パレスチナ問題、イランのゆくえ、イスラーム主義、インターネットなどメディアの影響……。「中東」と呼ばれる地域のニュースは、背景が複雑で理解しにくいと言われます。著者も、大学での授業や、一般向けの講演などを通して、その困難さを感じてきました。なんとか「手がかり」となる本ができないか……。本書は、これらのさまざまな問題を、国際政治と現代史の枠組みのなかで理解することを狙いとした新書です。
「中東」近現代史についてのさっくりした概説書。それ以上でもそれ以下でもないと思う。終章が一番おもしろかったかな。中東の近現代史が分からずに、世界史の成績が伸びない高校生向きかも。
中東の市井の人に注目するんだ、って言っている割には、そうゆう記述がほとんどないのはいかがなものかと思います。ただ、繰り返しですが、概説書としては悪くないんじゃないでしょうか。
2010年8月6日金曜日
菅瀬晶子 『新月の夜も十字架は輝く—中東のキリスト教徒』
数多い中東のキリスト教の諸教派について、その歴史と特徴を簡単に紹介。キリスト教徒が具体的にはどのような人びとなのかを、衣食住から精神的なものまで、さまざまな実例をあげて解説。キリスト教徒たちが中東の近代化から今日にいたるまではたしてきた役割と、今後の展望について叙述。
山川から「イスラームを知る」というブックレットシリーズが出ていることを知り、手に取ってみた。12冊ほど出る予定で、今も刊行中だけれども、テーマとしてはかなり面白そうなものが揃っている印象。そのうちこの本では、副題が示す通り、中東に暮らすキリスト教徒に焦点を当てている。マロン派とか、コプト教徒とか、〜正教会とか、名前は聞いたことあるけど、どんなんだかよく分かっていなかったので、その辺を整理してくれているあたり、とてもありがたかった。
あと、どうしても彼らの存在ってあまり目を向けられることが少なくて、彼らの内実を知ることはこれまでなかったのだけれども、かなり図版も入れつつ、親切に紹介してくれる。中東ではどうしてもマイノリティにならざるをえない彼らと、マジョリティのイスラーム教徒との微妙な力関係も同様に興味深い。
なかでも、次の2点は印象的だった。
一つは、彼らの信仰や儀式が土着の多神教的な民衆信仰と混淆している、という指摘。そしてイスラーム教徒もまた、こうした民間信仰の影響を受けており、したがって、こうした土着的な信仰の影響が色濃い儀式において、キリスト教徒も、イスラーム教徒も、その異教的な側面は認識しつつも、共に儀式に参加し、信仰を共有する部分があるのだ、ということ。これを「寛容」として捉えていいのかは分からないけれど、それでもとても興味深い。
もう一つが、彼らキリスト教徒が、汎アラブ主義、もしくはアラブナショナリズムの興隆に大きな役割を果たしていた、という指摘。これは教科書的な中東史ではほとんど触れられない点で、私も初めて知った。とはいえ、個人的にまだ中東とその歴史が全体像として把握できていなくて、ここでの記述とこれまで読んできた中東についての知識がどう結びつくのか、ちょっと整理できていないのだけれど。彼らの視点から中東の(そして西洋の)歴史を辿り直すというのはとても面白い試みじゃないだろうか。こういった研究もっと読んでみたいな。僅か112ページのブックレットだけれど、とても勉強になります。
山川から「イスラームを知る」というブックレットシリーズが出ていることを知り、手に取ってみた。12冊ほど出る予定で、今も刊行中だけれども、テーマとしてはかなり面白そうなものが揃っている印象。そのうちこの本では、副題が示す通り、中東に暮らすキリスト教徒に焦点を当てている。マロン派とか、コプト教徒とか、〜正教会とか、名前は聞いたことあるけど、どんなんだかよく分かっていなかったので、その辺を整理してくれているあたり、とてもありがたかった。
あと、どうしても彼らの存在ってあまり目を向けられることが少なくて、彼らの内実を知ることはこれまでなかったのだけれども、かなり図版も入れつつ、親切に紹介してくれる。中東ではどうしてもマイノリティにならざるをえない彼らと、マジョリティのイスラーム教徒との微妙な力関係も同様に興味深い。
なかでも、次の2点は印象的だった。
