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2010年8月2日月曜日

サンティアーゴ・パハーレス 『螺旋』

絶妙な語り口、緻密なプロット、感動のラスト。大ベストセラー小説『螺旋』の作者トマス・マウドは、本名はもちろん住んでいる場所すら誰にも明かさない“謎”の作家。「なんとしても彼を見つけ出せ!」出版社社長に命じられた編集者ダビッドは、その作家がいるとされる村に向かう。一方、麻薬依存症の青年フランは、盗んだバッグに偶然入っていた『螺旋』をふと読み始めるのだが……。いったいトマス・マウドとは何者なのか? 2つのストーリーが交錯する時、衝撃の事実が明らかになる! 驚異のストーリーテラーが放つ、一気読み必至の長編小説。

またもや書かなきゃいけない本が溜まってしまった。いや、別に書かなくてもいいのだけど。とりあえず早足で。
ヴィレッジブックス×木村榮一さんというと、フリオ・リャマサーレスの印象がとても強いのだけど、これはリャマサーレスの新刊Las Rosas De Piedraではありません。僕が買ったあの本はかなり分厚いハードカバーで、せっかく届いたのに序盤で早くも挫折したのでした。パハーレスの本よりもそっちの方を訳してほしかったな。リベンジするのと訳が出るの、どっちが先だろうか。

ということで、サンティアーゴ・パハーレス。知りませんでした。30過ぎのとても若い作家さん。原著が出たのが2004年だから、これは25歳のときの作品ですか。これはびっくり。25歳で、こんな小説が書けるんですね。かなり色々作り込みながら仕上げてある作品、といった感じです。章によって緩急を変えていて、読んでいて飽きさせず、とても心地よい。そして一気読み系。小説内小説『螺旋』を中心にしてその周囲に巻き起こる人間同士の交流を描いた作品。すっ飛ばしたままの伏線もあるけれど、概ねきれいにまとめてくれているので読後感はすっきりです。まさしく大団円ってやつですね。書物とか物語への信頼、というものがひしひしを感じられて、こちらまで本の可能性、というのを信じたくなります。そういった意味でもこのパハーレスという作家は、「ストーリーテラー」なんでしょうね。ジョン・アーヴィングのことをなんとなく想起しました。
フリオ・リャマサーレスがあまりにも衝撃的だったせいで、現代スペイン文学というとどうしても彼のイメージなんだけれど、こういった若い作家さんもいるんですね。これからが楽しみ。

2010年2月4日木曜日

ガブリエル・ガルシア=マルケス 『エレンディラ』

コロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケスの異色の短篇集。“大人のための残酷な童話”として書かれたといわれる6つの短篇と中篇「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」を収める。『百年の孤独』と『族長の秋』の大作にはさまれて生まれたこの短編集は、奇想天外で時に哄笑もをもさそう。

いいですね。これまでガルシア=マルケスをさほど読んでこなかったことを後悔。集英社文庫の短編集くらいしかなぜか読んだことがなかったんですね。この数年、ラテンアメリカ文学を少しずつ読んでいますが、そろそろガルシア=マルケスに挑む頃合いのような気がします。

短編が面白い作家って、大抵長編を読んでも面白いんですよね。逆は必ずしも成立しませんが。日本の小説家が、どんどん短編が下手になっている、という不満を聞きますが、それが真実であれば、とても残念なこと。
一方、ラテンアメリカの作家たち(適当な括りですが)は短編を読んでいても面白い。ひょっとしたら、日本の作家とラテンアメリカの作家では、構成の方向性が逆なのかもしれませんね。つまり、長編→短編という方向性と、短編→長編という方向性、みたいな違い。前者には、長編的な大きなストーリーが根幹にあって、それを短編に持ち込もうとしてしまう。後者は、そうではなく短編的なストーリーがもとよりあって、それを織り合わせるようにして長編小説を組み立てているのではないか。そんな気にもなります。勿論こんな簡単な対比が日本とラテンアメリカで成り立つ訳はありませんが、傾向というかモデルとしては考えられるのではないか。この違いってなんだか重要な気がします。

あとがきで書かれていたことに、ガルシア=マルケスが本書のような短編集を習作と見なしていて、それを後に書かれる長編小説に組み込んでいったという指摘があります。もし、彼の長編(僕がまだ読んでいない)が、そうした(書かれたものも、書かれなかったものも)短編一つ一つを織り合わせる形で作られているんだとしたら、これはものすごく面白いに違いない、と。
過去の出来事が神話化され、伝承によって残されていく。その過程で、登場人物は抽象化され、物語も幻想的なものへと変容を遂げる。過去の出来事それ自体と、伝承、どちらがリアルなものか、と考えたとき、一般的には前者だと考えられがちだろう。けれども、恐らく後者なのだ、少なくともその物語に触れる者にとっては。「祖型化」の過程のなかで、物語は「出来事」の経験者から切り離され、浮遊し、その物語を聴く者にまとわりつく。こうした物語はウィルス、のような性質を帯びているのかもしれない。可塑的であり、ヴァイラルに広がっていく。(散種的という言葉が浮かぶが、それが適切な表現なのかは分からない。)
こうした土着的な伝承がラテンアメリカには(そして恐らくは世界の各地に)無数にあり、つまりそこには無数の物語がある。そして、そこから小説のストーリーが抽出される。そしてそうしたストーリーを更に変容させることによって短編小説が出来上がる。更に作家たちは各々、それらを自在に変化させ、組み合わせていくことで長編小説が出来上がる。こんな流れが頭に浮かんだ。
こういうと、長編小説を頂点にしたピラミッドとして理解されてしまいそう(長編が一番偉くて、次の短編、その下が伝承だね)だけれども、そんなことを言いたいのではない。伝承には伝承なりの、短編には短編なりの、長編には長編なりの良さがある、当たり前の話。

