2010年7月28日水曜日

中野香織 『モードとエロスと資本』

エロスのエネルギーこそがモードを盛り立て、奢侈品の消費が資本主義を牽引してきた。しかし中世以来の循環が金融危機以後、停止。時代の映し鏡であるモードを通して変化を遂げる社会を描く!

色々なブログなどを見ていると評価が高いようですが……。近頃の新書ってこういうもんですかね。文章が読めたもんじゃない。2週間くらいで一気に書いたんじゃないかなぁ。議論もかなり雑駁だし。タイトルももう少し何とかならないもんですか、三段噺ですかっていう。読む気をなくさせる文章。

昔はファッションは「恋愛」によって規定されていたけれど、最近はそうじゃなくなってきて、ここ数年ではそうした空虚さへの批判から「倫理」によって規定されるようになってきている、とまぁこれだけの話。ふーんとしか思わなかったです。ってか本当にそうなのかな。もちっときっちりジェンダーの議論とかしてほしい。というか「ファッション」って誰が着てるもののことを言っているのか。ここでいう「昔」って要は西欧の貴族層とかのことで、それ以外の人が着てたものはファッションじゃない、と。個人的には中世ヨーロッパの農民や同時代の中東なんかの「ファッション」のほうが興味あります。「倫理」云々の話はファッションだけのことでもないし、ファッションの空虚さの埋め合わせというのも、一見分かりやすいけど、ほんとに?と思わなくもない。もっとちゃんとした文章で書いてくれれば説得力があるのかもしれないけど、こんな書きなぐり文章でいわれても、その時点で不信感を持ってしまいます。暴走資本主義という言葉も突然出てくるけど、それって何を指してるのか。惹いてくる人物にいちいち「さん」を付けるのもやだなぁ。もはやいちゃもんですが。集英社新書は玉石混淆とはいいますが、これは僕にはただの石にしか見えません。読まなかったことにしようかとも思ったのですが一応感想だけ。

2010年7月22日木曜日

ジル・ドゥルーズ 『批評と臨床』

文学とは錯乱/一つの健康の企てであり、その役割は来たるべき民衆=人民を創造することなのだ。文学=書くことを主題に、ロレンス、ホイットマン、メルヴィル、カント、ニーチェなどをめぐりつつ「神の裁き」から生を解き放つ極限の思考。ドゥルーズの到達点をしめす生前最後の著書にして不滅の名著。

カバンやらポケットやらに突っ込んでだらだら読んでいたらぐちゃぐちゃになってしまいました。そんな読み方ができるのも文庫ならでは。ポケットにドゥルーズが入る、ふとした時間にぱらぱらページを捲れる、というのはなんだか贅沢な心地がします。

秩序だった哲学書ではもちろんなく、これはむしろ批評・論文集といった感じ。カント、ニーチェ、スピノザ、ベケット、ルイス・キャロル、ロレンス、メルヴィル、マゾッホ……など彼がこれまで好んで取り上げてきた人物がごっそり取り上げられています。それもまた贅沢な感じ。素人から見ると、議論の内容もどこか集大成といった趣があります。ある程度網羅されているような。

しかし、まぁなんという速度なんだろう。まるで猛るような筆致。相変わらずなかなかついていけないけれど、この文章に惹かれてしまう。終章の『エチカ』論はとても面白くて、あぁ『エチカ』読みたい、と。そういえば『スピノザ』のラストは感動的ですらあったなぁ。あぁスピノザもドゥルーズもいい奴だったんだろうなぁ、などとふざけたことを思った記憶があります。この第五部とドゥルーズの速度を同列に捉えようとするのは筋違いなんだろうか。

第五部の幾何学的方法はある発明の方法であり、それは、隔たりと跳躍、中断と縮約によって、すなわち、論述する理性的人間というよりもむしろ探しまわる犬の流儀で、事を進めることになるだろう。…これらの性質は、「より手速く」するための、論述における単なる不完全さとしてではなく、絶対的速度を獲得する新たな秩序=次元の思考の力能として姿を現しているのである。(pp.306-307)

バートルビー論は個人的には面白かったなぁ。バートルビーに新たなるキリストを見る、というのはそれだけ聞くとおいおいって思わずにいられないけれど……。論文読んでいくと、あぁそういうことか、と思わされる。まぁ流されやすいので。そういえばアガンベンのバートルビー論って読んでないなぁ。月曜社だっけか。

