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2010年8月14日土曜日

アーネスト・ヘミングウェイ 『ヘミングウェイ短編集』

マッチョなイメージの強いヘミングウェイだが、彼はモダニズムの作家として、繊細でおそろしいほどの切れ味をもつ短篇を生みだした。彼は、女たちをひじょうに優しい手つきで描く。弱く寂しい男たち、冷静で寛大な女たちを登場させて描きだしたのは、「人間のなかで人間であることの孤独」だった。ジョイスが完璧と賞賛した「清潔で明るい場所」をはじめ、14作を新訳・新編集で贈る。

誰でも知ってるヘミングウェイ。小学生だか中学生だかに読んだり読まされたりした人も多いんじゃないかと想像します。僕もそんな感じで、名前は知っているし、有名な作品を子どものときに読んだ記憶があるけれど、それ以来全く読んでませんでした。しかし、なんで『老人と海』とかを子どものときに読ませようとするんだろうか。

そんなこんなでふと読んだヘミングウェイの短編集。悪くなかったです。確かにマッチョ&ハードボイルドって感じとは少し違うなぁ。すごくレイモンド・カーヴァーっぽい。というかカーヴァーがヘミングウェイの影響を受けていたのか。読後のすっきり感はあんまりなくて、むしろもやもや感が残るけど、そこもまた魅力なんだろうなぁ。この短編集のなかで明らかな「オチ」が用意されている作品はあんまりない。「オチ」を作ることは、そこでその作品の世界を完結させてしまうことになる。「オチ」がないことによって、それぞれの短編の世界が開かれたままになる。キアロスタミじゃないけど「そして人生はつづく」、という感じ。

そういえば訳者解説で、ヘミングウェイは本当にマチズムの作家なのか、という問いが投げかけられていた。ヘミングウェイは長らく「マチズム」というラベルを貼られ続けてきたが、それは果たして妥当だったのか、という問いだった。この短編集を読み終えた印象としては、やっぱりマチズムが色濃い作家だなぁ、という感じ。確かに、男性主義とかマッチョな価値観に翻弄される男たちがこの短編集には登場する。訳者はここに、マチズムではなく反マチズムを、強さではなく弱さを見出している。けれど、それは反マチズムなのか? マチズムに翻弄され敗北していくナイーヴな男たちを描くヘミングウェイの、同じくナイーヴな筆致。その筆致から、まるで彼の傷口を舐めてあげるような、ホモソーシャルな交感を感じ取ってしまうのは僕だけだろうか。この男たちのナイーヴさはマチズムの裏返しであって、反マチズムではないと僕は思ってしまう。

あちこち行った彼らしく、汽車とか駅とかカフェとかホテルとかよく登場しますね。ああいった刹那的に出会う人はすごく魅力的に見えて、家族とか常に一緒にいる人に対しては嫌悪感をもつ、ってなんだか分かる気がするけど、彼の小説の場合少し極端ですね。あるいはそんなものなのか。

やっぱり短編の名手、ですね。最後の短編なんかつくづくうまいと思う。
あと、あんまいい訳と思わなかったんだけれど、この訳者は定評がある人なんですね。ちょっと意外。

2010年8月7日土曜日

コーマック・マッカーシー 『ザ・ロード』

空には暗雲がたれこめ、気温は下がりつづける。目前には、植物も死に絶え、降り積もる灰に覆われて廃墟と化した世界。そのなかを父と子は、南への道をたどる。掠奪や殺人をためらわない人間たちの手から逃れ、わずかに残った食物を探し、お互いのみを生きるよすがとして――。
世界は本当に終わってしまったのか? 現代文学の巨匠が、荒れ果てた大陸を漂流する父子の旅路を描きあげた渾身の長篇。ピュリッツァー賞受賞作。(解説:小池昌代)

ぞくぞく文庫化が進むコーマック・マッカーシー。国境三部作、『ブラッド・メリディアン』、『血と暴力の国』と読んできたので、邦訳が出ているものは一通り読んでみたことになる。
やっぱりこの作品は国境三部作→『血の暴力の国』→『ザ・ロード』って流れとして読みたいと思う。『血と暴力の国』のラストはこの『ザ・ロード』と繋がっていることは、両書を読んだほとんどの人が気付くことだろう。だから?と問われると困るけど、西部民がインディアンを「征伐」していた時代も、第二次世界大戦以前も、以後も、そして(ヴェトナム戦争を経て)現代も、更にある「破局」の後も、人間は変わらず誰かを殺している、そして抗いようのない何かに押し流され続けている、ということには気付くことができる。世界が破局を迎え、すべてが変わってしまったように見えるけれども、そういった意味から言えば「何も変わっていない」。
彼らは南に向う。理由がないわけではないが、そのどれも本質的なことではない。寒いから、狼を戻したいから、インディアンを征伐したいから。私たちは因果律にがんじがらめになっているように見えるけれど、実際のところある原因が何かの行動を引き起こすのではないかもしれない。マッカーシーの描く人物は(そしてともすれば私たちもまた)は何かに常に押し流されている。しかし、人びとはときにそれに抗おうとする。

