2009年5月27日水曜日

今福龍太 『身体としての書物』

書物はたえず世界へと生成する!
ボルヘス、ジャベス、ベンヤミン、グリッサン・・・。作家、詩人、思想家たちの独創的なテクストを読み解きながら開示される、「書物」という理念と感触をめぐる新たな身体哲学。

ってゆうかこの1年間の今福龍太さんの刊行ペースはどうなんでしょう。去年の5月の『ミニマ・グラシア』(岩波書店)を皮切りに、11月には『ブラジルのホモ・ルーデンス』(月曜社)、『サンパウロへのサウダージ』(みすず書房)、『群島‐世界論』(岩波書店)…岩波から出た2冊にしたってかなりの分量があった気がするし、書き溜めていたものをここのとこでまとめて刊行したってことなんですかね。『群島‐世界論』はあの巻頭の地図にやられかけましたが、踏みとどまってしまい買ってません。なんとなく面白そうだけど、何やってるのかいまいち分からない、そんな研究者の一人です(まぁ例によって僕が悪いんですが)。

さて、そんな彼が外語大で行っているゼミナールの講義録(のようなもの)が本書です。
書物とは何か?書物の本質とは何か?そんな問いを提起した上で、ボルヘスやジャベス、ベンヤミンなどを読み進めながら、その問いについて考え、問いを立て直していく、そういった内容となっています。そしてそれに答えようとするのではなく、問いを絶えず更新し続け、思考を深めていく。実際にはその答えは開かれているといいつつも、彼は幾つかの鍵となる喩えを挙げていくことになりますが。試みとしては面白い。
「身体」、「図書館」、「砂漠」、「水」、「はじめての本」、「水牛」…、様々な書物に登場するメタファーを通じて、彼は書物の多様性/多義性を洗いなおしていく。しかし、「書物としての身体」というタイトルに現れるように最終的には、身体性や感覚といったものに書物の本質を見ているような印象を受けました。それがいいのか、悪いのか。身体性からの乖離が問題なのか、それを呼び戻すことが必要なのか。ノスタルジーを批判しつつも、彼はやはりそこに帰っているのではないか。いやそうではない、ベンヤミンにおける「憧憬」が、完全には取り戻すことのできない過去をそれでも希求し想起し続けることによってそれがその人の生の錘となる―したがって現在、未来へと投げ返される性質をもつ―ように、身体性を呼び戻そうとする営為それ自体によって、新たな書物との関わり方が生まれるのだと今福は考えているのだろう、など色々な意見がありそうですが。

ところで「身体としての書物」と「書物としての身体」は何が違うのでしょう?
「身体としての書物」とは書物自体に身体性がはらまれていること、これはその文字や単語それ自体が身体性を帯びているのだという理解から、書物は誰かによって書かれる、その書き手と書かれるものとの格闘(それはまさしく身体的なものでしょう)の痕跡が、一見書物においては消え去っているように見えても実際にはどうしようもなく刻み込まれているのだという理解、更には読むという行為それ自体が身体とは切り離された行為ではありえない―書物を読むという行為は、その内容や言葉を(そこに直接は登場しないものも含めて)自らの身体に刻み込むことでしかありえない―とする理解など、非常に様々に解釈することができます。今福は(恐らくは)そうした多義的な理解を踏まえたうえで、「身体としての書物」という地点に到達したのだとは思います。さて、他方の「書物としての身体」とはどういったものになるでしょうか。これを言い換えると、「私たちの身体は、一種の書物である」となります。私たちの身体には断片的かつ無数の書物の集成ではないか、「書物としての身体」とはこうした問いを提起します。私たちがいかにして私たちであるか、私たちが喜び、怒り、悲しむ際の基準、度合い、やり方、あるいは考え方、世界観、価値観、使う言葉、語彙、マナー、振る舞い、こういったもの全てが書物によって規定されているのではないか。そうであるならば私たち一人一人の中には、各々の書物があり、それは絶えず書き換えられ、更新されている。私たちは本を読み、映画を見、美術館に通い、テレビを見、友人と語らう。それらによって私たちの「書物」は絶えず書き換えられていく。したがって、その書物は同じものではありえない。しかしどんなに内容が変わっても、それは同一の本である。ベンヤミンの「1900年頃のベルリンの幼年時代」のように。そんな発想はあまりに現実離れしているのだろうか。これを推し進めれば、「あらゆるものはテクストである」に行き当たるわけですが。

とはいえ、僕は本を読み続けています。理由を聞かれてもうまく答えられず、いつも「習慣だから」とか嘘ついていますが。そうそう、須賀敦子さんのエッセイで興味深い場面があります。彼女がフランスに留学していた時にカトリック左派の指導者がデモに際して人々にこう語りかけます、「このデモのあいだ、君たちにとって『精神のパン』とは何かをよく考えてください」、と。
「精神のパン」とは何か?パンについては次のように考えることとします、私たちが味わい、咀嚼し、消化し、栄養素を抽出することによって自身を再生産させていくものだと。であるならば「精神のパン」とは、「精神」においてその役割を果たすものに他ならないわけです。
だから僕はこう思うのです、僕にとって書物は精神のパンなのだ、と。その文章を味わい、噛み締め、時に喉につっかえつつも体内に送りこみ、取り入れられやすい状態に消化し(牛だったら反芻するところですが)、栄養素を抽出し、新たに自分自身を組成しなおしていくものだと。

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