知的早熟児たちが集った夏期講習キャンプに現れた「狙撃手」。僕たちは次なるスナイプの現場を押さえるべく監視を始めた―「メロウ」など、現実とレプリカのあわいに立ち上がる圧倒的なストーリー世界が心を捉えて離さない。あらゆるジャンルを超えて疾走する作家が綴った唯一の「ストレートな」短編集。
さてフルカワです。彼の文体は結構好きです。解説で仲俣がフルカワの小説においては、dance, write, fightが特権的な地位を占めているとかいってましたが。間違ってはいないと思う。けどそれは本質じゃないだろう。それじゃあ本質はどこにある?danceとwriteとfightに通底するもの、それはリズムだ。フルカワの作品において決定的に大事なもの、それはリズムだろう。
彼の作品にはリズムがある。文体上の反復や短い一文にも、あるいは登場人物にも、起こる(あるいは起こらない)出来事にもそれはある。時としてそれは音楽に近い(本短編集でも音楽についての記述は随所に見られる。)たとえば、リバティーンズ。彼の作品は彼らの音楽に似ている。カールとピートの競い合い絡み合うようなヴォーカル。破綻寸前のところで絶妙なバランスを生み出す所。何より切り裂くようなリフ。そう、それはリズムというよりもリフに近い。これを持っている作家はそう多くないんじゃないだろうか。
それに付け加えるならば、「(恋愛に限定されない)愛/近接性(距離の近さ)」と「現実/レプリカ」といったところですかね。
「現実」に対して虚構でも幻想でも観念でもなくレプリカを対概念としてもって来るあたりが彼らしいのかな。レプリカ、すなわちオリジナルに対する模造、コピー。それではオリジナルとはなんだろう?増殖するレプリカの中で「現実なるもの」が次第に消尽していく。そんな中で「現実」はオリジナルはどこにある?「お前のことは忘れていないよバッハ」では「保護区(それは文字通りバカみたいな出来事から彼女たち自身の「現実」を守るためのものだ)」とバッハを介した3人の少女の友情が、「カノン」では男の子と女の子との愛が、「飲み物はいるかい」では僕とナカムラの語らいがそれにあたる。だから彼は「愛/近接性」のすばらしさを高らかに歌い上げるのだろう。誰かが言っていた(あるいはブログか何かに書いてあったのか?)、「旅は距離を縮めるためのものだ」と。誰かとの距離、「現実世界」との距離、それを縮めるために私たちは旅をするのだと。「ルート350」はまさにそのことをそのまま描いた短編だ。
これ以上この短編集について僕が言えることはない。こいつはホンモノだ、『聖家族』を読んだときにそう感じたけれども、やっぱりそれは間違ってなかった。
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