2009年5月20日水曜日

エドゥアール・グリッサン 『多様なるものへの詩学序説』

三島賞作家の小野正嗣による明解な翻訳で届ける、『全―世界論』で知られ、文学者であり、思想家のエドゥアール・グリッサンの講演/対談集。「移民社会」 が到来しつつある日本において、この本はひとつの処方箋的な役割を果たすだろう。。アングロサクソン的な「多文化主義」、およびフランス的な「統合」を共 に超える視座を開く「多様なるもの」の思想とはなにか。

ポスコロ御用達のファッショナブルな思想家。そんなこといったらポスト・コロニアル研究者に怒られてしまいますかね。彼の引用をエピグラフに載っけておけば、オシャレかな、みたいな。基本的に日本のポスト・コロニアル研究者はあまり信用していないので(まさしく自分自身がポスト・コロニアルな状況下に置かれていることに全く無頓着なのは何故でしょうか)、こんな辛口になってしまいました。もちろん、非常に素晴らしい仕事をしている研究者の方もいて、彼らの仕事には感銘を受けっぱなしな訳ですが。
そう、そんな風になってしまった中で、グリッサンの思想に分け入ってみること。これはなかなか面白い経験でした。語感とでもいうのでしょうか、非常に言葉を選ぶのがうまい、何かを掴むためにメタファーを彼は多用するんだけれども、その喩え方、表し方が抜群ですね。確かに引用したくなります。

さて、本書は4つの講演と、2本の対話(実は4本の対話を編集したもののようですが)からなっています。テーマはクレオール化と想像的なもの、詩学・文学の可能性について、とまとめられるかと思います。それぞれの文章は非常に読みやすく、彼の主張を読み取ることは難しくはありません。まさしく「グリッサンによるグリッサン入門」といったところでしょうか。

彼の議論の展開の中で、しばしば大陸的思考/群島的思考、システム的思考/非システム的思考、先祖伝来的文化/複合的文化、一つ根のアイデンティティ/リゾーム・アイデンティティという形で二項対立的な図式が登場します。こうした見方は講演という性格上―恐らくは分かりやすさを期して―語られるものだとは思いますが、質疑応答でも批判が出ていたようです。ちょっと安直ではないかと。彼の議論を追いながら、それが安直なのかどうかも含めて考えてみようかと思います。

「カリブ海地域とアメリカ地域におけるクレオール化」

この講演において、彼はアメリカ地域を3つに分類します。①メソアメリカ(先住民たちのアメリカ)、②ユーロアメリカ(ヨーロッパからやってきて、新大陸でも以前の慣習文化、伝統を保持してきた人々のアメリカ)、③ネオアメリカ(クレオール化しているアメリカ)、と。これらの分類は国境線とは無関係であることを強調しつつ、彼はネオ・アメリカの特殊性に触れます。つまり、「ネオアメリカは―ブラジルであれ、カリブ海沿岸であれ、島嶼部であれ、合衆国南部であれ―奴隷制や奴隷制的諸システムによる抑圧と剥奪をとおして、クレオール化を本当に経験してきた」のだと(pp.11)。そしてグリッサンは、こうしたクレオール化は全世界で起こっていることなのだ、といいます。今日、諸文化の絶え間ない接触や衝突、対話を通して世界中でクレオール化が起こっているのだと。
それではグリッサンにとってのクレオール化とは何なのか。彼はそのための補助線として、奴隷貿易によるアフリカからアメリカへの移動、「裸の移民」に注目します。その奴隷船とは、同じ言語を使う者は互いに隔離された、言語の消失する場所であり、彼らは「ありとあらゆる要素」から切り離されてしまった。そうしてアメリカに移住させられた人々が、記憶、つまり痕跡の思考を頼りにしながら予見できないような何か(例えばジャズ)を作り上げていく。グリッサンはクレオール化の条件として、共存する文化的諸要素が必ず価値的に等価であることを指摘します。つまり、一方の文化が貶められている所ではクレオール化は成立せず、関係付けられた文化的諸要素は互いに評価されあわなければならない、と。更にクレオール化は、混血とは違い「予見不可能なものを生み出す」ことだといいます。
その上で、グリッサンは様々な文化を、「先祖伝来的文化」と「複合的文化」に大分します。そして前者には「一つ根のアイデンティティ」を後者には「リゾーム・アイデンティティ」を当てはめていきます。前者は「一つ根のアイデンティティ」を擁護し、後者の文化は「リゾーム・アイデンティティ」が現実的なのだと。
したがって、「全世界のクレオール化」という彼のテーゼからすれば、「一つ根のアイデンティティ」から「リゾーム・アイデンティティ」へという移行が生じているということになります。「リゾーム・アイデンティティ」とはつまりは関係性の、開かれたアイデンティティであって、私たちは他の根を殺してしまうような「一つ根のアイデンティティ」から抜け出て、多様で関係的な「リゾーム・アイデンティティ」のほうへ向かわなければならないのだと、その移行に際して詩学や文学というのは多くの役割を果たすことができる、なぜなら詩学は人々の想像的なものの次元に訴えかけるものだから。こうした主張が最初の講演では語られています。
更に質疑応答の中で、現代の作家は単一の言語しか知らなくても、世界にあるあらゆる言語を前にして書いているから単一言語的ではないのだ、と言う指摘は、水村美苗の『日本語が亡びるとき』における国民文学についての言及と重なり合う点なのかなと感じます。この2冊を重ねて読むというのも非常に面白いことになるんじゃないかと(無論、水村の議論は幾つかの重要な部分で批判されるべきでしょうが)。

