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2010年8月29日日曜日

8月に読んだ残りの本

不本意ですが、一冊一冊感想を書くゆとりがないまま溜まってしまったので。

①ヴィルヘルム・ゲナツィーノ『そんな日の雨傘に』
 重いけれど軽やかな、「靴男」の果てしないモノローグ。「自分が許可してもいないのにこの世にいる」という気分から逃れることができない、46歳、無職の主人公は、何をするでもなく、「人生の面妖さ」に思いをめぐらし、平凡で、どこにでもある、様々な路上の出来事に目を留める。地下道のホームレスの男たち、足元に置かれた他人のトランク、サーカスの娘と馬のペニス......。そのたびにとりとめのない想念が脳裏をよぎり、子ども時代の光景がなんとなしに思い出され、なにげない言葉が心に引っかかる。遊歩の途中でつぎつぎと出会うのは、過去になんらかの関係を持った中年の女たち......彼女らの思い出がふつふつと浮かんでくる。主人公がなにかから気をそらすように歩き回るのは、同棲していた女が愛想を尽かして出て行ってしまったからだ。しかも靴を試し履きする臨時収入が減り、生活もままならなくなってきている。そうした挫折と失意が、居場所のない思いをいっそう深めてゆく......。
 作家は本書で一躍注目を浴び、2004年にドイツ最高の文学賞《ビューヒナー賞》を受賞している。

エクス・リブリスから。主人公はダメ人間っぷりに、はまってしまう作品。たぶんダメ人間ほどはまってしまうんじゃないかと。「この主人公いいなぁ」とすら思ってしまった僕はやはりダメ人間のようです。臨終コンパニオンのくだりには笑わされました。ダメ人間っていうのは街を遊歩することができる人なのかも、とも思わされました。


②久生十蘭 『久生十蘭短篇選』
現役の作家のなかにも熱狂的なファンの少なくない、鬼才、久生十蘭の精粋を、おもに戦後に発表された短篇から厳選。世界短篇小説コンクールで第一席を獲得した「母子像」、幻想性豊かな「黄泉から」、戦争の記憶が鮮明な「蝶の絵」「復活祭」など、巧緻な構成と密度の高さが鮮烈な印象を残す全15篇。

こないだ河出の短編集を読んで気に入ったので。やっぱり面白かったです。こんなにジャンルを問わず、しかも面白く書けるもんですか。河出の短編集よりもおすすめかも。解説が充実しているのも魅力。


③『世界文学全集 短篇コレクションⅠ』
南北アメリカ、アジア、アフリカの傑作20篇。新訳・初訳も含むアンソロジー。トニ・モリスン「レシタティフ」、アチェベ「呪い卵」、張愛玲「色、戒」などの新訳・初訳から、コルタサル、カーヴァー、目取真 俊

【収録作品】
コルタサル 「南部高速道路」
パス 「波との生活」
マラマッド 「白痴が先」
ルルフォ 「タルパ」
張愛玲 「色、戒」
イドリース 「肉の家」
ディック 「小さな黒い箱」
アチェベ 「呪い卵」
金達寿 「朴達の裁判」
バース 「夜の海の旅」
バーセルミ 「ジョーカー最大の勝利」
モリスン 「レシタティフ──叙唱」
ブローティガン 「サン・フランシスコYMCA讃 歌」
カナファーニー 「ラムレの証言」
マクラウド 「冬の犬」
カーヴァー 「ささやかだけれど、役にたつこと」
アトウッド 「ダンシング・ガールズ」
高行健 「母」
アル=サンマーン 「猫の首を刎ねる」
目取真俊 「面影と連れて」

短篇コレクション。錚々たる顔ぶれ。著者を選ぶセンスはさすが、なのかもしれません。知らない人、読んだことない人もぽつぽついて、なかなか面白い読書でした。でも、作品の選択は……どうでしょう。まぁ色々な事情があるんでしょうが、長編を載せることができなかった人をまず挙げて、その後に掲載できる作品を見繕ったのかな。あえてこの作品ですか?っていう気がしなくもないです。訳者はいい人揃いなんじゃないでしょうか。読書を広げるという意味でもとてもいい本です。


④安田浩一 『ルポ 差別の貧困の外国人労働者』
日本経済にとって、外国人労働者は都合の良い存在であり続けた。企業の繁栄を支え、あるいは不況企業の延命に力を貸してきた。しかし日本は、その外国人を社会の一員として明確に認識したことがあっただろうか。第一部では、「奴隷労働」とも揶揄されることも多い、「外国人研修・技能実習制度」を使って日本に渡ってきた中国人の過酷な労働状況を概観する。第二部では、かつて移民としてブラジルへ渡った日本人の主に子どもや孫たちが、日本で「デカセギ労働者」として味わう生活と苦労、闘う姿を追う。こうした中国人研修生・実習生と日系ブラジル人を中心に、彼ら・彼女らの心の痛みを描きながら、日本社会をも鋭く映す、渾身のルポルタージュ。

怒りに、あるいは羞恥に身を震えさせながら読むべき本。七つ森書館というところから『外国人研修生殺人事件』みたいなタイトルの本が数年前に刊行され、それを読んで大きな衝撃を受けた記憶があります。同じ著者だったのですね。本書の冒頭で触れられる殺人を犯した研修生については、この『外国人研修生殺人事件』という本で詳しく書かれています。ジャーナリストとしても、とても真摯で、文章も、思考もしっかりした信頼のおける書き手だと感じます。
彼ら研修生の悲惨な実態がこれでもかと書き連ねてあります。その一つ一つが衝撃的。自分が乗っかっている地面の下ではこんなことが起こっている。それに気付かない振りをするのも、全く気付かないのも、どちらも等しく恥ずべきことなのでしょう。外国人労働者なしに日本社会が成立しているなんて幻想を抱いている人がまだ多いのにはびっくりします。そんなわけないでしょう。それは現代に始まった話じゃなく、これまでもずっとそうやってきたんじゃないかと僕は思っているのですが。ただ、それを彼らの「協力」なしに、とか言い換えてしまうおめでたい「多文化主義」には僕は組することはできません。
日系ブラジル人についても、保見団地に調査にいったり、彼らのバーベキューに参加したりしたことがあるので、他人事とは思えません。この不況のなかで彼らがどうやって過ごしているのだろう。
とやかくいう前に本書を読むことから。読まなければいけない本といってもいいかと。