一つは、彼らの信仰や儀式が土着の多神教的な民衆信仰と混淆している、という指摘。そしてイスラーム教徒もまた、こうした民間信仰の影響を受けており、したがって、こうした土着的な信仰の影響が色濃い儀式において、キリスト教徒も、イスラーム教徒も、その異教的な側面は認識しつつも、共に儀式に参加し、信仰を共有する部分があるのだ、ということ。これを「寛容」として捉えていいのかは分からないけれど、それでもとても興味深い。
もう一つが、彼らキリスト教徒が、汎アラブ主義、もしくはアラブナショナリズムの興隆に大きな役割を果たしていた、という指摘。これは教科書的な中東史ではほとんど触れられない点で、私も初めて知った。とはいえ、個人的にまだ中東とその歴史が全体像として把握できていなくて、ここでの記述とこれまで読んできた中東についての知識がどう結びつくのか、ちょっと整理できていないのだけれど。彼らの視点から中東の(そして西洋の)歴史を辿り直すというのはとても面白い試みじゃないだろうか。こういった研究もっと読んでみたいな。僅か112ページのブックレットだけれど、とても勉強になります。
2010年4月30日金曜日
岡真理 『彼女の「正しい」名前とは何か』
西洋フェミニズムの「普遍的正義」の裏に、異なる文化への差別意識がひそんではいないか―。女性であり、かつ植民地主義の加害者の側に位置することを引き受け、「他者」を一方的に語ることの暴力性を凝視しながら、ことばと名前を奪われた人びとに応答する道をさぐる、大胆にして繊細な文化の政治学。
『アラブ、祈りとしての文学』は優れた書物だった。優麗な文体と、根源的な問題意識と感性に裏打ちされた批評とが高度なレベルで調和していて、読む者の心を打つようなそんな本。装幀も素敵でしたね。あれを読んで以来、「アラブ文学」に親しむようになった。何よりもガッサン・カナファーニーの小説を読むきっかけとなったこと、それだけで僕にとって『アラブ、祈りとしての文学』は大きな意味をもつ著作だった。
そんな岡真理が、2000年に著したのが、本書。といっても『現代思想』などへの掲載論文を加筆修正し、編集したものだけれども(こんな本ばっかり目につきますね)。文章はまだ若書き、というか筆が上滑りしている印象がある。というよりも、ある種の切迫感に追いつめられているような、そんな印象。これはきっと岡真理が、非常に真摯な研究者である証だろう。彼女は、自身の問題意識と現実との間に板挟みになり、そんな中でなんとか自分自身を前に進めていこうとしていたのではないだろうか。もちろん、この本は読者を(つまりこの場合は「日本人」男性、女性を)撃つ、あるいはその基盤を切り崩すことを目指しているわけだけれども、それ以上に自傷的な印象すら受けてしまう。繰り返されるポジショナリティへの反問と出口なしにすら見える非対称的な関係性の弾劾。ひたむき、かつ真摯に紡がれる思考たち。恐らく、「第三世界」フェミニズムを(から、ではなく)思考するというのはこういうことなのだろう。とりわけ西洋化された人間が、「第三世界」の女性たちについて考えるというのは非常に困難なことなのは間違いない。まず自らの土台を徹底的に掘り崩さなくてはいけないのだから。しかし、この土台の切り崩しは貫徹しえないだろうし、非対称的な関係性は完全に消え去ることなどないだろう。それにも関わらず(というよりも、だからこそ)、「第三世界の女性たち」と対話的な関係を取り持たなければならない。「サバルタン」という言葉を岡真理は本書で一度も用いようとしない、恐らくは意図的に。それは彼女たちを「サバルタン」と名付けてしまう暴力を彼女が重々承知しているからなのだろう。あるいは、そもそも「サバルタン」と名付けることなど可能なのだろうか。「サバルタン」とはどこまでも不可視的な存在だろうし、一種の「残余」としてしか位置づけられないだろう。見えない、けれどもそこにいるはずの何かを指す言葉、それが「サバルタン」なのだろう。しかし、見えない、というときの主体は何か。それはやはり「西洋」に他ならない。つまり「サバルタン」とは西洋が、見えないものを可視化させ対象化するための用語に過ぎないのではないか。したがって「サバルタン」はどこまでいっても客体=モノでしかなく、語ることなどできない。いや、語ることができないというよりも、聞き取ってもらえないというべきだろうか。彼女たちは常に語っているのだろうから。
