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2010年4月9日金曜日

ガブリエル・ガルシア=マルケス 『予告された殺人の記録』

町をあげての婚礼騒ぎの翌朝、充分すぎる犯行予告にもかかわらず、なぜ彼は滅多切りにされねばならなかったのか?閉鎖的な田舎町でほぼ三十年前に起きた幻想とも見紛う殺人事件。凝縮されたその時空間に、差別や妬み、憎悪といった民衆感情、崩壊寸前の共同体のメカニズムを複眼的に捉えつつ、モザイクの如く入り組んだ過去の重層を、哀しみと滑稽、郷愁をこめて録す、熟成の中篇。

やられてしまいます。文句なしにすばらしい、お手本みたいな(でも絶対にまねすることのできない)中編小説。

村人誰もがそのことを知っていた。犯人たちは悠々と刃物を研ぎ、その時を待っていた。けれども、その殺害を誰も止めることはできなかった。なぜだったのだろう?
この小説は(少なくとも表面上は)この問いに向き合い、緻密な調査・インタビューによって、事件前後の村の様子、人々の行動とその背景を分析し、緻密に再構成した、という形をとっている。だからカポーティ的なノンフィクション・ノベルというべきなのかもしれないが、どの程度ガルシア=マルケスが「現実に即して」ということを意識していたのかはよくわからない。非常に強くそのこと意識していたようにも見えるし、それよりももっと共同体や人々の深層を抉り出すことに主眼を置いているようにも見える。
…あるいは、この発想がそもそも間違っているのかもしれない。この事件の「真相」に辿り着くにあたってはどうしてもインタビュー、つまり当事者の語りに頼らなければならない。こうした語りがそれぞれ真実というわけでは無論なく、それは一面的なものの見方で、しかもその根底にはインタビュイーの価値観や限界がどうしても入り込んでいる。とはいえそれらを緻密に組み合わせることによって、真相に接近することくらいはできるだろう。しかも、その組み合わせの素材一つ一つに住民の価値観や感性が入り込んでいるのであれば、それらを組み合わせることによって、住民の心性を排除するのではなく、それを組み込んだまま真相に接近することになる、と考えられる。だから、「真相」に辿り着こうとすることと、共同体や人々の心性、深層を抉り出そうとすることは背反しない。

住民たちの鬱屈や、アラブ人や金持ちに対する反感、憎悪みたいなものがこの小説には見え隠れする。確かにそれはそうで、吐き出し所がない、あるいは吐き出し切れないようなどうしようもない鬱屈さ、やり切れなさみたいなものが人々の言葉には滲んでいる。
それと同じように、この共同体は既に崩壊しかけている、あるいは崩壊している。解説のなかにバヤルド・サン・ロマンが「モダニティ」を体現する人物だ、という指摘があった。言われてみれば確かに。ただ、ガルシア=マルケスの巧みさは、こんなところにも見え隠れしていて、どうやらこのバヤルドは彼の家族の階級からはつまはじきにされているらしい。そしてバヤルド自身も、(恐らくは)金銭的に依存しつつも、自分が属する階級に不満を抱いている。「モダニティ」を体現する人物が実はそれ自体から疎外されているという奇妙な構図がここにある。更に、ガルシア=マルケスはアンヘラ・ビカリオとの再会という後日談も織り込む。バヤルドへの恋心に気付いたアンヘラが書いた2000もの手紙(しかも開封されていない)を携え、バヤルドは23年後アンヘラの前に姿を現す(このシーンは結構好き)。なんでこんな後日談を組み入れたのか、不思議と言えば不思議だけれど。


この小説は無数の語りの積み上げからなっている。過去のある出来事、それが無数の(というか住民数の)解釈によって多様化する。つまり一つの出来事がN個の物語となる。そうしてできたN個の物語、それは30年もの時間のなかで更に変化を遂げていく。そうした物語を再び組み合わせ、伝承を作り出す(祖型化)、ガルシア=マルケスはひょっとしたらそんな伝承生成をこの小説で行ったのかもしれない。