速度と密度がすごすぎて、とても読み込めていません。あと20年くらいはかかるかもしれないなぁー。

2010年7月20日火曜日

久生十蘭 『久生十蘭ジュラネスク 珠玉傑作集』

「小説というものが、無から有を生ぜしめる一種の手品だとすれば、まさに久生十蘭の短篇こそ、それだという気がする」と澁澤龍彦が評した文体の魔術師の、絢爛耽美なめくるめく綺想の世界。

久生十蘭初めて読んだなぁー。時代物、幻想譚、ミステリー、歴史小説風、アメリカもの、ユーモア……僅か10編だけど、なるほど多彩ですね。主に口述筆記で書いていたらしいことを知ってびっくり。口述筆記で小説を紡ぐってなかなかイメージがわかないなぁ。頭の中で物語を創り上げているってことなのか。それにしては文章も雰囲気があっていいですね。口述筆記で輪郭を固めた後に、文章を練り上げていったんでしょうか。
「南部の鼻曲がり」(1946年)で日系人を取り上げたり、「美国横断鉄道」(1952年)では鉄道建設での中国系移民に対する残虐な扱いを暴露したり、となかなか面白い。作品が発表された時期を見ると思わずにやりとしてしまいます。「遣米日記」は1942年ですか。
全集買う気にはならないけどもう少し読んでみたいな。
文庫だと、今手に入るのは岩波から出た短編集と講談社文芸文庫のやつくらいだろうか。

2010年7月17日土曜日

ナンシー・ヒューストン 『暗闇の楽器』

現代のマンハッタン/暗黒の中世フランス、二つの世界が時空を超えて交錯する奇跡のパラレル・ストーリー。高校生が選ぶゴンクール賞受賞作。

ナンシー・ヒューストンです。『時のかさなり』に続いて二作目。本書は1996年の作品。『時のかさなり』は2006年の作品ですから、少し前に書かれたものですね。どうりで若書きなところも……と言いたいところですが、訳者あとがきによれば本書が書かれたのは小説家としてデビューして15年目なんだとか。うーん、それにしては随分と肩肘張っている感じ。

この『暗闇の楽器』は2つのパートが交互に重ねられ、同時進行的に進んでいくスタイルをとっています。「復活のソナタ」は17世紀フランスを生きる双子の運命をたどった小説で、「スコルダトゥーラの手帖」はその小説を書いているナディアを追ったもの。だから読みながら、バルナベとバルブという男女の運命に翻弄される生き様を追いながら、それを同時進行的に書き進めていくナディアの回想、友人や元恋人、家族との関わりも追っていくことになります。メタ小説とでも言うんでしょうか。更にナディアは小説を書き進めるために悪魔ダイモーンの力を借りていて、ダイモーンの語りとナディアの書く小説が次第にズレていきます。これを面白いと取るか陳腐と取るか。
「復活のソナタ」だけ独立して読んでも面白い小説だと思うけれど(佐藤友紀っぽい?)、ナンシー・ヒューストンがやりたかったのはむしろ「スコルダトゥーラの手帖」なんでしょうね。

作家が創作を進めている場面、これは裏方(裏-局域?)のところであまり見てはいけないというか、見せたがらないところなんじゃないかと思うけれど、彼女はそのブラックボックスをあけすけに晒してしまう。創作とは単に作家が作品を書くことじゃないということ、作家はゼロ地点から創作をスタートするのではなく、悪魔的なものの力を借りつつ物語を始め、その物語が作者に交感し、作者は作品を動かしていく。そんな過程をこの「スコルダトゥーラの手帖」のパートはうまく描いている。この悪魔とのやり取りは、ちょっといかにも過ぎて寒々しいけれど、目次の前にこう書かれていることを忘れてはいけないのでしょう。

『復活のソナタ』のエピソードの多くは、アンドレ・アラベルジェールが『ペリーの耕作人たちの日々』(セルクル・ジェネアロジック・デュ・オー=ベリー出版、1993年)の中で語っている実際の出来事に着想を得ている。

こんな本があるかどうか、こんな出版社があるのかどうか、こんな著者がいるのかどうか甚だ疑わしいところですが。何かのアナグラムなのでは?と疑ってしまいます。また「実際の出来事」などという不用意な言葉遣いをするとも思えませんし、きっとこれもナンシー・ヒューストンの創作なんだと思います。そのことは話を複雑にさせてしまうので、とりあえず脇に置きましょう。

