2009年6月7日日曜日

ハリーム・バラカート 『六日間』

1948年、イスラエル建国の美名のもとに押し潰されていったカナンの地、故郷パレスチナの運命と西欧的自我、イスラム殉教者の娘との愛との間で苦悩する主人公ソヘイルを劇的な六日間を通して描く。古い土着的なアラブが崩れパレスチナ解放の萌芽が生まれるまで。


まず、ハリーム・バラカートについて簡単に。例によってウィキぺディアですが。
Halim Barakat (Arabic,حليم بركات), is an Arab novelist and sociologist. He was born in 1933 into a Greek-Orthodox Arab family in Kafroun, Syria, and raised in Beirut. Barakat received his bachelor's degree in sociology in 1955, and his master's degree in 1960 in the same field. He received both from the American University of Beirut. He received his PhD in social psychology in 1966 from the University of Michigan at Ann Arbor.

From 1966 until 1972 he taught at the American University of Beirut. He then served as research fellow at Harvard University until 1973, and taught at the University of Texas at Austin in 1975-1976. From 1976 until 2002 he conducted research in the field of society and culture at The Center for Contemporary Arab Studies of Georgetown University.

Barakat has written almost twenty books and about fifty essays on society and culture in respected books and journals such as the British Journal of Sociology, the Middle East Journal, Mawakif and al-Mustaqbal al-Arabi. His publications are primarily concerned with difficulties facing modern Arab societies such as alienation, crisis of civil society, and a need for identity, freedom and justice. He has also published six novels and a collection of short stories. These are rich with symbolism and allegory to world events.
(http://en.wikipedia.org/wiki/Halim_Barakat)

社会学者さんなんですね、全然知りませんでした。この本を読むに至った経緯は、①岡真理の『アラブ、祈りとしての文学』を読んで、②ガッサン・カナファーニーの『ハイファにもどって』を読む。その内容に衝撃を受け、文学からパレスティナと、そこに生きる人々の生活、苦悩、葛藤にアプローチしたいを思う。③『ハイファにもどって』の訳者の他の翻訳を探す。その結果としていま、この本は僕の手元にあります。
1980年刊行(初版です)のものが版元に在庫が残ってるのもすごい話ですが、1200円でこの本が手に入るということにも驚きました。安い、ですよね。

1948年、パレスティナのデイル・バハル(デイル・バハルは架空の都市だがそれゆえパレスティナそのものである)。シオニズム勢力との協定によって残された最後の1週間…のはずが6日目に彼らは侵攻を受けることになる、この6日間を一日ずつ追っていく形で物語は進行する。ロンドン帰りのキリスト教徒ソヘイルと英雄と見做される殉教者を父に持つ娘ナヒーダの恋愛を軸に、彼の友人であるファリードやラミア、ナヒーダの家族の模様も絡めながら。単なる恋愛物語ではないです。恐らくバラカートは様々な問題や主張をこの中に詰め込んでいる、象徴化させた形で。それが明確に示されるのは最後のシーンだけれども。全てが灰になった。けれども灰は土を豊かにする。将校とのそんなやり取りは全く噛み合わない。灰が土を豊かにするという真の意味を将校は汲み取れない。ソヘイルにとって「灰が土を豊かにする」ということは、デイル・バハルに住まう人々が、パレスティナ人が蒙った被害、苦悩がむしろ「パレスティナ人」を団結させる―ソヘイルはそれまで口々に形式だけまとまってるように見えるけれども中身はてんでばらばらな街の人々を批判していた―ということだ。そして、それは彼らの血と灰から築き上げられた土台となる。ソヘイルの6日間の変化もそれを傍証する。ロンドンから帰り、故郷に馴染むことができず、かといって逃げ出すこともできず、思いもしない演説をぶち、ナルシスティックな一人語りを繰り返す。そんな彼が次第に変わっていく。なぜだろうか?なぜ彼は拷問に耐え抜いたのか?ナヒーダと再会するため?それとも友情のため?それともデイル・バハルの人々を真摯に思って?
どれも間違ってはいないのだろう。彼はそれら全てのもののために耐え抜いた。それが彼の「居場所」そのものだったから。故郷に居場所を見つけられなかったソヘイルは最後にそれを見出す、けれども同時にそれは破壊され、失われてしまう。彼はもはやナヒーダに出会うこともないだろう。デイル・バハルからも放逐されることだろう。けれども、血と灰によって築き上げられた場所が彼にある限り、それを守り続け、デイル・バハルをいつか取り返すことが出来る。そうソヘイルは(そして恐らくバラカートは)信じているのだろう。
しかし、現実はそうではなかった。2009年に生きる私たちは知っている。パレスティナが侵略され続けていることも。パレスティナが決して一枚岩にはなりきれなかったことも。何も変わらない。悪くなり続けている。そこには絶望しかないように見える。希望が相容れる隙が全くない状況に。それでもまだ希望はあるのか?

なぜアラブ文学を読むのか、なぜパレスティナ文学を読むのか。それは上にも触れたように、彼らの生活・心象風景・生き様・苦悩に触れる最良の術だからだ。僕は知りたいと思う、彼らに出会いたいと思う。もっとパレスティナ文学は多くの人々に読まれるべきだ。ここには「力」がある。その「力」は読んだ者の中で生き続ける。たとえ形にならなくても、それがいつか、何かを変えるかもしれない。

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