何よりも終盤部、殺害現場が見事に再現される。まるでスローモーションで映像が頭にこびりつくような、圧倒的な筆致、表現力。そう、読者はこの本を読み進めるなかで、凄惨な殺害シーンがいつか再現されることを期待している。そしてその期待が頂点に達するその瞬間に、ガルシア=マルケスはその場面を描き始める。その時に読者が味わう感情の奔出と昂揚感。「カタルシスとは何か?」を問われたなら、この本を読んでもらえばいい。この小説はそれが何たるかを十全に教えてくれるだろう。
小説を読む歓びを改めて教えてくれる1冊。この小説が420円で読めることを私たちは幸福に思うべきなのかもしれない、とさえ思わせてくれる。

2010年2月4日木曜日

ガブリエル・ガルシア=マルケス 『エレンディラ』

コロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケスの異色の短篇集。“大人のための残酷な童話”として書かれたといわれる6つの短篇と中篇「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」を収める。『百年の孤独』と『族長の秋』の大作にはさまれて生まれたこの短編集は、奇想天外で時に哄笑もをもさそう。

いいですね。これまでガルシア=マルケスをさほど読んでこなかったことを後悔。集英社文庫の短編集くらいしかなぜか読んだことがなかったんですね。この数年、ラテンアメリカ文学を少しずつ読んでいますが、そろそろガルシア=マルケスに挑む頃合いのような気がします。

短編が面白い作家って、大抵長編を読んでも面白いんですよね。逆は必ずしも成立しませんが。日本の小説家が、どんどん短編が下手になっている、という不満を聞きますが、それが真実であれば、とても残念なこと。
一方、ラテンアメリカの作家たち(適当な括りですが)は短編を読んでいても面白い。ひょっとしたら、日本の作家とラテンアメリカの作家では、構成の方向性が逆なのかもしれませんね。つまり、長編→短編という方向性と、短編→長編という方向性、みたいな違い。前者には、長編的な大きなストーリーが根幹にあって、それを短編に持ち込もうとしてしまう。後者は、そうではなく短編的なストーリーがもとよりあって、それを織り合わせるようにして長編小説を組み立てているのではないか。そんな気にもなります。勿論こんな簡単な対比が日本とラテンアメリカで成り立つ訳はありませんが、傾向というかモデルとしては考えられるのではないか。この違いってなんだか重要な気がします。

あとがきで書かれていたことに、ガルシア=マルケスが本書のような短編集を習作と見なしていて、それを後に書かれる長編小説に組み込んでいったという指摘があります。もし、彼の長編(僕がまだ読んでいない)が、そうした(書かれたものも、書かれなかったものも)短編一つ一つを織り合わせる形で作られているんだとしたら、これはものすごく面白いに違いない、と。
過去の出来事が神話化され、伝承によって残されていく。その過程で、登場人物は抽象化され、物語も幻想的なものへと変容を遂げる。過去の出来事それ自体と、伝承、どちらがリアルなものか、と考えたとき、一般的には前者だと考えられがちだろう。けれども、恐らく後者なのだ、少なくともその物語に触れる者にとっては。「祖型化」の過程のなかで、物語は「出来事」の経験者から切り離され、浮遊し、その物語を聴く者にまとわりつく。こうした物語はウィルス、のような性質を帯びているのかもしれない。可塑的であり、ヴァイラルに広がっていく。(散種的という言葉が浮かぶが、それが適切な表現なのかは分からない。)
こうした土着的な伝承がラテンアメリカには(そして恐らくは世界の各地に)無数にあり、つまりそこには無数の物語がある。そして、そこから小説のストーリーが抽出される。そしてそうしたストーリーを更に変容させることによって短編小説が出来上がる。更に作家たちは各々、それらを自在に変化させ、組み合わせていくことで長編小説が出来上がる。こんな流れが頭に浮かんだ。
こういうと、長編小説を頂点にしたピラミッドとして理解されてしまいそう(長編が一番偉くて、次の短編、その下が伝承だね)だけれども、そんなことを言いたいのではない。伝承には伝承なりの、短編には短編なりの、長編には長編なりの良さがある、当たり前の話。

