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2010年8月29日日曜日

8月に読んだ残りの本

不本意ですが、一冊一冊感想を書くゆとりがないまま溜まってしまったので。

①ヴィルヘルム・ゲナツィーノ『そんな日の雨傘に』
 重いけれど軽やかな、「靴男」の果てしないモノローグ。「自分が許可してもいないのにこの世にいる」という気分から逃れることができない、46歳、無職の主人公は、何をするでもなく、「人生の面妖さ」に思いをめぐらし、平凡で、どこにでもある、様々な路上の出来事に目を留める。地下道のホームレスの男たち、足元に置かれた他人のトランク、サーカスの娘と馬のペニス......。そのたびにとりとめのない想念が脳裏をよぎり、子ども時代の光景がなんとなしに思い出され、なにげない言葉が心に引っかかる。遊歩の途中でつぎつぎと出会うのは、過去になんらかの関係を持った中年の女たち......彼女らの思い出がふつふつと浮かんでくる。主人公がなにかから気をそらすように歩き回るのは、同棲していた女が愛想を尽かして出て行ってしまったからだ。しかも靴を試し履きする臨時収入が減り、生活もままならなくなってきている。そうした挫折と失意が、居場所のない思いをいっそう深めてゆく......。
 作家は本書で一躍注目を浴び、2004年にドイツ最高の文学賞《ビューヒナー賞》を受賞している。

エクス・リブリスから。主人公はダメ人間っぷりに、はまってしまう作品。たぶんダメ人間ほどはまってしまうんじゃないかと。「この主人公いいなぁ」とすら思ってしまった僕はやはりダメ人間のようです。臨終コンパニオンのくだりには笑わされました。ダメ人間っていうのは街を遊歩することができる人なのかも、とも思わされました。


②久生十蘭 『久生十蘭短篇選』
現役の作家のなかにも熱狂的なファンの少なくない、鬼才、久生十蘭の精粋を、おもに戦後に発表された短篇から厳選。世界短篇小説コンクールで第一席を獲得した「母子像」、幻想性豊かな「黄泉から」、戦争の記憶が鮮明な「蝶の絵」「復活祭」など、巧緻な構成と密度の高さが鮮烈な印象を残す全15篇。

こないだ河出の短編集を読んで気に入ったので。やっぱり面白かったです。こんなにジャンルを問わず、しかも面白く書けるもんですか。河出の短編集よりもおすすめかも。解説が充実しているのも魅力。


③『世界文学全集 短篇コレクションⅠ』
南北アメリカ、アジア、アフリカの傑作20篇。新訳・初訳も含むアンソロジー。トニ・モリスン「レシタティフ」、アチェベ「呪い卵」、張愛玲「色、戒」などの新訳・初訳から、コルタサル、カーヴァー、目取真 俊

【収録作品】
コルタサル 「南部高速道路」
パス 「波との生活」
マラマッド 「白痴が先」
ルルフォ 「タルパ」
張愛玲 「色、戒」
イドリース 「肉の家」
ディック 「小さな黒い箱」
アチェベ 「呪い卵」
金達寿 「朴達の裁判」
バース 「夜の海の旅」
バーセルミ 「ジョーカー最大の勝利」
モリスン 「レシタティフ──叙唱」
ブローティガン 「サン・フランシスコYMCA讃 歌」
カナファーニー 「ラムレの証言」
マクラウド 「冬の犬」
カーヴァー 「ささやかだけれど、役にたつこと」
アトウッド 「ダンシング・ガールズ」
高行健 「母」
アル=サンマーン 「猫の首を刎ねる」
目取真俊 「面影と連れて」

短篇コレクション。錚々たる顔ぶれ。著者を選ぶセンスはさすが、なのかもしれません。知らない人、読んだことない人もぽつぽついて、なかなか面白い読書でした。でも、作品の選択は……どうでしょう。まぁ色々な事情があるんでしょうが、長編を載せることができなかった人をまず挙げて、その後に掲載できる作品を見繕ったのかな。あえてこの作品ですか?っていう気がしなくもないです。訳者はいい人揃いなんじゃないでしょうか。読書を広げるという意味でもとてもいい本です。


