2009年11月25日水曜日

フェルナン・ブローデル 『歴史入門』

二十世紀を代表する歴史学の大家が、代表作『物質文明・経済・資本主義』における歴史観を簡潔・明瞭に語り、歴史としての資本主義を独創的に意味付ける、アナール派歴史学の比類なき入門書。時間軸を輪切りにし、人間の歩みを生き生きと描き出す、ブローデル歴史学の神髄。

周知の通り『物質文明・経済・資本主義』の要約版です。資本主義のダイナミクス。
アナール学派について、詳しいことは全く知らない状態だったので、なかなか勉強になりました。面白いのは、この本にほとんどいわゆる「歴史上の人物」が登場しないこと。人物と人物を、出来事と出来事を線で結ぶ歴史ではなく(そして単線的ではなく)、長いスパンの内部での様々な変動をそれこそ教会簿などの諸史料を分析することによって市井の人々の動き(人口変動)、生活などを浮き上がらせる、歴史「空間」のようなものを作り出すこと、それが彼らにとっての歴史を書くことなのかな、と感じながら読んでいました。資本主義についての彼の認識は面白いですね、「近代」を特権化することなく、それこそ数百年単位の(緩慢にも見える)変動のなかで捉えようとしていく。ウォーラーステインの世界システム論と響きあうところがあり、また相違するところもある、とはブローデル自身が言及していること。この辺も勉強不足なので何ともいえないのですが。
また、「資本主義が階層を発明したのではなく、資本主義は階層を利用しているだけ」である、という指摘は面白いですね。どっちが卵かという話ではなくて、再帰的に両者が結びついているということでしょうか。彼の言う「物質文明」について、もう少し詳しく知りたいなぁ。

あと一つ二つ。「世界史」というのが実質的には「ヨーロッパ史」であったことについて。この「世界史としてのヨーロッパ史」というのは、「世界時間」の章で触れられるとおり、このときの「世界」とはそれがひとつの「世界-経済」でしかないのに、あたかもそこに外部のない普遍的な「世界史」として描かれてきたこと。非-西洋地域の歴史をヨーロッパ史の味付けでもなく、発展史的に位置づけることもなく語ることの重要性を、ブローデルはある程度言及しているように思える。でもアナール学派って、基本的にはヨーロッパ史にとどまるんですよね。
あと、ブローデルがもし生きていたとすれば、今日の世界をどのように見たか。今日の世界は単一の都市を中心に形成される秩序としてはもはや捉えられないだろう。ニューヨーク、ロンドン、東京などの「グローバル・シティ」の上部はもはや切り離すことのできないひとつのネットワーク構造だろうし、もはや明確な中心もない。この点を彼ならばどのように考えるのだろうか。

2009年11月24日火曜日

イタロ・カルヴィーノ 『くもの巣の小道』

少年ピンが加わったパルチザン部隊は、“愛すべきおちこぼれ”たちのふきだまりだった。普段、酒や女で頭がいっぱいの彼らが「死」をもってあがなおうとしているのは何なのだろう。なんとも嫌らしくて、不可解な大人たちである。パルチザンの行動と生活を少年の目を通して寓話的に描く。奇想天外な現代小説の鬼才・カルヴィーノの文学的原点の傑作。

パルチザン。なんともかっこいいイメージ。ファシストによる弾圧を耐え忍び、来るべき社会にために武器を手に取る闘士たち。そんなイメージをこの小説はこれでもか、っていうくらいに打ち壊してくれます。1946年にこの小説が発表されたこと、それ自体が大きな驚きでした。この時代、恐らく人々は解放感でいっぱいだっただろうし、自分がその解放のためにいかに闘ってきたか(実際にどうであったかは置いておいて)を盛んに主張していたことだろう。そんななかでこの小説はひとつの「爆弾」だったかもしれない。マスター・ナラティヴに抗すること。民衆の側から、「そうではなかった」、あるいは「そうであったのになかったことにされてきた」歴史を描くこと、これがネオ・レアリズモ文学というものなのかな、と僕は思います。タブッキの『イタリア広場』しかり、ヴィットリーニしかりパヴェーゼしかりギンズブルグしかり、そしてカルヴィーノのこの小説しかり。イタリアの文学にはそうした伝統が脈々と流れ着いているようです。あるいはオルミの『木靴の樹』もそうした系譜に位置しているのかもしれません。

