2010年4月30日金曜日

岡真理 『彼女の「正しい」名前とは何か』

西洋フェミニズムの「普遍的正義」の裏に、異なる文化への差別意識がひそんではいないか―。女性であり、かつ植民地主義の加害者の側に位置することを引き受け、「他者」を一方的に語ることの暴力性を凝視しながら、ことばと名前を奪われた人びとに応答する道をさぐる、大胆にして繊細な文化の政治学。

『アラブ、祈りとしての文学』は優れた書物だった。優麗な文体と、根源的な問題意識と感性に裏打ちされた批評とが高度なレベルで調和していて、読む者の心を打つようなそんな本。装幀も素敵でしたね。あれを読んで以来、「アラブ文学」に親しむようになった。何よりもガッサン・カナファーニーの小説を読むきっかけとなったこと、それだけで僕にとって『アラブ、祈りとしての文学』は大きな意味をもつ著作だった。

そんな岡真理が、2000年に著したのが、本書。といっても『現代思想』などへの掲載論文を加筆修正し、編集したものだけれども(こんな本ばっかり目につきますね)。文章はまだ若書き、というか筆が上滑りしている印象がある。というよりも、ある種の切迫感に追いつめられているような、そんな印象。これはきっと岡真理が、非常に真摯な研究者である証だろう。彼女は、自身の問題意識と現実との間に板挟みになり、そんな中でなんとか自分自身を前に進めていこうとしていたのではないだろうか。もちろん、この本は読者を(つまりこの場合は「日本人」男性、女性を)撃つ、あるいはその基盤を切り崩すことを目指しているわけだけれども、それ以上に自傷的な印象すら受けてしまう。繰り返されるポジショナリティへの反問と出口なしにすら見える非対称的な関係性の弾劾。ひたむき、かつ真摯に紡がれる思考たち。恐らく、「第三世界」フェミニズムを(から、ではなく)思考するというのはこういうことなのだろう。とりわけ西洋化された人間が、「第三世界」の女性たちについて考えるというのは非常に困難なことなのは間違いない。まず自らの土台を徹底的に掘り崩さなくてはいけないのだから。しかし、この土台の切り崩しは貫徹しえないだろうし、非対称的な関係性は完全に消え去ることなどないだろう。それにも関わらず(というよりも、だからこそ)、「第三世界の女性たち」と対話的な関係を取り持たなければならない。「サバルタン」という言葉を岡真理は本書で一度も用いようとしない、恐らくは意図的に。それは彼女たちを「サバルタン」と名付けてしまう暴力を彼女が重々承知しているからなのだろう。あるいは、そもそも「サバルタン」と名付けることなど可能なのだろうか。「サバルタン」とはどこまでも不可視的な存在だろうし、一種の「残余」としてしか位置づけられないだろう。見えない、けれどもそこにいるはずの何かを指す言葉、それが「サバルタン」なのだろう。しかし、見えない、というときの主体は何か。それはやはり「西洋」に他ならない。つまり「サバルタン」とは西洋が、見えないものを可視化させ対象化するための用語に過ぎないのではないか。したがって「サバルタン」はどこまでいっても客体=モノでしかなく、語ることなどできない。いや、語ることができないというよりも、聞き取ってもらえないというべきだろうか。彼女たちは常に語っているのだろうから。
岡が何よりも反発するのはこうした、第三世界の女性たちを客体化していくやり方なのだろう。西洋のフェミニストたちは第三世界の女性たちについて語る。その議論の場を占めるのは西洋の人々だけであり、第三世界の人々に居場所はない。恐らく、西洋にとって、彼女たちは「議題」でしかないのだ。しかし、彼女たちはモノではない。西洋人たちのサロンに押し掛け、その植民地主義的な思考法を、空間性そのものを暴き出してみせる。そのとき、西洋の女性たちは対話を拒否し、彼女たちを前-近代的で野蛮な存在と断ずることによって再び彼女たちをモノへと押し込めようとする……。

そんな中、岡は彼女たちと対話の空間を開くことを目指している。しかし、その中で文学が占める位置とはどのようなものなのか。アラブ文学を研究することと彼女たちとの対話的空間を創出することはどのように関わるのか。この点についての掘り下げは、まだこの時点では十分になされてはいないし、ひたすら「西洋」を、そして自らを弾劾することに留まっている。そうした態度はナイーヴすぎると批判されても仕方がない点だろう。ある意味では本書は過渡的な著作なのだと思うし、『アラブ、祈りとしての文学』においてそれは体現されているのだと、僕は思う。
とはいえ、岡の真摯さに僕自身としては痛みを伴うような感銘を受けた。彼女の真摯な叙述にはやはりこちらも真摯になって耳を傾けるべきだろう。
(ちなみに「西洋」という言葉を幾度となく使ったけれど、この中には当然「日本」も含まれる。)

2010年4月29日木曜日

依田高典 『行動経済学—感情に揺れる経済心理』

完全無欠な人間が完全な情報を得て正しい判断をする―これが経済学の仮定する経済人である。だが、現実にはこのような人間はいない。情報はあまりに多く、買い物をしたあとでもっと安い店を知って後悔する。正しい判断がいつも実行できるわけではなく、禁煙やダイエットも失敗しがちだ。本書は、このような人間の特性に即した「行動経済学」を経済学史の中に位置づけ直し、その理論、可能性を詳しく紹介する。

経済学についての素養は全くないままに、とりあえず話題だからということで読んでみました。なんだか構成があまりよくないし、重複する内容が繰り返されるのはちょっとアレですが。経済学関係の書籍(特に新書)は活発ですね。

伝統的な経済学と行動経済学の最大の違いは人間の合理性についての認識にあるとのこと。

伝統的経済学では、人間を完全に合理的であると考えるところから出発する。もちろん、だからといって、経済学者が、人間が本当にホモエコノミクスのように振る舞うと信じている訳ではない。完全合理性の仮定から予想される均衡経済の状態を考え、実際の人間の合理性が不完全であるならば、現実の経済がどの程度均衡状態から外れるのかを考えれば良かろうと思っている。…だが、そのような迂回したアプローチで本当に痒いところに手が届くのかどうかはよく分からない。

人間の合理性には限界があって、現実の経済は完全合理性の仮定した均衡状態と一致することはない。であるならば、人間の非合理的に見える行動を分析することを経済学に組み込まなくてはならない。この発想が行動経済学の基底にあるものなんだろう。だから、人間の対象把握や行動を分析する認知心理学のような学問と行動心理学は親和性が高いし、そこで見られる知見をモデル化(数式化?)することによって、より精度の高い経済行動の把握に努めることになる。ヒューリスティックスなんて認知心理学以外で聞くことになるとは思わなかったよ。

話がごちゃごちゃしていますが、おおむね親切に説明してくれているので、確かに経済学の知識がなくても読むことができる…はずです。が、正直言って第3章あたりはちょっときつかったなぁ。数式の意味がよく分からなかったり。あと、読むことはできるとはいっても、ある程度知識をもった上で本書を読むのとでは、全然違うと思う。やっぱりある程度勉強してから、こういう最先端(?)のを追うべきだなぁ、と改めて思いました。

経済学で、こういう問題意識から新たな学問が発展していくというのはとても面白いこと。ただ、終盤部の脳科学と経済学との関係はちょっといかがわしさと危うさを感じます。脳科学ってちょっと怪しい、いやだいぶ怪しい。ロンブローゾの後を継いだ学問になりかねないなぁ、と。脳科学者もなんだか怪しげな人たちばっかだし。
あと、経済学というのはどこまでいってもマネージメントのための学問ですね。国家の学といってもいいけれども。行動経済学の発展は、より精確に個人の行動を国家や企業によって管理することへと間違いなく帰結するでしょう。あぁ罪深い。。特定検診・特定保健指導なんかを肯定的に評価しちゃって…。「効用」というマジックワードをこうも汎用的に使ってみせるのはさすがは経済学者だな、と。健康+長寿が即「将来のより大きい効用」とかおめでたいと言うかなんというか…
誰かアナーキー経済学でもやってくれりゃいいのに。いつまでも恭順な犬でいいのか、立ち上がってくれよ。
あぁ、相性の悪さ故に言わなくてもいいことを言ってしまった。単に理解できないことに対する僻みなのであまり気にしないでください。

マルグリット・ユルスナール 『とどめの一撃』

「エリック、なんて変ったんでしょう」ともに少年期を過ごした館に帰り着いたエリック、コンラートのふたりを迎えたのはコンラートの姉ソフィーだった。第一次世界大戦とロシア革命の動乱期、バルト海沿岸地方の混乱を背景に3人の男女と愛と死のドラマが展開する。フランスの女流作家ユルスナール(1903‐87)の傑作。