この但し書きに従えば、本書に登場する悪魔ダイモーンというのは、結局のところアンドレ・アラベルジェールに他ならないし、悪魔の語りとはこの『ペリーの耕作人たちの日々』なる本ということにならないでしょうか。単に悪魔の語りに従うのであれば、それは単なる口述筆記でしかないし、以前の何かの剽窃ということになってしまいます。このパートから僕が学んだことというのは、先も触れたようにまず、創作というのはゼロ地点からスタートするものではないということ。そしてもとにある「何か」が次第に運動し始め、その運動と作者の筆致、生き様などと共鳴を始める。その共鳴によって、「何か」が元来であれば導いていくであろう方向から逸れていく。この逸脱こそが創作なのではないでしょうか。(余談ですがジャック・ランシエールが「人間は文学的動物である」というのは、まさにこの逸脱とも深く関係するように思います。)

これはナンシー・ヒューストンのお師匠さんに対する一つの回答なんでしょうね。

2010年7月16日金曜日

パスカル・キニャール 『アマリアの別荘』

夫の浮気を知ったアンは、決然とすべての生活を“処分”して、新たな人生を始めるための旅に出る。さまざまな出逢いが交錯し、思いがけない事態が迫りくる。彼女は安らぎの場所を見いだせるのか?…現代フランスを代表する作家の集大成にして傑作長篇。

完全にやられてしまいました。今年読んだ本のなかでトップ3に入るんじゃないか、と思うくらい。ページを早く捲りたい、けれども捲る毎に残りページが少なくなっていくのが惜しくてしょうがない。一節一節の文章の美しさに陶然としていると、あっという間にページ数と時間が過ぎ去っていく。終わって欲しくない、いつまでもこの世界が続いて欲しいと思わず願ってしまうようなそんな小説。何だろう、行間すら、版面の文字と空白のバランスすらも美しい、といったらさすがに褒め過ぎだろうか。そんな風に感じるほど、とにかく僕はこの小説にやられてしまったのです。

何でなのか。それを説明しなきゃ何も伝わらないし、できればそれを言葉にして伝えたい、と思うのだけれどどうもうまくいかない。ちょうど、ジョルジュがアンを愛し、アンがアマリアの別荘とレナを愛したように、訳も分からず惹かれてしまったのだ、……とでもいえば格好がつくだろうか。アン・イダンという女性を軸に物語は進むのだけれど、時折人称は入れ替わる。入れ替わるようで入れ替わらない。アンの一人称のような、三人称のような。アンは「私」であり「彼女」でもあり「アン」でもあり、「エリアンヌ」でもある。時に「私」はアンであり、シャルルでもある。この距離感とその揺れ動きが絶妙なリズムで折り重ねられる。そして、随所に見られる音楽への言及。音楽的という言葉が指す内容はよく分からないけれど、確かに構成なんか交響曲っぽいのかな。後付けですが。そういえば小説も楽譜も同じく紙とインクからできているんだった。

何がそんなにいいのか全く伝わらないままですが、とりあえず、おすすめです。

2010年7月15日木曜日

ステファヌ・ナドー 『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』

逃走か、あるいは競闘か?
21世紀の最もラディカルな
『アンチ・オイディプス』臨床実践!

ポップ心理学、資本主義、そして死。
混沌が支配する日常を《くたばらずに》生き抜くために、
ガタリ=ドゥルーズはいかに実践しうるのか?
カフカ、プルースト、三島由紀夫、
『スター・ウォーズ』、バッグス・バニーを駆使する、
鮮烈なエクリチュール機械の誕生!


読み終えて日が経ってしまい、忘れてしまった部分が多々。というのもこの本の次に読んだ本があまりに素晴らしかったから。
この三島論はどうなのだろうか。プルーストについて書いているところはとても面白かったなぁ。

挑発的かつお茶目な文体は印象に残っています。たまにくどくていらっとしますが。

ポップ心理学のくだりを読んで、あぁ、どこも事情は同じなのねと。こういうのによくもなぁうんざりせずに付いていくものです。

あと、そうそう、『表象』で「ドゥルーズの逆説的保守主義」とかいう小特集が組まれていたことを思い出した。これって「ドゥルーズ=ガタリの逆説的保守主義」とはいえないけれど、ドゥルーズとガタリを無理やりぶった切ってドゥルーズの方だけ見たら、なるほど逆説的保守主義ですね、っていいたいだけというように解釈してしまったんだけれども。でもそれだったら『アンチオイディプス草稿』を訳した当人たちがわざわざするほどのことでもないしなぁーと思案していたものでした。

もちろんAOがベースになっているんだけれど、注釈書のような退屈な代物じゃない。『使用マニュアル』となると、読者に使い方を説明してくれそうだけど、何よりもこの本自体が一つのAOの活用になってます。アンチ・オイディプスを実践すること。何のために? くたばらないために。

ノスタルジーについて言及も印象に残っている箇所の一つ。ノスタルジーと「失われた時」を求めることの違い。そういや光文社の古典新訳からも『失われた時を求めて』の訳が出るみたい。某訳の『純粋理性批判』なぞいいからこっちに力を注いで欲しい。