ピンにとって大人たちはみな不可解で信用の置けない存在に見える。黒シャツのファシストもパルチザンも大差なく、大人たちはみな酒やら女やらピストルやら、そんなものに夢中になっているだけだ、と。ピンの所属する師団は吹き溜まりのようなところで、そこにはパルチザンの理念も、全体主義社会への反発もなにもない。それは闘士というよりも落伍者の集団だった。
確かにパルチザンに参加した者たちみなが、崇高な理念の下に結集した、という訳ではないだろう。やむにやまれぬ事情があったり、行き場所がどこにもなかったり、そうやって人が集まっていったのかもしれない。小説の後半部で、キムという人物が登場する。彼の発言・思想はこの小説のなかで奇妙に際立っている。キムもまた、ファシストたちと自分たちパルチザンの間にはほとんど違いはない、ただ向きが逆なだけだと。自分たちは正しい方向を向いているが、彼らのそれは誤っている、私たちは「歴史の一部」になることができるけれども、彼らは歴史を作ることはできないのだと。その上で、いわば偶発的に集まってきた人々を、正しい方向に向けさせるのが自分の役割であると、キムは考える。ここでの「歴史」とはマスター・ナラティヴのことではないだろう。むしろ一人一人の血が通うような生きられた「歴史」とでもいうのだろうか(難しい、少し保留で。けど竹内好ならば恐らくこうした「歴史」が息づいた文学のことを「国民文学」と呼んだだろう)。解説やあとがきを読んでいると、カルヴィーノはピンとキムの両方に自分を照射していたのではないか、との指摘がある。そうであれば、キムが「人々を正しい方向に向けさせるのが自分の役割」と思ったように、カルヴィーノもまた解放後の浮ついた社会の中で、再び人々を正しい方向に向けさせていくのが自分の役割であると考えたのだろうか。

2009年11月23日月曜日

ロドリゴ・レイローサ 『船の救世主』

「恐怖や脅威は、私の小説の主要なテーマのひとつだ。特定の人間に対して感じる恐怖ではなく、見知らぬ環境や状況がもたらす恐怖だ」

「小説家としての私のキャリアにおける最大の事件は、モロッコへ出かけたことと、グアテマラで生まれたことだと思っている」             
         ・・・・ロドリゴ・レイローサ

なんとも奇妙な中篇です。冒頭、主人公である海軍大将が沈んだ船を引き上げる作業を監督している(すでにこの時点でどこかおかしい)。そんななか、「各国を戦争に追いやったウイルス」や「地球規模に広まった自殺熱」への恐怖から軍人を対象に心理検査が行われることになり、そのために大将は嫌々ながら首都に帰っていく。このあたりは(軍人による)独裁体制やそれに起因する(のか?)世界大戦を念頭においているのだろう。その後、心理検査で「異常」と見做されることを恐れる、「厳格で模範的な軍人」である大将はこっそり図書館で心理学の本を漁り予習しようとするのだが(小心というかせこいというか…)、そこに妙な男が現れ、彼に謎めいた冊子を手渡す…
という感じです。短いですけど面白い。そして何より「奇妙」です。正常と異常の間と現実と幻想の間。視点も大将の側になったかと思えば、次の章では分析医のそれになる。読んでいくとその「妙な男」は実在したようにも読めるし、大将の幻覚に過ぎないような気もしてくる。
マクレランド図版のある図版になぜあんな過敏な反応を大将が示したのかもよく分からないし、パンフレットの内容も謎めいている。荒唐無稽なようにも見えるけれども、それなりに意味があるないようにも読める…。そしてラストである人物がそのパンフレットの一句を想起するのは何故だろう…、とかよくわからないところも沢山あるけどそれもまたよし。ラストにはびっくりですが。「正常」と「狂気」の線引きを混乱させる、そんな小説。いつから「頭がおかしくなった」なんて、あまり意味はないですね。ここでの狂気は、個人のそれでもあるし、組織におけるそれでもあり、また世界にウイルスのように蔓延するものでもあるようです。面白いですよ。

2009年11月22日日曜日

松浦寿輝 『花腐し』

多国籍な街、新宿・大久保の片隅、夜雨に穿たれた男の内部の穴に顕現する茸と花のイメージ。少女の肉体の襞をめくり上げ見える世界の裏側。腐敗してゆく現代の生と性の感覚を鋭く描く「知」と「抒情」の競演。