岡が何よりも反発するのはこうした、第三世界の女性たちを客体化していくやり方なのだろう。西洋のフェミニストたちは第三世界の女性たちについて語る。その議論の場を占めるのは西洋の人々だけであり、第三世界の人々に居場所はない。恐らく、西洋にとって、彼女たちは「議題」でしかないのだ。しかし、彼女たちはモノではない。西洋人たちのサロンに押し掛け、その植民地主義的な思考法を、空間性そのものを暴き出してみせる。そのとき、西洋の女性たちは対話を拒否し、彼女たちを前-近代的で野蛮な存在と断ずることによって再び彼女たちをモノへと押し込めようとする……。
そんな中、岡は彼女たちと対話の空間を開くことを目指している。しかし、その中で文学が占める位置とはどのようなものなのか。アラブ文学を研究することと彼女たちとの対話的空間を創出することはどのように関わるのか。この点についての掘り下げは、まだこの時点では十分になされてはいないし、ひたすら「西洋」を、そして自らを弾劾することに留まっている。そうした態度はナイーヴすぎると批判されても仕方がない点だろう。ある意味では本書は過渡的な著作なのだと思うし、『アラブ、祈りとしての文学』においてそれは体現されているのだと、僕は思う。
とはいえ、岡の真摯さに僕自身としては痛みを伴うような感銘を受けた。彼女の真摯な叙述にはやはりこちらも真摯になって耳を傾けるべきだろう。
(ちなみに「西洋」という言葉を幾度となく使ったけれど、この中には当然「日本」も含まれる。)
『アラブ、祈りとしての文学』は優れた書物だった。優麗な文体と、根源的な問題意識と感性に裏打ちされた批評とが高度なレベルで調和していて、読む者の心を打つようなそんな本。装幀も素敵でしたね。あれを読んで以来、「アラブ文学」に親しむようになった。何よりもガッサン・カナファーニーの小説を読むきっかけとなったこと、それだけで僕にとって『アラブ、祈りとしての文学』は大きな意味をもつ著作だった。
そんな岡真理が、2000年に著したのが、本書。といっても『現代思想』などへの掲載論文を加筆修正し、編集したものだけれども(こんな本ばっかり目につきますね)。文章はまだ若書き、というか筆が上滑りしている印象がある。というよりも、ある種の切迫感に追いつめられているような、そんな印象。これはきっと岡真理が、非常に真摯な研究者である証だろう。彼女は、自身の問題意識と現実との間に板挟みになり、そんな中でなんとか自分自身を前に進めていこうとしていたのではないだろうか。もちろん、この本は読者を(つまりこの場合は「日本人」男性、女性を)撃つ、あるいはその基盤を切り崩すことを目指しているわけだけれども、それ以上に自傷的な印象すら受けてしまう。繰り返されるポジショナリティへの反問と出口なしにすら見える非対称的な関係性の弾劾。ひたむき、かつ真摯に紡がれる思考たち。恐らく、「第三世界」フェミニズムを(から、ではなく)思考するというのはこういうことなのだろう。とりわけ西洋化された人間が、「第三世界」の女性たちについて考えるというのは非常に困難なことなのは間違いない。まず自らの土台を徹底的に掘り崩さなくてはいけないのだから。しかし、この土台の切り崩しは貫徹しえないだろうし、非対称的な関係性は完全に消え去ることなどないだろう。それにも関わらず(というよりも、だからこそ)、「第三世界の女性たち」と対話的な関係を取り持たなければならない。「サバルタン」という言葉を岡真理は本書で一度も用いようとしない、恐らくは意図的に。それは彼女たちを「サバルタン」と名付けてしまう暴力を彼女が重々承知しているからなのだろう。あるいは、そもそも「サバルタン」と名付けることなど可能なのだろうか。「サバルタン」とはどこまでも不可視的な存在だろうし、一種の「残余」としてしか位置づけられないだろう。見えない、けれどもそこにいるはずの何かを指す言葉、それが「サバルタン」なのだろう。しかし、見えない、というときの主体は何か。それはやはり「西洋」に他ならない。つまり「サバルタン」とは西洋が、見えないものを可視化させ対象化するための用語に過ぎないのではないか。したがって「サバルタン」はどこまでいっても客体=モノでしかなく、語ることなどできない。いや、語ることができないというよりも、聞き取ってもらえないというべきだろうか。彼女たちは常に語っているのだろうから。
岡が何よりも反発するのはこうした、第三世界の女性たちを客体化していくやり方なのだろう。西洋のフェミニストたちは第三世界の女性たちについて語る。その議論の場を占めるのは西洋の人々だけであり、第三世界の人々に居場所はない。恐らく、西洋にとって、彼女たちは「議題」でしかないのだ。しかし、彼女たちはモノではない。西洋人たちのサロンに押し掛け、その植民地主義的な思考法を、空間性そのものを暴き出してみせる。そのとき、西洋の女性たちは対話を拒否し、彼女たちを前-近代的で野蛮な存在と断ずることによって再び彼女たちをモノへと押し込めようとする……。