「言語と言語活動」

冒頭にグリッサンは議論の前提として2点指摘します。一つは反復、もう一つは「共通の場所」。前者とは繰り返しによって現れつつある新しいものが少しずつ見えてくることであり、後者は世界の一つの思考が、世界の一つの思考と出会う場所のことだといいます。
今日において初めて、それまでは文学においてしか予言されなかった「全体性‐世界」が実現されるようになります。同時に文学は一つの場所から生じるものであって、その場所と全体性‐世界を取り持つ役割を果たすことになります。
全体性‐世界が現れた今日、その全体的な共同体において、人々は他者と出会い認めることを余儀なくされる。したがって、今日の詩人や作家は、2つの問題系に直面していることになります。一つ目は、全体性‐世界との関係のなかでおのれの共同体を表現すること。もう一つは、絶対的なものと非絶対的なものを、エクリチュールと口承性とを同時に探求しながらおのれの共同体を表現することです。先の質疑応答でも触れたように、私たちはもはや単一言語的に何かを書くことなどできない。あらゆる言語は開放系のなかに、関係性のなかにおかれている。グリッサンにとって多言語主義とは、自分自身の言語を使う時に、そこに世界中の諸言語が存在していることを意味します。したがってある言語を守ることは他の言語、あるいは全ての言語を守ることにもつながることになります。そうした諸言語をのなかには言語活動が含まれていて、カリブ海地域ではそれぞれが異なる言語を用いながら、同じ言語活動を行っている。言語上は多様でありつつ、ひとつの言語活動を探求すること、それによってその多様な言語の出会いの場はまさしく「共通の場所」となります。
その上で、グリッサンはシステム的思考/非システム的思考、大陸的思考/群島的思考へと話を進めます。この箇所は恐らく、本講演においてもっとも重要な箇所であるので、かなり長いですが引用することにしましょう。

かつて、私がお話したような創設的書物〔引用者注:先祖伝来的共同体における「叙事詩」のこと〕とそれを用いるあらゆる文学が存在した時代、思考というものは―私がシステムの思考と呼んでいるものですが―諸言語のあいだに生じるゆったりとした感知しがたい反響を組織したり、検討したり、投じたりしてきました―思考は自分が正当に支配していた世界の動きを予見し、イデオロギー的な見通しを与えていたのです。私があえて「大陸的な思考」と呼んでいるこのシステムの思考は、いまようやく一般化した世界の諸文化の非システムを考慮しつつあります。より直感的で、より壊れやすく、脅威に曝されているけれど、混沌‐世界とその予測不可能な結果にふさわしい別の形の思考が、おそらく人文社会科学の諸成果に支えられて、とはいえ世界の詩的なものと想像的なものが与えるビジョンのなかを漂いながら、発展しています。私はこのような思考を「群島的な」思考と呼んでいます。…いま私に分かるのは、大陸が、少なくとも外から眺めたところ、「群島化している」ということです。(pp.57-58)

つまり、ヨーロッパもまた群島化している。全世界が島々の開かれた連なりのようになっている。そうした現状を鑑みるならば、私たちがすべきことは、互いに耳を傾けあい、理解しあうことであり、そうした関係性のなかに身を置くことに他ならない。
そのなかで「翻訳」というのは新たな意味を持ちうる。翻訳とは、作家が個々の言語の中に織り込んでいった全体性を掬い上げながら、一つの言語から他の言語へ移行させることによってその全体性を表現していくことにある。こうした言語活動はまさしく予見不可能性を孕んでいて、だからこそ翻訳とはクレオール化であり、文化的混交の新しい実践となる。かすかな接触と接近の技法である翻訳は痕跡の実践であることを指摘してグリッサンはこの講演を終える。


さて、2つほど講演の内容を整理してみましたが、これでなんとなくグリッサンの議論はつかめるのではないかと。もちろん講演や対話もそれぞれテーマ自体は違うので、議論の内容もより豊かに、複雑に折り重なっていくわけですけれども。世界全体がクレオール化している、こういったことはしばしば指摘されることで、いやそれはクレオール化じゃなくて平準化だとか、むしろ「純度」への志向が高まっているとか色々なことが言われるわけですが。そしてまた、単一のナショナルアイデンティティから複数のアイデンティティへということもそれ自体はよく言われることで私自身はさほど目新しい印象は受けませんでした。定言から当為へという飛躍がどうなのか、という意見もありそうですが。「現状はこうである」、と言う話をしていたらいつの間にか「こうしなければならない」とか「こうならなければいけない」という話に移り変わっていく。グリッサンの現状認識や見通しに対してユートピア的とか楽観的とか言う声は聞こえそうですし、グリッサン自身も十分その点は自覚しているみたいですが。ただ、僕個人としては詩学や文学にこうした可能性があることを信じたいものです。
しかし、「群島」っていう発想は面白いですね。今福龍太なんかもグリッサンから影響をかなり受けているのでしょうか。新しいことを得た、というよりも新しい見方、摑み方を学んだといったほうが適切かもしれません。概念よりもメタファーを。動態的に何かを摑むには概念で固着させるよりもこっちのほうがいいのかもしれませんね。

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