2009年4月30日木曜日

イタロ・カルヴィーノ 『見えない都市』

現代イタリア文学を代表し、今も世界的に注目され続けるカルヴィーノの名作。ヴェネツィア生まれの商人の息子マルコ・ポーロがフビライ汗の寵臣となって、さまざまな空想都市の奇妙で不思議な報告を行なう。七十の丸屋根が輝くおとぎ話の世界そのままの都や、オアシスの都市、現代の巨大都市を思わせる連続都市、無形都市など、どこにもない国を描く幻想小説。

マルコ・ポーロとフビライ汗の間で交わされる、都市を巡る55の物語。マルコの寓話的かつ幻想的な語らいに、時に没入し時に突き放される。そんな経験を繰り返しながら気づいたら読み終えていました。確かに奇妙な小説です。その幾何学的な構成にしても、登場する都市にしても。アルミニウムの屋根や蒸気船や、挙句の果てには空港まで登場するわけですから。「都市」なるものが何なのか、私たちの多くが住まうこの都市とは何なのか。グローバル・シティの画一性について思いを馳せているわけではありませんが、そんなことを思ったりしました。
この小説の面白さ、それは都市を語りながら、現実/幻想、生/死、存在/不在、記憶/忘却などの図式を解体していく語りそのものにあるのではないでしょうか。マルコがある都市を旅行し、それを報告をフビライに報告するというスタイルは、報告が進んでいくに連れて解体していきます。つまり、報告そのものによってその様態が掘り崩されている、けれども表面的には最後までそうしたスタイルで物語が進み続ける。これは一体何なんだろう、と。マルコが述べているのは、彼の幻想の中で練り上げられた都市の報告です。あるいはその幻想のなかには彼だけでなくフビライもともにあるのかもしれませんが。彼は現実に旅行し、現実の都市を報告しているわけではない。自明なことですがこれがこの小説の前提です。いうなれば彼は「幻想」を旅行し、それを報告している。あるいはヴェネツィアについて言及する箇所で触れられるように、その「幻想」は自律したものではなくて、彼自身の記憶にも根ざしている。更に言えば、フビライのアトラスには今日の都市の様子すら描かれているように、あるいはマルコの語らいで飛行機などが登場するようにそれは未来をも含んでいる。不思議としかいいようのない話ですが。そうした全てをひっくるめた「幻想」をマルコは旅し、それを報告するわけです。しかし、55の都市を幻想のなかから引っ張り出してくるのは簡単な作業ではない。読み進めていくにつれて、マルコは55の都市の有様を語っているようで、実は「1つの都市」を様々な観点から観察し、そのディテールを誇張して報告しているのではないか、とか思ったりもしました。そうした「1つの都市」(大文字の都市といってもいいですが)に含まれる多様な側面、特異点、そこにズームアップし誇張することで都市を想像する。あるいは都市そのものが「生き物」のように変化し続けることを考えればその進化の可能性の「種」を見出し、それを発芽させることで物語る。そういうこととしても理解できるのかな、と。深読みか誤読か、恐らく後者でしょうけど。

しかし、まぁ面白いですよね。読んでいて思わず線を引きたくなるような一文があったりして。こういう本ってずっと手元に置いていたいなぁと思います。


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