2009年4月16日木曜日

アドルフォ・ビオイ=カサーレス 『モレルの発明』

現代アルゼンチンの洗練された小説家にして、あのボルヘスの親密な友人=共作者でもある著者が、SF的冒険推理小説的結構を借りつつ、現実とイマージュ、現実とフィクションとを巡る形而上学的思考を一篇の恋物語のうちに封印した。
ボルヘスに《完璧な小説》と讃えられ、欧米各国語に翻訳されて大きな反響を呼び、またアラン・レネ/ログ=グリエの『去年マリエンバートで』の霊感源ともなった、現代ラテンアメリカ文学の最高傑作のひとつに数え上げられる驚くべき作品。


知り合いにお薦めされて読んだ本。ビオイ=カサーレスはこれまで読んだことがなかったんですけど、確かによかったです。ミステリーの要素もたぶんにあったりして、どんどん読み進めていきたくなる、そんな中でもちょっと考えてしまう部分なんかもあったりして。なによりも、決してフォスティーヌへの思慕とその実現不可能性、それさえも超克し永遠となる彼の恋愛もとても心に残りました。
ボルヘスが何をもって「完璧な小説」と見做したのか、そこまで分析する力は僕にはないですが、確かにこの小説には全てがある、そう強く感じました。
僕は読みながらこの主人公がモレルなのかな、と深読みをしていたのですが、それはあながち間違いではないのかもしれません。主人公はモレルと自己を同一視しているわけですから。非常にこの過程は面白いですね。主人公はフォスティーヌに恋をし、彼女とただならぬ関係にあると推されるモレルに嫉妬を感じ、次いでモレルの思いに応えようとしないフォスティーヌに苛立ちを覚える。その鏡の向こうの世界、純粋なイマージュの世界に主人公はどうしても入っていくことができないゆえに自身の思いをモレルに仮託しようとする。勿論この仮託は十全なものではなくてしばしばモレルに主人公は疑いの眼を向けるわけですが。モレルと主人公はちょうど2つの太陽、2つの月のように同一でありながらもしばしば解離する、そういった存在となっています。その後に主人公はイマージュの世界に没入することで、モレルとは切り離された恋愛―それ自体が主人公自身のナルシスティックな振舞い、自己呈示に他ならないわけですが―を達成することになる。ビオイ=カセーレスはSF的スタイルを借りながら、2つの世界―現実とイマージュの世界―の重なり合いながらも解離する有り様を提示しています。
私たちはそれを見ることができるが、触れることはできない(精確さを期せば、その世界に立ち入り関与することができない)、彼らは我々によって見られていることを知らず、私たちの存在自体を知ることもない。こうした2つの世界の不可能な出会いを主人公は超克していくわけです、ただそれは現実の消滅と同義ではあるのですが。
さて、「鏡」についてです。やはり訳者同様にこれに触れないわけにはいかないでしょう。こうしたイマージュの世界は、私たちの世界を切り取ったものそのものでもあります。しかしその世界は死んでいる。その世界は円環として完結している。こうした私たちの世界を切り取り固定化させたもう一つの世界、それは鏡の世界に他なりません。幼児期にバラバラである身体を縫い合わせ一つの統一体としての「私」を作り上げていく存在、それが「鏡」です。鏡は統一体としての自己を提示します。鏡の向こうの世界にいる「私」は、私を魅惑する。そのようなものとして私は「私」であろうとする。けれどもそれは完全には達成されえない。現実を切り取り固着化させた「私」とは既に死んでいるから。そのような「私」は魅惑と恐怖の対象となる、ちょうど主人公がイマージュを前にした時のように。

そしてどうしても向こうに行きたければ、彼は死ななくてはならない。向こうの世界は不死ではあるが、そこに行き着くためには死ななければならない。そして彼は向こう側に旅立つ、7日間で完結する永遠の世界へ。

読了後、こう思いました。主人公が何の不自然さもなく向こう側の世界に溶け込んでいるのならば、新たにこの島にたどり着き、この虚構の世界を目撃した人はそれに気付くことはなく、彼も最初からこの団体の一員だったのだ、と思うだろうと。それならば、そもそもこの虚構の世界にいたのは誰だったのか。誰があとから参入してきた者なのか、「完璧」に演じられたのならばそれに気付くことはできない。極論を言えば、最初にこの虚構の世界にいた人物はごく少数だったのかもしれない。それが一人、また一人とこの世界に参入していく。現実の世界を捨て、イマージュの世界にのみ生きる人々。主人公の次にこの島にやってきた人も、やがて現実を捨て、このイマージュの世界に加わっていくことだろう。それはあまりにも魅惑的だから。なぜモレルの発明が島外に洩れることがないのかを考えてみるとその恐ろしさがよく分かる気がする。
素敵な小説を教えてくれた知人に感謝です。

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