うーんなんとも…。じめじめぬらぬらした世界です。嫌いじゃないけど、なんともどんよりしますね。松浦さんの仕事はこれまで読んできていないので(それこそ古井さんとの『色と空のあわいで』くらいしか)、変なこと言えませんが。評論のなかで彼がやってきたこと、それとこの小説とはぴったりとくっついているのでしょうか。僕は年を取れば取るほど、「官能」から自由になれるものかと思っていたけど、そんなことはないみたいですね。むしろ年月を経るほどそれは身体のなかに、それこそ澱のように沈滞していくみたいで。うーむと。都市と人生と性。この重なりは面白いですね。襞のような路地に誘われていく男、「フリダシモドル」と「とまれみろ」…なんともじっとりした官能の世界が広がっています。僕はおなかいっぱいですが。
…全く整理が付いていないのが見え見えですが。それだけ混乱させられた、というのが正直なところです。申し訳ありません。

2009年11月21日土曜日

ダナ・アーノルド 『美術史』

巨匠の傑作や様式中心の考え方を批判し,美術を社会や文化,人間との関わりの中で捉えかえす現代の美術史学は,何をテーマとし,どんな議論を行なっているのか.イースター島の巨像からモネの絵画,前衛芸術,さらにはビデオゲームのキャラクターまで,多様な視覚的素材を用いながら,美術について考えるさまざまな視点や方法を解説.

岩波の「1冊でわかる」シリーズ。Oxford University Pressから出ているVery Short Introductionsシリーズの翻訳ですね。この岩波からの翻訳は最新刊が今年の2月にも出ており、翻訳自体も続いているようです。でもそれ以上のペースで原著が刊行されているようで。あんま売れないかもしれないけど(僕が買ったのは2刷)がんばって欲しいものです。このシリーズはいいですね。ポスト構造主義についてキャサリン・ベルシー(『文化と現実界』は面白い)が書いていたり、文学理論をジョナサン・カラーが書いていたり、ヨーロッパ大陸の哲学をクリッチリーが書いていたり。多くは積読状態が続いていますが、本棚に並べてるだけでもきれいですね。

この本は美術史を叙述する(それこそ高階さんの『近代絵画史』のような)ものではありません。それを期待すると間違いなく肩透かしを食らうことになります。どちらかというと美術史や美術史学の有り様、系譜、問題点などについて整理しています。ポスト・コロニアリズム批評やフェミニズム批評、そしてマルクス主義が美術史(学)に与えた影響にも眼を配りつつ、更には視覚文化研究との結節点にも言及した、とてもバランスのよい入門書ではないか、という印象を受けました。美術と思想の関係についても、決して十分とはいえませんが、ある程度分量を割いて言及しています。キーワード集も、ちょっとした勘違いや知ったつもりになっていた言葉を捉えなおすのにいいかもしれません。また巻末の解説も、美術史学、また日本近代美術に対して関心がある人には役に立つものだと思います。まぁ1500円を高いと思うか安いと思うかによるとは思いますが、個人的には買ってよかったな、という感じです。

2009年11月19日木曜日

角田光代 『対岸の彼女』

30代、既婚、子持ちの「勝ち犬」小夜子と、独身、子なしの「負け犬」葵。立場が違うということは、時に女同士を決裂させる。女の人を区別するのは、女の人だ。性格も生活環境も全く違う2人の女性の友情は成立するのか…?

読みさしの本を終えてしまい、なんとなしに買った本。わからないような、すごくよくわかるような。男性作家が女性をある種のステレオタイプとして描いてきたこと、これはよく聞く話で、だけど女性作家が男性を、特に「夫」を描こうとするときもまた似たようなメカニズムが働くのだろうか。主要な役割を果たす人物をのぞいて、人物造形があまりにも平面的な印象を受けた。「いかにも」な夫、姑、母親、周囲の母親たち…。分かる、というよりも分かった気になる。けどよく考えてみると分かるわけないのだけれど。たぶん、この小説は、それを手に取る人によって全然感じ方が違うのだろう。例えば僕の母はこれをどう読んだんだろう?そんなことも考えた。何れにせよ僕にとっては「分かったつもり」になってしまう、よくない本だった。きっと僕は何も分かっちゃいないんだろう、との自戒も込めつつ。話自体は嫌いじゃないけれど、すっきりせず。