破局後の世界において、人が生きるために誰かを殺す、あるいはそれを食べるというのは、弾劾されるべきことなのだろうか。少なくとも弾劾する人はいない。良心とか神とかによる禁止の声も、こうした世界においてはもはや届かない。少なくとも彼らのなかで神は既に死んでいるのだから。彼らは生きるために(彼らは何のために生きるのか?と問うのはあまり意味がないように思う)、あるいは生への執着に取り憑かれるようにして、他人から物を奪い、子どもを食べる。私たちは生きているというよりも、生への衝動に押し流されているだけなのかもしれない。

ここに登場する息子と、彼が迎えることになるラストシーンこそ、まさにこうした「何か」に対する抗いではないだろうか。このラストシーンはこれまで凄惨な人間の衝突を見続けてきた読者からすれば、ひどくありえないことのように思える。これまで人間の動物的な側面(単純化するためあえてこうした言い方をする)を見てきた私たちはここで初めて「人間的なもの」の交流を目の当たりにする。父子の関係を除いての話だけれど、言ってしまえばこの子どもだけが常に「火」を灯していたのだ。彼がいなければ、彼の父親は、それまで登場し続ける「悪者」と何ら変わらなかっただろう。(だからこの作品はひどくキリスト教的な世界観に裏打ちされているように思う。)

破局後の世界において、「火を持つ者」とは、こうした人間性を持ち続ける者であり、恐らくは神を信じる者なのだろう。結局のところ、「火」とは人間性の換喩なのではないか。そして恐らく「世界」はこうした「火を持つ者」において初めて成立する。他者との交流がなければ、あるいは他の「人間」の存在を想像することができなければ、「世界」を構成することはできない(「他者への想像力」という意味で、父親は「火」を持っていないことは明らかだ)。ラストシーンにおいて、彼は同じく「火を持つ者」と出会う。そして、父の死とともに失われた「世界」を、改めて構成することになる。こうした抗いこそが「世界」を構成するのかもしれない。このことはエスポジトが共同体=コムニタスを他者から/への贈与と位置づけたこととも結びつけられるのかもしれない。

……うーん、何の話をしているのか。とりあえず、『ザ・ロード』を読む前に彼の他の作品を読むことを薦めたいと思う。
破局後の世界だけあって動物の描写がないのがやや残念。その代わり自然の描写は、さすがマッカーシーという感じ。やっぱり僕はこの人の小説は好きだなぁ。

2010年4月27日火曜日

コーマック・マッカーシー 『平原の町』

十九歳になったジョン・グレイディ・コールは国境近くの牧場で働いていた。メキシコ人の幼い娼婦と激しい恋に落ちた彼は、愛馬や租父の遺品を売り払ってでも彼女と結婚しようと固く心に決めた。同僚のビリーは当初、ジョン・グレイディの計画に反対だった。だがやがて、その直情に負け、娼婦の身請けに力を貸す約束をする。運命の恋に突き進む若者の鮮烈な青春を、失われゆく西部を舞台に謳い上げる、国境三部作の完結篇。

『すべての美しい馬』『越境』を読んでからだいぶ間が空いてしまった。
どれが一番好きかって聞かれたらやっぱり『越境』って答えるだろうけれど、この三部作を読み終えた人なら、そんなことを尋ねたりなんかしないだろう。なんで、彼がこの後、『血と暴力の国』を書いたのか、それが今ならよく分かる。あるいは、彼は同じことを様々な形(場所、時間)で書き続けているのかもしれない。

前二作のような、メキシコへの冒険、彷徨がない分、自然や動物たちの描写は抑制されており、人間同士の語らいが前景化している。それが一面では魅力を減じさせていることは否定できないが、その分彼特有の会話のスタイル、あるいはこういってよければ、絢爛さを取り払ったドライかつ簡潔な語らいが活かされており、リズミカルな雰囲気さえ生んでいるように思う。自然や動物たちの描写が抑制されているとはいっても、その描き方の挿入は実に絶妙で、やはり圧倒的な存在感を放っている。
解説で豊崎が言うように、恋愛譚だけに注目するならば、それはソープオペラ的で「陳腐」ですらあるのだけれども、読んでいる最中にそんなことを感じることはないだろう。本書の、あるいはこの三部作がもつ思弁的な性格や、描写の美しさ、更には失われゆく世界への哀惜がそうさせるのかもしれない。

オオカミもコヨーテも、そして山犬さえも消えていく世界。消えていくのは動物たちだけではなく、牧場も、そしてカウボーイも消えていく運命にある。牧場が軍に接収されることはまさに象徴的な位置を占めている。辺境としての境界は消え去っていく。ビリーもジョン・グレイディ・コールも、その後に来る世界においては必要とされない存在だったろう。国境に縛られず、自在に彷徨する「無法者」にはそんな世界には居場所がなかったのかもしれない。ジョンはそんな世界に定住し、そこで生きる決意をしていたのだけれども、その願いは果たされることはなかった。ビリーは彷徨を続けた後、ニューメキシコでようやく、居場所を見つけることになるのだけれど。

この作品の基底には失われゆく世界に対する哀惜がある、といった。これは私見なのだけれど、「哀惜」は「ノスタルジー」ではない。「ノスタルジー」はある意味では、過去を存在したことのない理想的な世界へと形象化させることであり、その幻想の世界に住まうことである。しかし、「哀惜」というのは弔いに近しいものだと思う。弔いがしばしば象徴的な殺害を意味するように、「哀惜」というのは死んでしまった世界を悼み、悼むことによってその空虚を引き受ける行為なのではないだろうか。

