私たちは、ある絵画作品に出会い、そこに何が描かれているかを「再認」しえたとき、その絵を「わかる」という。しかし、なぜそれほどまでに私たちは絵を「わかろう」とするのだろうか?
20世紀に描かれた絵画は、それ以前の絵画が思いもしなかった無数の認識をその背景に持っている。
そして、絵とは具象/抽象の如何にかかわらず、作家のアイデンティティ、或いは民族のアイデンティティと深く結びつき、時代を映す鏡となり、私たちの「鏡像」となっているのだ。本書では「具象/抽象」「わかる/わからない」の二元論に終止符を打ち、"旧東独美術"も視野に収めた新しい解釈パラダイムを提案する。
久しぶりに実家に帰ったときに、書棚の中から見つけた本。そうだ、数年前に父に面白い本はないか?と聞かれ、この本を貸したんだっけな、と思い起こしながら回収。帰りに読み返していたら止まらなくなって結局読了しました。
光文社新書からはたまにこういった良書が刊行されるので侮れないですね、きっとよい編集者がいるのでしょう。この本は、僕の西洋絵画の見方、あるいは美術史というものの見方を揺さぶり、覆しました。そういう思い入れがある分、この新書は美術史に関心をもつ人々、あるいはただ美術館に通うのが好きな人にとって必読書なのではないか、と思ったりします。
さて、この本のどの要素が当時の僕にとってそれほど衝撃的だったのか、それについて触れましょう。それまで、僕は西洋近代美術史というものを一つの発展図式に落とし込み、そうした一方向の発展の系譜として、つまり一貫した語りとして理解してきたわけです。それは当時の僕が西洋絵画というものにあまりに無知であったこと、それゆえ美術史の概論のようなもので語られる教科書的な記述を鵜呑みにしていたことがありました、今となっては恥ずかしい話ですが。その流れこそ、印象主義、ポスト印象主義(と括られる画家とその作品)、ピカソやマティス、ダリらを経由してジャクソン・ポロックへ至るという、まさしく「具象から抽象へ」という物語でした。今日もこうした語りが一般的には優勢であるのかもしれません。こうした語りの問題については以前も(http://kentado.blogspot.com/2009/03/blog-post_26.html)触れたことがあるかと思います。こうした語りの問題点は①その系譜から抜け落ちてしまう存在について触れることができない、あるいは低い評価しか与えられない、②ある画家の作風の変遷に目を向けることができない、単なる「逸脱」としてしか見做されない可能性がある③従って、ある画家の生涯の結晶を、単なる歴史上の「役割」に貶めてしまう、④画家同士の同時代的な、あるいは超時代的な関係性―仮に「調和」と「抗争(コンフリクト)」とでも呼びましょうか―に十分な言及が出来ない、⑤そして本書で指摘されている通り、「具象」と「抽象」の間のせめぎ合い、その往来という問題を完全に捨象してしまう、例えば本書において重要な位置を占める旧東ドイツ、旧社会主義圏の具象絵画を単なる時代錯誤の作品としてしか評価できない。
本書を読んだこと(3~4年前のことですが)を端緒として、これらの問題群に否応がなしに気付かされた。だからこの本を最初に読んだ時の衝撃はよく覚えています。そうした一貫した物語が不可能な中でいかに美術史を叙述することができるのか。本書はこうした問題群から本当に自由なのか。そうした疑問は当然生じることだと思います。
ちなみに宮下はこの新書の中では、ほぼ時代順に、ある画家とその代表作を取り上げるというオーソドックスな方法を踏襲しています。ただ、それは断じてこの本が旧来の美術史テキストと何も変わらない、というわけではありません。少なくとも彼が一人一人の画家に、一つ一つの作品に注目する時、彼はそれを歴史的な「役割」に落とし込めることはしていないわけです。ある画家の作風の揺れ動きを無視せず、時にはその変遷が「役割」とは矛盾していることを受け入れながら、同時に当時の歴史的/社会的/地理的文脈や画家同士のネットワークにも言及しながら記述を進めていく。それゆえ、一つ一つの章はとても短いですが、非常に中身の濃い、読み返しに値する内容になっています。
それに加えて、宮下はその作品に触れる人々、観衆の視線を重視します。観衆と絵画の間に結ばれる関係性、それは人々にどのように見られてきたか、どのように見えるかという点。これは「わかる/わからない」という二項対立の無意味さを露にするためにも必要な視座なのでしょう。それは個別の作品の観衆史(という言葉があればですが)を語るというだけではなく、もっと普遍的な「絵画を観ること」という問題と密接に関わります。文中で宮下が指摘するように、私たちが絵画を見るとき、私たちは絵画に見られているのだということ。絵画は一種の<鏡>であって、絵画を見る私は、同時にその絵画を見る私自身に見返されているのだということです。<鏡>の同化効果と異化効果―「これはお前だ」と「これはお前ではない」―を私たちは絵画を見ることを通じて経験しているのだという視点、これは非常に重要な論点だと思います。絵画は<鏡>である。<鏡>の表面を見ることはできない、同様に絵画の表面を見ることはできない。私たちは絵画を見ているのに絵画を見てはいない、そのアポリアを出発点として近代の西洋絵画は存在する。ゴッホの「黄色い家」の黄色いだけの場所(宮下は適切にもブラックホールと喩えます)やマレーヴィチの「黒い正方形」、あるいはデュシャンの「大ガラス」、そうしたものを見るとき、私たちは当惑する、「これは何だろう?」と。つまり、「わからない」と思う。それは私たちが、<鏡>として絵画を見ることができないから。その私たちの視線はその表面に突き当たり、それから先に進むことができない。<鏡>のメタファーを推し進めるならば、それらの作品からはその作品を視ている私を視ることができない、あるいは鏡が歪んでいて、統一体としての「私」を形作ることができない、だから「わからない」と感じてしまう。
つまり「わかる/わからない」の問題は、「具象/抽象」の問題として理解してはならない。それは絵画を視る「私」自身にゆだねられているのだから。
本書はこうして具象/抽象という二項対立を解体して、わかる/わからないという問題を更に「アイデンティティ」(宮下は括弧なしにこの用語を使いますが)の問題へと話を進めていきます。この他にもセクシュアリティ、欲望、作品の存在/不在など様々な観点から西洋美術への言及がなされていて、非常に内容が富んでいます。旧社会主義圏の絵画についても言及したことは、西洋美術史のなかでも重要な点なのかな、と思います。僕はプラハの美術館に陳列されていた社会主義時代に描かれた無数の絵画(それらは決して社会主義的リアリズムという言葉で括りきれるものではない)に強い衝撃を受けた経験があります。そのときは「これは何なんだろう?」という疑問が湧きながらも、それらから目を離せずにずっとその美術館にこもっていました。この経験は宮下の経験と似たものであったのかもしれません。それゆえに僕は彼の視点に深く共鳴したのかもしれませんが。彼の『逸脱する絵画』や音楽論は未読ですが、こちらにも触れてみたいものです。
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