「死にかけてるのってどんなものかって?もう生きてないんだ。バランス取ってるだけ」男は癌で余命幾許もないかつてのTV の人気者。「人生でほしいと思うものには必ず牙があるのよ」女は若くしてハリウッドを去り隠遁生活を送る元女優。男は死神から不思議な力を授かり、女は報 道写真家と恋に落ちた…やがて二人は戦慄に満ちた邂逅をとげる。愛と死の錬金術師が紡ぐ傑作。
この本のことをどこで知ろうと思ったのか。ここ1年の間に誰かに薦められたと思うんだけど、それが誰か全く憶えていないしどんな風に薦められたかも憶えていない。気付いたらリーディング・リストに書き込んであって、ふと書店で見つけて読んでみた。
あっさり読んでしまったけど、今年読んだ小説のなかで印象に残ったものの一つ。出だしの奇妙としかいいようのない話から、一気に引き込まれてしまい、ラストまでそのままの勢いで読んでしまった。
けど、ただのスリリングな勢いだけの小説じゃない。なんていえばいいんだろう…生/死、天使/悪魔、現実/夢などの二項対立について、小説という形態はこういうアプローチをすることができるのか、という驚きがあった。こういう紋切り型の図式に対して、それを外的に反駁するか、内破(脱構築)する、というのがいわゆる哲学や思想の領域で行われることだと思う(この時点で間違っていたらすみません)。けど、文学は、あるいはこの小説は、その間をただ漂泊する。生と死が自在に交錯し、死者は生者と邂逅を果たし、夢は記憶よりも鮮明な現実であって、夢は記憶よりもリアルなものになる。何を言ってるんだろう?と自分でも思うけれども。
人が「死神」に勝つことはできるのか?人は限られた時間しか生きることはできない。始まりがあり、終わりがある。終わりとは死であり、人は死を免れることはできない。死を司る何か、生と死の線引きを行う何かを「死神」と呼ぶならば、それに勝つ術などないような気がする。死はどこまでも「リアル」なものであって、それは私たちの理解の外部にある。死を象徴化することはできない。それが私たちの間近に現れたとき、結局のところそれに恐怖するしかないのだろう。
そういえば星新一のショートショートにこんな話があった。ある男が犯罪を犯し、廃墟の後に刑務所と化した火星に送られる。火星には水がないが、囚人たちはみなある機械を手渡され、その機械のボタンを押すことで水を得ることができる。しかし、その機械には爆弾が仕込まれていて、ボタンを押した時にランダムでその爆弾が起動するように設計されている。男は渇きに迫られ、恐怖で気が狂いそうになりながら水を得ようとボタンを押し生き延びていく。あるいは途中で気が狂ってしまったのかもしれない。その後に彼は気付く、結局のところ「何も変わらないのだ」と。死はいつかやってくるし、それを避けることなどできない。地球でも、火星でも、私たちは日々、ある意味では死を引き寄せながら毎日を過ごしている。大きな違いがあるとすれば、それが「可視化」されているかどうかという点かもしれない。1杯のビールと火星の水発生装置、これは「それが死を招くかもしれない」と言う意味では等価だけれども、「可視化」の度合いが相当に違う。火星の装置は死と直結しているように見えるがビールはそうは見えない。あと、この小説を読んでいて思ったことだが、星新一はここにもう一つの違いを見出すべきだった。(あるいは見出してて、僕が忘れているだけかもしれないけど) それは周りを誰かに囲まれている、ということだろう。私たちの生活は、ある時点までは(その時点がいつやってくるかは誰にもわからないけれど)、「死」の相手をしているほど暇ではないのだろう。私たちの日常は、色々なことに満ち溢れている。死を間際にしても光と影で遊んでいた子どものように、私たちはいつでもそこに楽しみや喜びを見出すことができる。それがキャロルにとっての希望であるし、繰り延べでしかない束の間の勝利なのだろう。
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