読んでいるうちに、エピローグの長さに驚くことになるかもしれない。あるいはいっきに半世紀もの時間をすっ飛ばすことにびっくりさせられるかもしれない。この半世紀、本当に沢山のことがアメリカでは起こっていたはずである。だけれども、マッカーシーはそれに触れようとしない。それはビリーにとってこうした出来事が何の意味を持ちえなかったことの証とも捉えられるだろうし、ともすれば、色々なことがあったはずのこの半世紀に実は何の変わっていなかった、でも言いたいかのようにすら思える。
しかし、このエピローグの最も印象的な部分は、ハイウェイの袂での、ビリーと男との語らいだろう。やや冗長とも思えるこのやり取りは、『越境』に幾度となく登場する老人の語らいを思い起こさせるとても魅力的な部分である。この部分で、マッカーシーは小説を書くということをこの二人に語らせようとしているように思える。三部作を読んだ後、この部分を読み返すのはとても感動的な経験だった。

この作品のもう一つの基底である、キリスト教について、特にソドムの市や、マグダレーナ(否応なくマグダラのマリアを連想させる)や、癲癇などについて、気にはなるけれど、考えが至らないので何も書かないことにする。

越境三部作は本当に素晴らしい。ぜひぜひ。

2010年2月8日月曜日

トム・ジョーンズ 『拳闘士の休息』

心身を病みながらも疾走する主人公たち。冷酷かつ凶悪な手負いの獣たちが、垣間みる光とは。村上春樹のエッセイにも取り上げられた、O・ヘンリー賞受賞作家の衝撃のデビュー短編集、待望の復刊。

ある者は肉体的に傷つき、ある者は精神を病んでいる。どこかこわれた人々を主人公に、苦しみと闘う様を描く。93年度O・ヘンリー賞を受賞、全米で賞賛された注目作家の処女短編集。

「2009年に面白かった海外小説」、という投票を豊崎さんが呼びかけたところ、堂々の1位になったという小説。その時はさほど気に留めてもいなかったのですが、会社の人から薦められたので、じゃあ読んでみようかと。
ちなみにランキングは以下の通りみたいです。

17票 トム・ジョーンズ『拳闘士の休息』(河出文庫)
14票 ジャック・ルーヴォー『麗しのオルタンス』(創元推理文庫)
13票 アラン・ムーア『フロム・ヘル』(みすず書房)
10票 マイケル・シェイボン『ユダヤ警官同盟』(新潮文庫)
10票 ロベルト・ボラーニョ『通話』(白水社)
10票 カズオ・イシグロ『夜想曲集』(早川書房)
http://d.hatena.ne.jp/bookreviewking/20091229/1262067515より。

…ほとんど読んでない。『フロム・ヘル』と『通話』くらいか。創元推理文庫とかチェックすらしていないなぁ。

ともあれ。
うん、面白い。
短編が11篇ほど収められています。特に印象に残ったのは序盤のベトナム戦争ものと、「わたしは生きたい!」でした。
なんだろう。生への執着とか、暴力とか、銃やら酒やら薬やら女やら、ってやつですか。
ハードボイルドっていうよりも、無骨、といったほうがいいのかも。それだけにとても力強いですよ。文章それ自体も暴力的かもしれない。精神というよりも身体にこだわる。暴力だって、死にかけた人間だって、性欲塗れの男だって、それはどこまでも「身体」に関するものだ。身体の優位。いや、精神-身体っていう二元論を立てたい訳ではないけれども。身体にまつわる欲望(欲動?)のもつパワーの凄まじさ、それをひたすらに描き続けている。描くというよりも叩き付ける、という言い方がふさわしいくらいの筆致で。
おそらく著者自身の体験が色濃く反映されていて、とても生々しい。
…と思って略歴を見返してみたら、ヴェトナム戦争には結局行かなかったのか。それをここまで鮮烈に描けるものなんだな、とびっくり。
ヴェトナム戦争を描くということはきっとアメリカ文学においては重要な意味を持っているだろうし、その醜悪な部分を露にするというのはひょっとしたらかなり冒険的なことなのかもしれない。けれど、ここでトム・ジョーンズがやろうとしていることは、ヴェトナム戦争の醜さを暴露すること自体ではないような気がする。他方で、ヴェトナム戦争の帰還兵たちの末路や頽廃なんかは映画などでもそれなりに注目されてきただろうし、恐らくは文学においてもそうだっただろう。ヴェトナム戦争が彼らを決定的に変えてしまった、そしてその後の彼らの有様はそのまま「病めるアメリカ」とパラレルになっているのだ、というような形で。しかし、トム・ジョーンズがやっていることはそれとも違う(ような気がする)。どちらかといえば、それは初めから病んでいたんだよ、と言っているように思える。ヴェトナム戦争で生死のあわいで生への執着と確信をもつのと同じことが、当のアメリカ内部でも起こっているし、私たちはそうやって生きてきたんだよ、とでも言いたいかのようだ。ボクシングもセックスも、それは生の讃歌だろうし、何よりも身体の讃歌だろう。
またニーチェやショーペンハウアーへの再三への言及も、やはり生への執着という点につながるのだろう。どこまでも「生きる」ということ。社会的には弱い立場にあり、時に蔑まれる人々のもつ力強さを描き出した、とても強靭な小説。