現に、ここに登場する小説たちは、どれも抜群に面白い。数行で読み手を引きずり込んでいくような、魔力的な語り。天使なんてあり得ないよ、なんて思う人は「大きな翼のある、ひどく年取った男」を読んでみるといい。きっと天使があり得るか、あり得ないか、なんてことはすっかり忘れ、物語の世界に没入していくことになるだろうから。
ちなみに、これらは独立した短編だけれども、微妙に重なり合う連作でもある。だからきっと最後まで読み進めることになるだろうけれど。

2010年1月27日水曜日

カルロス・フエンテス 『フエンテス短編集―アウラ・純な魂他四篇』

「…月四千ペソ」。新聞広告にひかれてドンセーレス街を訪ねた青年フェリーペが、永遠に現在を生きるコンスエロ夫人のなかに迷い込む、幽冥界神話「アウラ」。ヨーロッパ文明との遍歴からメキシコへの逃れようのない回帰を兄妹の愛に重ねて描く「純な魂」。メキシコの代表的作家フエンテス(1928‐)が、不気味で幻想的な世界を作りあげる。

6篇収録されていますが、それぞれ違った面白さがあります。全体的には、幻想性+生々しさ+官能性でしょうか。ゴシック的な色合いも濃く、魔術的リアリズムと呼ぶに相応しい作品です。
男‐女、若者‐老人、正気‐狂気、メキシコ(インディオ、土着性)‐西洋、そして生‐死。こうしたいくつもの二項対立を扱うことを得意としているようです。これら背反的な二項のあいだを、フエンテスは文字通り魔術的な技法を用い、登場人物を行き来させます。例えば、『アウラ』においてはコンスエロ(老、醜)とアウラ(若、美)は対比的ですが、物語が進むにつれてアウラがコンスエロの映し鏡であることが明らかになります。そしてアウラに好感を抱いていたフェリーぺも、コンスエロの夫であったリョレンテ将軍の回顧録を整理していく中で、彼と一体化していきます。フエンテスの巧みさは、こうした魔術的な出来事が生じる舞台の設計技法にも見て取れるでしょう。コンスエロらが住まう家の不気味さの描き方は読んでいるこちらが薄気味悪くなるほどリアルで、廊下のシーンなどはギシッ、ギシッとどこかから音が聴こえてくるような気がしたほどでした。その不気味さは、この小説で彼が「君」という二人称を用いていることによって助長されることになります。読み進めるうちにいつしか読み手はフェリーぺと一体となり、この物語を彼と共有することになるわけです。舞台の気味悪さといえば、『女王人形』は…すごかったです。公園の牧歌的な明るい雰囲気と対を成すようなアミラミアの家の描写。
彼は、上記のように男‐女、老い‐若さのような対の構造を利用しながら、それを崩すことによって読者をひきつけるわけですが、そうした際に(少なくともこの短編集で)彼が用いている媒介に鏡と手紙があります。鏡は、『アウラ』や『最後の恋』に、手紙は『純な魂』や『チャック・モール』にそれぞれ登場します。『最後の恋』のなかで鏡は出だしとラストに登場します。そして同一人物が同じ日に鏡を見るのにもかかわらず、前者と後者でそこに写る像が全く変わってしまう。これは人が鏡に何を視ているのか、という問題とも関わることなのかもしれません。私たちは鏡を視ているときに、そこに理想化された自己を同時に見いだしています。『最後の恋』で鏡に映る像が変わってしまうのは、鏡自体が歪んでいるからではなく、鏡に向かう人物の現実の像が変わってしまったからでもなく、そこに見いだそうとする自己像が決定的に変わってしまったから、なのではないでしょうか。当初においては、見いだされていたこうありたい自己像が、その後の出来事の中で崩壊をきたし現実としての自己に直面する。それゆえにこの変容が起こったのだとしたら、幻想が入り込んでいるのは、終盤の鏡ではなく、序盤の鏡だということになります。であれば、私たちにとっての日常や現実それ自体が、あるいはこうした幻想によって構築されているのかもしれない、という疑念すら抱いてしまいます。こうした幻想と現実の関係をもフエンテスは効果的に利用しているわけです。
解説のなかで、もっと違った角度から、訳者がそれぞれの短編集のとても興味深い分析を展開しているのでぜひご参照ください。
これはいい短編集、おすすめは『アウラ』と『女王人形』です。

