焼けつくほどの異常な太陽に照らされた春のモスクワに、悪魔ヴォランドの一味が降臨し、作家協会議長ベルリオーズは彼の予告どおりに首を切断される。やがて、街のアパートに棲みついた悪魔の面々は、不可思議な力を発揮してモスクワ中を恐怖に陥れていく。黒魔術のショー、しゃべる猫、偽のルーブル紙幣、裸の魔女、悪魔の大舞踏会。4日間の混乱ののち、多くの痕跡は炎に呑みこまれ、そして灰の中から<巨匠>の物語が奇跡のように蘇る。SF、ミステリ、コミック、演劇、さまざまなジャンルが魅力的に混淆するシュールでリアルな大長編。ローリング・ストーンズ「悪魔を憐れむ歌」にインスピレーションを与え、20世紀最高のロシア語文学と評される究極の奇想小説、全面改訳決定版!
名前はよく聞くけど、読んだことのなかったブルガーコフです。これはいいですね。メフィストフェレス的な悪魔がモスクワにやってきて、燃やし放題、殺し放題、騙し放題です。すっきり。
ってことで終わりにするわけにもいかないので、感想まで。
悪魔って善い奴?悪い奴?って聞かれたら、恐らく100人中80人くらいは悪い奴っていうでしょう、もっと多いかな。けれども、善/悪を決めるのは誰ってことですよ。価値判断なんて社会的な要請によって変わるものです、ベルリオーズらにとっては神こそ悪で人間の理性こそが善なわけですし。その善であるはずの人間の姿が悪魔によって露呈されていく様、痛快です。悪魔=悪で読んでいって、なんだこの悪魔善い奴じゃん、って思っちゃうのも、同じことですね。価値判断は置いておきましょう。
この小説の面白さは一つには、キリストの4日間(エルサレム入城~復活)と悪魔の降臨と巨匠の小説の復活がパラレルになっているところですね。とりわけピラトゥスを巡る巨匠の小説、非常に面白いです。
焼かれた本(焚書)が悪魔によっていとも簡単に復活する。本を焼いたのは誰か?ソ連という強大な官僚システムと、その歯車と成り下がっている、文学界そのものでしょう。だから本作はソ連とその文学界に対する痛烈な批判となっている。初めにヴォランドがベルリオーズとイワンに語る物語、それは巨匠の小説の一部分だ。2人を当時のエルサレムに誘うほどの完成度の高さを誇っておきながら、それは評価されない。というよりも巨匠の小説をベルリオーズが全く知らないというのも奇妙な話ですが。
そして当のベルリオーズは首を切られ(死んだのはあくまで偶然ですが)、グリボエードフは燃やされる。イワンもリューヒンも偽善的にプロレタリアートを装いながらろくでもない詩を発表し、人々と焚きつける。官僚の一人は、ジャケットが勝手に署名した仕事を何のためらいもなく、自分の仕事として認める。金に、ファッションに飛びつく人々。
ソ連の実態がこれでもかと暴かれていきます。
そこから離れ、地下で平穏に暮らしてきたマルガリータと巨匠もその世界から真に逃れることはできない。本は燃やされ、彼らの生活は破綻する。しかし、マルガリータの愛は巨匠を精神病院から救い出し、真に平穏な世界へと彼らは旅立つ。ソ連というシステムに囚われず、書き続ける生活を送るにはこの道しかなかったということなのでしょうけど。結局のところ何も変わらない、歯車は取り替えられたかもしれないが、全体としては。今も、恐らくは。しかしそれだけだろうか。
最初に殺し放題と書きましたが、これは間違いですね。ヴォランドが直截に手を下した殺人はないといっていいでしょう。ベルリオーズはあくまでも足を滑らせた事故ですし、マイゲール男爵にいたっては猫を幻視した警察によって撃たれたわけですから。悪魔が行ったことは、実は予言したことと幻惑を見せること、あとは燃やすこと、これだけだと僕は読みました(誤読の可能性はありますよ)。そう燃やすこと。焼かれたはずの小説は復活し、それを焼失にいたらしめたいくつもの建物も燃やされ、破壊される。地下室も最後には燃え、巨匠とマルガリータは別の世界へと飛び立つ。マルガリータの愛はまるで炎のようだ。燃えること、それは既にある何かを破壊するだけでなく、新しく何かを生み出すこと。ブルガーコフは炎に何を託したのか。
ところでイスカリオテのユダを殺したのは誰なのか?聖書では確か、銀貨を神殿に投げ込み自殺したことになっている。けれども、この小説では誰かに殺されたことは明らかだろう。ピラトゥスが自分が殺したのだとマタイに語り、アフラニウスがニーザに会い、その後ニーザがイスカリオテのユダを郊外に案内してい ることから考えると、彼らが殺害に関与した可能性は十分にある。その場合問題となるのが、ピラトゥスとアフラニウスの語らいだろうが。この語らいは茶番だったのでしょうか。でも、殺害シーンに登場する第3の男はアフラニウスだと読めるわけですが。このアフラニウスという人物、とても謎めいています。
しかし、本当によく出来た小説だなぁとつくづく思います。伏線が無数に張り巡らされていて、まるで迷宮のよう。池澤が「巨大な建築」と喩えたのは言い当て妙だと思います。
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