補足。たぶん彼の小説について触れるときに、欠かせない要素にあえて触れなかった。それについて軽率なことを言うべきではないし、もう少し考えてからにするべきだろうから。

2010年1月21日木曜日

コーマック・マッカーシー 『ブラッド・メリディアン』

少年は、十四歳で家出し、物乞いや盗みで生計を立て各地を放浪していた。時はアメリカの開拓時代。あらゆる人種と言語が入り乱れ、荒野は暴力と野蛮と堕落に支配されていた。行くあてのない旅の末、少年は、以前より見知っていた「判事」と呼ばれる二メートル超の巨漢の誘いで、グラントン大尉率いるインディアン討伐隊に加わった。哲学、科学、外国語に精通する一方で、何の躊躇もなく罪なき人々を殺していくこの奇怪な判事との再会により、少年の運命は残酷の極みに呑み込まれるのだった―。『ニューヨーク・タイムズ』紙上で、著名作家の投票によるベスト・アメリカン・ノヴェルズ(2006‐1981)に選出。少年と不法戦士たちの旅路を冷徹な筆致で綴る、巨匠の代表作。

コーマック・マッカーシーを読み始めたのは、『ノーカントリー』(No Country for Old Men)の映画を観たことだった。字幕がなかったから飛行機かどっかで見たんだろう。監督はコーエン兄弟、コーマック・マッカーシーとコーエン兄弟、確かにこれ以上の組み合わせはありえない。僕の英語能力を考えれば、セリフを追うのに必死だったはずなのだが、すぐにそんなことは気にならなくなった。引き込まれた、というよりも巻き込まれたんだろう、コーエン兄弟とコーマック・マッカーシーが協働した世界に。そして、たぶんこの巻き込まれる、そして押し流されるというのは『ノーカントリー』(この邦題は意味不明だなぁ、しかし)においても、そしてコーマック・マッカーシーの作品においても、重要な意味をもつ。巻き込まれたということは、選択することなどできなかった、ということ。彼の小説に出てくる人物は、ひたすらに押し流されていく。しかし、何によって?

『ブラッド・メリディアン』においてもそうだった、ある人物をのぞいては。この小説においてもっとも際立った印象を与える「判事」と呼ばれるこの人物は裁定者そのものだ。残虐的であり、語学も堪能で、その驚異的な博識をほこり、火薬が欠けたときは火山から硫黄を蝙蝠の蠢く洞窟から硝石を採集し、自ら作り上げる。行く先々で様々なものを手に取り、それをスケッチし、その後に破壊する。神を否定し、戦争こそ人間を人間たらしめている本性だと喝破する。こうした人物の中に訳者はニーチェと『闇の奥』のクルツ大佐を見いだす。無論、判事については、小説のなかで『彼にどんな先行者がいたにせよ彼はその総和とはまったく別の存在であり彼を分割していろいろな起源に還元するための方法はない、というのも彼は自身を分割させないからだ』と語られてはいるのだが。判事の源を具体的な人物に見いだすことはできないし、ニーチェとクルツを足しても判事は出てこない。あるいは彼はそうした位相にはいない。彼は、象徴的な、あるいは抽象的な、「(大文字の)人間」そのものとして考えるべきなのかもしれない。自信はないけれども。ここに登場する判事は『血と暴力の国』に登場するシュガーとは趣が違う。したがって彼は「純粋悪」でもない。
舞台についても少し考えてみるべきだろうか。アメリカでもなければメキシコでもない、〈フロンティア〉についても。ここは莫大な空白であって、西洋的概念としての「人間」(フマニタス)の枠外だった。広大な残余。「人間」の統治も行き届かない領域。そこに乗り込んでいく判事は、先に触れたように行く先々で様々な「未知」を採集し、スケッチし、処分する。それはあたかも「人間」の外部にある「自然」(「野蛮人」も含めて)を採集し、博物館に陳列するという植民地主義の有り様を思い起こさせる。ある事物を西欧に運び、博物館に陳列する、そうした展示会を物へのフェティシズムの巡礼地といったのはベンヤミンだったか。コレクション(これはインディアン討伐隊の、耳で作った首飾りや頭皮狩りを思い出させる)すること、その過程でその事物は本来の意味を剥奪され、つまりは殺される(したがって全てのコレクションは「死んでいる」)。そして持ち主によって分類され、展示される(「これは黒んぼの耳か?」)。つまり、判事のやっていることはそうした行為を極めて具体的な形でやっているに過ぎない。空白地帯で行われるこの過程は、インディアンの虐殺も含めて「人間」の過程そのものだった。
あるいはコンマをほとんど使わず、地の文で会話を描くマッカーシーの文体。ある部分を見ると、とても切り詰められていてミニマルな印象を与える。けれども、自然や動物の描写は驚くほど豊かだし、会話だって(話者にも夜が)とても切り詰められたとはいいがたい。切り詰められている、という印象を与えるのはきっと心情を描写することがほとんどないからだろう。ある意味で、マッカーシーの小説では「自然」も「動物」も「人間」も等しく描写される。「人間」を特権化しないし、「自然」を単なる客体に、あるいは書き割りに落とし込まない。そこにマッカーシーの「人間」観を見いだそうとするのはあまりにも強引だろうか。
とはいえ、こういう読みはあまりにもこの小説を矮小化させてしまっているのではと少し反省する。結論としては面白い+αがある小説。おすすめ。