ユルスナールの中編小説。岩波文庫版で読みましたが、現在は白水社のユルスナールコレクションに「アレクシス」などとともに収録されているようです。

小説の前に、映画の話を。この『とどめの一撃』は1976年にフォルカー・シュレンドルフによって映画化されています。シュレンドルフといったらニュー・ジャーマン・シネマを代表する映画監督の一人ですね。本作や「ブリキの太鼓」など文芸作品の映画化を得意にしている印象です。トゥルニエの『魔王』やムージルの『テルレスの青春』も映画化しているんですか。

この映画が日本語字幕付きでYoutubeに落ちていたので、ついでに観てみました。個人的にはそこまでいい映画とも思いませんでしたが、いつ消されるかわからないので、気が向いたら観てみてください。

ちなみに(真偽はさておき)この映画を観て、ユルスナールは「フェミニズム映画だ」と発言したらしいです。確かに言わんとすることは分かる気がします。エリックの一人称の独白もあって、小説ではエリックの葛藤やら抑圧やらが巧みに描き出されています。しかし、それを映画は表現できません。更に1970年代半ばという時代背景も相まってか、ソフィーの振る舞いや行動が映画の進行の鍵となっていきます。ひょっとしたらその点を指して、「フェミニズム映画」だと評したのかもしれません。
更にそれよりも大きな相違がこの映画と小説のあいだにはあります。映画においては、エリックは露骨なくらい明らかに、コンラートに対して恋愛感情を抱いています。むしろこの三角関係とその末路を描き出すことにシュレンドルフは執心しているように感じられました。このエリックのコンラートへの愛というのは、小説ではほとんど前景化していません。そして、そのせいでラストシーンの魅力が大いに減ぜられているのも事実です。

個人的な印象としては、エリックは自分の独白以上にソフィーを愛していただろうし、ともすればそれ故に彼女を遠ざけ続けたのだと思います。他方で、コンラートに対してもエリックが強烈な愛情を抱いていたのだろうとも。
とはいえこのことは置いておいて、まず、ユルスナールがわざわざ付けた「序」について。
この「序」はオリジナルの刊行当時(1939年)にはなく、1962年に書き足されたものあったもの、とのことです。どういう経緯なのかは分かりません。でも、これがあとがきではなく冒頭に置かれているがゆえに、読者は本文を読む前に、この解説めいた「序」を読まなくてはいけなくなります。丁寧にも、本作の背景、構成、形式、主題、鑑賞のポイント、などをあらかじめ教えられることになります。
これがエリックの独白(待合室での聞き手を想定しない語り)によってなされていること、そしてそれ故に必ずしもその語りをそのまま鵜呑みにしてはならず、読者は語られたことに注目するだけではなく、語られなかったことにも注目しなければならない、と警告されます。そんなことをいわれるとどんな読者だって注意深く彼の独白に耳を傾けることになるでしょうし、(ときに過剰なまでに)その行間を埋めていこうとするはずです。
その「序」から1カ所だけ引用すると、

『とどめの一撃』の中心主題は、なによりもまず、同じ窮地に立たされ、同じ危険にさらされたこれら三人に見られる種族の共通性であり、運命の連帯感なのだ。なかでもエリックとソフィーは、自分自身の極限まで行き着こうとする一徹さと情熱的な趣味によって似通っている。ソフィーが過ちを犯すのは、誰かに身をまかせたい、誰かの気に入りたいという欲望よりもはるかに、身も心も捧げ尽くしたいという欲求からなのである。コンラートに対するエリックの愛着は、肉体的行動以上のものであり、感情的態度を超えるものとさえいえる。

残念ながらエリックはコンラートについて多くを語らなかった。その語らなかったことが何を意味するのかは、様々な捉え方があるだろう。最後にソフィーは命を落とし、それを「悔い」として引き受けたエリックのなかでソフィーは生き続けることになる。いわばソフィーは身も心もエリックに捧げ尽くすことを貫徹し、それによってエリックのなかで「生きる」ことになるんだろう。エリックはコンラートにとどめを刺すことができなかった。何度もその誘惑に駆られながらも、卑怯さ故にそれを達成することができなかった。しかし、ソフィーに対してはそれが可能だった。ソフィーにとどめを刺すことができたのはソフィーがそれを望んでいたからで、コンラートにとどめを刺すことができなかったのは、それを望んでいるかどうか分からなかったからなのかもしれない。この三者の関係は愛と憎悪と死と沈黙が入り交じっていて、とても捉えにくい、というのが正直なところ。ユルスナールの解説以上のことを書こうとしたけれども、僕の技量ではとてもできませんでした。

2010年4月27日火曜日

岡田温司 『イタリア現代思想への招待』

ジョルジョ・アガンベン、ウンベルト・エーコ、アントニオ・ネグリ、マッシモ・カッチャーリ…。いまや世界の現代思想のシーンは、イタリアの思想家たちを抜きにしては語れない。ジル・ドゥルーズやジャック・デリダらフランスの巨星たちがあいついでこの世を去ったあと、なぜ、イタリア思想の重要性に注目が集まるのか。現代思想の最尖端で、いま何が問題なのか、そしてどのような可能性があるのか。哲学、美学、政治学、社会学、宗教学、女性学など幅広い分野での彼らの刺激的な仕事を、明快な筆致で紹介する。

まさに三面六臂という形容がふさわしい、分野を超え精力的な活躍を続ける岡田温司さん。
本書は、「ラチオ」での連載をまとめたもの。そういえば「ラチオ」はもう出ないんでしょうか。なかなか読み応えのあるいい思想誌だと思うのですが。

最近何かと話題のイタリア現代思想の紹介本。痒いところに手が届くような、実にありがたい企画ですね。といっても邦訳がなかなかないので、もっと痒くなってしまうのがオチでしょうが。いつぞやに触れたアドリアーナ・カヴァレロも言及されています。カヴァレロはジュディス・バトラーが『自分自身を説明すること』で引用していましたね。
アガンベン、カッチャーリ、エスポジトなどなど話題の思想家を丁寧に紹介しています。邦訳がないものについても、各々の思想のエッセンスをちゃんと押さえて書いてくれているので、下手な本を読むよりも勉強になります。

アガンベンと言えば、最近続々と刊行されていますね。ここ半年では『思考の潜勢力』(月曜社)、『言葉と死』(ちくま)、『王国と栄光』。あと岩波から『アガンベン入門』なるものも出ています。何かと毀誉褒貶が激しいですが。アガンベンへの批判ってみんながみんな似通ったことを言っている気がするんですが、どうなんでしょう。特に「フーコー主義者」の人はやたら手厳しいですね。とりあえず、これでホモ・サケル三部作の訳書が揃った訳ですし、一通り読んでからにしましょう。『ホモ・サケル』と『例外状態』くらいしか読んでいないので。アガンベンブーム、来るのでしょうか。

カッチャーリと言えば、『多島海』は一体いつになれば……。月曜社の近刊予告に出てはや数年、といった感じですが。「(理念としての?)ヨーロッパ」というのははっきりいってよく分からないので、ぜひ読みたいのですが。そういえば竹内好は「方法としてのアジア」のなかでこんなことを言っていましたね。

西洋的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性を作り出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する。(『日本とアジア』pp.469)

何やら謎めいた一節ですし、これだけだと誤解を招きかねないところだとは思います。だけれども、場合によってはこの竹内の思想とカッチャーリの「ヨーロッパ」がどこかで響き合うのかもしれない、とは思う訳です。そのためにも、ぜひぜひお願いします。

この他にも色々と紹介しています。その他言及されていた人々についてはhttp://guards-dance.blogspot.com/2008/06/blog-post_19.htmlが丁寧に起こしてくれています。ご参照まで。

アウトノミア関係の話がもう少しあってもいいとは思いましたが、それは欲張り過ぎというものでしょう。そういやフランコ・ベラルディは出てきませんでしたね。ちょっと毛色が違うのかな。

数年後には、ここに載っていた思想家たちの著作が少しずつ邦訳されていくことになるでしょう。確かに面白いもの。でも早く読みたいなぁと思ったら、イタリア語を勉強する方が早いかもしれないですね。僕としても、これは読んでみたいなぁと思う本がいくつもいくつもありました。

ただの紹介本には留まらない、とても有用なイタリア現代思想ガイド+解説書です。
これを読んで「フランスの時代は終わったね、これからはイタリアだよ」とかのたまってみたい人にもいいんじゃないでしょうか、ただそんなこと言うと失笑されるリスクはあります。