2010年8月14日土曜日

アーネスト・ヘミングウェイ 『ヘミングウェイ短編集』

マッチョなイメージの強いヘミングウェイだが、彼はモダニズムの作家として、繊細でおそろしいほどの切れ味をもつ短篇を生みだした。彼は、女たちをひじょうに優しい手つきで描く。弱く寂しい男たち、冷静で寛大な女たちを登場させて描きだしたのは、「人間のなかで人間であることの孤独」だった。ジョイスが完璧と賞賛した「清潔で明るい場所」をはじめ、14作を新訳・新編集で贈る。

誰でも知ってるヘミングウェイ。小学生だか中学生だかに読んだり読まされたりした人も多いんじゃないかと想像します。僕もそんな感じで、名前は知っているし、有名な作品を子どものときに読んだ記憶があるけれど、それ以来全く読んでませんでした。しかし、なんで『老人と海』とかを子どものときに読ませようとするんだろうか。

そんなこんなでふと読んだヘミングウェイの短編集。悪くなかったです。確かにマッチョ&ハードボイルドって感じとは少し違うなぁ。すごくレイモンド・カーヴァーっぽい。というかカーヴァーがヘミングウェイの影響を受けていたのか。読後のすっきり感はあんまりなくて、むしろもやもや感が残るけど、そこもまた魅力なんだろうなぁ。この短編集のなかで明らかな「オチ」が用意されている作品はあんまりない。「オチ」を作ることは、そこでその作品の世界を完結させてしまうことになる。「オチ」がないことによって、それぞれの短編の世界が開かれたままになる。キアロスタミじゃないけど「そして人生はつづく」、という感じ。

そういえば訳者解説で、ヘミングウェイは本当にマチズムの作家なのか、という問いが投げかけられていた。ヘミングウェイは長らく「マチズム」というラベルを貼られ続けてきたが、それは果たして妥当だったのか、という問いだった。この短編集を読み終えた印象としては、やっぱりマチズムが色濃い作家だなぁ、という感じ。確かに、男性主義とかマッチョな価値観に翻弄される男たちがこの短編集には登場する。訳者はここに、マチズムではなく反マチズムを、強さではなく弱さを見出している。けれど、それは反マチズムなのか? マチズムに翻弄され敗北していくナイーヴな男たちを描くヘミングウェイの、同じくナイーヴな筆致。その筆致から、まるで彼の傷口を舐めてあげるような、ホモソーシャルな交感を感じ取ってしまうのは僕だけだろうか。この男たちのナイーヴさはマチズムの裏返しであって、反マチズムではないと僕は思ってしまう。

あちこち行った彼らしく、汽車とか駅とかカフェとかホテルとかよく登場しますね。ああいった刹那的に出会う人はすごく魅力的に見えて、家族とか常に一緒にいる人に対しては嫌悪感をもつ、ってなんだか分かる気がするけど、彼の小説の場合少し極端ですね。あるいはそんなものなのか。

やっぱり短編の名手、ですね。最後の短編なんかつくづくうまいと思う。
あと、あんまいい訳と思わなかったんだけれど、この訳者は定評がある人なんですね。ちょっと意外。

2010年7月20日火曜日

久生十蘭 『久生十蘭ジュラネスク 珠玉傑作集』

「小説というものが、無から有を生ぜしめる一種の手品だとすれば、まさに久生十蘭の短篇こそ、それだという気がする」と澁澤龍彦が評した文体の魔術師の、絢爛耽美なめくるめく綺想の世界。

久生十蘭初めて読んだなぁー。時代物、幻想譚、ミステリー、歴史小説風、アメリカもの、ユーモア……僅か10編だけど、なるほど多彩ですね。主に口述筆記で書いていたらしいことを知ってびっくり。口述筆記で小説を紡ぐってなかなかイメージがわかないなぁ。頭の中で物語を創り上げているってことなのか。それにしては文章も雰囲気があっていいですね。口述筆記で輪郭を固めた後に、文章を練り上げていったんでしょうか。
「南部の鼻曲がり」(1946年)で日系人を取り上げたり、「美国横断鉄道」(1952年)では鉄道建設での中国系移民に対する残虐な扱いを暴露したり、となかなか面白い。作品が発表された時期を見ると思わずにやりとしてしまいます。「遣米日記」は1942年ですか。
全集買う気にはならないけどもう少し読んでみたいな。
文庫だと、今手に入るのは岩波から出た短編集と講談社文芸文庫のやつくらいだろうか。

2010年5月28日金曜日

小島信夫 『アメリカン・スクール』

アメリカン・スクールの見学に訪れた日本人英語教師たちの不条理で滑稽な体験を通して、終戦後の日米関係を鋭利に諷刺する、芥川賞受賞の表題作のほか、若き兵士の揺れ動く心情を鮮烈に抉り取った文壇デビュー作『小銃』や、ユーモアと不安が共存する執拗なドタバタ劇『汽車の中』など全八編を収録。一見無造作な文体から底知れぬ闇を感じさせる、特異な魅力を放つ鬼才の初期作品集。

「アメリカン・スクール」が読みたくて、手に取ったのですが、どれもこれも面白い。「占領下」や敗戦後の日米関係やらを扱った研究にはしばしば取り上げられる「アメリカン・スクール」。マイク・モラスキーさんか新城郁夫さんのどっちかが分析しているやつを読んだことがあるなぁ。内容は……忘れてしまったけれど、なんだか面白かったような気がする。