コーマック・マッカーシーの他の著作の感想駄文は以下の通り。
『越境』
『全ての美しい馬』

2010年1月12日火曜日

トマス・ピンチョン 『ヴァインランド』

1984年、ある夏の朝。北カリフォルニアの山中で14歳の娘とふたり、ジャンクにクレイジーに暮らすヒッピーおやじゾイドの目覚めから物語は始まる。ゾイドを執拗に追う麻薬取締官、娘を狙う連邦政府、その権力の魔の手から逃れながら、母探しの旅に出る娘。そして物語は60年代へ、ラディカル映画集団の一員だった母の記録映像を見る娘の眼差しと共に、バークリィでのデモ隊と機動隊の衝突現場へズーム・インする。闘争の渦中で母を救出するDLは、マフィアのドンに雇われ殺人忍法を操る「くノ一」。その女忍者とコンビを組むカルマ調整師のタケシ、彼らにカルマを調整してもらうヴェトナム戦争の死者のゾンビ「シンデルロ」…次々と出現する登場人物を巻き込んで、仕掛けに満ちたピンチョン・ワールドは時のうねりの中を突き進む―全米図書賞受賞の大作『重力の虹』以来17年の沈黙を破って発表された本書は、ギャグ満載のポップな装いの下に、輝けるアメリカを覆う呪われたアメリカ、官憲国家の狂気を、繊細に重厚に、ときにセンチメンタルに描き出す。名訳をさらに磨きあげ、注釈も全面改訂。

完全にやられてしまったので、全く読むに耐えない感想ですが、とりあえず断片的に。
この小説には語らなくてはいけないことがあまりにも多すぎる。そして僕が語れることはあまりに少なすぎる。


A
世界全集の方で読みました。そちらの方が1000円くらい安かったので、待った甲斐があったかなと。

B
すごい、というとバカの一つ覚えみたいですが、すごいとしかいいようがない。「カオスの縁」って言葉を思い出しました。λ=0.273って何のこっちゃわかんないし、カオス理論なんて分かるわけもなく、ただ比喩として。秩序でもカオスでもなく、もっとも複雑でもっとも多様な状態。ここに限りなく近い小説じゃないかと。

C
チープでポップでキッチュなものをひたすらに集めてそれらを組み合わせる。その果てにできた不可思議かつ巨大な機械、それがこの小説のような気がする。ガラクタ(少なくともそう見えるもの)を集めて、こんな機械を作り上げるピンチョンは、やはりとんでもないマッド・サイエンティストでしょう。60年代も70年代も80年代も知らない、しかも日本に生まれた僕にとっては理解に苦しむ世界。ゴテゴテして、サイケデリックで、くだらない。けれども(だからこそ、か?)抜群に面白い。ニヤニヤしながら読んでいました。

D
そういえば「再会の時」って映画があった。あれは1983年らしい。レーガン政権下で60年代の回顧が起こるって分かるような分からないような。ともあれその映画は、60年代後半の時に大学生活を一緒にすごした仲間のうちの一人がある日自殺をしてしまって、彼の葬儀で十数年ぶりに仲間に再会するところから話は始まるんですけど、この映画の根底にひたすら流れているのはやはり1968年前後とその頃の自分たちへのノスタルジー。登場人物の一人が仲間に向かって「あれがファッションだったなんて思いたくない」、って言う。ノスタルジーは別にいい。この映画が一番皮肉なのは、68年前後の連帯togethernessにも関わらず、それから十数年間会いもしなかったということ。そしてある者の死を通じて再会し、再び結びつく。この辺が全く理解できない。ましてや日本の云々は… まぁいいや。

E
レーガンの「古き良き、そして強いアメリカ」もアメリカならば、ここでピンチョンの描くアメリカは「もう一つのアメリカ」なのだろう。いや違うか、同じアメリカの別の顔か。世界中に毒を撒き散らかし続けるこの国は、必然的にその内部にも毒を撒き散らかしてきた。そしてその毒を喰らいながら肥大化し続ける国、必然的に病を抱え込んだ国。レーガンやらニクソンやらにも痛罵が飛び交いします(それもまたよし)。

F
あと、ラストの寓話は何とも痛烈。これは読んだ人のお楽しみなので伏せておきます。
けれども、最後には彼らはホーム(故郷=祖国)を発見する。そして朝になり光が差し込む。
とてもいい終わり方。

G
軽妙な文体がいいです。癖になります。引き込まれる。日常生活でも会話や空想、映像の世界にいつのまにか引き込まれるということありますが、小説でここまで再現できるのってすごいと思います。気付いたら60年代になってたり、ふと現在に引き戻されて「あれっ?」ってなったり。

H
翻訳がやりすぎとか言われてますが、Against The Dayを序盤早々にあっさりと挫折した僕から言わせれば、じゃあ原書で読めば、ってこと。

I
繰り返し読み返すことになるだろうな、という予感。読むたびに発見がありそう。注釈などに触れられている音楽・ドラマ・映画などについてもっと知っていれば、と思う。そうしたらイメージが爆発的に広がるんだろう。そんな広がりを秘めた小説。僕はこの一端しかまだ知りません。