コーマック・マッカーシー 『平原の町』

十九歳になったジョン・グレイディ・コールは国境近くの牧場で働いていた。メキシコ人の幼い娼婦と激しい恋に落ちた彼は、愛馬や租父の遺品を売り払ってでも彼女と結婚しようと固く心に決めた。同僚のビリーは当初、ジョン・グレイディの計画に反対だった。だがやがて、その直情に負け、娼婦の身請けに力を貸す約束をする。運命の恋に突き進む若者の鮮烈な青春を、失われゆく西部を舞台に謳い上げる、国境三部作の完結篇。

『すべての美しい馬』『越境』を読んでからだいぶ間が空いてしまった。
どれが一番好きかって聞かれたらやっぱり『越境』って答えるだろうけれど、この三部作を読み終えた人なら、そんなことを尋ねたりなんかしないだろう。なんで、彼がこの後、『血と暴力の国』を書いたのか、それが今ならよく分かる。あるいは、彼は同じことを様々な形(場所、時間)で書き続けているのかもしれない。

前二作のような、メキシコへの冒険、彷徨がない分、自然や動物たちの描写は抑制されており、人間同士の語らいが前景化している。それが一面では魅力を減じさせていることは否定できないが、その分彼特有の会話のスタイル、あるいはこういってよければ、絢爛さを取り払ったドライかつ簡潔な語らいが活かされており、リズミカルな雰囲気さえ生んでいるように思う。自然や動物たちの描写が抑制されているとはいっても、その描き方の挿入は実に絶妙で、やはり圧倒的な存在感を放っている。
解説で豊崎が言うように、恋愛譚だけに注目するならば、それはソープオペラ的で「陳腐」ですらあるのだけれども、読んでいる最中にそんなことを感じることはないだろう。本書の、あるいはこの三部作がもつ思弁的な性格や、描写の美しさ、更には失われゆく世界への哀惜がそうさせるのかもしれない。

オオカミもコヨーテも、そして山犬さえも消えていく世界。消えていくのは動物たちだけではなく、牧場も、そしてカウボーイも消えていく運命にある。牧場が軍に接収されることはまさに象徴的な位置を占めている。辺境としての境界は消え去っていく。ビリーもジョン・グレイディ・コールも、その後に来る世界においては必要とされない存在だったろう。国境に縛られず、自在に彷徨する「無法者」にはそんな世界には居場所がなかったのかもしれない。ジョンはそんな世界に定住し、そこで生きる決意をしていたのだけれども、その願いは果たされることはなかった。ビリーは彷徨を続けた後、ニューメキシコでようやく、居場所を見つけることになるのだけれど。

この作品の基底には失われゆく世界に対する哀惜がある、といった。これは私見なのだけれど、「哀惜」は「ノスタルジー」ではない。「ノスタルジー」はある意味では、過去を存在したことのない理想的な世界へと形象化させることであり、その幻想の世界に住まうことである。しかし、「哀惜」というのは弔いに近しいものだと思う。弔いがしばしば象徴的な殺害を意味するように、「哀惜」というのは死んでしまった世界を悼み、悼むことによってその空虚を引き受ける行為なのではないだろうか。

読んでいるうちに、エピローグの長さに驚くことになるかもしれない。あるいはいっきに半世紀もの時間をすっ飛ばすことにびっくりさせられるかもしれない。この半世紀、本当に沢山のことがアメリカでは起こっていたはずである。だけれども、マッカーシーはそれに触れようとしない。それはビリーにとってこうした出来事が何の意味を持ちえなかったことの証とも捉えられるだろうし、ともすれば、色々なことがあったはずのこの半世紀に実は何の変わっていなかった、でも言いたいかのようにすら思える。
しかし、このエピローグの最も印象的な部分は、ハイウェイの袂での、ビリーと男との語らいだろう。やや冗長とも思えるこのやり取りは、『越境』に幾度となく登場する老人の語らいを思い起こさせるとても魅力的な部分である。この部分で、マッカーシーは小説を書くということをこの二人に語らせようとしているように思える。三部作を読んだ後、この部分を読み返すのはとても感動的な経験だった。

この作品のもう一つの基底である、キリスト教について、特にソドムの市や、マグダレーナ(否応なくマグダラのマリアを連想させる)や、癲癇などについて、気にはなるけれど、考えが至らないので何も書かないことにする。

越境三部作は本当に素晴らしい。ぜひぜひ。

2010年4月20日火曜日

マルグリット・ユルスナール 『東方綺譚』

古典的な雅致のある文体で知られるユルスナールの一風変ったオリエント素材の短篇集。古代中国の或る道教の寓話、中世バルカン半島のバラード、ヒンドゥ教の神話、かつてのギリシアの迷信・風俗・事件、さては源氏物語など、「東方」の物語を素材として、自由自在に、想像力を駆使した珠玉の9篇。

マルグリット・ユルスナールの短編集。オリエント(日本、中国、インドからギリシャ、スラヴ諸国まで)の小説、逸話、伝承などから自由に発想が広がっていく。短いながらも良くまとまった、いい短編集です。
ただ面白い話があるだけではない。かといって教条じみているわけでもない。じんわりと「何か」が伝わってくるような、そんな寓話ぞろいです。
ユルスナールらしい、というべきなのかわからないけれど、端正な文章でとても魅惑的かつ幻想的です。翻訳もその雰囲気をよく伝えてくれている。
オリエントというのは、やはり幻想的な着想を羽ばたかせるには格好の素材なのですね。異教の神々、ニンフなどへの関心が読み取れるのは、彼女らしいなぁ(よくわからないけれど)。
冒頭の「老絵師の行方」と最後の「コルネリウス・ベルクの悲しみ」を対比的に読んでみるととても面白い。これを東−西の図式に置き換えてはいけないのだろうけど。
そういえば「コルネリウス・ベルク〜」にはチューリップ狂が登場する。チューリップの蒐集と新種開発への執心、その市場化の過程は、近代植民地=資本主義を(オリエンタリズムと呼んでもいいのだろうが)想起させる。オリエントを蒐集し、展示・園芸すること、そしてオリエントそのものをも開発創造すること(ウマ・ナラヤン「文化を食べる」参照)。あえて、一歩引くならば、ユルスナールもまたこうしたチューリップ狂とさほどの違いはないのかもしれない。彼女もまた「オリエント」を蒐集し、創造したわけだから。
とはいえ他方で、「オリエント」という他者を構築することは、その対極としての「自己」を創造することでもあった。オリエントを堕落した、色黒い、醜い存在とみなし、そうではないものとして「西洋」を位置づける。こうした点について酒井直樹は「有徴―無徴」という印象的な言葉を用いていた。しかしユルスナールの小説はそうした観点からは少しズレているように思える。どうズレているのか、これはもう少し考えなければいけないところだけれども、むしろそこまで見切った上で、あえて「オリエント」を取り上げ、両者の間で実験的に戯れているかのような、そんな印象も抱いてしまう。それは彼女の「異端」への関心がそうさせるのだろうか。


何よりも。今日はとても大変なことがあって、その合間にこの本をパラパラ読んでいました。だから内容はあまり残っていないし、それは上を読んでいただければ分かることだと思います。
ただ、そのなかにあって彼女の文章を読むことそれ自体が、自分の中のバランスや落ち着きを取り戻すのに役立ってくれた。やっぱり小説にはそんな力があって、それを改めて感じさせてくれたこの短編集に感謝したいです。また今度ちゃんと読もう。

2010年4月18日日曜日

熊野純彦編著 『日本哲学小史—近代100年の20篇』

明治初年にフィロソフィーという考え方が移入されて以降、日本哲学にはいくつものドラマが生まれた。例えば漱石や鴎外のように、文学と混淆していた黎明期、西田幾多郎が『善の研究』で日本中の青年を魅了し、田邊元や和辻哲郎が西洋の哲学者と切り結びつつ独自に思想を花ひらかせた頃、西田とはまったく異なる文体で大森荘蔵や廣松渉が哲学を語り始めた戦後…。本書によってはじめて、近代日本哲学の沃野が一望される。

いってしまえば日本哲学の見取り図のような感じ。新書でこれを出しますか。
僕が感じたこの本の印象をまとめると、大きな衝撃とある種の不可解さ、ということになるだろう。

何が衝撃だったかというと、ここに登場する哲学者のことを僕がほとんど知らなかったということ。20人のうち、半分ちょっとしか知らなかった。もちろん、それは僕の無知に帰せられるべきことではある。けれども、20代の人々にアンケートを採れば、それが単純に個人的な問題に還元されないことが明らかになると思う。恐らく彼らもまたここに登場する人物のことをほとんど知らないだろう。和辻、大森、西田、田邊、九鬼、このあたりまで、名前を聞いたことがある程度ではないだろうか。あるいはもっと少ないかもしれない。これはともすれば40〜50代の人には信じ難いことなのかもしれない。