④安田浩一 『ルポ 差別の貧困の外国人労働者』
日本経済にとって、外国人労働者は都合の良い存在であり続けた。企業の繁栄を支え、あるいは不況企業の延命に力を貸してきた。しかし日本は、その外国人を社会の一員として明確に認識したことがあっただろうか。第一部では、「奴隷労働」とも揶揄されることも多い、「外国人研修・技能実習制度」を使って日本に渡ってきた中国人の過酷な労働状況を概観する。第二部では、かつて移民としてブラジルへ渡った日本人の主に子どもや孫たちが、日本で「デカセギ労働者」として味わう生活と苦労、闘う姿を追う。こうした中国人研修生・実習生と日系ブラジル人を中心に、彼ら・彼女らの心の痛みを描きながら、日本社会をも鋭く映す、渾身のルポルタージュ。

怒りに、あるいは羞恥に身を震えさせながら読むべき本。七つ森書館というところから『外国人研修生殺人事件』みたいなタイトルの本が数年前に刊行され、それを読んで大きな衝撃を受けた記憶があります。同じ著者だったのですね。本書の冒頭で触れられる殺人を犯した研修生については、この『外国人研修生殺人事件』という本で詳しく書かれています。ジャーナリストとしても、とても真摯で、文章も、思考もしっかりした信頼のおける書き手だと感じます。
彼ら研修生の悲惨な実態がこれでもかと書き連ねてあります。その一つ一つが衝撃的。自分が乗っかっている地面の下ではこんなことが起こっている。それに気付かない振りをするのも、全く気付かないのも、どちらも等しく恥ずべきことなのでしょう。外国人労働者なしに日本社会が成立しているなんて幻想を抱いている人がまだ多いのにはびっくりします。そんなわけないでしょう。それは現代に始まった話じゃなく、これまでもずっとそうやってきたんじゃないかと僕は思っているのですが。ただ、それを彼らの「協力」なしに、とか言い換えてしまうおめでたい「多文化主義」には僕は組することはできません。
日系ブラジル人についても、保見団地に調査にいったり、彼らのバーベキューに参加したりしたことがあるので、他人事とは思えません。この不況のなかで彼らがどうやって過ごしているのだろう。
とやかくいう前に本書を読むことから。読まなければいけない本といってもいいかと。

2010年8月15日日曜日

ロベルト・ボラーニョ 『野生の探偵たち 上・下』

1975年の大晦日、二人の若い詩人アルトゥーロ・ベラーノとウリセス・リマは、1920年代に実在したとされる謎の女流詩人セサレア・ティナヘーロの足跡をたどって、メキシコ北部の砂漠に旅立つ。出発までのいきさつを物語るのは、二人が率いる前衛詩人グループに加わったある少年の日記。そしてその旅の行方を知る手がかりとなるのは、総勢五十三名に及ぶさまざまな人物へのインタビューである。彼らは一体どこへ向かい、何を目にすることになったのか。

圧巻。これを誰かが書いたというのが僕にはちょっと信じ難いです。
構成は三部構成。第一部と第三部はガルシア=マデーロという少年によって書かれた日記からなっています(第一部「メキシコに消えたメキシコ人たち」は1975年11月2日付け〜12月31日付け、第三部「ソノラ砂漠」は1976年1月1日付け〜2月15日付け)。第二部はアルトゥーノ・ベラーノとウリセス・リマの軌跡をたどった53人もの証言集からなっています。正直あまりに登場人物が膨大すぎて、途中で混乱したりしましたが。同じ姓の人間が何人も出てくるとさすがに整理がつかないものです。