2009年11月14日土曜日

コーマック・マッカーシー 『すべての美しい馬』

1949年。祖父が死に、愛する牧場が人手に渡ることを知った16歳のジョン・グレイディ・コールは、自分の人生を選びとるために親友ロリンズと愛馬とともにメキシコへ越境した。この荒々しい土地でなら、牧場で馬とともに生きていくことができると考えたのだ。途中で年下の少年を一人、道連れに加え、三人は予想だにしない運命の渦中へと踏みこんでいく。至高の恋と苛烈な暴力を鮮烈に描き出す永遠のアメリカ青春小説の傑作。

『越境』の流れで読んでしまいました。またも一気読み。『血と暴力の国』を読んだときは、いいなぁと思いつつもそこまではまらなかったので、コーマック・マッカーシーにどっぷりしたのは今月が初めて。来月は『ブラッド・メリディアン』の邦訳も出るらしく、年内はどっぷりし続けでしょうか。<国境三部作>のうち、『平原の町』は未読ですが、例によって版元品切れ。古本屋を漁るか、洋書を買うかですが、どちらも安くはないですね。文庫化して欲しい。こないだThe Roadを安く買えたので、とりあえずそっちで紛らわそうかと。

『越境』とどっちが好きかとなると、僕は『越境』の方を推しますが、どちらもすばらしい作品であることは間違いないと思います。自然や動物(特にこの小説では馬)の描写が卓抜。マッカーシーにとってこうした自然や動物は、単なる書き割りでも舞台でも小道具でもない。
いいなぁ。

2009年11月8日日曜日

コーマック・マッカーシー 『越境』

十六歳のビリーは、家畜を襲っていた牝狼を罠で捕らえた。いまや近隣で狼は珍しく、メキシコから越境してきたに違いない。父の指示には反するものの、彼は傷つきながらも気高い狼を故郷の山に帰してやりたいとの強い衝動を感じた。そして彼は、家族には何も告げずに、牝狼を連れて不法に国境を越えてしまう。長い旅路の果てに底なしの哀しみが待ち受けているとも知らず―孤高の巨匠が描き上げる、美しく残酷な青春小説。

この小説に出会えてよかった。とにかく圧倒されました。
ギリシャ悲劇のような、そんな感じです。
どう感想を書けばいいのかわからないけれども、とにかく揺さぶられる。
緻密に構成された小説です。3回の越境と、その度に老人から語られる物語。それは物語だけれども、寓話めいていて、それがビリーの「運命」とも共鳴する。それらの話は全て、「世界」と人間の「運命」に関わるもので(だからとても哲学的であり神学的でもある)、それはビリーの「世界」とかれの「運命」にも関わりあう。そしてそれにビリーはとめどなく押し流されていく。でもそれにたいしてビリーは立ち向かうのではなくて、むしろ積極的に押し流されていくように感じた。「運命」に抗うのではなくて、それを肯定するように。
そのビリーの様も、織り込まれる挿話も、一つ一つにとても魅了された。
このなかでのアメリカとメキシコの「越境」、狼がアメリカに「越境」したことに物語は始まり、その狼を捕らえたことによってビリーはある意味で「越境」を経験する。そしてそのあとに、メキシコに「越境」し、ふたたびビリーは変わる、そして「ホーム」であったアメリカも変わっていく(少なくともビリーにとっては)。「越境」は物理的な行為ではない、おそらく。ビリーも国境横断自体は何てことなく遂げるのだから。なによりも「越境」というのは精神的な行為で、それは越境者の「世界(像)」を変えるものなんだろう。眼を吸い取られた老人もまた越境者であるだろう。神に論争を仕掛ける男に出会った司祭もまたそうなのだろう。そうした「越境」によって形作られ壊された「世界(像)」はもとの姿に戻ることはないのだろう。

とても透き通っていて脆いようにも見えるけれども、それゆえに鋭く美しい文章。ハードボイルドな小説?って聞かれたけど、そうじゃないです。また、動物や自然の描写、それらと人間とのやり取り、関わり合いの描き方もとても美しい。いいです。

2009年9月29日火曜日

ヨシフ・ブロツキー 『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』

本書は、アメリカ亡命後の72年から17年の間、ほとんど毎年のようにヴェネツィアを訪れた詩人の、ヴェネツィア滞在の印象記。彫琢された、美しい文章 の、散文詩のような51の断章からなる。ヴェネツィアの水と光をモチーフに、多くの隠喩やアフォリズムを織り込んだフーガのような作品。ノーベル賞受賞作 家の小説、本邦初紹介。

150ページ足らずの短い小説(というより随想だと思うけど)。ここ10日間くらいかけてじっくり読みました。寝る前に少しずつ。なんといえばいいのかわからないけれど、文章というものがここまで色彩豊かに、質感を伴った形で立ち現れてくるんだなぁ、と感じざるを得なかった。終わって欲しくなかったし、ずっと読み続けていたかった。ことあるごとに読みかえすであろう1冊。引用したいというよりも、自分に刻み込むために手元に控えておきたい!そう思うような箇所が幾つもあって、けれどそんなことをするよりもこのままブロツキーのリズムにたゆたう方が心地いいから結局そのままにしてしまった。そう、なによりも心地いい。装丁もシンプルでいいなぁ。