読みながら、なんだか滑稽で笑ってしまうシーンが幾つもあるんだけれども……なんというか、後味がすごく悪い。なんというか思わず笑ってしまって、後でそのことを悔いることって誰にでもあると思うんだけど、そんな感覚がする。笑えない笑い、というんだろうか。その理由を愚考するに、やっぱりこの小説群は「占領」や「戦後」というものの深層を抉りとっているからなんだろう。あるいは、その経験によってどうしようもなく刻み込まれてしまった心性のようなものを。戦後の日米関係がこれ以降今日に至るまで全くと言っていいほど同じ論理で動いているわけで、それを読みながら嗅ぎ取ったせいなのかもなぁ、とか思いました。でもAmazonレビューでは素直に楽しんでいる人もいるみたいだから、まぁ当てにはならないのだけど。
そんなこと考えて意味あるの?って聞かれたらそれまでだけど、この小説を同時代の人が読んだとき、どんな感情を抱いたのかってすごく興味がある。小島信夫のような小説を書ける現代作家がいないように、小島信夫を同時代的な感覚で読むことができる読者もいないと思うし、この小説群の痛烈な皮肉に彼らが気付かないはずはなかっただろうから。結局のところ、彼らは、その小説の中に彼ら自身を見出したであろうから。ひょっとしたら、僕もそうだったのだろうか?

「アメリカン・スクール」について。
大したことは言えないのでさっくりと箇条書きに。
1.伊佐と山田を、単に対照的な存在として捉えてそこに戦後の日本(人)の2つの有り様を見出す読み方よりも、それをひっくるめて、伊佐と山田を根源的には同じものとして、コインの裏表として捉える方が面白い気がする。
2.「親米保守」という言葉を久々に思い出した。酒井直樹の言うところの国民主義を超克した「新しい植民地体制」との関係。
3.何よりも解説を江藤淳が書いているのがなによりも面白い。色々な意味で「アメリカン・スクール」の解説に彼以上にふさわしい人間はいないだろう(酒井直樹『希望と憲法』参照)。
4.ジェンダー的にはかなり厄介な話かも。この小説に限った話ではないのだけれど、小島信夫の描く女性ってどこかおかしい。ただの女性蔑視の裏返しな気もする。この辺けっこう歪んでいるなぁと。名字だけ=男性、下の名前=女性なのね。
5.箸を忘れた、ってオチはどうなんだろう。
6.小島信夫って身体性がキーワードなのか?体が思い通りに動かなかったり、勝手に動いたり、怪我をしたり。それが行動をどんどん左右して色々な出来事を引き起こしていく。どうにもならないこと、そうせざるをえないこと、が幾つも彼の小説では起こるけど、その一つに自分自身もあるみたい。
7.やっぱこの舞台って沖縄だろうか。だとすれば、相当に厄介な小説。

そう、小島信夫の小説ってものすごく厄介だし、ときに不可解。出征先を舞台にした小説が幾つかあったけれど、現地の人間には驚くほど無関心というか鈍感(「燕京大学部隊」なんて典型だと思う)。とりあえずもう少し読むかな。

2010年5月7日金曜日

内田百閒 『冥途・旅順入城式』

いまかいまかと怯えながら,来るべきものがいつまでも出現しないために,気配のみが極度に濃密に尖鋭化してゆく――このような生の不安と無気味な幻想におおわれた夢幻の世界を稀有の名文で紡ぎだした二つの短篇集を収める.漱石の「夢十夜」にも似た味わいをもつ百間(一八八九―一九七一)文学の粋. (解説 種村季弘)

百閒、怖いよ百閒……
なんとも、薄気味悪い靄に包まれた小説群、その数47篇。
雰囲気というか、それこそ感覚的なレベルで怖いし、それが何よりも面白い。
冒頭の一節は、ごく日常的な、何の変哲もない描写のはずなのに、それがいつしか、不気味な異界へと移り変わっていく。
何でもない日常なのに、なんかいつもと違う気がする。誰かの気配がする。妙な気分になる。すると、その予感通り、日常の世界が、不気味で幻想的な世界へと変容していく。それが怖くて仕方ないし、もとの世界に戻りたいと思うのだけれども、どうすればいいか分からずに、あるいは何かに導かれるようにして、その世界の深みへと迷い込んでいく。
このいわく言語化し難い、感覚とか気配のレベル、それには誰しも駆られることがあるだろうし、それ故に百閒の小説は薄気味悪い。論理的に理解するとか以前に、その雰囲気が伝わってきてしまう。実際、何が何だかよく分からなかった小説が幾つもあったのだけれども、分かる/分からないの次元の問題ではなく、分からなくても十分怖い(ひょっとしたら「分かってしまう」ほうがもっと怖いのかもしれないけど)。

更に言えば、私たちが気味悪さや恐怖(場合によっては嫌悪感)を感じる対象は、日常と全く同じでもなければ、全く異質のものでもない。全く異質のものであれば、それは異化的な効果を生み出し、むしろ恐怖感から私たちは免れることができる。多分一番怖いのは、日常生活と同じように見えるけれど、どこかがおかしい、そういったときではないだろうか。
それは逆に言えばこういうことだ。ちょっとした細部の違いが恐怖を掻き立てる。そしてその細部に注目することによって、別の世界が姿を現す。このことはジジェクが『ラカンはこう読め!』で説明していた〈対象a〉や欲望の対象=原因を巡る記述と重なる部分があるのかもしれないけれど、だからどうということもないので、措いておく。

怪奇譚の怖さは、その内容によるのは勿論だけれど、なによりも語り口がそれを盛り立てる。百閒はこうした語り口、文章表現、描写、場面設定、効果音などなどが抜群に巧い。たった数行でなんとも面妖な雰囲気を作り出すことができる。だから、怖い。

