〈わたし〉は世界の中心ではない。〈あなた〉から語りかけられるときに初めて〈わたし〉が生まれる。コーヘン・ローゼンツヴァイク・ローゼンシュトックなど、本邦未紹介の近代ドイツのユダヤ哲学とフンボルトの「双数的」言語論を起点に、プラトン以来2500年の自己中心主義の呪縛を解く。
講談社メチエは割りと好きです。講談社自体はさほど好きでもないですが。いわゆる「出版不況」の風を受けて完全に浮き足立っている、可哀想になるくらい迷走してしまってます。この会社は近いうちにこのシリーズからも手を引いてしまうんじゃなかろうかと、心配になりますが。オピニオン誌を休刊にしたかと思えば、アフタヌーン新書なる意味不明且つ有害無益な新書を創刊して、かたや他社と協同してブックオフの筆頭株主になったり、ネット上でコミックを無料かつ同時に公開したり(その割にはホームページはかなりダサい…)。
全てのジャンルをカバーしてるけどどこにも長じていない、そんな自信のなさの現われでしょうか、何がしたいんだか良く分かりません。とりあえず、メチエとラチオだけは手放さないでほしいものです。まぁそんなことは置いといて…
この著作は非常に面白かったです。20世紀初頭のユダヤ教神学の影響を受け独自の発展を見せた哲学自体にも興味がありましたし、これまでの哲学を「対話」という観点から掘り崩し新たな姿を現出させようという試みも魅力的でした。
表紙の見開きにご親切にも「本書の内容」が箇条書きにしてあってそれによると、
・啓蒙主義のモノローグ思考
・ローゼンツヴァイクの西洋哲学批判
・新しい思考とメタ倫理的人間
・フンボルトの対話的言語論
・呼びかけと応答の文法
・対話者という〈他者〉
だそうです。ということで本書のポイントは、①プラトン以来(ギリシャ思想とキリスト教神学の結託といえるかもしれません)の西洋哲学への批判、②コーヘンやローゼンツヴァイクらユダヤ思想家の紹介、③彼らの議論と更にフンボルトの言語論に基づいて、「対話」という観点から哲学を立ち上げ直すこと(ここではバトラーの『自分自身を説明すること』と同様に「応答可能性」というのがキーワードとして出てきます)にあるといってよいのではないか、と思います。内容としては盛り沢山ですが、著者は平易な文体で、内容を掻い摘みつつ議論を展開していくので、それを追うことはさほどの困難を伴わないでしょう。
村岡による、「従来の」西洋哲学(つまり「プラトンの脚注としての西洋哲学」)に対する批判は、それが「モノローグ」であること、「全体性」の哲学であり本質主義を纏っていること、個別・具体的な存在としての人間を見てこなかったこと、としてまとめられます。「伝統的哲学」は、私たちの日常生活の彼方にある「本質」や「普遍」への問いかけであり、「言語」を、「他者」を、「時間」を消し去っている、と彼は指摘します。それゆえ、こうした哲学は「ひとりごと」に過ぎない、と。こうした志向が西洋哲学の根底にある以上、人々から哲学が遠ざかるのは自明のことだった、というわけです(「あとがき」において彼は、ヘーゲルの研究をしつつもどうしても彼の根本的な思想の契機が理解できなかったと述懐しています)。
その上で、彼はコーヘンやローゼンツヴァイクといったユダヤ神学の影響を色濃く受けた思想家による研究に言及していきます。19世紀後半からの民族主義の勃興を受けドイツのユダヤ人は幾つかの道を選ばざるを得なくなった。ある者は社会主義に希望を見出し、別の者はシオニズムに希望を見出し、またある者は、啓蒙主義のより一層の徹底化によって民族主義を抑えようとした。そのような状況下で、次第に彼らの中にある疑問が生じる、つまり「なぜ啓蒙主義はこうも容易く民族主義に敗北してしまったのか?」と。答えとしては、啓蒙主義も民族主義も実のところ大差はない、どちらも線引きの問題であって「我々」と「彼ら」という図式から免れてはいないから―すなわちどちらも同一性を基盤とする「モノローグの思考」を包含しているから―ということになるのだろうが、そうした啓蒙主義への問いかけというのがユダヤ人のあいだで行われるようになったと村岡は指摘する。その問いかけの中で実はそうした「モノローグの思考」というのが、近代啓蒙主義に留まらない西洋哲学が一貫して保持してきたものであることを発見する。そうである以上、これまでの啓蒙主義や西洋哲学からは「対話の思考」、つまり同一性を前提とせず、差異や異質性を保持したまま関係を取り持つことは不可能ということになる。それゆえ彼らは、西洋思想の枠外にあったユダヤ神学を紐解くことで、一人語りではない対話の思考を、差異性や多様性を保持しながらも関係を築き上げ共に生きられるような環境、対話可能な空間といったものの創出を目指していく。