そういや、最近のドゥルーズ=ガタリについて論じたものってあまり脱-コード化とか使っていないような気がする。気のせいかな。

こんなのですみません、今度はちゃんと読みます。

2010年7月6日火曜日

フラ・トマーゾ・カンパネッラ 『太陽の都』

スペイン支配下の南イタリア独立を企て挫折した自らの改革運動の理想化の試みとして,カンパネッラ(一五六八―一六三九)が獄中で執筆したユートピア論.教育改革をはじめ,学問,宗教,政治,社会,技術,農工業,性生活等人間の営為のすべてにわたる革新の基本的素描が対話の形で展開される.ルネサンス最後の巨人の思想を集約した作品.

この間、ふと「カポディモンテ美術館展—ルネサンスからバロックまで」という企画展を見てきた。その話をここでしようとは思わないのだけど、そのときたまたま読んでいたのがこの『太陽の都』で、なんとも小さな偶然に少し嬉しくなってしまった。というのもこの展示品が書かれたちょうど同時期に、この本は書かれたのだから。一方は、ナポリで学びカラブリアに共和国を樹立しようと蜂起を試みた廉で投獄され、ナポリの獄中で『太陽の都』を著す。他方で、画家たちは教皇を輩出するほどにまで繁栄を遂げたファルネージ家をパトロンとして絵画を描き続けた。期せずして17世紀前後のナポリのもつ、出会うはずのない二つの様相に同時に触れることができた。この二つを重ね合わせ、うまく話を展開することができればそれはとっても面白い話になるだろう。僕にそんな器用なことはできないけれど、もし重ね合わさる部分があるとすれば、それは「キリスト教」であり「カトリック」であり「対抗宗教改革」だと思う。
そういえば、展示されていた作品を見ていてふと「みんな上を見ている」ということに気付いた。それは描かれている人物もそうだし、その絵を見ている人も、なぜか上の方を見上げている。幾つかの絵画には正面の上端に「光」が描かれている。ひょっとしたら、彼らはそれを見ていたのかもしれない。何が言いたいかというと、ここで展示されていた宗教画は「幻視」に関わるものが多かったのではないか、ということ。ストイキツァの『幻視絵画の詩学』を読んで以来、絵画における幻視というものが気になっていて—無論、ストイキツァのあの本はもう少し後のスペインが中心だったけれど—そうした超越的なものを媒介する、そして「現実」を侵犯する幻視絵画がこの時代の南イタリアの絵画群にも見られることはとても興味深かった。そして、ここから飛躍すれば、超越的なものの姿を垣間見させ、人々の日常実践を変革させていく機能を果たす幻視絵画と、カンパネッラが記したようなユートピア論はどこか似ている。つまりカンパネッラもまた獄中でオリエントの理想的な共同体「太陽の都」を幻視し、著述している、という意味において。

訳者も解説で述べているように、ユートピアは単なる夢想ではない。それは現実に存在しているわけではないが、一種の可能性として存在している。それを「来るべきもの」といってしまうのにも少しためらいがある。それはやってくるもの、というよりもこちらから向っていくものだから。それは遂行的であるし、実践と深く結びついている。だからユートピアとは夢想よりも「希望」に近い。あるいはユートピアを論じることは一種の「希望という方法」(宮崎広和)なのかもしれない。


話が完全にそれてしまった。肝心の『太陽の都』の話をしていない。この本はジェノヴァの商人と騎士との対話という形をとっている。ジェノヴァの商人がオリエントにある「太陽の都」の様子を事細かに説明していく。都市の形・大きさから、教育・宗教・政治・科学技術・社会制度まで仔細に紹介し、騎士が時折同意や感嘆の声を上げ、あるいは疑問を差し挟んだりする。文章としても平易なので概ね読みやすく、また面白い内容になっているように思う。ところどころ矛盾もあるし、「俺はこんなとこには住みたかないなぁ」と正直思ったけれど、カンパネッラにとって、これが本当に理想とする社会なのかはよく分からない(きっと誰にも分からないだろう)。ただ、この対極に当時のカラブリアがあったのだろう、ということはよくわかる。また、天文学、技術から政治にいたる全面的な描写も、いかにもルネサンス的な関心の広さを物語っているようでとても面白い。また、解説で訳者が触れているように、カンパネッラの思想と神秘主義との関わりも、気になるところ。そう、解説が面白いんですね。というかカンパネッラの生涯の紹介が。
読んでどうなることもないけれど、何となく面白いので気が向いたらいかがでしょうか。