ポポカテペトルとイスタクシワトル。二つの火山を臨むメキシコ、クワウナワクの町で、元英国領事ジェフリー・ファーミンは、最愛の妻イヴォンヌに捨てられ、酒浸りの日々を送っている。1938年11月の朝、彼のもとに突然イヴォンヌが舞い戻る。ぎこちなく再会した二人は、領事の腹違いの弟ヒューを伴って闘牛見物に出かけるが、領事は心の底で妻を許すことができず、ますます酒に溺れていく。彼を現実に引き戻そうとするイヴォンヌとヒューにもなすすべはなく、二人の救いの手を拒絶する領事は、ドン・キホーテさながらに、破滅へと向かって衝動的に突き進んでいく。ナチスの台頭やスペイン内戦など不穏な世界情勢を背景に、領事の悲喜劇的な一日が、の祝祭的な禍々しさと重なり合い、ジョイスの『ユリシーズ』を思わせる圧倒的な凝集力で描き出される。聖書、ギリシア神話、メキシコの歴史、更に『神曲』『失楽園』『ファウスト』等の文学作品をモチーフとして、領事の滑稽ながらも切実たる狂気の行方が、叙情的かつ重層的に、イメージ豊かにあぶり出されていく。ガルシア=マルケス、大江健三郎ら世界の作家たちが愛読する二十世紀の不滅の傑作、待望の新訳。
これは2週間くらい前に読み終えた本でしょうか。すごい小説です。
なんというか胃もたれしてしまいました。圧倒的な筆力に消化不良を起こしてしまいます。
図書館で借りたのですが、これは買い直すべきだ、とつくづく。繰り返し読むに足るし、そうやって反芻して読まなきゃまたやられてしまいます。ある意味、『闇の奥』をクルツ大佐の側に立って描き直したらこんな感じになるのかもしれない、とか思ったりしました。というか『闇の奥』への一つの応答なのかもしれませんね。
なんか一気呵成に書き上げたようにも見えるし、綿密に計算して構築したようにも見える。こんな小説書ける人いるんですね。現実と幻想の間を漂う、なんて言葉が生温く聞こえるほど、混沌としています。小説の中でいわゆる「事実」なんてさして重要なことではないのかもしれない。会話をしているうちに全然違うことを想起して、その妄想が途方もなく、現実を圧倒するほどに肥大していく。時間がものすごくたったような気もするし、あっという間なような気もする。そんなことは誰にでもあると思うけれど、小説のなかにその感覚を落とし込むのってすごく難しいような気がする。けれどラウリーは難なくこなしてみせる。章毎に人物の視点が入れ替わるけれど、その視点によって、物事の見え方も捉え方も違うし、「世界」も違っていく。描写なんかも、一見とりとめのないようで、でも無駄なところは全くない。あるいは無駄さえも必要な部分として読ませるような、そんな感じです。うーん、うまく言えない。すごく、インプリケーションに富んでいるし、寓話的にすら思えるんだけれど、その先のものもなかなか掴めない。
なんというか、すごいです。できれば注釈が欲しかった。
もっとまともな感想が書ければと思うけれど、なかなか僕にはできません。やられてしまいました。いつかまた立ち向かってやろうと思います。
2010年6月28日月曜日
2010年4月12日月曜日
ギャビン・ライアル 『深夜プラス1』
ルイス・ケインの引き受けた仕事は、マガンハルトという男を車で定刻までにリヒテンシュタインへ送り届けることだった。だが、フランス警察が男を追っており、さらに彼が生きたまま目的地へ着くのを喜ばない連中もおり、名うてのガンマンを差し向けてきた! 執拗な攻撃をかいくぐり、ケインの車は闇の中を疾駆する! 熱気をはらんで展開する非情な男の世界を描いて、英国推理作家協会賞を受賞した冒険アクションの傑作。
どうやら僕にはハードボイルドさが足りない。そんなことをふと思って、とりあえずハードボイルドな小説でも読んでハードボイルドな気分に浸ることにしました。
やや安直な経緯だけれども、読み終わった今はすっかりハードボイルドです。
