2009年6月4日木曜日

村上春樹 『1Q84 1・2』

1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行した。そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。私たちが生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。

Book 1
心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。心から外に出ないものごとは、そこに別の世界を作り上げていく。

Book 2
「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。


さて、どうしたものか。やはりこれくらい経つとぼちぼちブログなどでもレビューが出始めて、色んな人が色んなことを考えているのだなぁと(しかし彼の作品のレビューの多くはなぜか文体まで村上春樹風ですね)。あまり僕が何か書くようなこともないのかもしれない。きっと彼の作品に精通している人であれば、過去の作品のテーマや95年以降の彼の転回などと絡めながらこの作品を語ることができるんだろう。また全く知らない人であれば、面白いとかつまんないとかで終わらせることもできるんだろう。

とりあえずこの小説がこれだけ売れていること(ほとんどの書店では品切れで8日の重版待ち状態)には驚きを禁じえないし―私の書店でも各400冊が2日ほどで売り切れた―、これを手に取った何十万もの人々がこれをどう読むのかというのはとても興味深いことだろう。こうした小説が何十万部も売れる…率直にいって信じがたいことだ。この小説で彼が描く世界について考えれば考えるほど。

この小説が孕む「不穏さ」、それは文体上の問題ではない。ヤマギシ(大学紛争から農業コミューンまでの過程はそれを想起させる)、オウム(1984年はオウムの母体が創立した年でもある)、エホバの証人を思わせる宗教団体への言及、あるいはビックブラザーの対置としてのリトルピープル、そして消しがたい大学紛争の痕跡。夫婦間のDV(当時はこんな言葉もなかっただろう)と殺人、そしてセックス。これだけ「不穏さ」を孕んだ小説が何十万と売れること(しかもこれだけ出版不況が叫ばれる時代に!)はブームということ以上の意味を持つのではないだろうか。

この小説には、それまでの彼の作品、あるいは考えてきたことが溶かし込まれているように思う―そういった意味では彼は実直な作家だ、似通ったテーマを様々な形で反復していく。「さきがけ」はオウム真理教を間違いなく想起させるし、青豆と天吾はまるで「四月のある晴れた朝に100%の女の子に出会うことについて」に登場する2人のようだ。リトルピープルの描写はTVピープルを否応なしに連想させるし、こちらとあちらの世界は村上が一貫して扱ってきたことだろう(厳密に言えば本作では少し違う、つまりそれが現実‐物語という関係とも交錯するから)。
しかし、従来の作品とは異なる不穏さをここから感じずにはいられない。ビッグブラザーに対置されるものとしてリトルピープルがいる。「1984年」はビッグブラザーという単一の独裁者によって完全に全てが統制された世界だ。歴史は絶えず書き換えられる。言葉も、思想も、本も。Big Brother is watching you.
しかしこの小説にビッグブラザーは登場しない。それが本作の不穏さを助長する。ビッグブラザーのいない全体主義。そんなことがありえるだろうか?この問いに、否をもって答える人はいないだろう。戦前の日本こそビッグブラザーなしの全体主義国家であったのだから。
だからこう考えるべきだろう、村上春樹はこの小説で「日本」を扱っていると。戦前の日本を独裁者なしの全体主義というときに、「天皇は?」と問うことは村上の意図に沿ったものでしかない。一見全てを統治しているかに見える「リーダー」はリトルピープルの傀儡としての役割を果たしている。
しかしここで村上は更に混沌とさせるような設定をおく、つまりパシヴァとレシヴァだ。知覚するものと受け取るもの(ここには「伝える」役割もある)を分離することレシヴァなしにはパシヴァは意味を成さず、パシヴァなしにはレシヴァは意味を成さない。何かを感じ取ることとそれを適切な手段で伝えること。ここはよくわかんなかった。ただ、ふかえりのたどたどしい語り口は観念としてのふかえり(もう1人のふかえり)が造られたせいなんですよね、その一方で老婦人に保護される女の子(つばさでしたっけ?)は観念としてのつばさなのに、ほとんど口を聴くことが出来ない。伝える能力はいったいどこへ行ってしまったんだろう?それと対照をなす「リーダー」の饒舌っぷり。
あと、空気さなぎ。リトルピープルが紡ぎだすもの。観念としての人間を作り出す。現実と観念の世界を分割して、その行き来を扱うのは彼お得意の構成だけれども。ここもよくわからないんだけれども(こんな複雑な構造を一読で分かる人はすごいと思う)、リトルピープルによる全体主義のようなものを想定した時に、空気さなぎから観念としての存在を作り出すことは何を意味しているのだろう?そもそもリトルピープルは誰か?何か?それもまた観念なのだろうか?彼らは大きさも数も自由に変えられる。主要人物には手を出すことはできないけれども、その周りを掘り崩すことによってその人自体を破壊することもできる。(なぞなぞじゃないけど)これは何か?意識?観念?言説?ちょっと読み直さないことにはなんともいえません(つまり今手元にないので何もいえません)。
ただ、エルサレム賞受賞時の彼のスピーチが一つの参照軸にはなるのかなとも思います。壁としての「システム」ですね。

反リトルピープル的モーメント?小説によって世界は変わるのか?あぁそうか、この小説自体が反リトルピープル的モーメントなのか。村上は神の子どもたちが感じたものを伝えるレシヴァなのか。何れにしろ「日本社会」批判として読めてしまうのが面白いところですね。

また違う話をすれば、青豆と天吾。この2人の奇妙な恋愛が軸となっているわけですが。一方はエホバの証人、もう一方はNHKの徴収人の親をもち、休日は親に付いていくことを余儀なくされる。一方に新宗教、もう一方に労働。この2つを同じ位相に載せて2人だけの関係性を描き出す意図も汲まなくてはいけないだろう。

この小説は終わってはいない(これで終わりだったらかなり多くの部分の埋め合わせを読者に要求することになる)。だからまぁよくわかんないですけど、これだけはいえる。これはカルト集団を扱った話「ではない」、決して。というよりもカルト集団として特異化してしまうこと(オウムを典型として)は適切ではない。彼らを「異常者集団」として括るべきではなかった。それは間違いなく私たちの社会が生み出した鬼子なのだから。だから私たちは「オウムとはなんだったか?」を問い続けなければならない。それが私たちの社会そのものに根ざしていることに気づくまで。だから彼が扱ったのは「日本社会」そのものであって、これは「私たち」の物語でもあるのだろう。

ってかゆうかタイトル、英語だとどうなんだろうって思ったんですけど、1984と1q84だから十分ニュアンスが伝わるんですよね、さすがというかなんというか…

あまりに混沌としているので又書き直します。

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