つまり、僕が言いたいのは日本思想、あるいは日本における「哲学」の系譜に断絶が生じているのではないかということだ。若い世代の人々にとって日本の哲学は西洋のそれよりも縁遠いものとなっているのではないだろうか。例えばフランスのここ100年の代表的な思想家を20人挙げたとして、ほとんどの人が名前程度であれば全て知っていることだろう。あるいはここ100年の日本の代表的な作家を20人挙げたとしても、ほとんどの人は答えられるだろう。
ではなぜ?なぜたかだか数十年前の思想家たちがこんなにも忘れ去られてしまったのだろうか。
その理由を考えているのだけれども、いまいち明確な理由を導き出せないでいる。
彼らの思想から新たな何かを引き出すことができない、というわけでは決してない。そのことは本書を通じて強く感じたことでもある。独特の語彙ばかりで理解できない、ということはあるかもしれないが、独特の語彙の使用は日本の哲学に限定される話では全くない。また、田中美知太郎のように、ごく平易な言葉を通して思索を深めた哲学者もいるのだから理由としては脆弱だろう。現代思想ブームの中で、彼らの思想が時代遅れと決めつけられ、忘れ去られていったということは考えられるかもしれない。しかし、それはそんな決定的な要因だろうか。考えれば考えるほど、よく分からなくなってしまう。

しかし、少なくとも言えることは、彼らの思想は受け継ぐに足るものだ、ということであり、まだまだ多くの思想をそこから引き出し発展させることができる、ということだ。例えば「日本語で哲学をすること」という問題。これはどうしても日本文化論へと横滑りしてしまいがちである。不思議なことに、ある語彙の含意を探るためにフランス語やラテン語の語源を辿る、というのはよくあることだけれども、日本語でそれをやろうとするとどうにも怪しげな印象を抱かせてしまう(そう感じるのは僕だけかもしれないが)。これはそうした営み自体に問題があるのか、それとも怪しさを感じ取ってしまう僕のほうに問題があるのだろうか。「日本語で哲学をすること」とはどういうことなのか。今日の日本の哲学者たちは本当に「日本語で哲学をしている」と言えるのか。それとも「日本語で哲学をする」こと自体が否定されていったのだろうか。そもそも…「日本語で哲学をする」とはどのような営為なのだろうか。
とりあえず僕は、彼らの思想に少しずつ触れていきたいと思ったのでした。

もう一つ、不可解さについて。
これは単純な話で、なんでこの新書はこんな分かりにくい形態を採ったのか、ということ。
2部構成になっていて、前半では熊野さんが日本の「哲学」の歴史をざっくりと素描している。これはとても勉強になり、ありがたかった。
で、後半部では、20人の代表的な思想家の論文をそれぞれ20人の研究者が8ページずつ割いて解説している。解説によっては、えっ?と思うものや意味分かんない…と思ってしまうものも。というか、基本的に中途半端な印象でした。これだったら、第1部をもう少し加筆して、それだけ1冊の新書にまとめてくれた方がありがたかった。もしくはある論文の解説ではなく、それぞれの哲学者の思想を素描してみせるとか。あるいはもとの論文だけ載せてくれる方がまだよかった。はっきりいって意味が分からないうちに終わってしまうし、それぞれの思想家の全体像が全く見えてこない。しかも論文だから、もとの文章に当たるのがなかなか厄介。最悪、その思想家の主著にして欲しかった。
これは本当に残念なことで、わざわざこんな形態にした意味を明らかにして欲しいくらい。しかも、それぞれの論文を解説した人がどんな研究をしていて、どこで研究をしているのか、どんな本を書いているのか、とかの情報が全くなく、不親切と言わざるをえない。年表やら索引やら役に立つものがついているんだから、第2部ももっと頑張って欲しかったなぁと思う。いや、頑張ったんだろうけれども方向性が間違っている、というべきだろうか。

とはいえ、そんな欠点を補って余りある内容ですし、第2部もそれなりに知識のある方にとってはとても魅力的な内容なのでしょう。(僕には編集方針を間違えたとしか思えませんが)良書であることには間違いないです。

2010年4月17日土曜日

川上弘美 『蛇を踏む』

藪で、蛇を踏んだ。「踏まれたので仕方ありません」と声がして、蛇は女になった。「あなたのお母さんよ」と、部屋で料理を作って待っていた…。若い女性の自立と孤独を描いた芥川賞受賞作「蛇を踏む」。“消える家族”と“縮む家族”の縁組を通して、現代の家庭を寓意的に描く「消える」。ほか「惜夜記」を収録。

川上弘美。「神様」とか「ぽたん」とか「惜夜記」とか、断片的にしか読んだことがなく、とりあえず割と初期の作品が入っている『蛇を踏む』でも読んでみようかと思いまして。
「ぽたん」とかの直接的には言及されないけれども、空気感とかちょっとした描写を通して伝わってくるエロスな感じを川上弘美っぽさの一つだと、勝手に思っています。この3つの小説にも端々にそんなところがあってよいですね。
他にも、飲み食いシーンや動物が頻繁に登場する、とか色々あるんでしょうけど、なんといっても文章がいいですね。彼女独特のリズム感、言い回し、かなと漢字の混じり具合なんかがあって、読んでいると不思議な心地になります。フィルターというか霞のようなものがぼんやりとかかっている、実に不思議な文章なんですね。
内容も同じく。無数の蛇に取り囲まれ、体の中に入り込まれても「難儀である。」として片付けてしまう登場人物。蛇が蛇水になって、体内をムズムズしているのに難儀って…と思わず突っ込んでしまう。彼女の小説はどこかふわふわしてつかみ所がないんだけれども、登場人物も同じく、です。人物造形がリアルじゃない、なんていっても意味がありません。そもそも本人が「うそばなし」と称しているわけですから。
第一、この本を開いて、それぞれの小説の冒頭を読んだ瞬間に、読者は自らが住まう世界とは全く違う法則や秩序で組み立てられた世界に踏み込むことになります。
そこでは、人間と動物を分割するはずの線が消え、人間は動物になり、動物は人間になる。両者は互いを自由に行き来する。あるいは現実と空想の世界の境が不分明になる。というよりも現実、非現実という分有が存在する以前の、なんとも形容し難い、混沌とした世界がそこにはある。「蛇を踏む」について言えば、そこに向う側の世界に魅惑され、中身はほとんど向う側の世界にいる人々(蛇だけど)のものとなりながらも、それでも向う側の世界に踏み込むことができず、格闘を続けながらどこまでも押し流されていく主人公の様子に、少女時代をアメリカで過ごした著者自身の経験や苦悩が投影されていることを読み取ることができるかもしれない。けれど、松浦寿輝があとがきで、蛇を何かの象徴だと読み替えるのは止めろ、といっていたのでそんな妄想は止めることにしましょう。確かに、そのまま読んだ方が面白いかもしれません。これはどこまでも蛇を踏んだことによって、可能世界というか、全く異なるやり方で構成された世界に放り込まれた物語である、と。
川上弘美の小説には、様々な動物が登場します。実在のもの、空想のもの、そんな区別はこの世界においてはさほどの意味をもたないのでしょう。「惜夜記」にも多くの動物たちが登場します。
この小説の奇数章では、馬、泥鰌、獅子などという動物名が章題となっています(紳士たち、なんてものもありますが)。そうした動物たちにまつわる幻想が奇数章では繰り広げられます。
一方、偶数章では、章題はすべて自然科学系の用語となっています。例えば、フラクタル、カオス、ビッグクランチ、非運多数死、シュレディンガーの猫などなど。そしてそれぞれの用語は確かにその章の内容にぴったりくるようにしつらえられています。一方に量子力学などの自然科学、他方に動物たち。これは面白い中編小説ですよ。幻想的というのか、夢十夜的というのか、「フェミニンな内田百閒」的というのか。ちなみに最後のは松浦寿輝命名です。言い当て妙なのかどうなのか…

川上弘美いいですね。『ハヅキさんのこと』でも読みたいなぁ。

『ミクロコスモス—初期近代精神史研究 第1集』

レオナルド・ダ・ヴィンチに代表されるような、一人の人間があらゆる領域に手をそめて優れた業績を残した《初期近代》という時代(15-18世紀)がいま、見直されつつある。その時代の多様な豊かさと深さを解明するには、分野横断的な精神史研究が欠かせない。『ミクロコスモス』はそうした現代的要請に応えるべく発刊される学術誌であり、オリジナル論考のほか、海外の優れた研究論文の翻訳やラテン語等の重要原典テクストの翻訳、最新の研究動向や文献紹介をお届けする。第1集では、8本の多彩な論考や3本の動向紹介のほか、ゴルトアマーやフィチーノの翻訳を収める。シリーズ「古典転生」第2回配本(別巻1)。