そんなこんなでギャビン・ライアル。いちいちかっこいいですね。わざとらしくかっこいいのが素敵です。Amazonのレビューに、これだけは知っておいてね、という固有名詞が幾つかあって、銃器やら自動車の名前なんですけど、画像検索してみると期待通りにかっこいい。
話は、もうどうでもいいです。金持ちをリヒテンシュタインまで送っていくだけの話なので。極端な話、リヒテンシュタインじゃなくてスロヴェニアでもいいし、金持ちじゃなくて仏像でもいいんだと思います(仏像じゃかっこ悪いからだめかな)。こういうのって何よりも雰囲気を楽しむ小説じゃないでしょうか。
ただ、いかんせんオリジナルの刊行が1965年。なかなか伝わりにくくなっているところもあるのではないでしょうか(上野車の名前とかもその一つでしょう)。レジスタンスとか、第二次世界大戦とか、この小説が刊行された頃はそれを通過してきた人々がほとんどで、そうした人には、ある種の「生々しさ」を伴いながら、この小説は読まれたのかもしれない、と思います。武器を手に取り戦場に向かった人間たち(レジスタンスも含めて)がその後、ある者は弁護士となり、産業スパイとなり、あるいは銃から離れられずにガンマンになる。この小説に登場する人物の背後には、戦争とレジスタンスという劇的な経験が横たわっていて、当時の読者たちはその存在をひしひしと感じ取ったことでしょう。
だけれども、この小説をそんな風に読むことができる人はもはやほとんどいないんだと思います。先にこの小説の内容はどうでもいいと言い放ったり、何よりも雰囲気を楽しむべきだ、とあえて言ったのはそういった意味合いです。このかっこよさの奥底に絡み付いている何かの正体が分からなければ、「かっこよさ」それ自体を楽しめばいいのだと、僕は思います。
また、この小説では何人か「ガンマン」が登場する。彼らは言ってしまえば、先の大戦の生き残りで絶滅危惧種みたいなものなんでしょう。しかし、この「ガンマン」って言葉は、アメリカの西部劇をイメージさせますね。そうか、1965年だから丁度マカロニ・ウェスタンの時期と重なるんですね。ギャビン・ライアルはマカロニ・ウェスタンを観ていたのでしょうか。
まぁそんなことよりも、ガンマンはタバコを左手で吸うらしいですよ。右手は空けておかなければいけないらしいです。警察は買いかぶってはいけないけれど、侮ってもいけないそうです。マティーニのとき、グラスは凍らせてはいけません。うっすらくもるくらいがいいそうです。なるほど。
車と銃と暴力と酒、の世界ですね。中学生くらいの時に読んでいたら、痛々しい真似をしていたかもしれません。というか、ひょっとして今の40代くらいの人たちって、もろにこういった冒険ハードボイルド小説をくぐり抜けてきた世代じゃなかろうか、いや憶測ですが。
何と言えばいいのか分からないけれど、かっこよさとともに、ある種共感に近いものを感じたんですね。その共感って言うのは喩えていうと、絶滅危惧種の動物の姿に対して覚えてしまう、失われていくものに対する寂寞と同情みたいな、いわく言い難い感情なのですが。
他方で、この小説でのホモソーシャルな結びつきや、性別的な役割分担、男性中心主義的な感じはこの「かっこよさ」の裏返し(別の一面)でしょうし、「ハードボイルド」ってマスキュリニティそのもののような気もします。マスキュリニティがあまり好きではない僕は結局ハードボイルドにはなれないのでした。
どうやら僕にはハードボイルドさが足りない。そんなことをふと思って、とりあえずハードボイルドな小説でも読んでハードボイルドな気分に浸ることにしました。
やや安直な経緯だけれども、読み終わった今はすっかりハードボイルドです。
そんなこんなでギャビン・ライアル。いちいちかっこいいですね。わざとらしくかっこいいのが素敵です。Amazonのレビューに、これだけは知っておいてね、という固有名詞が幾つかあって、銃器やら自動車の名前なんですけど、画像検索してみると期待通りにかっこいい。