そうそう、あらすじのところに「勝ち犬」やら「負け犬」やら変な言葉が踊っているけど、あれは刊行当時の流行りかね。そんな話じゃないと思うけど、まぁいいや。

2009年11月14日土曜日

コーマック・マッカーシー 『すべての美しい馬』

1949年。祖父が死に、愛する牧場が人手に渡ることを知った16歳のジョン・グレイディ・コールは、自分の人生を選びとるために親友ロリンズと愛馬とともにメキシコへ越境した。この荒々しい土地でなら、牧場で馬とともに生きていくことができると考えたのだ。途中で年下の少年を一人、道連れに加え、三人は予想だにしない運命の渦中へと踏みこんでいく。至高の恋と苛烈な暴力を鮮烈に描き出す永遠のアメリカ青春小説の傑作。

『越境』の流れで読んでしまいました。またも一気読み。『血と暴力の国』を読んだときは、いいなぁと思いつつもそこまではまらなかったので、コーマック・マッカーシーにどっぷりしたのは今月が初めて。来月は『ブラッド・メリディアン』の邦訳も出るらしく、年内はどっぷりし続けでしょうか。<国境三部作>のうち、『平原の町』は未読ですが、例によって版元品切れ。古本屋を漁るか、洋書を買うかですが、どちらも安くはないですね。文庫化して欲しい。こないだThe Roadを安く買えたので、とりあえずそっちで紛らわそうかと。

『越境』とどっちが好きかとなると、僕は『越境』の方を推しますが、どちらもすばらしい作品であることは間違いないと思います。自然や動物(特にこの小説では馬)の描写が卓抜。マッカーシーにとってこうした自然や動物は、単なる書き割りでも舞台でも小道具でもない。
いいなぁ。

2009年11月8日日曜日

コーマック・マッカーシー 『越境』

十六歳のビリーは、家畜を襲っていた牝狼を罠で捕らえた。いまや近隣で狼は珍しく、メキシコから越境してきたに違いない。父の指示には反するものの、彼は傷つきながらも気高い狼を故郷の山に帰してやりたいとの強い衝動を感じた。そして彼は、家族には何も告げずに、牝狼を連れて不法に国境を越えてしまう。長い旅路の果てに底なしの哀しみが待ち受けているとも知らず―孤高の巨匠が描き上げる、美しく残酷な青春小説。

この小説に出会えてよかった。とにかく圧倒されました。
ギリシャ悲劇のような、そんな感じです。
どう感想を書けばいいのかわからないけれども、とにかく揺さぶられる。
緻密に構成された小説です。3回の越境と、その度に老人から語られる物語。それは物語だけれども、寓話めいていて、それがビリーの「運命」とも共鳴する。それらの話は全て、「世界」と人間の「運命」に関わるもので(だからとても哲学的であり神学的でもある)、それはビリーの「世界」とかれの「運命」にも関わりあう。そしてそれにビリーはとめどなく押し流されていく。でもそれにたいしてビリーは立ち向かうのではなくて、むしろ積極的に押し流されていくように感じた。「運命」に抗うのではなくて、それを肯定するように。
そのビリーの様も、織り込まれる挿話も、一つ一つにとても魅了された。
このなかでのアメリカとメキシコの「越境」、狼がアメリカに「越境」したことに物語は始まり、その狼を捕らえたことによってビリーはある意味で「越境」を経験する。そしてそのあとに、メキシコに「越境」し、ふたたびビリーは変わる、そして「ホーム」であったアメリカも変わっていく(少なくともビリーにとっては)。「越境」は物理的な行為ではない、おそらく。ビリーも国境横断自体は何てことなく遂げるのだから。なによりも「越境」というのは精神的な行為で、それは越境者の「世界(像)」を変えるものなんだろう。眼を吸い取られた老人もまた越境者であるだろう。神に論争を仕掛ける男に出会った司祭もまたそうなのだろう。そうした「越境」によって形作られ壊された「世界(像)」はもとの姿に戻ることはないのだろう。

とても透き通っていて脆いようにも見えるけれども、それゆえに鋭く美しい文章。ハードボイルドな小説?って聞かれたけど、そうじゃないです。また、動物や自然の描写、それらと人間とのやり取り、関わり合いの描き方もとても美しい。いいです。