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2010年1月12日火曜日

トマス・ピンチョン 『ヴァインランド』

1984年、ある夏の朝。北カリフォルニアの山中で14歳の娘とふたり、ジャンクにクレイジーに暮らすヒッピーおやじゾイドの目覚めから物語は始まる。ゾイドを執拗に追う麻薬取締官、娘を狙う連邦政府、その権力の魔の手から逃れながら、母探しの旅に出る娘。そして物語は60年代へ、ラディカル映画集団の一員だった母の記録映像を見る娘の眼差しと共に、バークリィでのデモ隊と機動隊の衝突現場へズーム・インする。闘争の渦中で母を救出するDLは、マフィアのドンに雇われ殺人忍法を操る「くノ一」。その女忍者とコンビを組むカルマ調整師のタケシ、彼らにカルマを調整してもらうヴェトナム戦争の死者のゾンビ「シンデルロ」…次々と出現する登場人物を巻き込んで、仕掛けに満ちたピンチョン・ワールドは時のうねりの中を突き進む―全米図書賞受賞の大作『重力の虹』以来17年の沈黙を破って発表された本書は、ギャグ満載のポップな装いの下に、輝けるアメリカを覆う呪われたアメリカ、官憲国家の狂気を、繊細に重厚に、ときにセンチメンタルに描き出す。名訳をさらに磨きあげ、注釈も全面改訂。

完全にやられてしまったので、全く読むに耐えない感想ですが、とりあえず断片的に。
この小説には語らなくてはいけないことがあまりにも多すぎる。そして僕が語れることはあまりに少なすぎる。


A
世界全集の方で読みました。そちらの方が1000円くらい安かったので、待った甲斐があったかなと。

B
すごい、というとバカの一つ覚えみたいですが、すごいとしかいいようがない。「カオスの縁」って言葉を思い出しました。λ=0.273って何のこっちゃわかんないし、カオス理論なんて分かるわけもなく、ただ比喩として。秩序でもカオスでもなく、もっとも複雑でもっとも多様な状態。ここに限りなく近い小説じゃないかと。

C
チープでポップでキッチュなものをひたすらに集めてそれらを組み合わせる。その果てにできた不可思議かつ巨大な機械、それがこの小説のような気がする。ガラクタ(少なくともそう見えるもの)を集めて、こんな機械を作り上げるピンチョンは、やはりとんでもないマッド・サイエンティストでしょう。60年代も70年代も80年代も知らない、しかも日本に生まれた僕にとっては理解に苦しむ世界。ゴテゴテして、サイケデリックで、くだらない。けれども(だからこそ、か?)抜群に面白い。ニヤニヤしながら読んでいました。

D
そういえば「再会の時」って映画があった。あれは1983年らしい。レーガン政権下で60年代の回顧が起こるって分かるような分からないような。ともあれその映画は、60年代後半の時に大学生活を一緒にすごした仲間のうちの一人がある日自殺をしてしまって、彼の葬儀で十数年ぶりに仲間に再会するところから話は始まるんですけど、この映画の根底にひたすら流れているのはやはり1968年前後とその頃の自分たちへのノスタルジー。登場人物の一人が仲間に向かって「あれがファッションだったなんて思いたくない」、って言う。ノスタルジーは別にいい。この映画が一番皮肉なのは、68年前後の連帯togethernessにも関わらず、それから十数年間会いもしなかったということ。そしてある者の死を通じて再会し、再び結びつく。この辺が全く理解できない。ましてや日本の云々は… まぁいいや。

E
レーガンの「古き良き、そして強いアメリカ」もアメリカならば、ここでピンチョンの描くアメリカは「もう一つのアメリカ」なのだろう。いや違うか、同じアメリカの別の顔か。世界中に毒を撒き散らかし続けるこの国は、必然的にその内部にも毒を撒き散らかしてきた。そしてその毒を喰らいながら肥大化し続ける国、必然的に病を抱え込んだ国。レーガンやらニクソンやらにも痛罵が飛び交いします(それもまたよし)。

F
あと、ラストの寓話は何とも痛烈。これは読んだ人のお楽しみなので伏せておきます。
けれども、最後には彼らはホーム(故郷=祖国)を発見する。そして朝になり光が差し込む。
とてもいい終わり方。

G
軽妙な文体がいいです。癖になります。引き込まれる。日常生活でも会話や空想、映像の世界にいつのまにか引き込まれるということありますが、小説でここまで再現できるのってすごいと思います。気付いたら60年代になってたり、ふと現在に引き戻されて「あれっ?」ってなったり。

H
翻訳がやりすぎとか言われてますが、Against The Dayを序盤早々にあっさりと挫折した僕から言わせれば、じゃあ原書で読めば、ってこと。

I
繰り返し読み返すことになるだろうな、という予感。読むたびに発見がありそう。注釈などに触れられている音楽・ドラマ・映画などについてもっと知っていれば、と思う。そうしたらイメージが爆発的に広がるんだろう。そんな広がりを秘めた小説。僕はこの一端しかまだ知りません。