2009年9月28日月曜日

ジョナサン・キャロル 『天使の牙から』

「死にかけてるのってどんなものかって?もう生きてないんだ。バランス取ってるだけ」男は癌で余命幾許もないかつてのTV の人気者。「人生でほしいと思うものには必ず牙があるのよ」女は若くしてハリウッドを去り隠遁生活を送る元女優。男は死神から不思議な力を授かり、女は報 道写真家と恋に落ちた…やがて二人は戦慄に満ちた邂逅をとげる。愛と死の錬金術師が紡ぐ傑作。

この本のことをどこで知ろうと思ったのか。ここ1年の間に誰かに薦められたと思うんだけど、それが誰か全く憶えていないしどんな風に薦められたかも憶えていない。気付いたらリーディング・リストに書き込んであって、ふと書店で見つけて読んでみた。

あっさり読んでしまったけど、今年読んだ小説のなかで印象に残ったものの一つ。出だしの奇妙としかいいようのない話から、一気に引き込まれてしまい、ラストまでそのままの勢いで読んでしまった。
けど、ただのスリリングな勢いだけの小説じゃない。なんていえばいいんだろう…生/死、天使/悪魔、現実/夢などの二項対立について、小説という形態はこういうアプローチをすることができるのか、という驚きがあった。こういう紋切り型の図式に対して、それを外的に反駁するか、内破(脱構築)する、というのがいわゆる哲学や思想の領域で行われることだと思う(この時点で間違っていたらすみません)。けど、文学は、あるいはこの小説は、その間をただ漂泊する。生と死が自在に交錯し、死者は生者と邂逅を果たし、夢は記憶よりも鮮明な現実であって、夢は記憶よりもリアルなものになる。何を言ってるんだろう?と自分でも思うけれども。

人が「死神」に勝つことはできるのか?人は限られた時間しか生きることはできない。始まりがあり、終わりがある。終わりとは死であり、人は死を免れることはできない。死を司る何か、生と死の線引きを行う何かを「死神」と呼ぶならば、それに勝つ術などないような気がする。死はどこまでも「リアル」なものであって、それは私たちの理解の外部にある。死を象徴化することはできない。それが私たちの間近に現れたとき、結局のところそれに恐怖するしかないのだろう。

そういえば星新一のショートショートにこんな話があった。ある男が犯罪を犯し、廃墟の後に刑務所と化した火星に送られる。火星には水がないが、囚人たちはみなある機械を手渡され、その機械のボタンを押すことで水を得ることができる。しかし、その機械には爆弾が仕込まれていて、ボタンを押した時にランダムでその爆弾が起動するように設計されている。男は渇きに迫られ、恐怖で気が狂いそうになりながら水を得ようとボタンを押し生き延びていく。あるいは途中で気が狂ってしまったのかもしれない。その後に彼は気付く、結局のところ「何も変わらないのだ」と。死はいつかやってくるし、それを避けることなどできない。地球でも、火星でも、私たちは日々、ある意味では死を引き寄せながら毎日を過ごしている。大きな違いがあるとすれば、それが「可視化」されているかどうかという点かもしれない。1杯のビールと火星の水発生装置、これは「それが死を招くかもしれない」と言う意味では等価だけれども、「可視化」の度合いが相当に違う。火星の装置は死と直結しているように見えるがビールはそうは見えない。あと、この小説を読んでいて思ったことだが、星新一はここにもう一つの違いを見出すべきだった。(あるいは見出してて、僕が忘れているだけかもしれないけど) それは周りを誰かに囲まれている、ということだろう。私たちの生活は、ある時点までは(その時点がいつやってくるかは誰にもわからないけれど)、「死」の相手をしているほど暇ではないのだろう。私たちの日常は、色々なことに満ち溢れている。死を間際にしても光と影で遊んでいた子どものように、私たちはいつでもそこに楽しみや喜びを見出すことができる。それがキャロルにとっての希望であるし、繰り延べでしかない束の間の勝利なのだろう。

2009年4月2日木曜日

ウラディミール・ナボコフ 『ロリータ』

「ロリータ、我が命の光り、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。……」
世界文学の最高傑作と呼ばれながら、ここまで誤解多き作品も数少ない。中年男の少女への倒錯した恋を描く恋愛小説であると同時に、ミステリでありロード・ノヴェルであり、今も論争が続く文学的謎を孕む至高の存在でもある。多様な読みを可能とする「真の古典」の、ときに爆笑を、ときに涙を誘う決定版新訳。注釈付。

さて、この小説を前に僕は何をいうことができるんだろう。読み終えてしまった、けれどもまだ読み終えていないような不思議な読後感です。あまりにも執拗な文学作品・作家への言及、言葉遊び。この言葉遊びが、いわゆる「亡命作家」であるナボコフにとってどれだけの意味を持っていたんだろう。年を経てから英語を習得した作家にとって、英語で「遊ぶ」ことのもつ意味、ただの馴致ではなく、それで遊ぶということ。
この小説には全てがつまっている。けれども僕にはその一部しか掴めていない。もどかしい、けれどもそれが心地よかったりもする。
高尚なものと低俗なもの、肉体と精神、現実と幻想、正常と狂気。そうしたものが矛盾なく渾然一体となって、その小説のなかに浮遊している。あるいはこう考えるべきなのかもしれない。こうした二項対立的図式において両者の間には絶対的に線が引かれていると考えてしまいがちだけれども、そうではなくもともと一つのものなのだ―ちょうど一枚のコインの表と裏のように。