ともあれ、内田百閒の面白さは日常から非日常へ、現実/幻想、生/死、人間/動物などという図式に頓着せず、両者のあわいを自在に往来しながら、短くてもこちらがむわっとするほど密度の濃い特有の世界を作り出すところにあるのだろう。怖い怖い連呼したけれど、それだけじゃない。「件」の末文にはなんとも脱力させられるし、「白子」のシュールさにはにやっとしてしまう。「冥途」は短いながらもどこかしんみりさせられるし、「山高帽子」の言語感覚には脱帽させられる。
怪奇譚にとどまらない、(カフカをも思い起こさせるような)寓話性にも富んでいる。とても面白い。

なんとも贅沢な短編集です。

2010年4月20日火曜日

マルグリット・ユルスナール 『東方綺譚』

古典的な雅致のある文体で知られるユルスナールの一風変ったオリエント素材の短篇集。古代中国の或る道教の寓話、中世バルカン半島のバラード、ヒンドゥ教の神話、かつてのギリシアの迷信・風俗・事件、さては源氏物語など、「東方」の物語を素材として、自由自在に、想像力を駆使した珠玉の9篇。

マルグリット・ユルスナールの短編集。オリエント(日本、中国、インドからギリシャ、スラヴ諸国まで)の小説、逸話、伝承などから自由に発想が広がっていく。短いながらも良くまとまった、いい短編集です。
ただ面白い話があるだけではない。かといって教条じみているわけでもない。じんわりと「何か」が伝わってくるような、そんな寓話ぞろいです。
ユルスナールらしい、というべきなのかわからないけれど、端正な文章でとても魅惑的かつ幻想的です。翻訳もその雰囲気をよく伝えてくれている。
オリエントというのは、やはり幻想的な着想を羽ばたかせるには格好の素材なのですね。異教の神々、ニンフなどへの関心が読み取れるのは、彼女らしいなぁ(よくわからないけれど)。
冒頭の「老絵師の行方」と最後の「コルネリウス・ベルクの悲しみ」を対比的に読んでみるととても面白い。これを東−西の図式に置き換えてはいけないのだろうけど。
そういえば「コルネリウス・ベルク〜」にはチューリップ狂が登場する。チューリップの蒐集と新種開発への執心、その市場化の過程は、近代植民地=資本主義を(オリエンタリズムと呼んでもいいのだろうが)想起させる。オリエントを蒐集し、展示・園芸すること、そしてオリエントそのものをも開発創造すること(ウマ・ナラヤン「文化を食べる」参照)。あえて、一歩引くならば、ユルスナールもまたこうしたチューリップ狂とさほどの違いはないのかもしれない。彼女もまた「オリエント」を蒐集し、創造したわけだから。
とはいえ他方で、「オリエント」という他者を構築することは、その対極としての「自己」を創造することでもあった。オリエントを堕落した、色黒い、醜い存在とみなし、そうではないものとして「西洋」を位置づける。こうした点について酒井直樹は「有徴―無徴」という印象的な言葉を用いていた。しかしユルスナールの小説はそうした観点からは少しズレているように思える。どうズレているのか、これはもう少し考えなければいけないところだけれども、むしろそこまで見切った上で、あえて「オリエント」を取り上げ、両者の間で実験的に戯れているかのような、そんな印象も抱いてしまう。それは彼女の「異端」への関心がそうさせるのだろうか。


何よりも。今日はとても大変なことがあって、その合間にこの本をパラパラ読んでいました。だから内容はあまり残っていないし、それは上を読んでいただければ分かることだと思います。
ただ、そのなかにあって彼女の文章を読むことそれ自体が、自分の中のバランスや落ち着きを取り戻すのに役立ってくれた。やっぱり小説にはそんな力があって、それを改めて感じさせてくれたこの短編集に感謝したいです。また今度ちゃんと読もう。

2010年4月3日土曜日

木下古栗 『ポジティヴシンキングの末裔』

たかぶるだけ
たかぶらせておいて
帰宅。
〈想像力の文学〉から著者初の単行本刊行。

まったくもって毛深い体質ではなかったはずなのに、ある朝、純一郎が目覚めると、手足が自らの陰毛によって緊縛されていた……(「ラビアコントロール」)。枕に額を預けて目をつむった。眠りの底なし沼に沈みそうになる。このまま性器をまさぐり出せば俺はマスターベーションを避けられないだろう……(「糧」)。不可思議な官能のスパイスがまぶされた約30篇が競演する初作品集。

こんな本の感想を書くなんて、こっちが恥ずかしくなりますが。
「たかぶるだけ たかぶらせておいて 帰宅。」
というコピーに惹かれて買ってしまいました。

しかもこんな本をお薦めするなんて、もっと恥ずかしくなりますが。
早川から出ている謎のレーベル「想像力の文学」の一つです。
実にくだらない。本当に、本当に下らない。下ネタとグロネタのオンパレードです。しかもそれが30篇以上も続く。読んでいて吹き出すこと、ドン引きすること、突っ込みを入れてしまうこと、多々あります。

書き出しからすでに独特の雰囲気が漂っていて、やられてしまいます。
ところどころ書き出しだけ拾い上げてみると、
「ある未明、有閑マダムたちの住む高級住宅街の路地に大量の馬糞がばらまかれた。」
「内藤がへべれけになって帰宅すると、奥の部屋から苦しそうな呻き声が聞こえてきた。またしても中山が勝手に筋肉を鍛えているのだ。」
「この場に掲載するにはあまりにもお得な極秘情報が続々と入ってきている。」
「血気盛んな比較的薄着の青年たちが、いっせいに意味不明の言葉を怒鳴り合う。」
「ユッサユッサと揺れる中年女性の乳房。それは目にして嬉しい代物とはかけ離れている。」