そんな中、岡は彼女たちと対話の空間を開くことを目指している。しかし、その中で文学が占める位置とはどのようなものなのか。アラブ文学を研究することと彼女たちとの対話的空間を創出することはどのように関わるのか。この点についての掘り下げは、まだこの時点では十分になされてはいないし、ひたすら「西洋」を、そして自らを弾劾することに留まっている。そうした態度はナイーヴすぎると批判されても仕方がない点だろう。ある意味では本書は過渡的な著作なのだと思うし、『アラブ、祈りとしての文学』においてそれは体現されているのだと、僕は思う。
とはいえ、岡の真摯さに僕自身としては痛みを伴うような感銘を受けた。彼女の真摯な叙述にはやはりこちらも真摯になって耳を傾けるべきだろう。
(ちなみに「西洋」という言葉を幾度となく使ったけれど、この中には当然「日本」も含まれる。)
2010年2月18日木曜日
池内恵 『イスラーム世界の論じ方』
日本の言説空間の閉塞状況を乗り越え、時々刻々変化する国際政治システムにおけるイスラーム世界の全体像を内在的かつ動的に把握するための枠組みを提示する。
2009年サントリー学芸賞。
盛り沢山な内容です。中東を始めとしたイスラーム圏の政治状況はもちろんのこと、ヨーロッパの移民政策や日本のイスラーム研究者やメディアへの批判、アラブ思想家たちのアメリカへのまなざしや、中東のメディア分析まで、広範に論じています。
前半はやや専門的な論文、後半は雑誌や新聞への寄稿を中心に構成されていて、後半は時事批評がメインとなっています。
こうした時事批評を現在に読むことの意味はなんだろう、という気もしますが、やはり彼の分析は冷静かつ明晰ですね。こうした時事批評からも、彼の姿勢や視点などが汲み取れます。誤解や無知、無関心がついてまわるイスラーム報道Covering Islamや彼らを理想化させ、そこから反米意識を取り出し、共有しようとする研究者への不満、あるいは苛立ち(しかしイスラーム研究者は須らく池内氏が批判しているような姿勢なのだろうか?)、イスラームを研究するなかで見えてきたイスラーム国家の現状へのペシミスティックな諦念にも見える態度や、そんな中でも現実を冷徹にまなざしつつける姿勢。そうしたものがとてもよく読み取れる。
あまりに現実主義的な分析には、ちょっとなぁ…と思うところがない訳ではないですが、研究者というよりもジャーナリストに近いなぁ、という印象です。あるいはこういった思考とするのが国際政治学なのか。この間読んだ『現代アラブの社会思想』とはちょっと印象が違いますね。
ただ、やはり面白いです。沢山の発見があります。イスラームや中東の現状について、あまりに多くのことを知らなかったのだなぁということを気付かされます。
個人的にはイスラーム思想の研究をもっとして欲しいなぁと思うのだけれど。
2009年サントリー学芸賞。
盛り沢山な内容です。中東を始めとしたイスラーム圏の政治状況はもちろんのこと、ヨーロッパの移民政策や日本のイスラーム研究者やメディアへの批判、アラブ思想家たちのアメリカへのまなざしや、中東のメディア分析まで、広範に論じています。
前半はやや専門的な論文、後半は雑誌や新聞への寄稿を中心に構成されていて、後半は時事批評がメインとなっています。
こうした時事批評を現在に読むことの意味はなんだろう、という気もしますが、やはり彼の分析は冷静かつ明晰ですね。こうした時事批評からも、彼の姿勢や視点などが汲み取れます。誤解や無知、無関心がついてまわるイスラーム報道Covering Islamや彼らを理想化させ、そこから反米意識を取り出し、共有しようとする研究者への不満、あるいは苛立ち(しかしイスラーム研究者は須らく池内氏が批判しているような姿勢なのだろうか?)、イスラームを研究するなかで見えてきたイスラーム国家の現状へのペシミスティックな諦念にも見える態度や、そんな中でも現実を冷徹にまなざしつつける姿勢。そうしたものがとてもよく読み取れる。
あまりに現実主義的な分析には、ちょっとなぁ…と思うところがない訳ではないですが、研究者というよりもジャーナリストに近いなぁ、という印象です。あるいはこういった思考とするのが国際政治学なのか。この間読んだ『現代アラブの社会思想』とはちょっと印象が違いますね。
