「プラハの春」を弾圧するためにソ連軍戦車がチェコの首都に侵入した1968年の事件についての鮮やかな論評「言葉と戦車」を中心に、1946年の「天皇 制を論ず」から2005年の「60年前東京の夜」まで、著者が何を考えつづけてきたかを俯瞰できる27の論稿群を集成。たんなる学究の徒の貌ではなく、現 実の政治と社会に対する透徹した思考と強靱な思想が屹立する。全篇発表時の初出より収録。
昨年亡くなった加藤周一の論文集。岩波から全集(なのでしょうか?)が出るみたいですが。
彼の記述は理路整然という言葉がぴったりと当てはまる。ここまで理詰めで語られると反駁しにくいだろうなぁと思いつつ。「知識人」「理想主義」「民主主義」「日本」などのキーワードを軸にしながら彼はこれまで実に多様な分野で様々に意見を表明してきたのだなぁ。「知の巨人」という謂いがいいのか悪いのか、というか意味があるのかないのかわからないけれども、彼の誇る圧倒的な知識量、そしてそれと周囲から得る情報を元に、あくまでも合理的に意見を引き出してくる手法は、最近の、殊に若手の知識人(そんなひとたちがいるかどうかすらも怪しいものだけれども)には見られないものだろう。竹内や丸山がもっていて、無論加藤周一ももっていた「思想」のアクチュアリティとでもいうべきもの、それが失われてしまって久しいような気がする。「思想」をもつ、ということを最近考える。どこかからの借り物ではなく、自身に根ざした「思想」をもつこと。ナショナリズム然り、マルクス主義とかのイデオロギー然り、それはただの借り物に過ぎない。そんなの空っぽだよ。けどそれは他の人の思想に全く頼るなということではない、大事なのは、その中で自分の思想を自身の「根っこ」に根ざしたものとして育んでいくことでしょう。それは簡単な道じゃないし、借り物の思想を引き受けてしまうだけのほうが楽に決まっている。こんな偉そうなことをいっている僕だって、自身に根ざしたものとしての思想が立ち上がっているかといわれたら怪しいものだ。もっと知識と時間、自分で考えようとする時間も必要だ。けれどもそうしなければ「思想」というものがこの世界で意味を成さなくなってしまう。それはこれまで人間が続けてきた営為を踏みにじることだろうし、「思想」を失った人間が「人間」足りうるのかも怪しいものだ。
完全に話が逸れた。加藤やこの世代、あるいはこの前の世代も含めた知識人が抱いていた思想、彼ら自身の生と深く結びついた思想を、もっと僕は吸収していきたいと思う。話が逸れたついでに言うならば、これら世代の知識人のなかの過ち―その中の幾つかは決定的なものだ―を弾劾するのは容易い。けれども、それが単なる弾劾に留まっていたら、それは全く生産的な行為ではない。重要なのは、彼らがなぜ過ちに陥ってしまったのか、彼らをそこまで駆り立てたものは何か、その過ちに気付いた後彼らはどう対処したか/しなかったかをしっかりと認識することなのだろう。加藤の幾つかの知識人論を読みながらそんなことを考えていた。
最後に。この成田氏と小森氏の解説は全く意味を成さない。誰が解説でそれぞれの論文を冗長と要約することを期待しているのか、この両編者は考えてほしい。小森氏がなかば「身体的ともいえるほど」の危機において加藤の論文に救われたというならば、加藤が一貫して問題化してきたことを、自身がどのように引き受けたのか、あるいは批判的にではあってもそれを継承してきたのかをじっくり考え記述してほしかった。小森氏だからこそ、あるいは成田氏だからこそ書けるはずのことがあるだろうに。こんな解説は誰にでも書けるし、なくても誰も困らない。
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