話は、もうどうでもいいです。金持ちをリヒテンシュタインまで送っていくだけの話なので。極端な話、リヒテンシュタインじゃなくてスロヴェニアでもいいし、金持ちじゃなくて仏像でもいいんだと思います(仏像じゃかっこ悪いからだめかな)。こういうのって何よりも雰囲気を楽しむ小説じゃないでしょうか。
ただ、いかんせんオリジナルの刊行が1965年。なかなか伝わりにくくなっているところもあるのではないでしょうか(上野車の名前とかもその一つでしょう)。レジスタンスとか、第二次世界大戦とか、この小説が刊行された頃はそれを通過してきた人々がほとんどで、そうした人には、ある種の「生々しさ」を伴いながら、この小説は読まれたのかもしれない、と思います。武器を手に取り戦場に向かった人間たち(レジスタンスも含めて)がその後、ある者は弁護士となり、産業スパイとなり、あるいは銃から離れられずにガンマンになる。この小説に登場する人物の背後には、戦争とレジスタンスという劇的な経験が横たわっていて、当時の読者たちはその存在をひしひしと感じ取ったことでしょう。
だけれども、この小説をそんな風に読むことができる人はもはやほとんどいないんだと思います。先にこの小説の内容はどうでもいいと言い放ったり、何よりも雰囲気を楽しむべきだ、とあえて言ったのはそういった意味合いです。このかっこよさの奥底に絡み付いている何かの正体が分からなければ、「かっこよさ」それ自体を楽しめばいいのだと、僕は思います。
また、この小説では何人か「ガンマン」が登場する。彼らは言ってしまえば、先の大戦の生き残りで絶滅危惧種みたいなものなんでしょう。しかし、この「ガンマン」って言葉は、アメリカの西部劇をイメージさせますね。そうか、1965年だから丁度マカロニ・ウェスタンの時期と重なるんですね。ギャビン・ライアルはマカロニ・ウェスタンを観ていたのでしょうか。
まぁそんなことよりも、ガンマンはタバコを左手で吸うらしいですよ。右手は空けておかなければいけないらしいです。警察は買いかぶってはいけないけれど、侮ってもいけないそうです。マティーニのとき、グラスは凍らせてはいけません。うっすらくもるくらいがいいそうです。なるほど。
車と銃と暴力と酒、の世界ですね。中学生くらいの時に読んでいたら、痛々しい真似をしていたかもしれません。というか、ひょっとして今の40代くらいの人たちって、もろにこういった冒険ハードボイルド小説をくぐり抜けてきた世代じゃなかろうか、いや憶測ですが。
何と言えばいいのか分からないけれど、かっこよさとともに、ある種共感に近いものを感じたんですね。その共感って言うのは喩えていうと、絶滅危惧種の動物の姿に対して覚えてしまう、失われていくものに対する寂寞と同情みたいな、いわく言い難い感情なのですが。
他方で、この小説でのホモソーシャルな結びつきや、性別的な役割分担、男性中心主義的な感じはこの「かっこよさ」の裏返し(別の一面)でしょうし、「ハードボイルド」ってマスキュリニティそのもののような気もします。マスキュリニティがあまり好きではない僕は結局ハードボイルドにはなれないのでした。
2010年4月7日水曜日
ジェームズ・グラハム・バラード 『クラッシュ』
六月の夕暮れに起きた交通事故の結果、女医の目の前でその夫を死なせたバラードは、その後、車の衝突と性交の結びつきに異様に固執する人物、ヴォーンにつきまとわれる。理想通りにデザインされた完璧な死のために、夜毎リハーサルを繰り返す男が夢想する、テクノロジーを媒介にした人体損壊とセックスの悪夢的幾何学を描く。バラードの最高傑作との誉れも高い問題作、初文庫化。
バラードの最高傑作とも称され、SF小説の一つの金字塔とさえ言われるこの作品。クローネンバーグが映画化したことでも知られていますが…ごめんなさい、僕この小説だめでした。読むのがしんどくてしょうがなかったです。映画も見ようと思ったけれども、この小説を読んだだけでお腹いっぱいとなってしまいました(若干吐き気も…)。