…どうなんですかね、これ。こんな書き出しだったらまぁとりあえず読むしかないじゃないですか。で、読んでしまいます。でも、唐突に場面が変わったり、意味不明の展開になっていって読者が宙づりにされてしまう。互いに繋がっている短編もあったりするので、またページをめくるとまた書き出しに惹かれて読んでしまう。そんなこんなであっと言う間に読み終えてしまって、「…これは一体なんだったんだろう」と呟くことになります。なんてくだらない本を買ってしまったんだと思い、しかもそれを取り憑かれるように読んで、しかも感想まで書いてしまうなんて。
この人ただ者じゃないですね。81年生まれですか、若いですね。まぁ40〜50代の人がこれを書いていたら、ちょっと心配になってしまいますが。
不必要にも思える反復や切れ目なくダラダラ続く文章も、著者ならではの世界観を形作る一助になっていて、いい感じです。これだけ独自の(しかも一目見て異常と分かる)世界を創れる書き手って評価したくなります。宙づり感と下ネタ、妄想の暴走が面白いです。
自信をもって薦めるわけではありませんが、個人的には当たりでした。長いの読んでみたいな。

2010年3月2日火曜日

日野啓三 『あの夕陽・牧師館』

最初の小説「向う側」から近作「示現」まで日野文学の精髄を示す8篇を収録。

ベトナム戦争中、失踪した記者の行方を追う著者初の小説「向う側」、自らの離婚体験を描いた芥川賞受賞作「あの夕陽」等初期作品から、都市の中のイノセンスを浮上させる〈都市幻想小説〉の系譜、さらには癌体験を契機に、生と死の往還、自然との霊的交感を主題化した近作まで8作品を収録。日野啓三の文学的歩みの精髄を1冊に凝縮。

少し前に「風を讃えよ」と「七千万年の夜警」を読む機会があって、それからずっと気になっていた日野啓三。
先日古本屋でこの本が手に入ったので(「七千万年の夜警」は入ってないけど)読んでみました。

向う側/あの夕陽/蛇のいた場所/星の流れが聞こえるとき/風を讃えよ/ここはアビシニア/牧師館/示現(エピファニー)

の8篇、いずれも短編です。これらはほぼ時系列順に並んでいるのかな。
池澤夏樹みたく、これらに通底して日野啓三が扱ってきたテーマ、などというものを掘り下げることなどはできないけど。…というよりそもそも、日野啓三の小説を深く掘り下げていったら日野文学の核心、みたいなものに辿り着けるものだろうか。僕もそれに近いことをやろうとしているのかもしれないけれど、その先に「核」があるというのは幻想なんじゃないだろうか。結局、池澤が取り出してくる「向う側」なんて抽象的なテーマは日野啓三以外の人びとも取り上げていることで、そんなものを「核」だなんて大仰な言い方する必要ないでしょう、とか思ったり。とはいえ、そうした核心をつかみ取ろうとする運動や、「核」のように見えるものを呈示してみせることは必要なのかもしれない。
僕もそれに近いことをやろうとしている、と書いたけれども、違うとすれば、池澤がそれを客観的な「日野文学の核」として呈示しようとしているのに対して、僕のはただ主観的な、「読んで感じた印象」に過ぎないということだろう。

ともあれ、上に挙げた8つの短編のうち、前半の3つは正直言ってそこまで面白いとは思わなかった。デビュー作しかり、芥川賞受賞作しかり。自然の細密な描写とか色彩感覚、光への感受性とかはすごく気に入っているし、僕が勝手に思う「日野啓三らしさ」の一面はそこに描かれている。けれども、この3つであくまで主役なのは「人間」だということがいまいち気に入らなかった。これについては少しあとで考えるべき点かもしれない。

残りの5篇についてはそれぞれに素晴らしい短編だと思う。
「星の流れが聞こえるとき」に登場する少女、「風を讃えよ」に登場する癲癇の少年と風男、ここでも日野は人間を描いているじゃないか、と思われるかもしれない。けれども、彼/彼女らは、「器」のようなものだ。そうした「器」を介して私たちは星の流れる音を聞き、風の呼吸を感じ取る。彼が描きたかったのは、そうした人間そのものではなく「器(としての人間)」を介して聞こえてくる「自然」そのものではないだろうか(ひょっとしたらここにそうした「器への生成」も付け加えるべきなのかもしれないが)。彼/彼女を通して、私たちは雪の降る音を聞き、風の呼吸を聞く。
「風を讃えよ」について、ある精神科医が、この小説は、統合失調症の人間から観た世界を見事に描ききっている、と評したらしい。それについては僕は分からない、としかいえない。けれどこの短編を読むたびに、やはり「風の神殿」に響く風の呼吸が聞こえてくるし、ともすれば光の粒子すら見えるような気がしてしまう。癲癇を煩った人間が、発作時に感じるという恐怖と恍惚の混淆や、幻覚をこの少年は「ハクイ」と呼ぶ。モノも音もすべてが薄れ、溶け合い、透き通るような体験、それを少年と風男は共有している。そして、また彼らはその「ハクイ」を風の呼吸からも感じ取る。とても神秘的で美しい、短編小説。
「ここはアビシニア」もまた、印象的な小説。19歳で写真集を出版し、その後世界を放浪するなかで、カメラを捨てた写真家遠井一を巡る物語。戦災で全てが燃え尽きた東京は、その後奇跡的な回復を遂げる。そしてオリンピックを目前にした昂揚状態のなかで、彼は写真集を出版した。彼は、東京という虚構的な現実を下支えしているもう一つの「現実」を写し出そうとする。それは朽ち行くアパートであり、高架道路の裏にあるむき出しのコンクリートであり、メッキが剥げ落ち、緑青を吹いている流し台であった。そしてそれらは単に東京のもう一つの姿を映しているのではない。それは「現実」であるとともに未来の東京でもある。彼は「現実」を執拗に撮ろうとし続ける。しかし、カメラは現実のごく一面を切り取るに過ぎない。彼は海外を放浪し、アビシニアに辿り着く。そして圧倒的な現実を前に、それをカメラに収めることを放棄し、自分自身がカメラとなり、身をもって「現実」を浴びる。しかし、そうした「現実」に私たちは耐えられない。「現実」に近づきすぎた彼は、もとの世界に帰ることができなくなってしまう。そうした遠井の姿を「私」は「夢の島」で幻視する。そしてそんな彼の姿をアビシニアのランボーと重ね合わせる。私たち(こういう一般化は安易か)は「現実」を執拗に追いかけようとするが、私たちはそうした「現実」に耐えることはできない。恐らく創作というのはこの僅かなあわいの領域においてなされるものなのだろう、彼のように(ランボーを含めていいのかはわからないけれど)帰って来れなくなってきた人びとを私たちは数多く知っている。
「牧師館」は少し不思議な感じ。なぜ終盤部にいきなりキリスト教の話を持ち出したのだろう、またなぜ(教会ではなく)牧師館を幻視したのだろう。手術を間近にして、ふと奥多摩の渓谷に向かった「私」は渓谷で自然の音にじっと耳を澄ませるうちに、とくに夕陽の一瞬に自然と通じ合えたような心地になり、落ち着きを取り戻す。そして彼は駅に戻ろうとするのだが、そのときに森のなかに牧師館を幻視する。そのなかで老牧師は「われわれはもう自然に戻ることはできないのだよ」ときっぱりと言う。「われわれ」のなかには、キリスト教だけでも「男」だけでもなく、私たちも含まれることだろう。「男」と自然との交感をここで自ら否定しているのだろうか。それとも自然に戻ることはできないけれども、交感することはできる、ということだろうか。すこしよくわからなかった。
最後に「示現」について。これはオーストラリアについて書かれた文章のなかでもっともよくできたものの一つではないだろうか、と勝手ながら思う。ガッサン・ハージの『ホワイト・ネイション』などを読んでいて、広漠な自然(アウトバック)に対する恐怖感が白人オーストラリア人に根付いている、というのを少し言い過ぎだろう、と思っていたのだけれど、なるほどな、と納得させられた。日野の観察眼はとても鋭敏で、レストランでの様子や街の夜景からそうした恐怖感や孤独感を具に捉えている。オーストラリアの中心にある空虚、「広大な無」に対する恐怖感。自然の圧倒的な存在感によって、人間(白人)はそこで主役になることができない。
そして「私」は月夜のエアーズロックと対面する。ここの描写の美しさは感動的ですらある。面白いのはその後に「私」が死にそうになるところ。ここに「ここはアビシニア」との近似点を見いだすことができるかもしれない。
最後のアボリジニとの対話。これも、とてもいい。