2009年11月23日月曜日

ロドリゴ・レイローサ 『船の救世主』

「恐怖や脅威は、私の小説の主要なテーマのひとつだ。特定の人間に対して感じる恐怖ではなく、見知らぬ環境や状況がもたらす恐怖だ」

「小説家としての私のキャリアにおける最大の事件は、モロッコへ出かけたことと、グアテマラで生まれたことだと思っている」             
         ・・・・ロドリゴ・レイローサ

なんとも奇妙な中篇です。冒頭、主人公である海軍大将が沈んだ船を引き上げる作業を監督している(すでにこの時点でどこかおかしい)。そんななか、「各国を戦争に追いやったウイルス」や「地球規模に広まった自殺熱」への恐怖から軍人を対象に心理検査が行われることになり、そのために大将は嫌々ながら首都に帰っていく。このあたりは(軍人による)独裁体制やそれに起因する(のか?)世界大戦を念頭においているのだろう。その後、心理検査で「異常」と見做されることを恐れる、「厳格で模範的な軍人」である大将はこっそり図書館で心理学の本を漁り予習しようとするのだが(小心というかせこいというか…)、そこに妙な男が現れ、彼に謎めいた冊子を手渡す…
という感じです。短いですけど面白い。そして何より「奇妙」です。正常と異常の間と現実と幻想の間。視点も大将の側になったかと思えば、次の章では分析医のそれになる。読んでいくとその「妙な男」は実在したようにも読めるし、大将の幻覚に過ぎないような気もしてくる。
マクレランド図版のある図版になぜあんな過敏な反応を大将が示したのかもよく分からないし、パンフレットの内容も謎めいている。荒唐無稽なようにも見えるけれども、それなりに意味があるないようにも読める…。そしてラストである人物がそのパンフレットの一句を想起するのは何故だろう…、とかよくわからないところも沢山あるけどそれもまたよし。ラストにはびっくりですが。「正常」と「狂気」の線引きを混乱させる、そんな小説。いつから「頭がおかしくなった」なんて、あまり意味はないですね。ここでの狂気は、個人のそれでもあるし、組織におけるそれでもあり、また世界にウイルスのように蔓延するものでもあるようです。面白いですよ。

2009年6月28日日曜日

ロベルト・ボラーニョ 『通話』

スペインに亡命中のアルゼンチン人作家と〈僕〉との奇妙な友情を描く「センシニ」をはじめ、心を揺さぶる14の人生の物語。ラテンアメリカの新たな巨匠による、初期の傑作短編集。


エクス・リブリスの先頭を華々しく飾るはずだったボラーニョ、延期が決まってどうなるかと思ったんですけど無事刊行されてなによりです。チェーホフ、カフカ、カーヴァー、ボルヘス、ウディ・アレン、タランティーノ、ロートレアモン…錚々たる面々の融合と受容がある、とか書いてあって、「ホントかよ!」とか「どんなんだよ!」突っ込みながら買ったんですが、まぁそれはさておき、非常によかったです。総じてドライな文体、マッカーシーやカーヴァー、デリーロやデニス・ジョンソンを髣髴とさせる。淡々と物語る姿勢、それによって悲哀やら可笑しさが際立ってくる。自分からも遠く距離を置いたような独白や、その対極にあるかのような率直な表現、不遇や何かしらの喪失感を抱えて生きる人々の生、節合的で刹那的なふれあい、それが一体となって読み手の心を揺さぶる、そんな感じです。会話だけで小説を構成したり、あるいは改行をほとんど設けずに語り続けたり、小説ごとに様々な技巧を凝らしている、それがそれぞれの物語ととてもよく調和しているように思います。
長編も同シリーズから刊行されるようなので、こちらも楽しみです。

2009年4月23日木曜日

フアン・ルルフォ 『ペドロ・パラモ』

ペドロ・パラモという名の,顔も知らぬ父親を探して「おれ」はコマラに辿りつく.しかしそこは,ひそかなささめきに包まれた死者ばかりの町だった…….生者と死者が混交し,現在と過去が交錯する前衛的な手法によって紛れもないメキシコの現実を描き出し,ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなった古典的名作

