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2010年2月23日火曜日

ダンテ・アリギエーリ 『神曲 煉獄篇』

ダンテとウェルギリウスは煉獄山のそびえ立つ大海の島に出た。亡者たちが罪を浄めている山腹の道を、二人は地上楽園を目指し登って行く。ベアトリーチェとの再会も近い。最高の名訳で贈る『神曲』、第二部。

地獄を抜けて煉獄へ。
地獄篇とは打って変わった冒頭の明るい描写が、あぁ、ここが煉獄なのか、と思わせます。彼らが山を登るごとに、少しずつ予感が高まる。そして、ついに地上楽園へとたどり着き、そこでベアトリーチェと再会する。
ここはとても印象的で、「ここまで来たのか!」と読んでいる者もダンテとともに感じる(かもしれない)。けれど、ベアトリーチェと出会ったあとの出来事、これは…ひょっとしてただの痴話喧嘩じゃないか?
死んでしまったベアトリーチェが、なんで私のことを忘れて、あんな偽りの快楽に身を任せたの? 私ほど美しい肢体をもつものなど世の中になかったのに!(おいおい…)とダンテに吠えかかれば、ダンテは「すみませんでした、すみませんでした…」と謝り続け、あげくの果てに卒倒する。せっかく煉獄山の頂上、天国を間近にした地上楽園なのに、こんな俗っぽいやり取り。愕然です。
でも、ひょっとしたらこの俗っぽさがポイントなのかもしれない。前にも触れたように、ダンテはどこまでも俗っぽい。地上楽園のパレードについても、その俗っぽさが註で指摘されていた。こうした俗っぽさは、あるいは読み手に地獄や煉獄という、フィクショナルな世界に誘い、そして途中で置いてきぼりにせずに、ダンテに付いていかせるための、有効な手法だったのかもしれない。煉獄をイメージすること、これはキリスト教文化圏の埒外にいる僕にはひどく困難である(キリスト教徒にとっては必ずしもそうではないのかもしれないが)。「煉獄」は、現世とは全く切り離された「聖」の領域であり、非-現実的なものだと僕なんかは感じてしまうが、「煉獄」が現世の罪を贖う場であることから考えれば、全く切り離されているわけではないことがわかる。そこは現世と天国を架橋し、同時に分断する場所/装置のようだ。そこに俗っぽさを持ち込むダンテはどうなのか? どうなんだろう…、けれど「神曲」はもちろん現世の人びとに向けられた者であって、読者は、あくまで現世的な感性を持って、「神曲」を読む。であれば、「煉獄」が現世的か非現世的かに関わらず、それはどこまでも現世的なやり方で描かれなければならない。ベアトリーチェと痴話喧嘩をするのも、ヴェルギリウスに金魚の糞みたいに引っ付いて歩くのも、調子に乗って彼に叱られるのも、地上楽園で安っぽいパレードがなされるのも、ひょっとしたらそうした意図によるものなのかもしれない、などと勝手に思った。
同時にこの煉獄の世界はとても事細かに構成されている。そうしたフィクションの構造の緻密さ。また、天文学など自然科学や観察への深い関心。そして何よりもダンテの圧倒的な表現力。これらがものすごい相乗効果をもたらしている。
完全に引き込まれてしまいます。

あと、キリスト教って面白いなぁ、と思うのが、地獄と煉獄(天国)との線引き。結構悪い人でも、死の直前に、神に祈ればいつかは天国に行けるんだなぁ、と。逆に神に祈らなかった人は悪いことをしていなくても地獄や辺獄に行ってしまう。そんなもんですか。ちょっと不思議です。
ともあれ、ここまで来たので天国まで行ってみようかと思います。
あと、なんだか色々な本を読みたくなります。『デカメロン』も気になるし、オウィディウスの『変身物語』も読みたい。そしてもちろん『アエネイス』も。

2010年1月27日水曜日

ダンテ・アリギエーリ 『神曲 地獄篇』

1300年春、人生の道の半ば、35歳のダンテは古代ローマの大詩人ウェルギリウスの導きをえて、生き身のまま地獄・煉獄・天国をめぐる旅に出る。地獄の門をくぐり、永劫の呵責をうける亡者たちと出会いながら二人は地獄の谷を降りて行く。最高の名訳で贈る、世界文学の最高傑作。第1部地獄篇。