なんだか好きな小説ばかり。
日野啓三、もう少し読んでみようかな。

2010年2月27日土曜日

クレア・キーガン 『青い野を歩く』

名もなき人びとの恋愛、不倫、小さな決断を描いた世界は、「アイリッシュ・バラッド」の味わいと、哀しみ、ユーモアが漂う。アイルランドの新世代による、傑作短篇集。小池昌代氏推薦!

あんま期待してはいなかったけど、なかなか面白かった。
これってアイルランドっぽいなぁ、と思ってしまった。アイルランド文学なんてほとんど読んだことないし(興味深い人が沢山いるのは知ってるけど、なかなか手を出せず…)、アイルランド文学ってものから(そんな括りが有効だとして)何らかのテーマが抽出できるものなのかはよくわからないけれど。
荒涼とした自然と、ケルト神話(神話とまではいかなくとも土着的な伝承)と、カトリックと結合した封建的かつ家父長的な秩序。そしてちょっと幻想的だったりも。
とはいえ、何よりもそこに生きる人びと。

彼女の文体は、ほどよい透明感(この短編集のなかでガラスがしばしば登場するが、ちょっと曇ったガラス、のようなイメージ。自然でも人間でも透過させてしまうような、けれどもどこかぼんやりとしているような。うん、ちょうどこの本の表紙みたいに)があって描写力にも富んでいる。こねくり回したような、もってまわった表現はほとんど出てこないし、シンプルに文章を積み重ねていく。だからあっさりと読んでしまうのだけれども、語られる内容は同衾であったり不倫だったり、神父との性交渉であったり、とても生々しい。家族や、男女や親子の絆と、その破綻。あるいは取り返しのつかない過去。それは結構哀しい話なのだけれども、彼女はその哀しさを誰かに向かってまくしたてようとはしない。そうではなくて、しばしの沈黙のあとに、適切な言葉を選び取りながら静かに物語る、あるいは呟くような、そんな印象。ちょうど、『花様年華』でトニー・レオンがカンボジアのとある遺跡の壁の穴に秘密を吹き込んだように。
そしてラストの小さな決意。救い、というほどではなく、劇的に何かが変わる訳でもない。ただ、明日からも生きていこう、ということを決意する。たったそれだけのことだけれども、なぜだろう、とても心に残る。

動物の視点の挿入など視点の切り替えも節度を弁えていて効果的。自然や動物も巧みに描くけれども、やはりこの小説の主人公はアイルランドに住まう人間(アメリカの話もあるけど)で、彼らのやり取りや会話がとても面白い。うまいなぁ、と。
「青い野を歩く」、「降伏」、「森番の娘」あたりは印象的。

気になること。原文に当たらずとも気付いてしまうような、明らかな誤訳は勘弁して欲しい。興ざめしてしまう。

2010年1月27日水曜日

カルロス・フエンテス 『フエンテス短編集―アウラ・純な魂他四篇』

「…月四千ペソ」。新聞広告にひかれてドンセーレス街を訪ねた青年フェリーペが、永遠に現在を生きるコンスエロ夫人のなかに迷い込む、幽冥界神話「アウラ」。ヨーロッパ文明との遍歴からメキシコへの逃れようのない回帰を兄妹の愛に重ねて描く「純な魂」。メキシコの代表的作家フエンテス(1928‐)が、不気味で幻想的な世界を作りあげる。