ただ、やはり面白いです。沢山の発見があります。イスラームや中東の現状について、あまりに多くのことを知らなかったのだなぁということを気付かされます。
個人的にはイスラーム思想の研究をもっとして欲しいなぁと思うのだけれど。
2010年2月1日月曜日
池内恵 『現代アラブの社会思想』
なぜ今、終末論なのか。
なぜ「イスラームが解決」なのか。
学術書からヒットソングまで渉猟し、苦難の歴史を見直しながら描く「アラブ世界」の現在。
終末論の地層――イスラーム教の古典的要素にさかのぼることのできる要素の上に、近代に入ってから流入した陰謀史観の要素と、現在に流入したオカルト思想の要素が、いわば地層のように堆積して、現代の終末論は成り立っている。そして、イスラーム教の古典終末論の要素にも、また積み重ねがある。イスラーム教はユダヤ教・キリスト教から続く「セム的一神教」のひとつである。ユダヤ教とキリスト教が発展させた終末論体系を基本的に継承しており、両宗教から受け継いだモチーフがかなり多い。その上に「コーラン」や「ハーディス集」によってイスラーム教独自の修正や潤色が加えられている。
2002年に大佛次郎論壇賞を受賞した新書。品切れにさせておくのはもったいないよ、講談社さん。とっても面白いのだから。
2002年1月、9.11から数ヶ月後にこの本が刊行されたということは、その前から練り上げられていた企画だったんでしょう。2002年から2004年くらいまで、イスラーム関係の新書が多数刊行されることになりますが、ここまでまともに分析した新書はなかったのではないだろうか。まとも、というのは、勝手なイメージを作り上げ、それに合うような素材を持ち出して、虚構のイスラーム像を構築しようとしていない、という意味だ。あるいは、イスラームを論じることによって、それに対置される日本や「西洋」を見いだそうとするのではなく、あくまでイスラームを見ようとしている。彼は、イスラームやアラブ諸国(特にエジプト)の現実を捉え、同時にその背景を思想的にえぐり出そうとする。
したがって本書は、イスラーム社会思想史とでも呼べるだろうか。イスラーム思想はもともと僕に未知の領域だった(恐らく多くの読者にとってもそうだっただろう)し、現代のオカルティズムの流行や陰謀論などはその存在すら知らなかった。だから、著者の意図に反して、本書がイスラームの「狂信性」を植え付けることになってしまったかもしれない。
ともあれ、この本は1967年以降のイスラーム思想の展開を論じている。大まかに素描すれば、マルクス主義と民族主義の混淆としての「人民闘争」論が破産した後に、イスラームへの回帰にその行き詰まりの打開を見いだそうとする思想、「イスラーム的解決論」が台頭する。しかし、そうした思想は、イスラームに帰ればすべてがうまく行く、といった程度の思想でしかなく、広く人口に膾炙したものの、それは現状に対するひたすらのアンチテーゼでしかなかった。他方で、「アラブ現実主義」が政治的主導者によって唱えられる。しかし、人々が政治的主体として振る舞うことが困難な事態が続いていることからすれば、民衆にはその不満を解消するための具体的な路はない。
そんな背景から一方では、過激な「原理主義」が台頭し、他方では終末論や、さらにはユダヤ人陰謀論、オカルティズムなどが民衆に浸透していった。ざっくり言ってしまえばこういうことだと思うけれど、多数の文献や史料の分析などによってこうした整理が大きな説得力をもって読む者に受け入れられるだろう。池内氏の分析や論旨展開は極めて明晰かつ真っ当なもののように感じられた。ユダヤ人陰謀論やUFO、バミューダ・トライアングル(懐かしい響きだ)がなぜイスラームの思想と結びついてしまうのか、どうやって整合性を担保しているのか、ということは容易には理解しがたいことだけれども、そうしたことに行き着いてしまうこと事態が、何よりも今日のイスラーム思想の閉塞感を表しているのだろう。オカルティズムをめぐるノーマン・コーンからの引用も効果的。
こうした思想の行き詰まりを露にさせていく行為は非常に苦痛だった、と著者はあとがきで述懐している。恐らくはイスラーム思想の研究者としての本音だったのだろう。イスラームが「隔絶された他者」でなくなってきている今日だからこそ、その等身大の姿を描こうとした、と彼は語る。そしてこれ以降の彼の著作・論文も、そうした問題意識の上に成り立っているように思う。品切れ状態みたいですが、かなり売れた本のようなので、古本屋などに行けば容易に見つかるでしょう。