僕が感じた「しんどさ」は、表面的には、何が起こっているのかわからない、誰がその場にいて何をしているのかがなかなか掴めないということにありました。この小説のスピード感に付いていけなかった、ということだと思いますが。あと、もっと深く考えようとすれば、こうしたテクノロジーとの性的な合一やこの小説自体の倒錯した暴力性に「嫌悪感」に近いものを覚えてしまったということにもあるのだと思います。こうしたものに「嫌悪感」を覚えるということ自体、この小説のテーマとも深く関わることでしょうし、考察に値することかもしれません。
ただ、幾つかのことはやはり書き留めておきたいと思います。一つは「車」というのは、閉ざされた特異な空間でありながら、身体の延長でもある、という点についてです。ジジェクでしたか、車は外から見るととてもちっぽけに見えるのに、中に入るととても広く感じる、という点にどこかで言及していたかと思います。どういう文脈だったのか思い出せませんが、そのことだけ妙に印象に残っていました。車というのは(基本的には)密閉された空間であり、内部と外部が明確に線引きされています。車内から眺める外の景色がなぜかリアリティをもたないように感じることさえあるように思います。同時に運転手にとっては車は自分の身体と同化させなければ、上手に運転することはできないでしょう。障害物を避けるときにどの程度ハンドルを回せばいいのか、車の幅はどれくらいあるのか、アクセルをどの程度踏み込めばスピードが出るのか、など、車の運転には、それを自分の身体へと接続する、身体化することが求められるわけです。また、車好きの車に対する愛着というのもそうでない人には理解しかねるほど、奥深いもののようです(僕にはよく分かりません)。ついでに言えば、僕は小さいとき、車の正面から見た姿を「顔」として認識していました。「あの車、嫌な顔してるね」とかそんなことを話したりしていた訳です。そういえば、この小説でカーセックスというのがたびたび出てきますが、なんでそんなことをするんでしょう。車の密閉性とか、にもかかわらず外部とガラス1枚で繋がっていることに対する露出狂的な欲望とかがあるのかもしれませんが、ドライブにはひょっとしたら人を性的に掻き立てる何かがあるのかもしれません。
なんだか色々考えていくと、人間と車との関係というのはつくづく「奇妙」なもので、車というのは単なる機械以上の存在のようにも思えます。人間の身体と車の接続というのが、運転の前提にあるとすれば、車と人間との合一というのもさほど奇異なものにも思えなくなってきます。テクノロジーの身体化とかサイボーグとか、気にはなっているのですが、なかなか本を読めていません。ダナ・ハラウェイとかも気になっているのですが。
他に気になったのは、「クラッシュ」や死への欲望とかそういったことについてです。破局や死への欲望はこの小説を通底して流れています。クラッシュが凄惨であればあるほど、その光景を見たくなってしまう、あるいは見たくないと思いながら見てしまう、ということはひょっとしたらあるのかもしれません。「うわぁ……」と言葉を失いながら破局的な光景に立ちすくむような、そんな魅惑が実はあるのかもしれないと思います。ただ、こうした凄惨な光景への欲望は、果たして破滅への欲望や死への欲望と同一のものなのか、これはよくわかりません。「人類滅亡」がことあるごとにメディア等で話題になることを考えたら、ひょっとしたら、私たちはどこかで滅亡したいのではないか、とさえ思えてきますが…。ちょっとわからないなぁ、というのが正直なところです。
そしてこれら2つのことが歪に絡まり合い同一化しているところが、この小説の奇妙さであり、魅力であるのでしょう(僕はそこに嫌悪感を感じた、ということです)。
きっともっとちゃんと読める人が読めば、ここから多くの論点を抽出できるのでしょうが、僕はちょっとできそうにありません。
バラードの最高傑作とも称され、SF小説の一つの金字塔とさえ言われるこの作品。クローネンバーグが映画化したことでも知られていますが…ごめんなさい、僕この小説だめでした。読むのがしんどくてしょうがなかったです。映画も見ようと思ったけれども、この小説を読んだだけでお腹いっぱいとなってしまいました(若干吐き気も…)。