読むことの楽しさ、ただ受身になって字面を追うだけでなく、こちらから想像力を膨らませて読む楽しさをひさびさに味わわせてもらいました。ここまで切り詰めた構成にこれほどの内容を詰め込むことができるものなんですね。一読じゃ終わらせない、繰り返し読むに値する小説ですね。『燃える平原』という短編集とこの小説のみという非常に寡作な作家ですが、それだけに完成度が高い。
この小説は全てが「語り」なんですね。そして読み進めていくと、突然に語り手が変わる。それが誰なのかも明示されないことが多い。明示はされないのだけれども、それが誰なのかは必ずわかるようになっている。

この小説には3つの世界がある、そう言えるかもしれません。一つは現在の荒涼としたコマラの廃墟①、もう一つは死者の語らいによって明かされるペドロ・パラモの地主時代の「黄色く酸っぱい」コマラ②、そしてペドロ・パラモや母の語りの中のみに登場する豊饒で緑溢れるコマラ③。このうち、②が主要な舞台となるので、こういった区分はあまり生産的ではないかもしれません。そしてこの3つのコマラ、それは時間的には切断されている印象を与えてしまうけれども、この小説では全てが混淆しています。①における死者の語らいの中で、②や③は存在するし、②の独白の中で③は想起されるわけですし。更にこの小説では、生/死、現実/幻想という二項対立図式は崩壊しており、全てが入り混じっているわけですから、より一層混沌とした世界ですよね。これをまとめ上げたルルフォの筆力には圧倒されます。

総じて、非常にドライな文体だな、と思いました。それゆえ、③のコマラにまつわる語り、とりわけペドロ・パラモのスサナに対する叙情豊かな愛の語らいがとても心に残ります。
登場人物の死生観、宗教観などには困惑を感じる事もありますが、それは当たり前のことでしょう。カトリシズムとこうした死生観やたびたび登場する近親相姦の問題をどう折り合わせて理解できるのか。そうしたものも含めて、面白かったです。
解説で触れられているように、本小説には多様な解釈が可能だと思います。とりわけ、杉山が指摘する次の部分、

「ロバ追いアブンディオの役割が一番大きく、…末尾ではその代理として父親(自分の父親でもある)ペドロ・パラモを殺すのだ」(強調は引用者)

その代理とは、つまり「おれ」であるフアン・プレシアドだ。つまり、杉山はフアン・プレシアドに代わって、アブンディオがペドロ・パラモを殺したのだと理解している。プレシアドは母に代わってペドロ・パラモに会いに行くが、彼の死によってそれは果たすことができなかった。しかし、彼自身が①のコマラで死ぬことによって(あるいはこの街に着くまえから彼は死んでいたのかもしれない)、死者の語らいに耳を傾け、②の世界に触れる。彼の思い(それはそもそも母の思いが転移したものなのだが)がアブンディオに転移し、アブンディオは混沌とした意識の中でアブンディオを殺したのだ、そう解釈しているように思える。この錯綜する転移は、ペドロ・パラモの死の場面のみに生じるものであるだけでなく本小説に通底した点のように感じられる。死者の間で生じるリゾーム状の転移関係。これは面白いですね。

何よりも本小説は「語り」です。「語り」とは常に真実であるわけではない。客観的出来事を述したいのならば、わざわざ「語り手」などをおく必要はない。語り手を置く事によって、彼から観た世界、彼が(時に恣意的に)解釈した世界を提示できる。本小説のように複数の語りによって構成されているならば、そこには複数の出来事があり、世界が、そして解釈がある。どれが本当かどれが嘘か、あるいはどっちも本当でどっちも嘘なのか、そんなことに頭を悩ます必要はないだろうけれども。
少なくとも大切に読み返したい小説である事は間違いないでしょう。


2009年4月16日木曜日

アドルフォ・ビオイ=カサーレス 『モレルの発明』

現代アルゼンチンの洗練された小説家にして、あのボルヘスの親密な友人=共作者でもある著者が、SF的冒険推理小説的結構を借りつつ、現実とイマージュ、現実とフィクションとを巡る形而上学的思考を一篇の恋物語のうちに封印した。
ボルヘスに《完璧な小説》と讃えられ、欧米各国語に翻訳されて大きな反響を呼び、またアラン・レネ/ログ=グリエの『去年マリエンバートで』の霊感源ともなった、現代ラテンアメリカ文学の最高傑作のひとつに数え上げられる驚くべき作品。


