ/ログ=グリエの『去年マリエンバートで』の霊感源ともなった、現代ラテンアメリカ文学の最高傑作のひとつに数え上げられる驚くべき作品。


知り合いにお薦めされて読んだ本。ビオイ=カサーレスはこれまで読んだことがなかったんですけど、確かによかったです。ミステリーの要素もたぶんにあったりして、どんどん読み進めていきたくなる、そんな中でもちょっと考えてしまう部分なんかもあったりして。なによりも、決してフォスティーヌへの思慕とその実現不可能性、それさえも超克し永遠となる彼の恋愛もとても心に残りました。
ボルヘスが何をもって「完璧な小説」と見做したのか、そこまで分析する力は僕にはないですが、確かにこの小説には全てがある、そう強く感じました。
僕は読みながらこの主人公がモレルなのかな、と深読みをしていたのですが、それはあながち間違いではないのかもしれません。主人公はモレルと自己を同一視しているわけですから。非常にこの過程は面白いですね。主人公はフォスティーヌに恋をし、彼女とただならぬ関係にあると推されるモレルに嫉妬を感じ、次いでモレルの思いに応えようとしないフォスティーヌに苛立ちを覚える。その鏡の向こうの世界、純粋なイマージュの世界に主人公はどうしても入っていくことができないゆえに自身の思いをモレルに仮託しようとする。勿論この仮託は十全なものではなくてしばしばモレルに主人公は疑いの眼を向けるわけですが。モレルと主人公はちょうど2つの太陽、2つの月のように同一でありながらもしばしば解離する、そういった存在となっています。その後に主人公はイマージュの世界に没入することで、モレルとは切り離された恋愛―それ自体が主人公自身のナルシスティックな振舞い、自己呈示に他ならないわけですが―を達成することになる。ビオイ=カセーレスはSF的スタイルを借りながら、2つの世界―現実とイマージュの世界―の重なり合いながらも解離する有り様を提示しています。
私たちはそれを見ることができるが、触れることはできない(精確さを期せば、その世界に立ち入り関与することができない)、彼らは我々によって見られていることを知らず、私たちの存在自体を知ることもない。こうした2つの世界の不可能な出会いを主人公は超克していくわけです、ただそれは現実の消滅と同義ではあるのですが。
さて、「鏡」についてです。やはり訳者同様にこれに触れないわけにはいかないでしょう。こうしたイマージュの世界は、私たちの世界を切り取ったものそのものでもあります。しかしその世界は死んでいる。その世界は円環として完結している。こうした私たちの世界を切り取り固定化させたもう一つの世界、それは鏡の世界に他なりません。幼児期にバラバラである身体を縫い合わせ一つの統一体としての「私」を作り上げていく存在、それが「鏡」です。鏡は統一体としての自己を提示します。鏡の向こうの世界にいる「私」は、私を魅惑する。そのようなものとして私は「私」であろうとする。けれどもそれは完全には達成されえない。現実を切り取り固着化させた「私」とは既に死んでいるから。そのような「私」は魅惑と恐怖の対象となる、ちょうど主人公がイマージュを前にした時のように。

そしてどうしても向こうに行きたければ、彼は死ななくてはならない。向こうの世界は不死ではあるが、そこに行き着くためには死ななければならない。そして彼は向こう側に旅立つ、7日間で完結する永遠の世界へ。

読了後、こう思いました。主人公が何の不自然さもなく向こう側の世界に溶け込んでいるのならば、新たにこの島にたどり着き、この虚構の世界を目撃した人はそれに気付くことはなく、彼も最初からこの団体の一員だったのだ、と思うだろうと。それならば、そもそもこの虚構の世界にいたのは誰だったのか。誰があとから参入してきた者なのか、「完璧」に演じられたのならばそれに気付くことはできない。極論を言えば、最初にこの虚構の世界にいた人物はごく少数だったのかもしれない。それが一人、また一人とこの世界に参入していく。現実の世界を捨て、イマージュの世界にのみ生きる人々。主人公の次にこの島にやってきた人も、やがて現実を捨て、このイマージュの世界に加わっていくことだろう。それはあまりにも魅惑的だから。なぜモレルの発明が島外に洩れることがないのかを考えてみるとその恐ろしさがよく分かる気がする。
素敵な小説を教えてくれた知人に感謝です。

2009年4月12日日曜日

ナタリア・ギンズブルグ 『ある家族の会話』

イタリアを代表する女流作家の自伝的小説。舞台は北イタリア、迫りくるファシズムの嵐にほんろうされる、心優しくも知的で自由な雰囲気にあふれた家族の姿 が、末娘の素直な目を通してみずみずしく描かれる。イタリア現代史の最も悲惨で最も魅力的な一時期を乗りこえて生きてきたある家族の物語。

僕がこよなく愛する須賀敦子さんのエッセイはナタリア・ギンズブルグのこの自伝的小説なしには存在し得なかった、そういっても過言ではないだろう。彼女の文体は、ギンズブルグによって育まれた。もちろんそれ以前に彼女が書き溜めていたエッセイにも須賀敦子らしさは随所に見られていてこう言い切ってしまうのは誤りなのかもしれない。けれどもギンズブルグという支柱を得て初めて須賀敦子は滔々と物語り始めた。ギンズブルグのそれが自伝的小説と称されるならば、須賀の作品は限りなくそれに近いエッセイなのだろう。ギンズブルグが自分の半生を、自分の家族の歴史を振り返りながら、あくまでそれを小説として発表したように、須賀は自分の半生を、そして自分の家族、イタリアでの友人などの記憶を辿りながら、エッセイを書き続けた。

