2009年5月15日金曜日

廣瀬純 『シネキャピタル』

シネキャピタル――普通のイメージ=労働者たちの不払い労働にもとづく、新手のカネ儲けの体制!搾取されてるっていうのに、ぼくや彼女ら「普通の鳥」は、働くことにやりがいや喜びさえ感じている。それどころか、観客=投機家として無数の企業のために、いっそうタダ働きをしてしまっている。どんなやり方でシネキャピタルは、この剰余価値生産にぼくたちを組み込んでいるの?こんな暮らしから身を引き、「労働からの解放」、「解放された労働」を獲得するなんてできるの?

とても愉快な本です、革命的「シネマ」論、いやいや「シネマ」的革命論とでもいうべきでしょうか。ドゥルーズの『シネマ1・2』を「シネキャピタル」なる概念で読み替えながら、映画論でも凡庸なドゥルーズ論でもない、イメージ/労働論が展開されています。装丁も、挿絵も、注釈も、全てが面白い。これは手にとってみれば分かります。

『シネマ』はいまだ積読中のため、『シネマ』からの影響、彼の読みや解釈の面白さ等々については充分に語れないのが残念なのですが。初期のドゥルーズを追う作業を一通り終えたら突入しようかなと考えています。

さて。

エイゼンシュタインらの映画を取り上げながらドゥルーズは、「特異性の生産(質的飛躍)が普通のものの蓄積(量的過程)を通じてなされる」ことを指摘する。これはどういうことか。廣瀬は普通のイメージたちが「モンタージュ」によって特殊に配列され、その配列(つまりイメージの協働)によって特異なものを生産していく(正確に言えばシネキャピタルによって生産させられる)、そのように解説します。つまり映画とは普通のイメージの組み合わせでありながら、その組み合わせによって「特異なもの」を生み出す装置なのであり、言い換えれば、各々のイメージの和、つまり1+1の和は2、ではなく3になるのだ、と。それを廣瀬は次のように読み替えようとする、曰く「普通のものたちの協働が際立つものを剰余価値として生産する」と考えることができるのではないか、と。普通のイメージを余計に働かせ、搾取することによって映画=資本(シネキャピタル)はその剰余を簒奪しているのではないか、と。映画における剰余価値生産?その通り、そして廣瀬はそれを内包的ギャップとして、つまり潜勢的なものと現勢的なものという2つのアスペクトが孕むギャップとして説明していく。ヒッチコックの『鳥』に登場する鳥たちには2つのアスペクトがある、一つは「ヒッチコックの鳥」になる力、もう一つは「普通の鳥」というアスペクトが。彼らは「ヒッチコックの鳥」として映画に現れるにもかかわらず、その現勢的なアスペクトに対してしか、そなわち「普通の鳥」としてしかその対価を支払われることがない。それゆえ先の式、1+1に戻るならば賃金としては2しか支払っていないにもかかわらず、質的飛躍によって1+1は3になる。ここに余剰価値の収奪がここに見られるのだと。
価値増殖のメカニズムとしてのモンタージュ、それは時代を経るにつれに洗練され、定式化していく。そしてついには過剰生産によってそれ自体がクリシェ化していく。それこそが「行動イメージの危機」である。しかしシネキャピタルの力はそうした危機を逆用することによって乗り越えを図る、それが「パロディ化」だ。モンタージュのクリシェ化、そのクリシェ化をパロディとすることによって、更に映画は剰余価値の収奪を引き続けようとする。ただ、それは長続きしない、パロディ自体もクリシェ化していくことは自明のことだから。それではその先にあるのは映画=資本の死だろうか。そのクリシェ化の極限にある「映画内映画」、「イメージについてのイメージ」は「歴史の終焉」なのか?
こうした意見にドゥルーズは、そして廣瀬は真っ向から反論する。「映画についての映画」や「イメージについてのイメージ」は断じて「映画の死」「歴史の終焉」などではない、そうした「インチキな認識」からそれらを救い出さなければならない、それに加えてイメージたちを余剰価値増殖のメカニズムから解放しなければならない、と。そうした両面での格闘を可能にする概念こそ「結晶イメージ」なのだ。「イメージについてのイメージ」はまさにそうした価値増殖のメカニズムからの解放であり、イメージそれ自体が潜勢的にもつ力を見出していくプロセスなのだ。シネキャピタル的生産における剰余労働の拒否、潜勢力の現勢化そのものの拒否、それによって普通のイメージたちは結晶的体制へとなだれ込み、そこで新たな機械的アレンジメントを構築していく。そこにおいて、各々のイメージはそれ自体が結晶をなし、自律性を取り戻すのだ、と。すなわち結晶的な「自己価値形成」。

これが1章の大まかな内容です。意味分からんけど面白そう、そんな感じしませんか?実際読んでみるとそんな意味分からんでもないのですが、少し論旨が錯綜したり飛躍したりで追うのに戸惑ったりもします。2章以降もこんな感じで進んでいきます、『時間イメージ』のほうへ、とりあえず付いて行ってみて下さい、抜群に面白いですから。そしてここでは映画についてイメージについての表面的な整理に留めて置いたのですが、これには裏があるんですね。すなわち、ここで取り上げられているのはシネキャピタルなわけで、イメージたちの労働、剰余価値の収奪メカニズム、これをいかようにも「労働」というものについて読み替えていくことができる。ここが面白いんですね。そしてなによりも…


歴史の機関車の非常停止ブレーキに私たちが手をかけた時、そこに広がる光景に私たちは耐えられるのか。その記号の、イメージの、光の横溢に私たちは目を背けブレーキから手を離し、再び機関車は加速してしまうのか。



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