2009年5月5日火曜日

ミハイル・ブルガーコフ 『巨匠とマルガリータ』

焼けつくほどの異常な太陽に照らされた春のモスクワに、悪魔ヴォランドの一味が降臨し、作家協会議長ベルリオーズは彼の予告どおりに首を切断される。やがて、街のアパートに棲みついた悪魔の面々は、不可思議な力を発揮してモスクワ中を恐怖に陥れていく。黒魔術のショー、しゃべる猫、偽のルーブル紙幣、裸の魔女、悪魔の大舞踏会。4日間の混乱ののち、多くの痕跡は炎に呑みこまれ、そして灰の中から<巨匠>の物語が奇跡のように蘇る。SF、ミステリ、コミック、演劇、さまざまなジャンルが魅力的に混淆するシュールでリアルな大長編。ローリング・ストーンズ「悪魔を憐れむ歌」にインスピレーションを与え、20世紀最高のロシア語文学と評される究極の奇想小説、全面改訳決定版!

名前はよく聞くけど、読んだことのなかったブルガーコフです。これはいいですね。メフィストフェレス的な悪魔がモスクワにやってきて、燃やし放題、殺し放題、騙し放題です。すっきり。
ってことで終わりにするわけにもいかないので、感想まで。

悪魔って善い奴?悪い奴?って聞かれたら、恐らく100人中80人くらいは悪い奴っていうでしょう、もっと多いかな。けれども、善/悪を決めるのは誰ってことですよ。価値判断なんて社会的な要請によって変わるものです、ベルリオーズらにとっては神こそ悪で人間の理性こそが善なわけですし。その善であるはずの人間の姿が悪魔によって露呈されていく様、痛快です。悪魔=悪で読んでいって、なんだこの悪魔善い奴じゃん、って思っちゃうのも、同じことですね。価値判断は置いておきましょう。
この小説の面白さは一つには、キリストの4日間(エルサレム入城~復活)と悪魔の降臨と巨匠の小説の復活がパラレルになっているところですね。とりわけピラトゥスを巡る巨匠の小説、非常に面白いです。
焼かれた本(焚書)が悪魔によっていとも簡単に復活する。本を焼いたのは誰か?ソ連という強大な官僚システムと、その歯車と成り下がっている、文学界そのものでしょう。だから本作はソ連とその文学界に対する痛烈な批判となっている。初めにヴォランドがベルリオーズとイワンに語る物語、それは巨匠の小説の一部分だ。2人を当時のエルサレムに誘うほどの完成度の高さを誇っておきながら、それは評価されない。というよりも巨匠の小説をベルリオーズが全く知らないというのも奇妙な話ですが。
そして当のベルリオーズは首を切られ(死んだのはあくまで偶然ですが)、グリボエードフは燃やされる。イワンもリューヒンも偽善的にプロレタリアートを装いながらろくでもない詩を発表し、人々と焚きつける。官僚の一人は、ジャケットが勝手に署名した仕事を何のためらいもなく、自分の仕事として認める。金に、ファッションに飛びつく人々。
ソ連の実態がこれでもかと暴かれていきます。
そこから離れ、地下で平穏に暮らしてきたマルガリータと巨匠もその世界から真に逃れることはできない。本は燃やされ、彼らの生活は破綻する。しかし、マルガリータの愛は巨匠を精神病院から救い出し、真に平穏な世界へと彼らは旅立つ。ソ連というシステムに囚われず、書き続ける生活を送るにはこの道しかなかったということなのでしょうけど。結局のところ何も変わらない、歯車は取り替えられたかもしれないが、全体としては。今も、恐らくは。しかしそれだけだろうか。

最初に殺し放題と書きましたが、これは間違いですね。ヴォランドが直截に手を下した殺人はないといっていいでしょう。ベルリオーズはあくまでも足を滑らせた事故ですし、マイゲール男爵にいたっては猫を幻視した警察によって撃たれたわけですから。悪魔が行ったことは、実は予言したことと幻惑を見せること、あとは燃やすこと、これだけだと僕は読みました(誤読の可能性はありますよ)。そう燃やすこと。焼かれたはずの小説は復活し、それを焼失にいたらしめたいくつもの建物も燃やされ、破壊される。地下室も最後には燃え、巨匠とマルガリータは別の世界へと飛び立つ。マルガリータの愛はまるで炎のようだ。燃えること、それは既にある何かを破壊するだけでなく、新しく何かを生み出すこと。ブルガーコフは炎に何を託したのか。

ところでイスカリオテのユダを殺したのは誰なのか?聖書では確か、銀貨を神殿に投げ込み自殺したことになっている。けれども、この小説では誰かに殺されたことは明らかだろう。ピラトゥスが自分が殺したのだとマタイに語り、アフラニウスがニーザに会い、その後ニーザがイスカリオテのユダを郊外に案内してい ることから考えると、彼らが殺害に関与した可能性は十分にある。その場合問題となるのが、ピラトゥスとアフラニウスの語らいだろうが。この語らいは茶番だったのでしょうか。でも、殺害シーンに登場する第3の男はアフラニウスだと読めるわけですが。このアフラニウスという人物、とても謎めいています。
しかし、本当によく出来た小説だなぁとつくづく思います。伏線が無数に張り巡らされていて、まるで迷宮のよう。池澤が「巨大な建築」と喩えたのは言い当て妙だと思います。