本来不可視である天使が形象化されるのはなぜか。啓蒙主義による理性の強制に対する反抗の形象として出発し、近代から現代にかけて次第に世俗化する天使シンボリズムの文脈の中で、ロマン主義による天使描写の意味を探るとともに、リルケ、クレー、ベンヤミンにおける実存的な天使を論じ、神の死が喧伝される現代において〈天への憧れ〉はいかに変容したかを問う。〔美学・文学・芸術〕
ウニベルシタスらしく、非常にマニアックかつ晦渋な本でした。タイトルを見ててっきりロマン主義における天使から20世紀以降の天使への変遷やその比較を論じた本なのかなぁと思って読んだのですが、少し違います。明確にすべきだとは思うのですが本書の主眼はロマン主義です。クレーやリルケ、ベンヤミンについての言及はそれぞれ1章、10ページほどに過ぎません。
ロマン主義絵画についての記述(先も言ったとおりこれがほとんどの比重を占めているのですが)は、個人的にはとても勉強になりました。初期ロマン派からいわゆるナザレ派までの移り変わりを代表的な人物と彼らの作品を取り上げながら(分かりやすいとはいえませんが)丁寧に紹介しています。僕にとってこのあたりは未知の領域に近いものがあったのでとても面白く読みました。
天使と描くということがロマン主義にとってどのような意味を持っていたのか、これを啓蒙主義、合理主義との係わり合いの中に見出していく点に本書の重要なポイントがあります。啓蒙主義とそれと必然的に結びつく新古典主義(当時のフランスとドイツの関係を想起する必要もあります)への反発、不可視なものの形象化としての天使。誰が見てもそう見えるものを描くのではなく、私にとってそう見えるものを描く姿勢、これは後に印象派にも大きな影響を与えます。そしてそれだけでなく、見えないものを描き出すことに芸術を見出す姿勢。ロマン主義は自然、女性、天使に強い憧れを見出します。なぜロマン主義やラファエル前派において、女性が多く描かれるのか。それは結局のところ女性が啓蒙主義的男性の対になる存在として、つまり非理性的存在として当時理解されていたために他ならないのでしょう。本書でブレッヒェンの『スビアコ近郊のサンタ・スコラスティア修道院』が取り上げられていますが、まさにこの作品では自然と女性が結び付られています。しかしこの作品の魅力はそれにとどまりません。アルカディアへの到達不可能性、天への憧れとその不可能性がこの作品には同時に描きこまれています。天は見える、しかし私たちはそこに行き着くことはできない。アーペルがロマン主義における天使と、20世紀における天使の結節点としてブレッヒェンを置いたのはまさしくこのことゆえなのだと思います。私たちは天に憧れる、しかしそこに行き着くことができない。天使は私たちをどこにも連れて行ってはくれない。それでも天使を信じること。あるいは信じることによってしか存在しえない天使。これが20世紀における天使の姿なのだということでしょうか。
今日、天使はあらゆるところに存在している。ポスターに貼り付けられ、あるいはアニメに描きこまれたものとして。彼らは動くことができず、天に帰ることもできない。何も表象しない空虚な存在でしかない。無数に存在はしているものの、何の意味ももたず、誰もそれを信じてはいない。アーペルも言うとおり、「いまや翼は、バットマン・コレクションの玩具に過ぎない。帰り道は閉ざされている」のだろう。天使もまた死んでしまったのかもしれない。
最後に。本書は林捷さんの解説がとてもいいです。これだけでも一読の価値ありかな、と。
0 件のコメント:
コメントを投稿