第一部の日記では、ガルシア=マデーロが、ベラーノやリマが率いる「はらわたリアリスト」の仲間に加わり、様々な人と出会いながら、彼らに巻き込まれ(または、自分から巻き込まれに行き)、ベラーノやリマとともに、1920年代に実在したとされるセサレア・ティナヘーロを追い求め、北のソノラ砂漠へと赴くまでが書かれている。第三部はその続きからだから、第一部→第三部→第二部と読んでいくやり方もありえるかもしれない。でもそれがいいのかどうかはよく分からないけど。
第二部はとても不思議な構造になっている。ほぼ時系列(証言が行われた日時)に沿って証言は進んでいくが、アマデオ・サルバティエラの証言だけ、例外的に同じ日時に行われたものが分割され、各所にちりばめられている。その証言は1976年1月、つまりリマやベラーノたちがソノラ砂漠を訪れている最中に行われている。彼が語るのは、リマとベラーノがティナヘーロの情報を求めて彼のもとを訪ねた時の話である。しかし、このインタビュアーは一体誰なのか? これは第二部を読みながらずっと抱えていた疑問で未だに解けていない。

この小説には明かされないこと、見えないことが沢山ある。ティナヘーロのノートの内容も明かされることがなければ、ベラーノのノートの内容も明らかにされない。「インタビュアー」はいなくなってしまったリマとベラーノの軌跡をたどる。彼(便宜的にこうしておこう)が何のために証言をかき集めているかは、よく分からない。そもそも彼が誰なのか分からない。ベラーノとリマが消えてすぐ証言を集め始めるこの「インタビュアー」は30年間もの間、世界各地を飛び回りながら、彼らに関する証言を執拗に集め続ける。けれどなぜ?
あるいはこう言った方がいいのかもしれない、この小説の中心的な人物は常に「不在」だと。インタビュアーも不在なら、ベラーノもリマも常にいない。日記の書き手であるガルシア=マデーロもいなければ、リマやベラーノが追い続けるティナヘーロも不在だと言っていい。リマの居場所を突き止め、話を聞くことは、このインタビュアーに取っては容易いことだっただろう。けれど、彼の証言を得ることはない。
リマとベラーノとこのインタビュアーの違いは、前者がティナヘーロに出会うことを目指しているのに対して、後者は必ずしもそれをリマやベラーノに出会うことを目指していないことにある。リマとベラーノの軌跡を多数の証言を組み合わせることによって「分厚く」描き出すことをこのインタビュアーは目指しているように思える。だからこの証言集には一見関わり合いのなさそうな「余分」とも思えるくだりが数多くある。ベラーノについてあるいはリマについて語っているうちに、それがいつしか自分の話となり,また文学なんかの話になる。「群像劇」といってしまうと陳腐になってしまうが、ベラーノやリマに常に焦点があるのではなくて、その周囲の人びと、彼らの人生や彼らが置かれている状況が何重にもなって描き出すことが目指されているのかもしれない。だから、なんというかこの小説は、一面では虚構なのかもしれないけれど、何よりも「歴史」なんじゃないかと思う。

そういえば、この小説は「半自伝的」らしい。ベラーノがボラーニョその人である、と。作家の写真とか見ると、あぁ確かにベラーノのイメージそっくりだなぁ。ベラーノもリマもガルシア=マデーロも、みんなボラーニョの投影のような気がしてしまうけれど。

個人的にはイニャキ某という人物がひどく気に入りました。まだ世に出てもいない批評のせいでベラーノに決闘を挑まれ、その後に彼に薬を送ってしまったり、ブックフェア会場では、批評と作者の関係について深遠な議論を展開したり。
訳のおかげもあるんだろうけど、証言者がそれぞれ特徴を持っていて、読んでいて飽きなかったなぁ。それぞれの記述について書いていったらキリがなさそう。

あと、タイトルの「野生の探偵たち」ってどういう意味なんだろう。あとあと、セサレア・ティナレーロがある教師に語った来るべき時代の話、26××年の話って「2666」という彼の著作となんか関わりがあるんだろうか。『通話』も読み直したいな、でまたこの本を読んでみたい。そのころには「2666」も刊行されているかな。

2010年2月27日土曜日

クレア・キーガン 『青い野を歩く』

名もなき人びとの恋愛、不倫、小さな決断を描いた世界は、「アイリッシュ・バラッド」の味わいと、哀しみ、ユーモアが漂う。アイルランドの新世代による、傑作短篇集。小池昌代氏推薦!