僕が感じた「しんどさ」は、表面的には、何が起こっているのかわからない、誰がその場にいて何をしているのかがなかなか掴めないということにありました。この小説のスピード感に付いていけなかった、ということだと思いますが。あと、もっと深く考えようとすれば、こうしたテクノロジーとの性的な合一やこの小説自体の倒錯した暴力性に「嫌悪感」に近いものを覚えてしまったということにもあるのだと思います。こうしたものに「嫌悪感」を覚えるということ自体、この小説のテーマとも深く関わることでしょうし、考察に値することかもしれません。
ただ、幾つかのことはやはり書き留めておきたいと思います。一つは「車」というのは、閉ざされた特異な空間でありながら、身体の延長でもある、という点についてです。ジジェクでしたか、車は外から見るととてもちっぽけに見えるのに、中に入るととても広く感じる、という点にどこかで言及していたかと思います。どういう文脈だったのか思い出せませんが、そのことだけ妙に印象に残っていました。車というのは(基本的には)密閉された空間であり、内部と外部が明確に線引きされています。車内から眺める外の景色がなぜかリアリティをもたないように感じることさえあるように思います。同時に運転手にとっては車は自分の身体と同化させなければ、上手に運転することはできないでしょう。障害物を避けるときにどの程度ハンドルを回せばいいのか、車の幅はどれくらいあるのか、アクセルをどの程度踏み込めばスピードが出るのか、など、車の運転には、それを自分の身体へと接続する、身体化することが求められるわけです。また、車好きの車に対する愛着というのもそうでない人には理解しかねるほど、奥深いもののようです(僕にはよく分かりません)。ついでに言えば、僕は小さいとき、車の正面から見た姿を「顔」として認識していました。「あの車、嫌な顔してるね」とかそんなことを話したりしていた訳です。そういえば、この小説でカーセックスというのがたびたび出てきますが、なんでそんなことをするんでしょう。車の密閉性とか、にもかかわらず外部とガラス1枚で繋がっていることに対する露出狂的な欲望とかがあるのかもしれませんが、ドライブにはひょっとしたら人を性的に掻き立てる何かがあるのかもしれません。
なんだか色々考えていくと、人間と車との関係というのはつくづく「奇妙」なもので、車というのは単なる機械以上の存在のようにも思えます。人間の身体と車の接続というのが、運転の前提にあるとすれば、車と人間との合一というのもさほど奇異なものにも思えなくなってきます。テクノロジーの身体化とかサイボーグとか、気にはなっているのですが、なかなか本を読めていません。ダナ・ハラウェイとかも気になっているのですが。
他に気になったのは、「クラッシュ」や死への欲望とかそういったことについてです。破局や死への欲望はこの小説を通底して流れています。クラッシュが凄惨であればあるほど、その光景を見たくなってしまう、あるいは見たくないと思いながら見てしまう、ということはひょっとしたらあるのかもしれません。「うわぁ……」と言葉を失いながら破局的な光景に立ちすくむような、そんな魅惑が実はあるのかもしれないと思います。ただ、こうした凄惨な光景への欲望は、果たして破滅への欲望や死への欲望と同一のものなのか、これはよくわかりません。「人類滅亡」がことあるごとにメディア等で話題になることを考えたら、ひょっとしたら、私たちはどこかで滅亡したいのではないか、とさえ思えてきますが…。ちょっとわからないなぁ、というのが正直なところです。
そしてこれら2つのことが歪に絡まり合い同一化しているところが、この小説の奇妙さであり、魅力であるのでしょう(僕はそこに嫌悪感を感じた、ということです)。
