他者との関わり合いにおいて主体は形作られ、他者への責任=応答可能性において主体は自らを変革する。道徳が暴力に陥る危険性を問い質し、普遍性の押し付けによって個性を圧殺する倫理的暴力の論理に抗いつつ、危機の時代に「私」と「あなた」を結び直して希望の隘路を辿る、剣呑な哲学。暴力論叢書第三弾刊行!
僕には少し難しかったです。バトラーがどこで格闘しているか、それを掴むこと自体はさほど難しいことではない。そういう意味では彼女は一貫している。真摯に向き合っている。バトラーが格闘する場所、それは「自分自身を説明すること」、あるいは「自分自身について真理を語ること」の可能性/不可能性が混交する領域であり、「私」に対して他者が語りかけ、それに応答しようとする場なのだろう。
バトラーは、フーコーをアドルノを主たる参照軸とし、それにカヴァレロ、レヴィナス、ラプランシュ、ニーチェらを批判的に読み解きながら、「倫理」について、そして「他者」について、なにより「私」について思考を進めていく。しかし、その思考のスピードに僕自身が付いていけなくなった。「分かっている」と思いながら読み進めているうちに、気づいたら字面を追っているだけの状態になっている。その繰り返し。完全に僕の知識不足なのだろう。これは仕方のないこと。僕の場合、恐らくもっと時間をかけて、あるいはノートなどに取りながら精読する必要があるのだろう。
ただ、分かった限りのこと、それだけでも取り出す価値はあるだろう。
バトラーがまず問題にするのは、「主体」の不透明性です。私は「私」自身を完全に説明することができない。その理由は、決して言語化しきれないような経験―「曝され」があるから、また、私の歴史には「私」にまつわる他者との原初的関係が存在していて、そういったものは私にとって「不透明」な領域にあるから、そして、他者から語り掛けられ、その応答として「私」自身を説明しようとするとき、私は他者や規範から「呼びかけ」られることでそれに応えるような位置に身を置いてしまうからだとバトラーは指摘します。その上で彼女が問いかけることは、こうした自分自身を説明することの不可能性、あるいは「主体」の不透明性は、他者との関係、あるいは倫理的な取持ちを不可能にしてしまう「失敗」なのだろうか、ということです。その後、彼女は私と他者との(原初的)関係について考察を進めるためにレヴィナスやラプランシュの議論を検討します。両者において、主体形成は他者への受動性を前提としています。レヴィナスにおいては「迫害」、ラプランシュにおいては「謎のシニフィアン」、これらが幼児に絶対的外傷を与えるということでしょうか。いずれにせよ、主体形成においては、〈他者〉が存在しなければならない。それだけではなく、私が自分自身を説明するとき、そこには語りかける対象―すなわち「あなた」―が存在しなければならない。したがって、
語ることはある行為を演じることであって、その行為とは、〈他者〉を前提とし、他者を措定し、練り上げ、どんな情報を与えるよりも前に他者へと、あるいは他者のおかげで与えられる。したがって、もし最初の時点で…私はあなたへの呼びかけにおいてしか存在しないとすれば、私そのものである「私」はこの「あなた」なしでは何者でもなく、他者への関係の外側では、自分自身への言及すら始めることすらできないことになる。(pp.148 強調部は原文では傍点)他者からも、規範からも「私」自身を完全に語ることが制約される、そういったことでは全くない。そもそも私が(自分自身を含めた)何かを語る際には、そして私自身があるためにはそれらの中に身を置き、関係を取り持つことが必要とされる。それは主体が自在に語ることを不可能にするものかもしれないし、私が語ることを制約するかもしれない。けれども、それを決定するわけではない。両者の間にはやはり隔たりがあって、その隔たりのなかで―そして他者との関わりを前提としつつ―、自分自身を語ること、あるいは語るべきものとして自分自身を作り直すこと(それは文字通り反省的/再帰的なreflexive過程だ)それこそが彼女の主張する倫理なのだろう。
この読みがどこまで適切なものか、自信がもてないところではありますが。カヴァレロ、ラプランシュ…気になります。特にカヴァレロ。邦訳はないようですが、これは面白そうだと。本書で引用されたのはRelating Narrativesという著作のようですが、気が向いたら読んでみたいものです。
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