そう遠くないいつか、僕はこの本を読み返すことになる。そのときはもう少しまともなコメントができるかもしれない。



2009年3月22日日曜日

堤未果 『ルポ貧困大国アメリカ』

「新書大賞2009」第1位だそうです。うちの店でも長い間売れ続けている本なのでようやく手を出してみました。

とても緻密に質的調査と量的調査が行われていて、説得力があります。貧困と肥満の関係については初めて理解できました。80年代以降(そして90年代以降更に拡大していくことになる)のアメリカが抱える問題について教育、軍事、医療など様々な観点から考察を進めていて、読み応えのある内容でした。
レーガノミクス以降のアメリカの変容の一つに、もはや対外競争力(対内競争力も)失った製造業に代わるものとして金融やIT産業などへの傾斜化が挙げられるでしょう。それは金融サービス等に携わる「シンボリック・アナリスト」や高度専門技能者の高所得化をもたらし、他方ではそれまで製造業や農業によって生計を立ててきた人々の低所得化(本書の中では中間層の崩壊としています)をもたらしました。もちろん、これらの産業がご破算になったというよりも、より経営効率を上げるために彼らの所得を切り下げ、同時に工場を海外進出していったことがあるでしょう。農業においても企業ビジネスが浸透することによって従来の農家がもはや立ち行かなくなったことがいえると思います。そしてそれ以上に決定的だったのが本書でも再三指摘されている通り「民営化」の影響です。これは彼らの生活を直撃し、本書でつぶさに記述されているような状況―「貧困」―をもたらすことになりました。そして民営化と一体になった市場化は彼らの領域をも食い物にしていきます。サブプライムローン、医療制度の崩壊…更にこれに軍需産業が関わるわけですから。「不法」移民を「合法化」をエサに軍隊に勧誘したり、大学進学をエサにして貧しい学生を勧誘したり。なんてゆう情況なんでしょうか。
そしてなによりも滑稽なのは、これまで散々大儲けしてネオリベ万歳とのたまってた人々が一挙に政府による資金注入やら規制やらを求める様。さもしい。彼らよりも、今後本書で取り上げられていたような貧困層はますます困窮状態に陥ることを考えると、ちょっとやりきれなくなります。企業の保護よりもこうした明日の生活も立ち行かない人々の生活を守ることのほうが大切な気がしてしまいます。

そんな中、著者はなんとか希望を見出そうとしています。ビリー牧師しかりAMSAしかり。だけれどもこうやって一旦動き出した壮大な装置を止めるのは容易なことではないでしょう。政権が民主党に変わって2ヶ月ですが、何が変わりつつあるのか僕にはまだ見えてきません。国家の役割はそこに住まう人々の生を担保することにある、違いますかね。


2009年3月20日金曜日

トルーマン・カポーティ 『ティファニーで朝食を』

第二次世界大戦下のニューヨークで、居並ぶセレブの求愛をさらりとかわし、社交界を自在に泳ぐ新人女優ホリー・ゴライトリー。気まぐれで可憐、そして天真爛漫な階下の住民に近づきたい、駆け出し小説家の僕の呼び鈴を、夜更けに鳴らしたのは他ならぬホリーだった……。表題作ほか、端正な文体と魅力溢れる人物造形で著者の名声を不動のものにした作品集を、清新な新訳でおくる。

今更ながらカポーティの小説を読みました。僕は彼をいわゆる「ノンフィクション・ノベル」の作家として捉えていて、『冷血』ぐらいしか読んだことなかったんですね。先日友人とその話をしていたところ、「お前バカじゃないの?カポーティは寧ろ短編小説の方が良質だよ」みたいなことを言われまして。すっかり反省した僕は、ちょうど文庫になっていたこの短編集に手を出してみたわけです。

確かに僕が間違っていました。彼の小説家、ストーリーテラーとしての才能は抜群だと(村上春樹訳を通じてですが)感じました。展開、表現、描写の巧みさは、僕みたいな素人目にもわかります。
ただ、僕は表題作よりも最後の短編「クリスマスの思い出」が気に入りました。村上春樹があとがきで指摘しているように(彼は自分のお気に入りの作家についての「あとがき」を書くのが抜群に上手いと思います)、彼の小説の根底にあるのは「純真さ」であって、ホリー・ゴライドリーにしてもミスタ・シェーファーにしても彼の作品で主要な位置を占める人物にはある種の純真さ―それは時には屈折した形で表出し、彼/彼女の行動を規定する―があって、それが僕がこの作品群に胸を打たれた理由でしょう。
そのような純真さの最たるものとして僕はこの最後の短編が気に入ったわけです。

この作品を読んで、思ったのは中勘助の『銀の匙』に似てるなぁ、ということです。語り手の子どもと祖母(伯母)との深く親密な関係。子ども時代の純真さ。そしてそれがもはや失われてしまったということ。温かく無垢でユーモアにも富んだ、けれどもどこか寂しい物語。ノスタルジア?確かに。けれどもそれは例えば、3丁目の夕日とかを懐かしむとは全く質の違うものでしょう。後者のノスタルジアは忘却/隠蔽と親和性が高いように思われます。

最後に一言。小説家カポーティから。
「欲しいものがあるのにそれが手に入らないというのはまったくつらいことだよ。でもそれ以上に私がたまらないのはね、誰かにあげたいと思っているものをあげられないことだよ」(p.256)