きっともっとちゃんと読める人が読めば、ここから多くの論点を抽出できるのでしょうが、僕はちょっとできそうにありません。
2009年6月22日月曜日
ジェームズ・グラハム・バラード 『結晶世界』
忘れられぬ人妻を追って、マタール港に到着した医師サンダーズ。だが、そこからの道はなぜか閉鎖されていた。翌日、港に奇妙な水死体があがった。四日も水につかっていたのにまだぬくもりが残っており、さらに驚くべきことには、死体の片腕は水晶のように結晶化していたのだ。それは全世界が美しい結晶と化そうとする不気味な前兆だった。バラードを代表するオールタイムベスト作品。星雲賞受賞。
美しい。その一言に尽きる。僕なんかはFF世代ですから、あぁこの小説の森をイメージしてあのゲームの森は作られたのかな、なんて思ったりしました。結晶化していく世界とその結晶にどうしようもなく魅了されていく人々。ディストピア?いやユートピアなんだよ。この結晶の森の描写は怖いくらい魅力的、というか怖いから魅力的なのかもしれない。崇高。どんな科学的分析も意味を失ってしまうような美しさ。なぜ宝石は結晶に対抗する力をもつのか。宝石もまた人々を本当に長い間魅了し続けている。宝石の美しさは権力や権威と一体になっている。しかし結晶は森から生まれた。なぜそれが生まれたのか、それについて解き明かされることはないけれども。アフリカの奥深く、そこは宝石の産出地域ではあるけれども、(近代以降、と留保をつけるべきだろうか)その宝石を享受することとは縁遠かった地域だろう。そこから結晶は生まれ、世界を覆いつくす。宝石は結晶に対抗する力を持つけれども、それはやがて磨耗していく。いつかは私たちもみな結晶化していく。この小説で主人公がたびたび二項対立を発見する。その対立は結晶が拡大するにつれて消え去っていく。やはりこう訂正するべきなのか、結晶世界はディストピアでありユートピアなのだと。その二つは案外似通ったものなのだろうか。西洋-非西洋も、宗教も貧困も豊かさも全て結晶は覆い尽くしていくのだから。
美しい。その一言に尽きる。僕なんかはFF世代ですから、あぁこの小説の森をイメージしてあのゲームの森は作られたのかな、なんて思ったりしました。結晶化していく世界とその結晶にどうしようもなく魅了されていく人々。ディストピア?いやユートピアなんだよ。この結晶の森の描写は怖いくらい魅力的、というか怖いから魅力的なのかもしれない。崇高。どんな科学的分析も意味を失ってしまうような美しさ。なぜ宝石は結晶に対抗する力をもつのか。宝石もまた人々を本当に長い間魅了し続けている。宝石の美しさは権力や権威と一体になっている。しかし結晶は森から生まれた。なぜそれが生まれたのか、それについて解き明かされることはないけれども。アフリカの奥深く、そこは宝石の産出地域ではあるけれども、(近代以降、と留保をつけるべきだろうか)その宝石を享受することとは縁遠かった地域だろう。そこから結晶は生まれ、世界を覆いつくす。宝石は結晶に対抗する力を持つけれども、それはやがて磨耗していく。いつかは私たちもみな結晶化していく。この小説で主人公がたびたび二項対立を発見する。その対立は結晶が拡大するにつれて消え去っていく。やはりこう訂正するべきなのか、結晶世界はディストピアでありユートピアなのだと。その二つは案外似通ったものなのだろうか。西洋-非西洋も、宗教も貧困も豊かさも全て結晶は覆い尽くしていくのだから。
2009年4月19日日曜日
ポール・トーディ 『イエメンで鮭釣りを』
アルフレッド(フレッド)・ジョーンズ博士は、研究一筋の真面目な学者。水産資源の保護を担当する政府機関、国立水産研究所(NCFE)に勤めている。ある日、イエメン人の富豪シャイフ・ムハンマドから、母国の川に鮭を導入するため力を貸してもらえまいかという依頼がNCFEに届く。
フレッドは、およそ不可能とけんもほろろの返事を出すが、この計画になんと首相官邸が興味を示す。次第にプロジェクトに巻き込まれていくフレッドたちを待ち受けていたものは?