知り合いにお薦めされて読んだ本。ビオイ=カサーレスはこれまで読んだことがなかったんですけど、確かによかったです。ミステリーの要素もたぶんにあったりして、どんどん読み進めていきたくなる、そんな中でもちょっと考えてしまう部分なんかもあったりして。なによりも、決してフォスティーヌへの思慕とその実現不可能性、それさえも超克し永遠となる彼の恋愛もとても心に残りました。
ボルヘスが何をもって「完璧な小説」と見做したのか、そこまで分析する力は僕にはないですが、確かにこの小説には全てがある、そう強く感じました。
僕は読みながらこの主人公がモレルなのかな、と深読みをしていたのですが、それはあながち間違いではないのかもしれません。主人公はモレルと自己を同一視しているわけですから。非常にこの過程は面白いですね。主人公はフォスティーヌに恋をし、彼女とただならぬ関係にあると推されるモレルに嫉妬を感じ、次いでモレルの思いに応えようとしないフォスティーヌに苛立ちを覚える。その鏡の向こうの世界、純粋なイマージュの世界に主人公はどうしても入っていくことができないゆえに自身の思いをモレルに仮託しようとする。勿論この仮託は十全なものではなくてしばしばモレルに主人公は疑いの眼を向けるわけですが。モレルと主人公はちょうど2つの太陽、2つの月のように同一でありながらもしばしば解離する、そういった存在となっています。その後に主人公はイマージュの世界に没入することで、モレルとは切り離された恋愛―それ自体が主人公自身のナルシスティックな振舞い、自己呈示に他ならないわけですが―を達成することになる。ビオイ=カセーレスはSF的スタイルを借りながら、2つの世界―現実とイマージュの世界―の重なり合いながらも解離する有り様を提示しています。
私たちはそれを見ることができるが、触れることはできない(精確さを期せば、その世界に立ち入り関与することができない)、彼らは我々によって見られていることを知らず、私たちの存在自体を知ることもない。こうした2つの世界の不可能な出会いを主人公は超克していくわけです、ただそれは現実の消滅と同義ではあるのですが。
さて、「鏡」についてです。やはり訳者同様にこれに触れないわけにはいかないでしょう。こうしたイマージュの世界は、私たちの世界を切り取ったものそのものでもあります。しかしその世界は死んでいる。その世界は円環として完結している。こうした私たちの世界を切り取り固定化させたもう一つの世界、それは鏡の世界に他なりません。幼児期にバラバラである身体を縫い合わせ一つの統一体としての「私」を作り上げていく存在、それが「鏡」です。鏡は統一体としての自己を提示します。鏡の向こうの世界にいる「私」は、私を魅惑する。そのようなものとして私は「私」であろうとする。けれどもそれは完全には達成されえない。現実を切り取り固着化させた「私」とは既に死んでいるから。そのような「私」は魅惑と恐怖の対象となる、ちょうど主人公がイマージュを前にした時のように。

そしてどうしても向こうに行きたければ、彼は死ななくてはならない。向こうの世界は不死ではあるが、そこに行き着くためには死ななければならない。そして彼は向こう側に旅立つ、7日間で完結する永遠の世界へ。

読了後、こう思いました。主人公が何の不自然さもなく向こう側の世界に溶け込んでいるのならば、新たにこの島にたどり着き、この虚構の世界を目撃した人はそれに気付くことはなく、彼も最初からこの団体の一員だったのだ、と思うだろうと。それならば、そもそもこの虚構の世界にいたのは誰だったのか。誰があとから参入してきた者なのか、「完璧」に演じられたのならばそれに気付くことはできない。極論を言えば、最初にこの虚構の世界にいた人物はごく少数だったのかもしれない。それが一人、また一人とこの世界に参入していく。現実の世界を捨て、イマージュの世界にのみ生きる人々。主人公の次にこの島にやってきた人も、やがて現実を捨て、このイマージュの世界に加わっていくことだろう。それはあまりにも魅惑的だから。なぜモレルの発明が島外に洩れることがないのかを考えてみるとその恐ろしさがよく分かる気がする。
素敵な小説を教えてくれた知人に感謝です。