そのようにして村岡はコーヘン『ユダヤ教の源泉からの理性の宗教』やローゼンツヴァイク『救済の星』を読み進める。4章以降は彼らの紹介からは離れ、いかに西洋哲学において「モノローグ」というものが根底にあり続けてきたか、を改めて指摘し、そこから抜け出し「対話の哲学」の地平を切り開く作業を進めていく。この中ではオースティンの行為遂行性もまた批判的に検討され、更にフンボルトの『双数について』を取り上げることによって、〈私〉と〈君〉との関係に分け入っている。この辺も非常に面白く読みました。曰く、〈私〉と〈君〉とは一対の関係であって、〈君〉があるゆえに〈私〉が存在しうる。〈私〉の語らいは〈君〉の存在を前提とするのであって、そこには常に「対話空間」とでもいうべきものがなければならない。会話は、発話行為で完結するものではなく、かならず誰かによって聞かれなければならない。この聞くことに対してこれまで言語学はさほど関心を払ってこなかったのではないかという批判。更にブーバーを本書では重視しなかった理由として、彼が「私と君」(我と汝)という関係に注目しつつも、前者を後者に先行・優越するものとみなしていたことが明かされる。
終章では、固有名詞や命令文、呼びかけなどの事例を参照としつつ、「対話」について考察を進めていく。対話が成立している時、そこには対話者という〈他者〉がいなければならない。そして彼/彼女は私の語りかけに対して応答していなければならない。村岡にとってこの他者における「応答可能性」は奇妙な事態を孕んだものとされる。応答可能性とは私が「同胞」と「異邦人」との境界線を引く基準となるものであり、応答によって〈他者〉は私の世界に参入する。けれども、その応答は必ずしも私の予測したものではない。応答に対する私の期待は絶えず裏切られる、なぜならもし完全に予測可能ならばそれは私のモノローグとも等しいからである。対話において、君は私の世界に属してはいるが、同時にその世界における構造的な外部でもある。私の語らいは、他者に依存しその応答如何で途絶し、更新される。それゆえに私とは「そのつど新たに更新される瞬間の非連続性」なのであり、そこにこそ自由や主体性が見出されるのだという。
本書で村岡が取り上げ続けた「対話の思考」、それは差異性や異質性、多様性を保持しながら、同時にそれらを前提としつつ、両者の対話が可能にさせるような場(空間)が創出するものであっただろう。同一性を基盤とするのではなく、差異性や多様性を基盤とすること。それではこうした対話可能な場を如何に作り上げることができるのか。村岡が「応答可能性こそがいわば『同胞』と『異邦人』との境界設定をなしている」(pp.182)という時、彼はそれに応答できない存在のことをどれほど念頭においているのだろうか。あるいは応答したとしてもそれを応答として聴き取ってもらえない、そうした問題について彼はどれだけ自覚的なのだろうか。〈君〉は〈私〉の存在に先行するという。〈君〉の返答なしには私は存在し得ないと。であるならば発話不可能性の問題とは同時に〈君〉が返答しない(あるいはしようとしない)、という問題でもあるだろう。スピヴァクがサバルタンは語ることができないという時に彼女が提起したのは「語ったとしてもそれを聴き取ってはもらえない」という問題ではなかったのか。サバルタンは語ることができない、それは「モノローグ」の問題ではない。むしろ対話しようとしても応答してもらえないという対話不可能性の問題だろう。あるいはランシエールは、どれが応答すべき人間の声で、どれが動物の鳴き声に等しいかを線引きする感性的なものの分有について語ってはいなかったか。「対話の思考」の重要性はよくわかる。けれどもその対話空間において前提とされているものは何なのか。言い換えれば、誰が「君」として、あるいは「私」としてその対話空間に参入できるのか?誰が彼/彼女の語らいに応答してもらえるのか?私はそれを知りたいと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