6篇収録されていますが、それぞれ違った面白さがあります。全体的には、幻想性+生々しさ+官能性でしょうか。ゴシック的な色合いも濃く、魔術的リアリズムと呼ぶに相応しい作品です。
男‐女、若者‐老人、正気‐狂気、メキシコ(インディオ、土着性)‐西洋、そして生‐死。こうしたいくつもの二項対立を扱うことを得意としているようです。これら背反的な二項のあいだを、フエンテスは文字通り魔術的な技法を用い、登場人物を行き来させます。例えば、『アウラ』においてはコンスエロ(老、醜)とアウラ(若、美)は対比的ですが、物語が進むにつれてアウラがコンスエロの映し鏡であることが明らかになります。そしてアウラに好感を抱いていたフェリーぺも、コンスエロの夫であったリョレンテ将軍の回顧録を整理していく中で、彼と一体化していきます。フエンテスの巧みさは、こうした魔術的な出来事が生じる舞台の設計技法にも見て取れるでしょう。コンスエロらが住まう家の不気味さの描き方は読んでいるこちらが薄気味悪くなるほどリアルで、廊下のシーンなどはギシッ、ギシッとどこかから音が聴こえてくるような気がしたほどでした。その不気味さは、この小説で彼が「君」という二人称を用いていることによって助長されることになります。読み進めるうちにいつしか読み手はフェリーぺと一体となり、この物語を彼と共有することになるわけです。舞台の気味悪さといえば、『女王人形』は…すごかったです。公園の牧歌的な明るい雰囲気と対を成すようなアミラミアの家の描写。
彼は、上記のように男‐女、老い‐若さのような対の構造を利用しながら、それを崩すことによって読者をひきつけるわけですが、そうした際に(少なくともこの短編集で)彼が用いている媒介に鏡と手紙があります。鏡は、『アウラ』や『最後の恋』に、手紙は『純な魂』や『チャック・モール』にそれぞれ登場します。『最後の恋』のなかで鏡は出だしとラストに登場します。そして同一人物が同じ日に鏡を見るのにもかかわらず、前者と後者でそこに写る像が全く変わってしまう。これは人が鏡に何を視ているのか、という問題とも関わることなのかもしれません。私たちは鏡を視ているときに、そこに理想化された自己を同時に見いだしています。『最後の恋』で鏡に映る像が変わってしまうのは、鏡自体が歪んでいるからではなく、鏡に向かう人物の現実の像が変わってしまったからでもなく、そこに見いだそうとする自己像が決定的に変わってしまったから、なのではないでしょうか。当初においては、見いだされていたこうありたい自己像が、その後の出来事の中で崩壊をきたし現実としての自己に直面する。それゆえにこの変容が起こったのだとしたら、幻想が入り込んでいるのは、終盤の鏡ではなく、序盤の鏡だということになります。であれば、私たちにとっての日常や現実それ自体が、あるいはこうした幻想によって構築されているのかもしれない、という疑念すら抱いてしまいます。こうした幻想と現実の関係をもフエンテスは効果的に利用しているわけです。
解説のなかで、もっと違った角度から、訳者がそれぞれの短編集のとても興味深い分析を展開しているのでぜひご参照ください。
これはいい短編集、おすすめは『アウラ』と『女王人形』です。

2009年10月21日水曜日

オノレ・ド・バルザック 『グランド・ブルテーシュ奇譚』

妻の不貞に気づいた貴族の起こす猟奇的な事件を描いた表題作、黄金に取り憑かれた男の生涯を追う「ファチーノ・カーネ」、旅先で意気投合した男の遺品を恋人に届ける「ことづて」など、創作の才が横溢する短編集。ひとつひとつの物語が光源となって人間社会を照らし出す。

おもしろいなぁ、バルザック。他も読みたい。
どれから読めばいいのかわかんないとき、光文社古典新訳文庫は本当に助けになります。これからも良質な作品を次々と送り出してほしいなぁ、と。

しかし宮下さん、ラブレーもモンテーニュもご苦労様です。完結したらまとめて読もうと思っているのでこれからもがんばってください。

2009年6月22日月曜日

ヴィクトル・ペレーヴィン 『眠れ』

コンピュータゲームの世界と一体化した中央官庁に働く職員、自我の目覚めを経験して苦悩する倉庫、夢の中で生活する学生、死の意味をめぐって怪談を続ける子供たち…。この時代に存在するものすべてを哲学的幻想で包み込み、意識のまどろみの中で変身話から東洋の宗教思想まで味わいつくす作品をつぎつぎと生み出すロシア新世代の作家ヴィクトル・ペレーヴィン。20世紀の終りに現われた異才の浮遊する世界。

なんというか…、こんなぶっとんだ短編集読んだことなかったかもしれません。倉庫が主人公かと思えば、ブロイラーが主人公だったり、ゲームと現実が渾然一体となった世界を描き出したかと思えば、眠りながら生活する術を学び、みんなが眠っていることを発見する…。
でももちろんただ面白いだけではない。この一つ一つの話がそれぞれ寓意的だし、その根底には様々な思想がない混ぜになった哲学のようなものが流れている。社会諷刺ももちろん。例えばブロイラーの話であれば、それを擬人化して描くこと、それ自体が一つの有効かつ意表をつく表現方法だけれども、それが再び人間に跳ね返ってくる。鶏の話のはずなのに、工場の中の話のはずなのに、なぜかそれが社会諷刺としても読めてしまう面白さ。
あちこちに鏤められたオリエンタリズム(というかロシアなんだから東じゃなく南なんだけど)的演出をどう考えるのかは、解説でも指摘されていた通り微妙な問題だとは思います。作為的ですらあるような気もしますけれど。しかし、これは面白い。62年生まれなんですね。ロシアの現代文学ってこんな人も出てきているのか、と驚きました。他の著作にも手を出してみたいなぁ。

2009年4月26日日曜日

古川日出男 『ルート350』

知的早熟児たちが集った夏期講習キャンプに現れた「狙撃手」。僕たちは次なるスナイプの現場を押さえるべく監視を始めた―「メロウ」など、現実とレプリカのあわいに立ち上がる圧倒的なストーリー世界が心を捉えて離さない。あらゆるジャンルを超えて疾走する作家が綴った唯一の「ストレートな」短編集。