あんま期待してはいなかったけど、なかなか面白かった。
これってアイルランドっぽいなぁ、と思ってしまった。アイルランド文学なんてほとんど読んだことないし(興味深い人が沢山いるのは知ってるけど、なかなか手を出せず…)、アイルランド文学ってものから(そんな括りが有効だとして)何らかのテーマが抽出できるものなのかはよくわからないけれど。
荒涼とした自然と、ケルト神話(神話とまではいかなくとも土着的な伝承)と、カトリックと結合した封建的かつ家父長的な秩序。そしてちょっと幻想的だったりも。
とはいえ、何よりもそこに生きる人びと。

彼女の文体は、ほどよい透明感(この短編集のなかでガラスがしばしば登場するが、ちょっと曇ったガラス、のようなイメージ。自然でも人間でも透過させてしまうような、けれどもどこかぼんやりとしているような。うん、ちょうどこの本の表紙みたいに)があって描写力にも富んでいる。こねくり回したような、もってまわった表現はほとんど出てこないし、シンプルに文章を積み重ねていく。だからあっさりと読んでしまうのだけれども、語られる内容は同衾であったり不倫だったり、神父との性交渉であったり、とても生々しい。家族や、男女や親子の絆と、その破綻。あるいは取り返しのつかない過去。それは結構哀しい話なのだけれども、彼女はその哀しさを誰かに向かってまくしたてようとはしない。そうではなくて、しばしの沈黙のあとに、適切な言葉を選び取りながら静かに物語る、あるいは呟くような、そんな印象。ちょうど、『花様年華』でトニー・レオンがカンボジアのとある遺跡の壁の穴に秘密を吹き込んだように。
そしてラストの小さな決意。救い、というほどではなく、劇的に何かが変わる訳でもない。ただ、明日からも生きていこう、ということを決意する。たったそれだけのことだけれども、なぜだろう、とても心に残る。

動物の視点の挿入など視点の切り替えも節度を弁えていて効果的。自然や動物も巧みに描くけれども、やはりこの小説の主人公はアイルランドに住まう人間(アメリカの話もあるけど)で、彼らのやり取りや会話がとても面白い。うまいなぁ、と。
「青い野を歩く」、「降伏」、「森番の娘」あたりは印象的。

気になること。原文に当たらずとも気付いてしまうような、明らかな誤訳は勘弁して欲しい。興ざめしてしまう。

2009年10月25日日曜日

アティーク・ラヒーミー 『悲しみを聴く石』

戦場から植物状態となって戻った男。コーランの祈りを唱えながら看病を続ける妻。やがて女は、快復の兆しを見せない夫に向かって、誰にも告げたことのない罪深い秘密を語り始める……。

アティーク・ラヒーミー(今年のノーベル賞のオッズにも顔を覗かせていましたね)の邦訳としては2作目。「エクス・リブリス」よくやってくれました。前回は『ミスター・ピップ』なるひどく凡庸かつ西洋中心主義的な作品を紹介して(しかも誤植だらけの)唖然とさせられたものですが、これでよしとしましょう。

舞台はアフガニスタンのどこか、あるいは別のどこか。アフガニスタンでの出来事を強く意識しながらも、それを他のどこかでも起こっているような普遍的な問題として捉えてほしい、というラヒーミーの意図なのでしょうか。

更に冒頭の掲げられるエピグラフ;
「身体から、身体を通して、身体とともに、身体に始まり、身体に終わる」(アントナン・アルトー)