あっというまに品切れ状態になったらしい、『ミクロコスモス』。こうした野心的な思想誌が刊行されること自体、喜ばしいことだと思うし、それが注目を集め、売れていったことはもっと喜ばしいことだと思う(どれくらい刷ったのだろう。1500くらいかな)。
青土社からも、澤井繁男さんの『魔術師たちのルネサンス』が刊行され、フランセス・イエイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』も近刊予定と聞く。ブームが来るのだろうか。
確かにこうしたジャンルに関心をもつ人々は多いもので、特に出版人にはそんなマニアックな人が多いらしい。平凡社で中世思想原典集成をやった編集者さんの話はよく聞くけれど。また、ちくま学芸文庫でも一時期、こうしたジャンルのものを多数刊行していたことがあるけれど、現在はほぼ品切れ状態のようだ。そう、このジャンルは「難しい」のだ。人文・学術書とはいえもちろんビジネスであって、このジャンルは好きな人はいるけれども、なかなか売れにくい。オカルティズムまで完全に振り切って(方向付けを変えて)しまえば、また違う人たちを集めることができるのかもしれないけれど、オカルティズムとこうした本は明らかに違うのだ。だから、そんななかで『ミクロコスモス』が刊行されたこと、そしてそれが意外なほど良く売れたこと、それはとても素晴らしいことだと思う。
ここまで書いて、「このジャンル」とか「こうした本」という言い方を多用していることに気付く。そう、こうした『ミクロコスモス』や『魔術師たちのルネサンス』に典型されるようなジャンルは、とても名付けにくいのだ。どう呼べばいいかいつも困ってしまう。錬金術とか、占星術とか、というと誤解を招くし、パラケルススとかだよ、といっても知らない人には伝わらない。それらの研究は非常に横断的なものなので、特定のディシプリンに押し込むこともできない。だから、この本の副題を見て、「そうか、そういう命名の仕方があったのか」と得心した。
「初期近代精神史」
ここに2つの驚きがあった。ただ、あまりにそれが当たり前すぎるので、こんなことに驚くのは僕くらいかもしれない。
それは一つには、「精神史」という形で彼らの思考の系譜を位置づけることができるということ、もう一つには彼らの思考が「初期近代」であったということだ。
前者についていえば、確かに知の歴史として括ることで、その学問横断的な性格は掴むことができるし、地下水脈として流れ続ける思想の系譜として、あるいはそれらを星座のように位置づけることも可能にしている。他方で、intellectual historyが「精神史」と訳されたときに、少し違う色合いを帯びてしまうことは否めないけれど。
もう一つの「初期近代」という言葉。もちろんこれは15〜18世紀という時期区分を何よりも指しているようだけれど、本書に登場するような様々な思想が「初期近代」として位置づけられる、ということにも注目したい。彼らの思想は、近代における異端というよりも、また近代において排除された前近代的なものというよりも、近代の萌芽そのものであった、ということができるのではないか。まさしくそれは近代に養分を与え、様々な果実をみのらせるような、豊穣な土壌として、あるいはその地下を流れる水脈としても理解されなくてはならないのではないか。その水脈は、地上に湧き上がっているのかもしれないし、ひょっとすると大地の奥底に沈み込んでいるのかもしれないが。
だから、とても重要な研究であるし、僕は興味深くこれらの論文を読んだ。多いに面白がりながら、時に(頻繁に?)わかんないなぁ〜、と呟きながら。
ゴルトアマーの論文やフィチーノの『光について』、はとても面白そうなんだけど僕にはハイレベルだった。というか、冒頭から庭園の論文までのところは、面白い面白いといいながら読んでいたのだけれど、だんだんよく分からなくなってきた。それはたぶん僕が息切れしたせいなんだろうけど。なんだろう、ものによっては精神史というかもっと表層的な素描に留まっているものもあったりして、それは少し残念だった。
とはいえ、知ることは面白い、とつくづく。第2集(はあるのか?)を期待しつつ、もう少し勉強することにします。

追記:第2集も話は進んでいるようです。
(以下参照http://twitter.com/microcosmos001
それにしてもみなさんツイッター好きですね。僕はあまり気が進みませんが。

2010年4月12日月曜日

ギャビン・ライアル 『深夜プラス1』

ルイス・ケインの引き受けた仕事は、マガンハルトという男を車で定刻までにリヒテンシュタインへ送り届けることだった。だが、フランス警察が男を追っており、さらに彼が生きたまま目的地へ着くのを喜ばない連中もおり、名うてのガンマンを差し向けてきた! 執拗な攻撃をかいくぐり、ケインの車は闇の中を疾駆する! 熱気をはらんで展開する非情な男の世界を描いて、英国推理作家協会賞を受賞した冒険アクションの傑作。

どうやら僕にはハードボイルドさが足りない。そんなことをふと思って、とりあえずハードボイルドな小説でも読んでハードボイルドな気分に浸ることにしました。
やや安直な経緯だけれども、読み終わった今はすっかりハードボイルドです。

そんなこんなでギャビン・ライアル。いちいちかっこいいですね。わざとらしくかっこいいのが素敵です。Amazonのレビューに、これだけは知っておいてね、という固有名詞が幾つかあって、銃器やら自動車の名前なんですけど、画像検索してみると期待通りにかっこいい。
話は、もうどうでもいいです。金持ちをリヒテンシュタインまで送っていくだけの話なので。極端な話、リヒテンシュタインじゃなくてスロヴェニアでもいいし、金持ちじゃなくて仏像でもいいんだと思います(仏像じゃかっこ悪いからだめかな)。こういうのって何よりも雰囲気を楽しむ小説じゃないでしょうか。
ただ、いかんせんオリジナルの刊行が1965年。なかなか伝わりにくくなっているところもあるのではないでしょうか(上野車の名前とかもその一つでしょう)。レジスタンスとか、第二次世界大戦とか、この小説が刊行された頃はそれを通過してきた人々がほとんどで、そうした人には、ある種の「生々しさ」を伴いながら、この小説は読まれたのかもしれない、と思います。武器を手に取り戦場に向かった人間たち(レジスタンスも含めて)がその後、ある者は弁護士となり、産業スパイとなり、あるいは銃から離れられずにガンマンになる。この小説に登場する人物の背後には、戦争とレジスタンスという劇的な経験が横たわっていて、当時の読者たちはその存在をひしひしと感じ取ったことでしょう。
だけれども、この小説をそんな風に読むことができる人はもはやほとんどいないんだと思います。先にこの小説の内容はどうでもいいと言い放ったり、何よりも雰囲気を楽しむべきだ、とあえて言ったのはそういった意味合いです。このかっこよさの奥底に絡み付いている何かの正体が分からなければ、「かっこよさ」それ自体を楽しめばいいのだと、僕は思います。
また、この小説では何人か「ガンマン」が登場する。彼らは言ってしまえば、先の大戦の生き残りで絶滅危惧種みたいなものなんでしょう。しかし、この「ガンマン」って言葉は、アメリカの西部劇をイメージさせますね。そうか、1965年だから丁度マカロニ・ウェスタンの時期と重なるんですね。ギャビン・ライアルはマカロニ・ウェスタンを観ていたのでしょうか。
まぁそんなことよりも、ガンマンはタバコを左手で吸うらしいですよ。右手は空けておかなければいけないらしいです。警察は買いかぶってはいけないけれど、侮ってもいけないそうです。マティーニのとき、グラスは凍らせてはいけません。うっすらくもるくらいがいいそうです。なるほど。
車と銃と暴力と酒、の世界ですね。中学生くらいの時に読んでいたら、痛々しい真似をしていたかもしれません。というか、ひょっとして今の40代くらいの人たちって、もろにこういった冒険ハードボイルド小説をくぐり抜けてきた世代じゃなかろうか、いや憶測ですが。

何と言えばいいのか分からないけれど、かっこよさとともに、ある種共感に近いものを感じたんですね。その共感って言うのは喩えていうと、絶滅危惧種の動物の姿に対して覚えてしまう、失われていくものに対する寂寞と同情みたいな、いわく言い難い感情なのですが。

他方で、この小説でのホモソーシャルな結びつきや、性別的な役割分担、男性中心主義的な感じはこの「かっこよさ」の裏返し(別の一面)でしょうし、「ハードボイルド」ってマスキュリニティそのもののような気もします。マスキュリニティがあまり好きではない僕は結局ハードボイルドにはなれないのでした。