さてフルカワです。彼の文体は結構好きです。解説で仲俣がフルカワの小説においては、dance, write, fightが特権的な地位を占めているとかいってましたが。間違ってはいないと思う。けどそれは本質じゃないだろう。それじゃあ本質はどこにある?danceとwriteとfightに通底するもの、それはリズムだ。フルカワの作品において決定的に大事なもの、それはリズムだろう。
彼の作品にはリズムがある。文体上の反復や短い一文にも、あるいは登場人物にも、起こる(あるいは起こらない)出来事にもそれはある。時としてそれは音楽に近い(本短編集でも音楽についての記述は随所に見られる。)たとえば、リバティーンズ。彼の作品は彼らの音楽に似ている。カールとピートの競い合い絡み合うようなヴォーカル。破綻寸前のところで絶妙なバランスを生み出す所。何より切り裂くようなリフ。そう、それはリズムというよりもリフに近い。これを持っている作家はそう多くないんじゃないだろうか。
それに付け加えるならば、「(恋愛に限定されない)愛/近接性(距離の近さ)」と「現実/レプリカ」といったところですかね。
「現実」に対して虚構でも幻想でも観念でもなくレプリカを対概念としてもって来るあたりが彼らしいのかな。レプリカ、すなわちオリジナルに対する模造、コピー。それではオリジナルとはなんだろう?増殖するレプリカの中で「現実なるもの」が次第に消尽していく。そんな中で「現実」はオリジナルはどこにある?「お前のことは忘れていないよバッハ」では「保護区(それは文字通りバカみたいな出来事から彼女たち自身の「現実」を守るためのものだ)」とバッハを介した3人の少女の友情が、「カノン」では男の子と女の子との愛が、「飲み物はいるかい」では僕とナカムラの語らいがそれにあたる。だから彼は「愛/近接性」のすばらしさを高らかに歌い上げるのだろう。誰かが言っていた(あるいはブログか何かに書いてあったのか?)、「旅は距離を縮めるためのものだ」と。誰かとの距離、「現実世界」との距離、それを縮めるために私たちは旅をするのだと。「ルート350」はまさにそのことをそのまま描いた短編だ。
これ以上この短編集について僕が言えることはない。こいつはホンモノだ、『聖家族』を読んだときにそう感じたけれども、やっぱりそれは間違ってなかった。


2009年3月19日木曜日

プリーモ・レーヴィ『天使の蝶』

「先史時代の鳥類」のような奇怪な骨を見つけたのは、廃墟と化した大戦後のベルリンのアパートの一室……。表題作「天使の蝶」には、化学者でもあったレーヴィの世界観が凝縮されている。人間の夢と悪夢が交錯する、本邦初訳を多数収録した傑作短編集。


僕がレーヴィのことを知ったのは、アガンベンを通じてだった。ひょっとしたら岡真理の著作を介してだったかもしれないが。アウシュビッツから奇跡的に生還し た化学者。文字通り非‐人間的な環境下で、自らの人間性を保持し続けるためにダンテの『神曲』を口ずさみ続けたユダヤ人。そんなイメージがあったからだろうか、この本を開いた時一種の当惑を感じた。
まるで星新一のショート・ショートのようなサイエンス・フィクション。確かに読んでいて面白いけど、 僕の予測は覆された。しかし…そもそも僕は何を期待していたのだろう?アウシュビッツ生還者が「普通のSF」(それが普通ではないことはよく読んでいけば分かるのだが)を書くことの意外性は何なのか?寧ろアウシュビッツの中で人間を人間であり続けさせるために物語が果たした役割に目を向ければ、彼がそのよ うに物語を編み続けたどこに不思議なことがあるだろうか。

「アウシュビッツ以降詩を書くことは野蛮である」と誰かは言った。その通りかもしれない。アウシュビッツのような「野蛮性」が近代の―より啓蒙された文明社会の―根底にあり続け、「詩を書く」行為がそうした「野蛮性」を隠蔽するよ うな、あるいは表裏一体のものだったのかもしれない。近代は私たちから人間性を奪い取り、そして与え返した、不均衡に、部分的に。けれども…

レーヴィの話にもどろう。彼のSFには幾つかの要素が頻出する。一つは科学者の時に狂信的な研究への没頭であり、もう一つは新たな機械、とりわけそれ以前では人間によって担われていた精神的な領域を代替しうるような機械の発明、そしてケンタウロスのような半人間半動物である。
前の2つは他のSFにもよく見られる要素だろう。科学者の狂気。テクノロジーの発達。
しかし、最後の要素は少しそこから逸脱するように見える。レーヴィにおいて、この人間と動物の中間の存在を扱うことは何を意味していたのだろう?

「天使の蝶」はナチス支配下のベルリンにおける人体実験を扱った作品である。一人の科学者がアホロートルのネオテニーに注目して、それを成体に変化させるホルモンを抽出する。そしてそのホルモンを人間に対して注入する実験がベルリンのあるアパートでナチスの主導によって行われた。
計画によれば、人間はそのホルモンによってより完全な姿に、つまり天使になる予定だった。けれども実際に誕生したのは人間にも動物にも似つかないような奇怪な生命体だった。
このナチスによって生み出された人間でもなく動物でもない存在、それこそ「ムージルマン」だったのではないだろうか。周知の通り、彼らは「完全な人間」を作り上げようとしていた。そのための排除の方策としてユダヤ人、ロマニ、同性愛者、身体障害者などを虐殺し消滅させようとした。そのような「完全な人間」を求める虚妄の果てに、アウシュビッツではもはや人間ではない存在、「ムージルマン」が生み出された。ちょうど天使を作り上げようとして奇妙な半人間・半動物を作り上げてしまったように。そしてそれは人間と動物の閾に立つが故、嫌悪され殺されてしまう。
そして何よりも、この実験を行ったレーブ博士はいまだ発見されておらず、またいつか姿を現すのだ。