昔、読みたいなぁと思い、書店で岩波文庫のをパラパラして、あぁムリだ、と思ったことがあります。あれは山川丙三郎さんの訳でしたか。河出文庫から平川訳が刊行されだしたのは一昨年のこと。いつ読むかはわからないけれど、と思いながら買っておいた記憶があります。
それを読み出したきっかけは、友人から、『神曲』をモチーフにしたロメオ・カステルッチの舞台&インスタレーションの話を聞いたこと。そんなんやってたなんて知らなかったよ、と思いながらその話を聞くうちにどうにもこうにも読みたくなってきた。それで買っておいたことを思い出して、読み出してみたら面白いじゃないか、と。「読むの難しいんだろうなぁ…」って思って躊躇っているひとがいたら、河出文庫版を強く薦めます。
きっと山川訳も寿岳訳もそれなりに個性と良さがあるんでしょうし、その辺は好みとかにもよるんでしょうが、とりあえず、1つの作品をこれだけのヴァージョンで楽しめることを素直に喜ぶべきでしょう。

平川さんによる河出文庫版は、言葉も平易ですし、訳注も、単なる用語解説に留まらず、さまざまな関連テクストにおける記述なども引用されていて、とても参考になります。

まだ地獄篇しか読んでいないし、関連テクストも全く読んでいない状況ですが、それでもすごく面白い。まず、ギリシア・ローマ的世界観とキリスト教的世界観がこういった形で融合を果たしているんだという素直な驚きがあります。次に、ダンテの描写力・表現力・創造力、これは尋常じゃないですね。地獄というフィクションをここまで見事に構築するのか、と。その全体構造もすばらしいけれど、ここの描写も非常に迫力があります。遠くから見ても、ごく間近に接近してみてもすばらしい。確かに、ゴシック式聖堂のような、という喩えは言い当て妙ですね。
例えば、地獄篇の第13歌、第7の圏谷の第2の円の自殺者たちが樹に変えられた森で、ダンテがある樹の一本の枝をもいだときの描写。「緑の生木の一方の端が燃えるとき、/もう一方の端ではじわじわと煮えたぎり、/熱気が洩れざまにしゅーしゅーと音をたてる。/それと同じように枝をもがれた幹から言葉と血が/もろともに吹き出した。私は枝を地に落として、/おびえた人のように立ちすくんだ」。生々しいというか写実的。僕からみれば、全体としては地獄なんて想像の構築物でしょ、と思うのだけれど、この構築物の土壌は驚くほどリアルな描写が積み重なっている。そこに登場する様々な人物と彼らが語る物語、そして彼らが蒙っている罰とその描写の巧みさ。それらによってこの「地獄」は圧倒的な存在感をもって屹立している。
あと、ダンテのなんともいえない人間臭さ。過剰な自己アピールと、怖がりっぷりと、罰を受けているものに対しての反応(怒ったり、涙を流したり、髪を引っ張ったり)とか。先生、先生と金魚のフンみたいに付いて回って、調子に乗ると先生に窘められてしゅんとする。俺は良心だ!的な態度を強調しながら、罪人には平気で嘘をついたり、喋らせようと暴行を加えたり。なんだ面白いじゃないかと。ふざけた感想ですみませんが。
あと、平川さんも指摘していましたが、地獄のなかに登場する英雄性を帯びた人物たち。苛烈な罰をもろともせず耐え抜く人々に対して、ダンテはどこかしら好意を抱きながら叙述しているように感じる。何故だろうか。
ただ、このモスクやムハンマドの描写は確かに、イスラーム教の人々からしたら許し難いでしょうね。ダンテのこのイスラーム嫌悪(恐怖)は当時の人々にも共有されていたものなのでしょうか。
あと、気になったのはこの圏谷の構成とそれに対応する罪、について。1300年ごろに罪というのがどのように序列化されていたか、を読み取ることができて興味深いです。構成についてはWikipediaがよくまとまっていて参考になりました。他にも書きたいことはいくつもあるのですが、先に煉獄に行かなくてはならないので、ここまで。