ペドロ・パラモという名の,顔も知らぬ父親を探して「おれ」はコマラに辿りつく.しかしそこは,ひそかなささめきに包まれた死者ばかりの町だった…….生者と死者が混交し,現在と過去が交錯する前衛的な手法によって紛れもないメキシコの現実を描き出し,ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなった古典的名作
読むことの楽しさ、ただ受身になって字面を追うだけでなく、こちらから想像力を膨らませて読む楽しさをひさびさに味わわせてもらいました。ここまで切り詰めた構成にこれほどの内容を詰め込むことができるものなんですね。一読じゃ終わらせない、繰り返し読むに値する小説ですね。『燃える平原』という短編集とこの小説のみという非常に寡作な作家ですが、それだけに完成度が高い。
この小説は全てが「語り」なんですね。そして読み進めていくと、突然に語り手が変わる。それが誰なのかも明示されないことが多い。明示はされないのだけれども、それが誰なのかは必ずわかるようになっている。
この小説には3つの世界がある、そう言えるかもしれません。一つは現在の荒涼としたコマラの廃墟①、もう一つは死者の語らいによって明かされるペドロ・パラモの地主時代の「黄色く酸っぱい」コマラ②、そしてペドロ・パラモや母の語りの中のみに登場する豊饒で緑溢れるコマラ③。このうち、②が主要な舞台となるので、こういった区分はあまり生産的ではないかもしれません。そしてこの3つのコマラ、それは時間的には切断されている印象を与えてしまうけれども、この小説では全てが混淆しています。①における死者の語らいの中で、②や③は存在するし、②の独白の中で③は想起されるわけですし。更にこの小説では、生/死、現実/幻想という二項対立図式は崩壊しており、全てが入り混じっているわけですから、より一層混沌とした世界ですよね。これをまとめ上げたルルフォの筆力には圧倒されます。
総じて、非常にドライな文体だな、と思いました。それゆえ、③のコマラにまつわる語り、とりわけペドロ・パラモのスサナに対する叙情豊かな愛の語らいがとても心に残ります。
登場人物の死生観、宗教観などには困惑を感じる事もありますが、それは当たり前のことでしょう。カトリシズムとこうした死生観やたびたび登場する近親相姦の問題をどう折り合わせて理解できるのか。そうしたものも含めて、面白かったです。
解説で触れられているように、本小説には多様な解釈が可能だと思います。とりわけ、杉山が指摘する次の部分、
「ロバ追いアブンディオの役割が一番大きく、…末尾ではその代理として父親(自分の父親でもある)ペドロ・パラモを殺すのだ」(強調は引用者)
その代理とは、つまり「おれ」であるフアン・プレシアドだ。つまり、杉山はフアン・プレシアドに代わって、アブンディオがペドロ・パラモを殺したのだと理解している。プレシアドは母に代わってペドロ・パラモに会いに行くが、彼の死によってそれは果たすことができなかった。しかし、彼自身が①のコマラで死ぬことによって(あるいはこの街に着くまえから彼は死んでいたのかもしれない)、死者の語らいに耳を傾け、②の世界に触れる。彼の思い(それはそもそも母の思いが転移したものなのだが)がアブンディオに転移し、アブンディオは混沌とした意識の中でアブンディオを殺したのだ、そう解釈しているように思える。この錯綜する転移は、ペドロ・パラモの死の場面のみに生じるものであるだけでなく本小説に通底した点のように感じられる。死者の間で生じるリゾーム状の転移関係。これは面白いですね。
何よりも本小説は「語り」です。「語り」とは常に真実であるわけではない。客観的出来事を述したいのならば、わざわざ「語り手」などをおく必要はない。語り手を置く事によって、彼から観た世界、彼が(時に恣意的に)解釈した世界を提示できる。本小説のように複数の語りによって構成されているならば、そこには複数の出来事があり、世界が、そして解釈がある。どれが本当かどれが嘘か、あるいはどっちも本当でどっちも嘘なのか、そんなことに頭を悩ます必要はないだろうけれども。
少なくとも大切に読み返したい小説である事は間違いないでしょう。
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