このエピグラフを掲げた目的は何なのだろうか。率直に言って、僕は精神分析には疎く、これから先に書くことはあまり自信がないけれど。
恐らくこの小説は「分裂症」をめぐるものだ。女の引き裂かれる感覚、幻覚、肥大した身体感覚…この女が「分裂症」に陥る、その原因は「オイディプス・コンプレックス」と結びつけて解釈されうるようにも読める。パパ‐ママ図式の中に囚われているようにも。「分裂症」を患った女性が、植物状態となった男(しかし精神科医とはこのようなものではないだろうか?)に対して、語り続ける。自らの「秘密」を次々と。その告白の過程は、自由連想法的な治療の過程そのものなのではないか。人が自らの悲しみを告白する、その告白は「サンゲ・サブール」に転移して、その告白が終わった時、その石は砕けるという。
彼女を抑圧しているのは、あるいはパパ-ママ図式ではないのかもしれない。オイディプス云々も関係ないのかもしれない。彼女を抑圧するものは社会そのものであって、そこに含まれる暴力や家父長制でもあるのだから。その全てが極めて男性性的なものなのは間違いないけれども。その象徴たる英雄=夫が植物状態となり単なる「石」と化す。それによって彼女はその抑圧から離れ、自由に語りだす。そして彼女の欲望は解放される。

なんだかよく分からなくなってきた。あまりよく知らないことをつなげて言いたいことを組み立てるというのはちょっとムリがありますね。なんだろう。この女性があまりにも西洋化しすぎているのではないかという批判がある。それはあとがきにも触れられていることだし、Amazonのレビューにも早速そんな趣旨のコメントがあった(その人はイスラーム圏の女性のことはよく知らないけれど、と但し書きを付けてはいたが)。
しかし、その意見はひどく高圧的なものだ。イスラーム圏の女性は、アフガニスタンの女性は西洋化されてはいない、性を露にすることはなく、雄弁に語ることはない、そういった前提の下に、この小説に出てくるムスリム女性は「西洋的すぎるね」とか、これは「いかにも厳格なムスリム女性だねぇ、イスラームはけしからん」とか言ったりする。そんなものオリエンタリズムの焼き直しではないか。あるべきオリエンタルな女性のイメージを勝手に抱き、それをそこにいるであろう女性に押し付ける。アフガニスタンで過ごし、フランスに移住することになった男性の語る女性像よりも、彼らの抱く表象としてのムスリム女性、アフガニスタンの女性は絶対的なものらしい。そんな一括りにアフガニスタンの女性はこういうものだ、なんてイメージをもつことはどう考えてもこっけいでしょう。「近頃の若いもんは~」っていうのと同レベル(もっと性質が悪い)の戯言でしかないだろうに。


何の話かわからなくなってきたけれども、この小説はなかなかよいですよ。削ぎ落とされた描写と女性の時に饒舌すぎるほどの語り。それをつなぎとめる空白。短い小説ですが、じっくりかみ締めながら読むことができる作品です。

2009年6月28日日曜日

ロベルト・ボラーニョ 『通話』

スペインに亡命中のアルゼンチン人作家と〈僕〉との奇妙な友情を描く「センシニ」をはじめ、心を揺さぶる14の人生の物語。ラテンアメリカの新たな巨匠による、初期の傑作短編集。