手紙、eメール、日記、新聞・雑誌、議事録、未刊行の自伝などさまざまな文書から、奇想天外な計画の顛末が徐々に明らかにされていく。
なんだか今日はすごく心を萎えさせるような出来事があって非常にげんなりしていたのですが、この小説を読んで少し元気をもらった気がします。白水社のエクス・リブリス、本当にいいシリーズですね。デニス・ジョンソンの『ジーザス・サン』もとても印象に残りましたが、それと打って変わってイエメンのワジに鮭を放流するというぶっ飛んだ設定と、メールやら日記やら議事録やらで構成されたチャプター、そして最後のオチがまたなんとも…。尋問官が何者で、なんでこの小説がこういった様々な文書で構成されているのかは最後で明らかになります、っていっても本当は最初の頁にしっかり書いてあるんですけどね。意外と気に留めずに読み進めてしまうものです。登場人物もまた実にキャラが濃く(戯画的過ぎるほど)、特に自己顕示欲とオリエンタリズム丸出しで雄弁だけど実は無教養なピーター・マクスウェル…この小説で一番気になるやつです。
著者の釣り愛が実によく伝わってくる、いい感じのフィッシング小説(巷で話題のチェス小説よりも面白いかも)です。釣りには哲学と美学があるんですよ。やったことない人にはそれがわからないのです。
待つこと、信じること、それができなきゃ釣りはできません。おじいちゃんが言ってました。
そう、信じること。一番大事なこと。信じることが何かを変える可能性を生み出す。何かが上手く行くと信じること、たとえ今回は上手く行かなくても次は上手く行くと信じること。あるいは誰かを信じること、自分を信じること。「信じる心がなければ希望はない。信じる心がなければ愛はない。」 希望とはより良き生に対する潜在可能性だろう。愛とはより良き生をもたらす他者へのコミットメントだろう。両者の根底に信じることがなければいけないという、このシャイフの言葉は実に含蓄のある言葉だと思います。信じることが希望や愛を経てよりよき生にたどり着く。あるいはより良き生の存在を信じるからこそ、そこに希望があり愛がある。最後にフレッドが引用する「私はそれを信じる、なぜならそれが不可能だからだ」という言葉、不可能に見えるもの(つまり潜在可能性がないように見えるもの)も信じることによってそこに潜在可能性を見出すことができる、不可能を可能へと転換していくことができる。半ば今の自分に言い聞かせているところもありますが、今のところはそう思わせてください。
他のブログを見ていて知ったんですが、この著者の写真を撮っている人物…あのコリン・マクファーソンじゃないですか。最初に気付いた人すごいですね。
フレッドは、およそ不可能とけんもほろろの返事を出すが、この計画になんと首相官邸が興味を示す。次第にプロジェクトに巻き込まれていくフレッドたちを待ち受けていたものは?
手紙、eメール、日記、新聞・雑誌、議事録、未刊行の自伝などさまざまな文書から、奇想天外な計画の顛末が徐々に明らかにされていく。
なんだか今日はすごく心を萎えさせるような出来事があって非常にげんなりしていたのですが、この小説を読んで少し元気をもらった気がします。白水社のエクス・リブリス、本当にいいシリーズですね。デニス・ジョンソンの『ジーザス・サン』もとても印象に残りましたが、それと打って変わってイエメンのワジに鮭を放流するというぶっ飛んだ設定と、メールやら日記やら議事録やらで構成されたチャプター、そして最後のオチがまたなんとも…。尋問官が何者で、なんでこの小説がこういった様々な文書で構成されているのかは最後で明らかになります、っていっても本当は最初の頁にしっかり書いてあるんですけどね。意外と気に留めずに読み進めてしまうものです。登場人物もまた実にキャラが濃く(戯画的過ぎるほど)、特に自己顕示欲とオリエンタリズム丸出しで雄弁だけど実は無教養なピーター・マクスウェル…この小説で一番気になるやつです。
著者の釣り愛が実によく伝わってくる、いい感じのフィッシング小説(巷で話題のチェス小説よりも面白いかも)です。釣りには哲学と美学があるんですよ。やったことない人にはそれがわからないのです。
待つこと、信じること、それができなきゃ釣りはできません。おじいちゃんが言ってました。
そう、信じること。一番大事なこと。信じることが何かを変える可能性を生み出す。何かが上手く行くと信じること、たとえ今回は上手く行かなくても次は上手く行くと信じること。あるいは誰かを信じること、自分を信じること。「信じる心がなければ希望はない。信じる心がなければ愛はない。」 希望とはより良き生に対する潜在可能性だろう。愛とはより良き生をもたらす他者へのコミットメントだろう。両者の根底に信じることがなければいけないという、このシャイフの言葉は実に含蓄のある言葉だと思います。信じることが希望や愛を経てよりよき生にたどり着く。あるいはより良き生の存在を信じるからこそ、そこに希望があり愛がある。最後にフレッドが引用する「私はそれを信じる、なぜならそれが不可能だからだ」という言葉、不可能に見えるもの(つまり潜在可能性がないように見えるもの)も信じることによってそこに潜在可能性を見出すことができる、不可能を可能へと転換していくことができる。半ば今の自分に言い聞かせているところもありますが、今のところはそう思わせてください。
他のブログを見ていて知ったんですが、この著者の写真を撮っている人物…あのコリン・マクファーソンじゃないですか。最初に気付いた人すごいですね。
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