2010年4月9日金曜日

ガブリエル・ガルシア=マルケス 『予告された殺人の記録』

町をあげての婚礼騒ぎの翌朝、充分すぎる犯行予告にもかかわらず、なぜ彼は滅多切りにされねばならなかったのか?閉鎖的な田舎町でほぼ三十年前に起きた幻想とも見紛う殺人事件。凝縮されたその時空間に、差別や妬み、憎悪といった民衆感情、崩壊寸前の共同体のメカニズムを複眼的に捉えつつ、モザイクの如く入り組んだ過去の重層を、哀しみと滑稽、郷愁をこめて録す、熟成の中篇。

やられてしまいます。文句なしにすばらしい、お手本みたいな(でも絶対にまねすることのできない)中編小説。

村人誰もがそのことを知っていた。犯人たちは悠々と刃物を研ぎ、その時を待っていた。けれども、その殺害を誰も止めることはできなかった。なぜだったのだろう?
この小説は(少なくとも表面上は)この問いに向き合い、緻密な調査・インタビューによって、事件前後の村の様子、人々の行動とその背景を分析し、緻密に再構成した、という形をとっている。だからカポーティ的なノンフィクション・ノベルというべきなのかもしれないが、どの程度ガルシア=マルケスが「現実に即して」ということを意識していたのかはよくわからない。非常に強くそのこと意識していたようにも見えるし、それよりももっと共同体や人々の深層を抉り出すことに主眼を置いているようにも見える。
…あるいは、この発想がそもそも間違っているのかもしれない。この事件の「真相」に辿り着くにあたってはどうしてもインタビュー、つまり当事者の語りに頼らなければならない。こうした語りがそれぞれ真実というわけでは無論なく、それは一面的なものの見方で、しかもその根底にはインタビュイーの価値観や限界がどうしても入り込んでいる。とはいえそれらを緻密に組み合わせることによって、真相に接近することくらいはできるだろう。しかも、その組み合わせの素材一つ一つに住民の価値観や感性が入り込んでいるのであれば、それらを組み合わせることによって、住民の心性を排除するのではなく、それを組み込んだまま真相に接近することになる、と考えられる。だから、「真相」に辿り着こうとすることと、共同体や人々の心性、深層を抉り出そうとすることは背反しない。

住民たちの鬱屈や、アラブ人や金持ちに対する反感、憎悪みたいなものがこの小説には見え隠れする。確かにそれはそうで、吐き出し所がない、あるいは吐き出し切れないようなどうしようもない鬱屈さ、やり切れなさみたいなものが人々の言葉には滲んでいる。
それと同じように、この共同体は既に崩壊しかけている、あるいは崩壊している。解説のなかにバヤルド・サン・ロマンが「モダニティ」を体現する人物だ、という指摘があった。言われてみれば確かに。ただ、ガルシア=マルケスの巧みさは、こんなところにも見え隠れしていて、どうやらこのバヤルドは彼の家族の階級からはつまはじきにされているらしい。そしてバヤルド自身も、(恐らくは)金銭的に依存しつつも、自分が属する階級に不満を抱いている。「モダニティ」を体現する人物が実はそれ自体から疎外されているという奇妙な構図がここにある。更に、ガルシア=マルケスはアンヘラ・ビカリオとの再会という後日談も織り込む。バヤルドへの恋心に気付いたアンヘラが書いた2000もの手紙(しかも開封されていない)を携え、バヤルドは23年後アンヘラの前に姿を現す(このシーンは結構好き)。なんでこんな後日談を組み入れたのか、不思議と言えば不思議だけれど。


この小説は無数の語りの積み上げからなっている。過去のある出来事、それが無数の(というか住民数の)解釈によって多様化する。つまり一つの出来事がN個の物語となる。そうしてできたN個の物語、それは30年もの時間のなかで更に変化を遂げていく。そうした物語を再び組み合わせ、伝承を作り出す(祖型化)、ガルシア=マルケスはひょっとしたらそんな伝承生成をこの小説で行ったのかもしれない。

何よりも終盤部、殺害現場が見事に再現される。まるでスローモーションで映像が頭にこびりつくような、圧倒的な筆致、表現力。そう、読者はこの本を読み進めるなかで、凄惨な殺害シーンがいつか再現されることを期待している。そしてその期待が頂点に達するその瞬間に、ガルシア=マルケスはその場面を描き始める。その時に読者が味わう感情の奔出と昂揚感。「カタルシスとは何か?」を問われたなら、この本を読んでもらえばいい。この小説はそれが何たるかを十全に教えてくれるだろう。
小説を読む歓びを改めて教えてくれる1冊。この小説が420円で読めることを私たちは幸福に思うべきなのかもしれない、とさえ思わせてくれる。

2010年4月7日水曜日

矢部謙太郎 『消費社会と現代人の生活—分析ツールとしてのボードリヤール』

本書では、ともすれば専門用語の羅列へと傾きがちな、それゆえ「難解」なボードリヤールの消費社会論を、社会学とりわけ「コミュニケーション」の観点から、初学者にとって理解しやすいよう可能な限り平易に読み解いていきたい。そして、読者に、ボードリヤールの消費社会論を現代の諸現象を分析するための有効な理論枠組のひとつとして活用してもらうことを目指す。
本書の構成としては、ボードリヤールの消費社会論の基本的な考え方を、各講の末尾に「命題」という形でコンパクトにまとめて提示する。各講でひとつずつ命題を提示することによって、ボードリヤールの消費社会論を読者に無理なく段階的に理解してもらうと同時に、各命題によってどのような現象が分析されるか、その「使い勝手のよさ」も段階的に確認してもらえればと思う。(「はしがき」より)

「早稲田社会学ブックレット」なるマイナーなブックレットシリーズがあります。このシリーズは更に、「社会学のポテンシャル」「社会調査のリテラシー」「現代社会学のトピックス」という3つに分かれています。そのうちの「現代社会学のトピックス」の1冊です。
有り体に言って、上の紹介文に書いてあることが全てです。つまりさくっと読めるボードリヤール消費社会論の入門書、です。

矢部さんがまず指摘するのは、ボードリヤールの消費社会論を果たして日本の社会学はちゃんと受け止めてきたのか、という問いです。ポストモダンブームのなかで、ボードリヤールも彼の消費社会論も流行し消費されていった、結果としてボードリヤールも消費社会論も時代遅れだよ、なんて言われるようになってしまったということだと思います。もちろん、社会学の講義のなかで、ほぼ必ず消費社会論には時間を割くだろうけれども、それはボードリヤールの議論を額面通り、表面的に受け取っただけの議論に終始してしまっていて、十分に社会学としてボードリヤールの投げかけたものを深化させてこなかったのではないか、という反省なのだと思います。その反省に立って、社会学としてボードリヤールの議論をリブートさせよう、ということを彼は目指しているのだと思います。ただ、この本はあくまで入門書なので、彼が目指す、社会学的にボードリヤールの議論を深化させるということ自体があまり見えてきません。これは少し残念です。
とはいえ、こんな薄っぺらいブックレットでも、平易な言葉で分かりやすく噛み砕いて、しかも一定の質を担保したまま消費社会論を紹介してみせる矢部さんというのは力のある研究者なのかもしれません。今後が楽しみですね。
あと気になるのはボードリヤール=消費社会論みたいなのってどうなんでしょう。読んでみないと分かりませんが、ボードリヤールも近いうちに読み直しが進むのかもしれませんね。
そうそう消費社会論についてはひとつ気になる切り口があるのですが、それはもう少し勉強してからにしたいと思います。

ジェームズ・グラハム・バラード 『クラッシュ』

六月の夕暮れに起きた交通事故の結果、女医の目の前でその夫を死なせたバラードは、その後、車の衝突と性交の結びつきに異様に固執する人物、ヴォーンにつきまとわれる。理想通りにデザインされた完璧な死のために、夜毎リハーサルを繰り返す男が夢想する、テクノロジーを媒介にした人体損壊とセックスの悪夢的幾何学を描く。バラードの最高傑作との誉れも高い問題作、初文庫化。

バラードの最高傑作とも称され、SF小説の一つの金字塔とさえ言われるこの作品。クローネンバーグが映画化したことでも知られていますが…ごめんなさい、僕この小説だめでした。読むのがしんどくてしょうがなかったです。映画も見ようと思ったけれども、この小説を読んだだけでお腹いっぱいとなってしまいました(若干吐き気も…)。
僕が感じた「しんどさ」は、表面的には、何が起こっているのかわからない、誰がその場にいて何をしているのかがなかなか掴めないということにありました。この小説のスピード感に付いていけなかった、ということだと思いますが。あと、もっと深く考えようとすれば、こうしたテクノロジーとの性的な合一やこの小説自体の倒錯した暴力性に「嫌悪感」に近いものを覚えてしまったということにもあるのだと思います。こうしたものに「嫌悪感」を覚えるということ自体、この小説のテーマとも深く関わることでしょうし、考察に値することかもしれません。