エクス・リブリスの先頭を華々しく飾るはずだったボラーニョ、延期が決まってどうなるかと思ったんですけど無事刊行されてなによりです。チェーホフ、カフカ、カーヴァー、ボルヘス、ウディ・アレン、タランティーノ、ロートレアモン…錚々たる面々の融合と受容がある、とか書いてあって、「ホントかよ!」とか「どんなんだよ!」突っ込みながら買ったんですが、まぁそれはさておき、非常によかったです。総じてドライな文体、マッカーシーやカーヴァー、デリーロやデニス・ジョンソンを髣髴とさせる。淡々と物語る姿勢、それによって悲哀やら可笑しさが際立ってくる。自分からも遠く距離を置いたような独白や、その対極にあるかのような率直な表現、不遇や何かしらの喪失感を抱えて生きる人々の生、節合的で刹那的なふれあい、それが一体となって読み手の心を揺さぶる、そんな感じです。会話だけで小説を構成したり、あるいは改行をほとんど設けずに語り続けたり、小説ごとに様々な技巧を凝らしている、それがそれぞれの物語ととてもよく調和しているように思います。
長編も同シリーズから刊行されるようなので、こちらも楽しみです。

2009年4月19日日曜日

ポール・トーディ 『イエメンで鮭釣りを』

アルフレッド(フレッド)・ジョーンズ博士は、研究一筋の真面目な学者。水産資源の保護を担当する政府機関、国立水産研究所(NCFE)に勤めている。ある日、イエメン人の富豪シャイフ・ムハンマドから、母国の川に鮭を導入するため力を貸してもらえまいかという依頼がNCFEに届く。
フレッドは、およそ不可能とけんもほろろの返事を出すが、この計画になんと首相官邸が興味を示す。次第にプロジェクトに巻き込まれていくフレッドたちを待ち受けていたものは?
手紙、eメール、日記、新聞・雑誌、議事録、未刊行の自伝などさまざまな文書から、奇想天外な計画の顛末が徐々に明らかにされていく。

なんだか今日はすごく心を萎えさせるような出来事があって非常にげんなりしていたのですが、この小説を読んで少し元気をもらった気がします。白水社のエクス・リブリス、本当にいいシリーズですね。デニス・ジョンソンの『ジーザス・サン』もとても印象に残りましたが、それと打って変わってイエメンのワジに鮭を放流するというぶっ飛んだ設定と、メールやら日記やら議事録やらで構成されたチャプター、そして最後のオチがまたなんとも…。尋問官が何者で、なんでこの小説がこういった様々な文書で構成されているのかは最後で明らかになります、っていっても本当は最初の頁にしっかり書いてあるんですけどね。意外と気に留めずに読み進めてしまうものです。登場人物もまた実にキャラが濃く(戯画的過ぎるほど)、特に自己顕示欲とオリエンタリズム丸出しで雄弁だけど実は無教養なピーター・マクスウェル…この小説で一番気になるやつです。
著者の釣り愛が実によく伝わってくる、いい感じのフィッシング小説(巷で話題のチェス小説よりも面白いかも)です。釣りには哲学と美学があるんですよ。やったことない人にはそれがわからないのです。
待つこと、信じること、それができなきゃ釣りはできません。おじいちゃんが言ってました。

そう、信じること。一番大事なこと。信じることが何かを変える可能性を生み出す。何かが上手く行くと信じること、たとえ今回は上手く行かなくても次は上手く行くと信じること。あるいは誰かを信じること、自分を信じること。「信じる心がなければ希望はない。信じる心がなければ愛はない。」 希望とはより良き生に対する潜在可能性だろう。愛とはより良き生をもたらす他者へのコミットメントだろう。両者の根底に信じることがなければいけないという、このシャイフの言葉は実に含蓄のある言葉だと思います。信じることが希望や愛を経てよりよき生にたどり着く。あるいはより良き生の存在を信じるからこそ、そこに希望があり愛がある。最後にフレッドが引用する「私はそれを信じる、なぜならそれが不可能だからだ」という言葉、不可能に見えるもの(つまり潜在可能性がないように見えるもの)も信じることによってそこに潜在可能性を見出すことができる、不可能を可能へと転換していくことができる。半ば今の自分に言い聞かせているところもありますが、今のところはそう思わせてください。

他のブログを見ていて知ったんですが、この著者の写真を撮っている人物…あのコリン・マクファーソンじゃないですか。最初に気付いた人すごいですね。