現に、ここに登場する小説たちは、どれも抜群に面白い。数行で読み手を引きずり込んでいくような、魔力的な語り。天使なんてあり得ないよ、なんて思う人は「大きな翼のある、ひどく年取った男」を読んでみるといい。きっと天使があり得るか、あり得ないか、なんてことはすっかり忘れ、物語の世界に没入していくことになるだろうから。
ちなみに、これらは独立した短編だけれども、微妙に重なり合う連作でもある。だからきっと最後まで読み進めることになるだろうけれど。

2010年1月27日水曜日

カルロス・フエンテス 『フエンテス短編集―アウラ・純な魂他四篇』

「…月四千ペソ」。新聞広告にひかれてドンセーレス街を訪ねた青年フェリーペが、永遠に現在を生きるコンスエロ夫人のなかに迷い込む、幽冥界神話「アウラ」。ヨーロッパ文明との遍歴からメキシコへの逃れようのない回帰を兄妹の愛に重ねて描く「純な魂」。メキシコの代表的作家フエンテス(1928‐)が、不気味で幻想的な世界を作りあげる。

6篇収録されていますが、それぞれ違った面白さがあります。全体的には、幻想性+生々しさ+官能性でしょうか。ゴシック的な色合いも濃く、魔術的リアリズムと呼ぶに相応しい作品です。
男‐女、若者‐老人、正気‐狂気、メキシコ(インディオ、土着性)‐西洋、そして生‐死。こうしたいくつもの二項対立を扱うことを得意としているようです。これら背反的な二項のあいだを、フエンテスは文字通り魔術的な技法を用い、登場人物を行き来させます。例えば、『アウラ』においてはコンスエロ(老、醜)とアウラ(若、美)は対比的ですが、物語が進むにつれてアウラがコンスエロの映し鏡であることが明らかになります。そしてアウラに好感を抱いていたフェリーぺも、コンスエロの夫であったリョレンテ将軍の回顧録を整理していく中で、彼と一体化していきます。フエンテスの巧みさは、こうした魔術的な出来事が生じる舞台の設計技法にも見て取れるでしょう。コンスエロらが住まう家の不気味さの描き方は読んでいるこちらが薄気味悪くなるほどリアルで、廊下のシーンなどはギシッ、ギシッとどこかから音が聴こえてくるような気がしたほどでした。その不気味さは、この小説で彼が「君」という二人称を用いていることによって助長されることになります。読み進めるうちにいつしか読み手はフェリーぺと一体となり、この物語を彼と共有することになるわけです。舞台の気味悪さといえば、『女王人形』は…すごかったです。公園の牧歌的な明るい雰囲気と対を成すようなアミラミアの家の描写。
彼は、上記のように男‐女、老い‐若さのような対の構造を利用しながら、それを崩すことによって読者をひきつけるわけですが、そうした際に(少なくともこの短編集で)彼が用いている媒介に鏡と手紙があります。鏡は、『アウラ』や『最後の恋』に、手紙は『純な魂』や『チャック・モール』にそれぞれ登場します。『最後の恋』のなかで鏡は出だしとラストに登場します。そして同一人物が同じ日に鏡を見るのにもかかわらず、前者と後者でそこに写る像が全く変わってしまう。これは人が鏡に何を視ているのか、という問題とも関わることなのかもしれません。私たちは鏡を視ているときに、そこに理想化された自己を同時に見いだしています。『最後の恋』で鏡に映る像が変わってしまうのは、鏡自体が歪んでいるからではなく、鏡に向かう人物の現実の像が変わってしまったからでもなく、そこに見いだそうとする自己像が決定的に変わってしまったから、なのではないでしょうか。当初においては、見いだされていたこうありたい自己像が、その後の出来事の中で崩壊をきたし現実としての自己に直面する。それゆえにこの変容が起こったのだとしたら、幻想が入り込んでいるのは、終盤の鏡ではなく、序盤の鏡だということになります。であれば、私たちにとっての日常や現実それ自体が、あるいはこうした幻想によって構築されているのかもしれない、という疑念すら抱いてしまいます。こうした幻想と現実の関係をもフエンテスは効果的に利用しているわけです。
解説のなかで、もっと違った角度から、訳者がそれぞれの短編集のとても興味深い分析を展開しているのでぜひご参照ください。
これはいい短編集、おすすめは『アウラ』と『女王人形』です。