神は死んだ──ニーチェの宣告は,ユダヤ・キリスト教文化を基層としてきた西欧思想に大きな深い「断層」をもたらした.「神の力」から解き放たれ,戦争と 暴力の絶えない20世紀に,思想家たちは自らの思想をどのように模索したか.ウェーバー,フロイト,ベンヤミン,アドルノなどの,未完に終わった主著から 読み解く.
なんだかかっこいいタイトル。けど帯を見るとそこに並ぶ思想家はウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノ。彼らの思想を「現代思想」と括る人はほとんどいないと思いますが、彼はそう括ります。ドゥルーズもデリダもラカンもフーコーさえも顔を出さない。アドルノなどフランクフルト学派を中心に研究をずーっと続けてきた彼にとって「現代思想」とは彼らの思想なのか、と。この時の「現代」とはcontemporaryというよりもmodernなのかだと思いますが。それはいいんです、それは重要なところではないと思います。
この本の目的、徳永さんはそれを最終章で「『大きな物語』を発掘すること」だとしている。彼は「大きな物語」とは地下を流れる伏流水のようなものであり、あるいは時に地殻をも揺るがす大断層だという。そうした「大きな物語」を発掘するためには、単線的な「時間概念」とそれに則った「歴史記述」という発想から離れようともがかなくてはならないと。曰く、
歴史を見る・読む・書くという言語行為の主体は、流れる時間のただ中にあって、共に流れつつ、自らが切り開き、せき止める断面を通して流れを透視し、その重ねあわされた断面を透かして歴史を言語化し、視覚的な図面へと構成する。そのように物語ることに伴う視座制約性への反省は、正しい歴史認識の条件であると共に、また錯誤の源泉をも意識させる。(235)
そしてこの記述は恐らく序章において彼がハーバーマスに示している共感と対応している。ハーバーマスが擁護し続けている近代的理性、それに僕が疑問を感じるように、この記述を僕はすんなりと受け入れることはできなかった。いや、この記述の大半は理解できる、「流れ」なるものがあるとすれば、という留保つきだけど。僕は、歴史というものは「書き換えられる」(竹内)だと思うし、歴史を記述することとはまさしく創造的な行為だと。しかし、それは「正しい歴史認識」云々とはまったく別の話だ。徳永さんはこの種の反省を通じて「正しい歴史認識」が可能だと考える。なぜ?そのとき「正しさ」を確定するのは誰なのか?なぜ全き外部に立つことができず、自身もその中におかれていること、その「流れ」を透視するしかできないことが「正しさ」を担保することになるのか?この点を理解することができないでいる。
そこで止まっては勿体ないので、この点は置いておいて次に進もう。この本は、ニーチェの死以降の「神なき時代」(こういう安直な謂いもどうかと思うのだが…)の思想を幾つかの断面によって、つまりウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノという4つの断面を通して浮き彫りにすることを目指している。おぉ…かっこいい。
けれども…、やはり勉強不足の僕にはこの4人の未完の思想を通して何が浮き彫りになったのかさっぱりわからなかった。書いていくうちにそれが分かってくるかもしれないので最後のとこだけちょっと復習してみたい。
ウェーバーの章の終盤部、ウェーバーの思想(その説明は目新しいというよりも、配慮のない言葉遣いをすれば凡庸ですらあるように感じる)を追いながら、それがニーチェの議論からの論理的帰結であるという。ウェーバーの教説の根底にはニーチェに由来する「価値ニヒリズム」と「宗教的無神論」があり、それは「啓蒙」の一つの帰結であったと。
そして次の文章でこの章を閉じる。
ウェーバーの舞台装置は、今やヤーヴェの主宰する神政の風土を去って、異教の神々の遊ぶオリュンポスの山に移っている。学問的にも、人間的にも。そこにはアポロンに交ってディオニソスの姿も見える。さらにはアフロディテの姿も、それらの陰に見え隠れしているように思われる。(65)
フロイトの章。僕はフロイトの最後の研究『人間モーゼと一神教』を未読なので、面白く読んだ。そしてなぜフロイトはこのような研究を行ったのかという当然の疑問を持った。著者はそれをモーゼの脱ユダヤ化することを介した、反ユダヤ主義への一種の応答として読もうとする。かなり強引にユダヤ教に絡めて議論を展開させようとしている印象も持つが。そんなこの章の最後はこうだ。
神は図像としては表せない。しかし象徴としてアレゴリーとして、しかし象徴としてアレゴリーとして、端的に言って、偶像として自らを示し解釈される。彼の死んだロンドンのフロイト記念館には、彼の愛した数々の土偶、異教の神像たちが、偶像の虚実のアウラを漂わせながら、小物展示棚から我々を見下ろしている(111)
ベンヤミンの章も、それなりに面白く読んだ。きっと長く読み込んできたんだろうな、という印象。けれども、ここでも彼はあまりにそれをユダヤ神学に結び付けて解釈しているように思う。それが正しいとか正しくないとかそういう話をしているんではなくてあくまでも解釈の問題だけれども、そうした読みがどれだけ創造的なのかなぁと思う。第一テーゼだって、それを「マルクス主義とユダヤ神学の結合」と読むよりも、孫歌さんのように「ベンヤミンは『歴史』のなかに『人』がいるということをよく分かっていた人間なんですね」、というほうが好きだ(単なる好みの問題なのかな?)。史的唯物論が神学を「使いこなす」か、神学が史的唯物論の「助けになる」のか、という訳の問題に僕はさほどの重要性を感じなかった。第九テーゼにしてもそれをユダヤ神学という点から考察するよりも、僕自身は、「歴史の天使」はそれでも「死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて組み立て」る力をもっているということ、そして強風に抗い廃墟から「歴史」を積み上げていくことこそが歴史学者の使命なのだ、というように理解することのほうが僕は好きだなぁ。
アドルノの章はさすがに長年研究してきたこともあって読み応えありますね。数十年前の自分の研究をなんの衒いもなく再録するあたり、貫禄あります。ハイデッガーとの対比はなかなか。もっと勉強してから出直します、という感じでした。ハイデッガーの「故郷」がここで言われるほど「素朴」なものなのか、考える余地はありそうですが、もっと勉強しないと何ともいえません。
さて、なんだか後半部分は粗くなってきましたが。徳永さんは最後のところで、断層は1本ではなくて無数にあり、複雑に絡み合っているのだ、といいます。そのようなものとしての「大きな物語」(それは大きな物語と呼びうるのか??)を想定したとき「神なき時代」としての現代には、その代わりになる存在とは何なのか?(という問いを彼は提起したいんだと思う。元の文章が意味を成していないのでなんともいえませんが)
ついでにここで描かれた断面とは思想家個人の断面でもあるのだよ、といってこの本を閉じます。
ここまで書いてもぼんやりしたまま。決して悪い本ではないとは思うのですが、ひょっとしたら何かが欠けているのかも、と思わずにはいられませんでした。
今日読んでいた本に次のようななかなか面白い一節がありました(孫引きですご容赦下さい)
ある本に存在価値があるとしたら、てっとり早く言って次の三つのアスペクトを体現しているものだと、私は思います。つまり、人がしかるべき立派な本を書くことができるのは、(1)同じ主題あるいはよく似た主題が、一種の全体的な“誤り”に陥っていると考えられる場合(この場合、本は論争的機能を果たす)、(2)その主題について大事なことが“忘れられている”と考えられる場合(この場合、本は発明的機能を果たす)、(3)新たな“概念”を創造することができると思われる場合(この場合、本は創造的機能を果たす)、この三つです(『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』 129-130頁)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