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2010年2月7日日曜日

上野修 『スピノザ—「無神論者」は宗教を肯定できるか』

聖書の敬虔と哲学の自由は両立できるか? 神の存在が揺らぎはじめた時代に、この難問をクリアーすべく徹底的に考えた男、スピノザ。未解決だったスピノザの「神学・政治論」の謎に挑み、スピノザ哲学のエッセンスを語る。

NHK出版の「哲学のエッセンス」シリーズ。装幀はきれいだし、値段は安いし、読みやすい。書き手をなかなかしっかりしている。ベルグソンや西田やスピノザなど、なかなかどうしてこういった入門書シリーズからは外れがちな思想家たちもしっかり押さえている。そんなこともあって、好きなシリーズです。
さて、そのスピノザ。上野修は、著名なスピノザ研究者の一人ですね。講談社現代新書から『スピノザの世界』というスピノザの入門書を書いています。これはとても好きな本。『スピノザの世界』が専ら、『エチカ』、『小エチカ』の読解だったのに対し、本書で扱われるのは『神学・政治論』であり、あるいは『国家論』である。だからこの二冊は一対のセットと考えたほうがいい。

とても読みやすいのでさらっと読んでしまうけれど、すごい重要な問題を扱っている。信仰と理性はいかに両立できるのか、そして神学と哲学はいかに両立できるのか。上野の解釈によれば、スピノザは、この両者を完全に独立したものとして考えていた。哲学は、何より「真理」を巡るものであるけれども、神学はそうではない。聖書を合理的に解釈しようとしてはならないし、無理に合理的に解釈しようとすれば、キリスト教そのものを掘り崩してしまう。他方で、それは聖書を非合理的に、超自然的に読まなければならない、ということを意味しない。キリスト教の最も重要な基盤は、神より命ぜられる「愛」であり、「正義」である。それに服従すること、敬虔であること、それだけで十分なのであり、それが真理であるかは問題ではないのだと。
スピノザの生きた時代、彼の生きた共和国のなかで、デカルト主義者への攻撃、彼らを「不敬虔」だとして排撃する気運が高まっていた。そんな中で、何が敬虔であり、何が不敬虔であるかをスピノザは探求しようとする。敬虔/不敬虔の線引きをするのは何か、それは第三者の「最高権力」に他ならない。それは神政国家においては神、もしくはその代理人であった。一方、スピノザの生きた時代において、それは共和国の最高権力、ということになる。しかし、それは共和国の権力を握る人物が、すべてを掌握することを意味しない。なぜなら、彼らの権力は、臣民の服従によって得られる群衆(マルチチュード)の力、彼らの潜在的な暴力に由来しているからであり、「最高権力掌握者を正義へと強い、と同時にそうやって臣民各人に正義を守るように強いているのは、彼らひとりひとりを等しく超える群衆の潜在的な暴力だということがわかる。」(77ページ)

この本は、どこまでも入門書であって、これ以上深く知りたいと思ったら、『神学・政治論』に手を出さなければならない。そうしたいのはやまやまだけれども、なかなかそんなことはできそうにない。ネグリの『野生のアノマリー』も気になるし、浅野尚哉のスピノザ論も気になる。ちょっと前の『情況』の別冊の「68年のスピノザ」も。

2009年12月17日木曜日

上野修 『スピノザの世界』

スピノザの思想史的評価については多くのことが言われてきた。デカルト主義との関係、ユダヤ的伝統との関係。国家論におけるホッブズとの関係。初期啓蒙主義におけるスピノザの位置。ドイツ観念論とスピノザ。現代では、アルチュセール、ドゥルーズ、ネグリ、レヴィナスといった名前がスピノザの名とともに語られる。スピノザはいたるところにいる。が、すべては微妙だ。たしかにスピノザについてはたくさん言うべきことがある。そのためにはスピノザの知的背景と時代背景、後代への影響、現代のスピノザ受容の状況を勉強する必要がある。けれども、まずはスピノザ自身の言っていることを知らなければどうしようもない。そのためには、スピノザがどこまで行ったのか、彼の世界を果てまで歩いてみるほかない。彼が望んだようにミニマリズムに与し、彼の理解したように事物の愛を学ぶほかないのである。

いい本。
僕はこれまでスピノザには惹かれるものを感じてたんだけれども、なかなか近づくことができなかった。これまで読んだのは「小エチカ」と「エチカ」の前半くらい。「小エチカ」も旧仮名遣いだから難儀しながら(慣れればそれほどでもないのだろうけど、いまだに訓練が足らずあまり得意ではありません)読んだ記憶があり、内容もふむふむと思いながらもとても咀嚼し切れなかった。「エチカ」もあの装置の中になかなか飛び込んでいけずに、よいしょ、と飛び込んではみたけれども上手く行かず途中で投げ出してしまった、という恥ずかしい(これは本当に恥ずかしい…)記憶があります。
上野さんはこの新書で「エチカ」の読解を中心に据えています。ポイントを抑えた引用と丁寧な解説、入門書としてこれ以上ないほどオーソドックスな形。上野さんの思想とスピノザの思想が実に上手く噛み合っているような印象をうけます。でも、この1冊だけじゃ分かったつもりにならない。それがこの本のいいところ。この本を読んだ人は、きっと「エチカ」を読みたくなる。あるいはスピノザのほかの著作を。またはドゥルーズの「スピノザ」を読みたくなるかもしれない。スピノザの哲学には何かが息づいているのだろうか。上野の新書も、またドゥルーズの『スピノザ』も、それぞれの書き手のスピノザと彼の思想に対する共鳴・思い入れで溢れている。そして、それが読む人の心をうつ。不思議なことです。スピノザの思想を「理解」する前に、そうした共感が先立っているかのようです。
僕もスピノザの何たるかなんて全くわかっていないけれども、不思議な親近感を抱いてしまっています。嫌なことがあったときや自分の有り様にうんざりしたとき。そんな時に哲学というものがこれほどまでに人を助けてくれるとは思いもよらなかった。ちょっとした予感がある、それは僕がこれからの人生でスピノザを読み続けることになるだろう、ということ。
『エチカ』を読み直そう、と決意。