池澤夏樹が「考える人」の須賀敦子の特集で書いていたこと―エッセイストと小説家の根源的な相違、須賀自身の小説を書くことに対する躊躇い―は本当なのだろうか。エッセイは現実という支柱に寄り添いながら書くことだが、小説は全くなにもない状態から書くことであり、須賀はこのような「なにもない状態」から物語ることに戸惑いを感じていたのだ、と彼は言う。しかし、周知の通り小説は何もないところから始まるわけではない。小説家が様々な経験をし、色々な人々と出会い、影響を受け、何かについて考えようとする、小説にはそういった前提がある限り、「なにもない状態」はありえない。小説家自身がタブラ・ラーサの状態なら話は別だろうが、仮に彼/彼女がそのような状態にあるとき、小説など書くことはできないだろう。更に言えば、ギンズブルグのこの小説に出会いそれによって自分の文体を練り上げ、ギンズブルグのように自分の半生を書こうとする。その行為が小説の創作に極めて接近することを須賀は自覚していたはずだ。無論、本人が既にこの世にいない以上、これ以上の憶測は無意味だろうが。

この小説の話に戻ろう。この小説はどこまでも暖かい。レーヴィ一家とそれを取り囲む交友関係がナタリア自身の視線を通じて語られる。高圧的な父、マイペースな母、買い物好きで母と仲良しの姉、父のお気に入りの長男、優等生の次男、マイペースで活動的な三男、そして彼らを取り囲む友人、それを捉え続けるナタリアの視線はどこまでも暖かく、やさしい。レーヴィ一家には自分たちにしかわからないような言語があって、それさえあれば彼らがどこにいても群衆に紛れていてもすぐに見つけ出すことができる。その秘密の言語のように、どんなに時間がたっても、全てが変わってしまった様に見えてもずっと変わらないものはあって、この小説はそんな時間の中でも変わらずにあり続けるものを丹念に描き出しているように感じられる。とても暖かい気分になれる、素敵な小説だと思います。

あとパヴェーゼがしばらく気になっていたんだけれども、この小説でも再三顔を出しています。そろそろ読んでみようかと。

2009年4月10日金曜日

岡田温司 『処女懐胎―描かれた「奇跡」と「聖家族」』

処女にしてキリストを宿したとされるマリア。処女懐胎はキリスト教の中心に横たわる奇跡であり、夥しい図像を生み出してきた。「無原罪」の「罪のない」という否定の図像化一つとってみても、西洋絵画に与えたインスピレーションは巨大である。また、「養父」ヨセフや、「マリアの母」アンナはどのように描かれてきたのか。キリスト教が培ってきた柔軟な発想と表象を、キリストの「家族」の運命の変転を辿りつつ描き出す。

僕は、ムリーリョの作品、とりわけプラド美術館(だったはず)で観た「無原罪の御宿りImmaculate Conception」が大好きで―ムリーリョは幾つも同じテーマを扱っていますが―、彼独特の霞んだような幻想的な背景、人物の描き方(スティロ・バポローソってやつですね)に惹かれてきました。同じ理由でカリエールなんかも好きなんですけど、それはまた別の話。ムリーリョは「無原罪の御宿り」の他にも、聖家族や聖母子なんかをよく描いている印象があります。
さて、この新書はそうした無原罪の御宿りから、受胎告知(処女受胎)、ヨセフやアンナまで、マリアや養父ヨセフやマリアの母アンナといった人物がどのように捉えられ描かれてきたかを整理したものです。まず、通読して驚くことは、いかに時代時代によって、これらのイメージが自在に解釈し直され、描かれてきたかということでしょう。一見、こうした宗教画は同時代性からは超越しているように思われるかもしれないけれども、そんなことは全くなく、むしろ宗教画であるがゆえに同時代性に強く規定されてきたということです。本書は聖家族を構成する人々の描かれ方を様々な観点―著者の言葉を借りれば人類学的観点やジェンダー的観点など―から辿ることによって、そうした事実をあぶりだす事に成功しているように思います。例えば、人々はマリアに理想的な女性像を投影する。ヨセフには、そして彼とマリア、イエスとの関係には、あるべき父の姿や家族像を投影する。そうして構成された作品の中には、必ずしも原典に記述がなかったり場合によっては反するかのように見えるものもあるわけですが。こうした絵画の論じ方は非常に面白いなぁと僕は思います。僕自身、ラファエル前派のメンバーの一人であったウィリアム・ホルマン・ハントの「神殿で見出された主キリスト」という作品を似たような観点から論じたことがあります。もちろん彼ほど丁寧に考察を進めることはできませんでしたが、少し補足しておくと、この「神殿で見出された主キリスト」という作品は、ルカによる福音の2-41以降の逸話に基づいており、デューラーらも同じ逸話から作品を制作しています。ただ、それ以前の作品とハントのそれには多くの相違があってその背景を考察したものでした。まぁそんな瑣末な話は置いておきましょう。
つまり、宗教画やそこに描かれたイエスの「家族」の有り様のなかに、そうした当時の人々の理想という時代による要請が描きこまれているということ自体とても面白いですし、そこから当時の人々の心情や社会の変化などを探ることもできる、非常に開かれた美術史研究のあり方なのかな、と思います。

この著者の岡田温司さんという方は非常に面白そうな人で、他にも中公からマグダラのマリアについて論じた新書を出したりする一方で、アガンベンの翻訳やイタリア現代思想の紹介を精力的に行っています。本業はイタリア美術史なのでしょうが、哲学や政治思想などにも関心を持っているようです。この新書でのアプローチの斬新さにはそういった彼独特の横断性が生かされているのかもしれません。他の著書をもっと読んでみたいものです。