2001年9月11日以降,暴力と偽善が世界を覆い尽くしている.ブッカー賞受賞のインド人女性作家ロイは,その状況に対して絶え間なく抵抗の声を挙げ, 帝国とは別の世界を求めるすべての人々に希望と勇気を与えてきた.「「無限の正義」という名の算術」「帝国の民主主義」をはじめ,海外で注目される8篇の 政治エッセイを収載.
こういう時事的なエッセイを少し後になって読み返したとき、その評価は真っ二つに分かれると思います。一方は時事的であるがあまり視野が狭く議論が先走りすぎて粗が目立つ、要は読み返すに耐えないケース。他方は、時事的であるがゆえに事態の切迫性をこれ以上なく伝えてくれるだけでなく、問題の本質の所在までも掬い上げているケース。この場合、同時代でしか描けない時事エッセイ(批評)というものは、後になって読み返すに値する、というより現時点においてもそこから幾つもの問題を取り出すことができる、そう思います。
このエッセイは後者に位置づけられると僕は感じました。理由としては3点ほどあげられます。
まず世界中で起こされた(ている)様々な暴力や虐殺、不正義に対する憤りや怒り、悲しみが読み手(聴衆)に強烈に伝わってくること。次いで、そんな中でも隠された問題の所在を透視するような鋭く、そして一貫したパースペクティヴを彼女が抱き続けていること。最後に痛烈な皮肉や批判、諧謔を交えた読者をひきつける語り口、言い回しを彼女が多用していること。
それゆえに総じて魅力的なエッセイになっていると思います。
この本の頁を捲ってすぐに感じることは、彼女の深い怒りや憤りでしょう。きっとただ漫然と読んでいるだけでも、彼女のこの感情を共有する事になるでしょう。アメリカやインドの政府高官の発言、あるいは多国籍企業と一体化した行政の腐敗状況に(もっとはっきり言えば<帝国>とでもいうべきグローバルな秩序に)彼女はその怒りを叩きつけます。その怒りは至極当然なわけですが。彼女の<帝国>の定義はネグリ=ハートから借用したものなのでしょうか。「帝国製インスタント民主主義」における<帝国>の説明からするとかなり近い位置にあるとは感じるのですが。
その上でブッシュの「敵か味方か」という極端な問いかけ(それ自体問いかけというよりも味方に付けという命令に他ならないわけですが)に答えること自体を放棄します。どちらでもない。あんたたちの味方に付くのはうんざりだけど、偏狭なイスラーム主義を支援する気はさらさらないよ、というわけですね。これは本書を通じて彼女が抱き続けている姿勢です。そんな二項対立は間違っている、それ以外の回答もあるはずだろう、と。けれどもこのどうしようもない圧力の中で、どこに出口があるのか。抵抗の線など引くことはできないんじゃないのか。そんな問いが頭を過ぎる、その瞬間は誰も避けることはできない。
そう、私たちは怒りや憤りや悲しみによって、どうしようもなく自身の無力感を痛感してしまう。悲観主義に陥ってしまう。しかし、悲観主義に身をゆだねてしまうことはその眼を曇らせてしまう、あるいは目を背けてしまう。そして曇ってしまった眼では、あるいは目を背けてしまったのなら、そこにあるはずの希望の芽を見つけることが出来なくなる。
悲観主義はそれ自体が批判の対象にはならない。というよりもそんな批判を繰り出せる人間なんかいないだろう。現実を具に観察すればするほど悲観的になることは避けられない。重要なのは、悲観に陥ったとしてもその眼を背けないこと、曇らせないことなのではないだろうか。サイードがそうであったように。彼は自分は悲観主義者であるが同時に楽観主義者なのだ、という。彼は見つめる、パレスティナの現状を、シオニズムのイデオロギーを、イスラエルの占領を、変わり果てたホームを、暫定政府の腐敗を。それらは彼を悲観主義にさせるには十分すぎるほどだ。けれども彼はそれでも見つめ続けた。見つめ続けることによって彼は希望の芽を見出す。そしてそれを自分自身でも育てていこうとした。悲観主義であると同時に楽観主義であるということは恐らくこういうことなのだろう。同じように彼女も、(恐らくは絶望に陥りかけながらも)どこかに希望の芽を見出す。アメリカも含めた世界各地で発生する反戦デモに、あるいは芸術に。希望があるが故に彼女は語り続け、書き続ける。本エッセイにはまさにそうした希望と悲観の葛藤の過程が透けて見える。その葛藤を追体験できる、それだけでこの本は今でも読み返すに値するのではないでしょうか。
ただ、彼女の憂慮する民主主義の衰退という問題。あるいは「真の民主主義」や「市民社会」に希望を見出そうとする姿勢、ここには留保がつくのかもしれません。とはいえ非‐西洋において、民主主義や市民社会という概念を導入することが本当に可能なのか、そしてそれが唯一の路なのか、これについてはもう少し考えてみる必要がありそうですね。
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