ただ、幾つかのことはやはり書き留めておきたいと思います。一つは「車」というのは、閉ざされた特異な空間でありながら、身体の延長でもある、という点についてです。ジジェクでしたか、車は外から見るととてもちっぽけに見えるのに、中に入るととても広く感じる、という点にどこかで言及していたかと思います。どういう文脈だったのか思い出せませんが、そのことだけ妙に印象に残っていました。車というのは(基本的には)密閉された空間であり、内部と外部が明確に線引きされています。車内から眺める外の景色がなぜかリアリティをもたないように感じることさえあるように思います。同時に運転手にとっては車は自分の身体と同化させなければ、上手に運転することはできないでしょう。障害物を避けるときにどの程度ハンドルを回せばいいのか、車の幅はどれくらいあるのか、アクセルをどの程度踏み込めばスピードが出るのか、など、車の運転には、それを自分の身体へと接続する、身体化することが求められるわけです。また、車好きの車に対する愛着というのもそうでない人には理解しかねるほど、奥深いもののようです(僕にはよく分かりません)。ついでに言えば、僕は小さいとき、車の正面から見た姿を「顔」として認識していました。「あの車、嫌な顔してるね」とかそんなことを話したりしていた訳です。そういえば、この小説でカーセックスというのがたびたび出てきますが、なんでそんなことをするんでしょう。車の密閉性とか、にもかかわらず外部とガラス1枚で繋がっていることに対する露出狂的な欲望とかがあるのかもしれませんが、ドライブにはひょっとしたら人を性的に掻き立てる何かがあるのかもしれません。
なんだか色々考えていくと、人間と車との関係というのはつくづく「奇妙」なもので、車というのは単なる機械以上の存在のようにも思えます。人間の身体と車の接続というのが、運転の前提にあるとすれば、車と人間との合一というのもさほど奇異なものにも思えなくなってきます。テクノロジーの身体化とかサイボーグとか、気にはなっているのですが、なかなか本を読めていません。ダナ・ハラウェイとかも気になっているのですが。
他に気になったのは、「クラッシュ」や死への欲望とかそういったことについてです。破局や死への欲望はこの小説を通底して流れています。クラッシュが凄惨であればあるほど、その光景を見たくなってしまう、あるいは見たくないと思いながら見てしまう、ということはひょっとしたらあるのかもしれません。「うわぁ……」と言葉を失いながら破局的な光景に立ちすくむような、そんな魅惑が実はあるのかもしれないと思います。ただ、こうした凄惨な光景への欲望は、果たして破滅への欲望や死への欲望と同一のものなのか、これはよくわかりません。「人類滅亡」がことあるごとにメディア等で話題になることを考えたら、ひょっとしたら、私たちはどこかで滅亡したいのではないか、とさえ思えてきますが…。ちょっとわからないなぁ、というのが正直なところです。
そしてこれら2つのことが歪に絡まり合い同一化しているところが、この小説の奇妙さであり、魅力であるのでしょう(僕はそこに嫌悪感を感じた、ということです)。
きっともっとちゃんと読める人が読めば、ここから多くの論点を抽出できるのでしょうが、僕はちょっとできそうにありません。

2010年4月6日火曜日

藤野豊 『強制された健康—日本ファシズム下の生命と身体』

ファシズム―それは人間を資源として戦争に動員する。十五年戦争下に推進された、心身の健康を強制する政策と病者・障害者たちへの差別を論じ、「存在に値する命」を選別する国家体制を追及する鮮烈なファシズム論。

品切れ状態のようです。面白いのに。
ハンセン病や部落問題の歴史的な研究で名高い藤野さん。本書では日本のファシズムにおける厚生運動、健民運動について考察をしています。
ファシズムと健康の結びつきは、よくナチスの文脈で語られますが、日本においても類似した運動が見られたのですね。そうか、厚生省の設立も1938年だったのか。国民の健康を国家が積極的に管理・涵養していく体制の成立とファシズムへの移行が重なるようにして立ち上がってきたこと、そのなかで国民を人口学的な「人的資本」とみなし、活用できるものは活用し、不要なものは排除していったこと、これらを丹念に論じています。
とはいえ、彼は戦時体制とファシズム体制の間に明確に線を引こうとしています。曰く、

単なる戦時体制では説明できない、生殖段階から国民の健康と体力を国家が管理し、「人的資源」として利用もすれば廃棄もする体制、「存在に値する生命」と「存在に値しない生命」を国家が選別した体制、それをわたくしはファシズムのファシズムたる所以とみなすからである。

これが、彼の独自性であり、同時に批判の対象となりうるところだと思います。ファシズムと戦時体制(総動員体制はこちらに位置づけられるでしょう)を区別することは妥当なのか、という問いを必然的に喚起します。これはつまりファシズムをどう捉えるのか、という問いなのだと思いますが、ファシズムを近代における「特異」として論じるべきなのか、それとも近代の「帰結」として捉えるべきなのでしょうか。
個人的には後者として捉えられるべきだと思いますし、そう認識した方が、藤野さんが注目する国民の健康と国家の関係というものもより明確に位置づけられるのではないでしょうか。フーコーのことはよく知りませんが、そうした個々人の健康に国家が介入し、積極的に健康な身体を作り上げようとすること、更にはそれを一種の「人的資本」とみなして活用しようとすること、これはファシズムに特異な問題というよりも、近代という文脈の上で考えるべきなのではないか、と思います(北欧やアメリカなどでも「断種」は行われていたわけですし)。

こうした厚生省を中心として成立した体制やその活動は、(もちろん多少の変化はあったでしょうが)戦後へと引き継がれていきます。「健康な」身体のための個々人への国家の介入もまたそのまま今日へと引き継がれていると思います。特に戦後という文脈では、そうした「厚生」と強く結びついたのは「労働」ではないでしょうか。「24時間戦えますか」ではないですが、労働に耐えうる身体を涵養するために国家の身体への介入は止むことなく、むしろある意味では強化されたようにも思えます。とはいっても死んでは元も子もないですから、死なない程度に最大限身体を搾取することが求められたし、それに耐えうるような身体が要請されたのではないか、とも勝手に思っています。その最も象徴的なものが「厚生労働省」という名称・体制それ自体ではないでしょうか。

もちろん安易に現代に結びつけるべきではないと思いながらも、どうしても関連づけずにはいられませんでした。まぁ反・禁煙ファシズムということで。

2010年4月3日土曜日

木下古栗 『ポジティヴシンキングの末裔』

たかぶるだけ
たかぶらせておいて
帰宅。
〈想像力の文学〉から著者初の単行本刊行。

まったくもって毛深い体質ではなかったはずなのに、ある朝、純一郎が目覚めると、手足が自らの陰毛によって緊縛されていた……(「ラビアコントロール」)。枕に額を預けて目をつむった。眠りの底なし沼に沈みそうになる。このまま性器をまさぐり出せば俺はマスターベーションを避けられないだろう……(「糧」)。不可思議な官能のスパイスがまぶされた約30篇が競演する初作品集。

こんな本の感想を書くなんて、こっちが恥ずかしくなりますが。
「たかぶるだけ たかぶらせておいて 帰宅。」
というコピーに惹かれて買ってしまいました。

しかもこんな本をお薦めするなんて、もっと恥ずかしくなりますが。
早川から出ている謎のレーベル「想像力の文学」の一つです。
実にくだらない。本当に、本当に下らない。下ネタとグロネタのオンパレードです。しかもそれが30篇以上も続く。読んでいて吹き出すこと、ドン引きすること、突っ込みを入れてしまうこと、多々あります。

書き出しからすでに独特の雰囲気が漂っていて、やられてしまいます。
ところどころ書き出しだけ拾い上げてみると、
「ある未明、有閑マダムたちの住む高級住宅街の路地に大量の馬糞がばらまかれた。」
「内藤がへべれけになって帰宅すると、奥の部屋から苦しそうな呻き声が聞こえてきた。またしても中山が勝手に筋肉を鍛えているのだ。」
「この場に掲載するにはあまりにもお得な極秘情報が続々と入ってきている。」
「血気盛んな比較的薄着の青年たちが、いっせいに意味不明の言葉を怒鳴り合う。」
「ユッサユッサと揺れる中年女性の乳房。それは目にして嬉しい代物とはかけ離れている。」

