2009年5月2日土曜日

檜垣立哉 『ドゥルーズ入門』

没後10年以上の時を経て、その思想の意義がさらに重みを増す哲学者ドゥルーズ。しかし、そのテクストは必ずしも読みやすいとはいいがたい。本書は、ドゥルーズの哲学史的な位置づけと、その思想的変遷を丁寧に追いながら、『差異と反復』『意味の論理学』の二大主著を中心にその豊かなイマージュと明晰な論理を読み解く。ドゥルーズを読むすべての人の羅針盤となる決定的入門書。

さて、ドゥルーズ入門です。ただ、このタイトル問題ありですよね。もちろんシリーズ化してるからしょうがないですけども。ホントにこの本を取っ掛かりにしようと思うとたぶん途中で挫折すると思います。私自身はところどころ難解(それがどこか、なぜなのかについては後述します)なところがあるように感じましたが、それでも非常に面白く読みました。なるほどね、という感じ。決してポップではありませんが、初期(つまり『アンチ・オイディプス』以前)のドゥルーズに注目することは、試みとしても面白いですよね。まず、哲学史家としてのドゥルーズが描かれなくてはならない。確かに。河出さんとかが頑張ってくれているおかげで、非常に幸いなことに初期の彼の著作は文庫化が進んでいて、手に取りやすい。こんな贅沢なことないよなぁ、と思ったりしますが。
初期のドゥルーズとガタリとの共同作業以降のドゥルーズ、確かに一貫しているところもあるんだけれどもなんとなく違う気がする、そんなことを感じていましたが、檜垣はそれを一つ「転回」として捉え、その根底にあったものを上手に説明しているなぁと思いました。

そんなわけで、3章まではとても分かりやすく、頷きながら読んだりしていたのですが、4章『意味の論理学』以降から少しわからなくなってきた。なんでだろうと思ったのですが、理由は単純で『意味の論理学』を僕は読んでいないから。つまりこういうことです、本書は全くドゥルーズの著作に触れてこなかった人にはちょっと難解すぎる。ある程度彼の思想に触れたことがあるか、著作を読んだことがあることが前提になっているような印象です。「『差異と反復』よくわかんなかったけどとりあえず読んだ」とかいう人は、きっとそうゆうことだったのね、となるのでしょう。(少なくとも僕にとっては)概説書と著作それ自体の反復作業、それを通して理解を深めていくことが一番近道なのかなと思います。本書を読みながら、久々に『差異と反復』を読み返していますが、以前よりも理解が深まっていると感じます。もう少し、継続的に初期のドゥルーズの思想にアプローチしていこうかと。

ただ、そんなことをいいながらも気にかけなきゃいけないことは、この本は檜垣なりのドゥルーズの読みでしかないということ。当たり前の話ですが、読む人の数だけ読み方がある。例えば、小泉義之の『ドゥルーズの哲学』なんかは典型で、あれは入門書というよりも彼流のドゥルーズ理解、あるいはドゥルーズを介した彼自身の生命哲学の議論に他ならないわけで。まぁあれはあれでかなり面白かったですが。檜垣がここで『差異と反復』を取り上げる時も、そこから抜け落ちる幾つもの要素、あるいは彼が取り上げなかったポイント、そういったものが間違いなくあるわけで、最終的には自分なりに読み込んでいくしかないわけです。ドゥルーズ自身、『対話』のなかで次のようなプルーストの一節を引用するわけですから。

美しい本は一種の外国語で書かれている。ひとつひとつの語の下に私たちのひとりひとりは自分なりの意味を盛り込み、あるいは少なくとも、自分なりのイメージを盛り込む。そのイメージは誤読になることもある。しかし美しい本のなかで作り出される誤読はすべて美しいのだ。




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