なぜ「イスラームが解決」なのか。
学術書からヒットソングまで渉猟し、苦難の歴史を見直しながら描く「アラブ世界」の現在。
終末論の地層――イスラーム教の古典的要素にさかのぼることのできる要素の上に、近代に入ってから流入した陰謀史観の要素と、現在に流入したオカルト思想の要素が、いわば地層のように堆積して、現代の終末論は成り立っている。そして、イスラーム教の古典終末論の要素にも、また積み重ねがある。イスラーム教はユダヤ教・キリスト教から続く「セム的一神教」のひとつである。ユダヤ教とキリスト教が発展させた終末論体系を基本的に継承しており、両宗教から受け継いだモチーフがかなり多い。その上に「コーラン」や「ハーディス集」によってイスラーム教独自の修正や潤色が加えられている。
2002年に大佛次郎論壇賞を受賞した新書。品切れにさせておくのはもったいないよ、講談社さん。とっても面白いのだから。
2002年1月、9.11から数ヶ月後にこの本が刊行されたということは、その前から練り上げられていた企画だったんでしょう。2002年から2004年くらいまで、イスラーム関係の新書が多数刊行されることになりますが、ここまでまともに分析した新書はなかったのではないだろうか。まとも、というのは、勝手なイメージを作り上げ、それに合うような素材を持ち出して、虚構のイスラーム像を構築しようとしていない、という意味だ。あるいは、イスラームを論じることによって、それに対置される日本や「西洋」を見いだそうとするのではなく、あくまでイスラームを見ようとしている。彼は、イスラームやアラブ諸国(特にエジプト)の現実を捉え、同時にその背景を思想的にえぐり出そうとする。
したがって本書は、イスラーム社会思想史とでも呼べるだろうか。イスラーム思想はもともと僕に未知の領域だった(恐らく多くの読者にとってもそうだっただろう)し、現代のオカルティズムの流行や陰謀論などはその存在すら知らなかった。だから、著者の意図に反して、本書がイスラームの「狂信性」を植え付けることになってしまったかもしれない。
ともあれ、この本は1967年以降のイスラーム思想の展開を論じている。大まかに素描すれば、マルクス主義と民族主義の混淆としての「人民闘争」論が破産した後に、イスラームへの回帰にその行き詰まりの打開を見いだそうとする思想、「イスラーム的解決論」が台頭する。しかし、そうした思想は、イスラームに帰ればすべてがうまく行く、といった程度の思想でしかなく、広く人口に膾炙したものの、それは現状に対するひたすらのアンチテーゼでしかなかった。他方で、「アラブ現実主義」が政治的主導者によって唱えられる。しかし、人々が政治的主体として振る舞うことが困難な事態が続いていることからすれば、民衆にはその不満を解消するための具体的な路はない。
そんな背景から一方では、過激な「原理主義」が台頭し、他方では終末論や、さらにはユダヤ人陰謀論、オカルティズムなどが民衆に浸透していった。ざっくり言ってしまえばこういうことだと思うけれど、多数の文献や史料の分析などによってこうした整理が大きな説得力をもって読む者に受け入れられるだろう。池内氏の分析や論旨展開は極めて明晰かつ真っ当なもののように感じられた。ユダヤ人陰謀論やUFO、バミューダ・トライアングル(懐かしい響きだ)がなぜイスラームの思想と結びついてしまうのか、どうやって整合性を担保しているのか、ということは容易には理解しがたいことだけれども、そうしたことに行き着いてしまうこと事態が、何よりも今日のイスラーム思想の閉塞感を表しているのだろう。オカルティズムをめぐるノーマン・コーンからの引用も効果的。
こうした思想の行き詰まりを露にさせていく行為は非常に苦痛だった、と著者はあとがきで述懐している。恐らくはイスラーム思想の研究者としての本音だったのだろう。イスラームが「隔絶された他者」でなくなってきている今日だからこそ、その等身大の姿を描こうとした、と彼は語る。そしてこれ以降の彼の著作・論文も、そうした問題意識の上に成り立っているように思う。品切れ状態みたいですが、かなり売れた本のようなので、古本屋などに行けば容易に見つかるでしょう。
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