…どうなんですかね、これ。こんな書き出しだったらまぁとりあえず読むしかないじゃないですか。で、読んでしまいます。でも、唐突に場面が変わったり、意味不明の展開になっていって読者が宙づりにされてしまう。互いに繋がっている短編もあったりするので、またページをめくるとまた書き出しに惹かれて読んでしまう。そんなこんなであっと言う間に読み終えてしまって、「…これは一体なんだったんだろう」と呟くことになります。なんてくだらない本を買ってしまったんだと思い、しかもそれを取り憑かれるように読んで、しかも感想まで書いてしまうなんて。
この人ただ者じゃないですね。81年生まれですか、若いですね。まぁ40〜50代の人がこれを書いていたら、ちょっと心配になってしまいますが。
不必要にも思える反復や切れ目なくダラダラ続く文章も、著者ならではの世界観を形作る一助になっていて、いい感じです。これだけ独自の(しかも一目見て異常と分かる)世界を創れる書き手って評価したくなります。宙づり感と下ネタ、妄想の暴走が面白いです。
自信をもって薦めるわけではありませんが、個人的には当たりでした。長いの読んでみたいな。

2010年4月2日金曜日

山森亮 『ベーシック・インカム入門』

近年におけるグローバリゼーションのなかで、約二〇〇年の歴史をもつ「ベーシック・インカム(基本所得)」の概念が
世界的に注目を集めている。
この新しい仕組みは、現代社会に何をもたらすのか。労働、ジェンダー、グローバリゼーション、所有......の問題を、あらゆる角度から捉え直す。

ベーシック・インカムの入門書。歴史、思想的位置づけ、経済学的視点、社会運動との関係など、幅広い観点から考察が行われていて、とてもよくできた本。あまりに幅広いので、ところどころ??と思うところやもっと広げて欲しいとこなんかもあるけれど、新書でここまで学べるのはありがたいことです。

昔VOLで特集してたけれど、BIって面白いですね。

ただ、個人的には(財政云々は除いて)幾つかの点で賛同しかねます。
一つは、メンバーシップの問題。この点について本書では言及はありませんが、BIをもらうのは誰か、という問題です。日本国籍所持者に限るのか、いわゆる永住者も含むのか、定住者は?留学生は?200万人以上の在留資格者もその対象になるのでしょうか、ならないのでしょうか。他方で、国外に居住する日本国籍所持者はどうなるのでしょうか。仮に日本国内に、長期滞在する全ての人々、を対象にするとしても「不法移民/不法滞在者」と名指される人々はもちろんそこから外れることになるでしょう。こうした人々がいわゆる「3K労働」などに従事させられることだって考えられるように思います。
もう一つは、国家による個人の掌握がより加速していくのではないか、という危惧です。近代国家が社会を掌握していったように、個々人が国家による統制の下に今まで以上に置かれるのではないでしょうか。家族や企業といったものを介さずに、国家と個人がより近しく結びつけられることに対する違和感/嫌悪感を感じます。
更に、本書でも廣瀬純による指摘として、BIが逆説的に社会運動を分節化し衰退させるのではないかということが挙げられていましたが、これも気になることの一つではあります。

にもかかわらず、このBIという発想は極めて魅力的なものだと思います。それはBIという視点を導入することによって、労働と賃金との関係の根源的な問い直しが可能になるからです。あくまで「理念としてのベーシック・インカム」に留まるにせよ、それ自体は高く評価されるべきだと僕は思っています。

果たして労働とは何なのでしょうか。
私たちが労働するのは、何のためなのでしょうか。賃金のため?それとも生きるため?賃金なしに労働は成立するのでしょうか、しないのでしょうか。労働は(生物学的な意味合いで)生きるための苦行に過ぎないのでしょうか。それとも単に生きるための糧を獲る活動以上の意味があるものなのでしょうか。もしそれなしに生きることができるならば、私たちはそれでも労働するのでしょうか、働かなくなるのでしょうか。あるいは、お金さえもらえればどんな労働でもいいのでしょうか。

フェミニズムやジェンダー関係の研究者や活動家がアピールしてきたことの一つに、家事労働も「労働」であり、賃金労働と同等、もしくはそれ以上の評価を与えられるべきだ、という点があるかと思います。であれば、外で働く人々(男性)が労働の対価に賃金を受け取るのに対し、家事労働に従事する人々(女性)は、その対価として何も受け取っていない、といってもいいでしょう。つまり、賃金が伴わずとも労働は成立するということになります。これは結局労働をいかに定義するか、という話ですが。

労働の対価を得ることができない彼女たちが生きるためには、男性の労働の対価である賃金に依存せざるを得ない。言い換えれば、女性たちは家事労働によって、男性から生きさせてもらう、という対価を得ることになります。しかしこれはよく考えれば奇妙な話で、更に男性はこのような生活基盤の部分的な譲渡によって賃金のみならず、再生産領域での行い全てを女性から獲得するということになります。こうした非対称性から女性たちを守るためにBIは意味を持ちます。女性たちは、BIによって個人的にお金を獲得することができるし、男性はBIが加わることによって、その増加分、労働時間を短縮させ家事労働の一部を担うことができる、かもしれない。まぁ絵に描いた餅のような話かもしれませんが。

完全に話がそれました。
現代の日本で飢餓という問題がどれほどリアルなものか、ちょっと僕には分かりません。ただ、日本における貧困とは、絶対的なものというよりも相対的なものなのではないか、と思ったりします(貧困研究についてほとんど無知なので間違っているかもしれません)。少なくとも、餓死の恐怖に怯えたことがある人は(特に若い世代には)ほとんどいないのではないでしょうか。たぶん、20世紀後半において(むろん先進国に限定された話ではありますが)初めて、人類は「飢え」というものからの恐怖から解放されたのだ、と思います(これは伊豫谷さんと昔話していたことです)。このことがもつ意味について、ぼんやり考えてはきましたが、BIによってそうした飢えからの解放がますます進んでいくことは間違いないことでしょう。飢えに対する恐怖が、人々を労働へと駆り立て、それが近代化の強力な推進力となってきた、ということは言えると思います。そしてその近代化の進展は、遂に飢えからの解放をもたらします。BIの導入はこの動きを決定づけることになるでしょう。そのとき、人々を労働に駆り立てるものとは一体何になるのでしょうか。
あるいは、この飢えに対する恐怖というのが、いつしか「より良い生を送ること」へと転換していくということは考えられるかもしれません。だけれども、これは以前ほど強力な推進力は持ちえないでしょうし、生きることがある程度担保されればそれでいい、という人もいるでしょう。いずれにせよ、現代において「労働」のもつ意味が問い返されるようになっていて、BIを巡る議論はその問い直しを根源的な形で行うことができるものなのだと思います。BIによって人間が飢えから解放されるとき、「労働」と「活動」とは同義になるようにすら思います。『人間の条件』を読み直したくなりますね。

戦後の日本社会は、社会保障やセーフティネットなど多くの部分を企業に頼ってきたように思います。いわゆる「日本型雇用形態」なるものを再評価しようとする人が結構いるようですが、それは企業に正社員として入社し、勤め上げた人にとっては望ましいところが多いのでしょう。けれど、そこから弾かれた存在に対して、このシステムは異常なほど冷淡なものであることは間違いありません。プレカリアスな状況に置かれた人々がこれだけいる(そして今後もよりいっそう増大していくであろう)なかで、企業を介したシステムはもはや意味をもたないのではないでしょうか。だからこそ、日本においてもBIが必要とされているのだと思います。それはすごくよくわかるのですが…。

そういえば、著者の山森さんはもともとアマルティア・センの研究をされていたようですね。アマルティア・センの研究と本書のようなベーシック・インカムの議論がどのように結びつくのか。ちょっと興味があります。

読みながら考えていたことがいくつもあったのですが、抜けてしまいました。思い出したら追加します。

2010年4月1日木曜日

長嶋有 『パラレル』

妻の浮気が先か、それとも僕の失職が原因か?ともあれ僕は、会社を辞め離婚した。顔面至上主義のプレイボーイ津田と、別れてもなお連絡が来る元妻、そして新しい恋人…。錯綜する人間関係と、男と女の行き違いを絶妙な距離感で描く長嶋有初の長篇。斬新な構成と思わず書きとめたくなる名言満載の野心作。

いやぁ軽いですね。2時間くらいでさくっと読み捨てられる、そんな感じ。6年前の小説ですか。こういった小説は古びてしまうのも早いですね。
設定にせよ、言い回しにせよ、とても戯画的というか、分かりやすい。頭を使わないで読んでいけます。時間軸を複数織り交ぜるやり方も、前後の文脈に沿ったものになっていて混乱することもないだろうし、分かりやすく伏線が置いてあるし、読後感もすっきりだから。
あっという間に読ませるんだから、そういった力はある作家さんなのでしょう。

でも、どうにも広がらない。だってこれ以上書くべきことが思いつかないんだもん。
ということでおしまい。どうやら僕は彼の良き読者になれそうにありません。ごめんなさい。