三昼夜を過ごした煉獄の山をあとにして、ダンテはベアトリーチェとともに天上へと上昇をはじめる。光明を放つ魂たちに歓迎されながら至高天に向けて天国を昇りつづけ、旅の終わりにダンテはついに神を見る。「神聖喜劇」の名を冠された、世界文学史に屹立する壮大な物語の完結篇、第三部天国篇。巻末に「詩篇」を収録。
ようやく読了。ちょうど各篇1ヶ月ペースで、3ヶ月かけてのんびり読みました。
ラストに向かうにつれて、妙な昂揚を感じますね。おぉ、ついに神のところまで!みたいな。とはいえ、天国篇は、ダンテの警告通り、そしてよく言われるように、難解というか馴染みにくい印象でした。口頭試問みたいな問答や神学的(?)な説明が大部分を占めていて、地獄篇や煉獄篇を読むのとはちょっと勝手が違いました。あと、ダンテの「これを詩で伝えることはできない」といった発言があまりにも多いのにもちょっとなぁ、と。たぶん、彼の言う通りなのだろうけれど。天国での出来事は人間には理解できない、といったことは天国の住民にも再三指摘されることだし、そうしたそもそも人間が理解できないということと、更にそれを言語化して他の人に伝えられるようにしなければならない、ということは不可能なことなのかもなぁ、とか。面白いのは天国には遠近法が成立しないということ。遠くも近くも同じように見える。ダンテのこの時代には遠近法は成立していないはずだけれど、あれはどこまでも人間の擬似的な視点(トリック)だものね。きっと逆遠近法の世界なんだなぁ、と。
煉獄篇を読んだときベアトリーチェとダンテの痴話喧嘩にどん引きした、と以前書きましたが、ベアトリーチェ=神学なんだよ、ということを天国篇を読んでいるなかで教わりました。ベアトリーチェとダンテの関係を単なる男女関係と読んではいけないのですね。あれは痴話喧嘩ではなく、俗人ダンテに対する神学からの叱責、みたいなものなのですね。俗人ダンテが神学によって深く自己を省みて、神学に魅了され、探求し、それとともに天国を旅していく、ということなのですね、反省。でも学問だけじゃなくて、観想も必要だということは、聖ベルナールへと導き手が変わることからわかるそうです。だとすると、ヴェルギリウスとは何だったのでしょう。
ともあれ、やはり天国で歓びに満ち、健やかに過ごしているはずの人々も、例によってフィレンツェやら法王庁やらには痛罵を繰り広げるんですね。あまりにも口さがない、そして俗っぽくはないか、と思いますがダンテの政治に対する執念やら怨恨やらが透けてみえて面白いです。
読んでよかったか?と聞かれると「よかったよ」って答えます。やっぱり面白い、あらゆる意味で。よくまぁこんなものを作り上げたなぁ、と驚嘆、です。『神曲』のなかで再三自分でも言ってるからあんま言いたくないのだけれど、この人は天才的ですね。細かな部品14233個を丹念かつ緻密に汲み上げて、恐ろしく巨大で、にもかかわらず均整のとれた構築物を作り上げたダンテというのは常人ではないですね。
以下は完全におまけです。いつも以上に意味不明かついい加減な内容になっていると思われますので、間違っても信じたりしないように。
少し前に、NHK教育でカステルッチの舞台・インスタレーション『神曲』が放映されていて、それを見て思ったこと。
ダンテの『神曲』に霊感を受けて作られた、あるいはそれを翻案したといった感じ。特に考察をする訳ではなく、疑問やら、素朴な印象やらを断片的に書き連ねただけですが。
地獄篇について、ダンテのそれとはっきりと重なるのは、ぱっと見たところでは、作者のカステルッチが冒頭シーンの犬に襲われるところくらいだろうか。ヴェルギリウスに連れられて地獄を順に巡っていく、というダンテのそれとは大いに異なるように思う。ダンテが地獄を明確かつ幾何学的に秩序づけたのに対し、カステルッチの舞台では、ダンテもヴェルギリウスも登場しない。
ただ、冒頭の犬に吠え立てられるシーンでは、カステルッチだけではなく、あたかも観客も犬に吠えかけられているように思う。そしてそれ以降ダンテ=カステルッチが登場しないことを考えたら、以降この舞台でダンテの役割を果たし、地獄を垣間みるのは観客自身なんだろう。
序盤の登場する“INFERNO”の文字がなぜ左右逆なのか。観客席から見るとそれは左右逆だけれども、舞台の方から見ると、それは左右正しく表記されている。つまり、観客こそが地獄篇の世界に入り込んでいるのだ。
また、ヴェルギリウスに相当する人物がいない訳ではない。この舞台に要所要所に登場するアンディ・ウォーホルがそれに近い役割を果たしている。途中、舞台の男女が次々と両手を開いて投身するシーンで背景に登場するテロップに書かれているのはウォーホルの作品とその製作年。なぜウォーホルなのか。ダンテがヴェルギリウスの影響下にあったのと同様に、私たちはウォーホルとともにあるということか?これは謎。
反復について。投身シーンでも、バウンドシーンでも、首切りシーンでも、同じ「ような」行為が何度も繰り返される。けれども、それは同じではない。バウンドの反復は違った光と音の反応を生み出すし、首切りもいつの間にか人数が減っていく。一方、ダンテの地獄では、地獄の住民は「終わりない責め苦」に苛まれる。火に炙られ、瀝青に煮られ続ける。それは同じものの繰り返しであり、違うものを生み出さない。この違いは一体なんだろうか。これも謎。
上映後のインタビューで、カステルッチは、(多分に韜晦が含まれているであろうが)興味深い発言をしている。地獄篇をなによりも彼は「生」や「人間関係」という文脈で捉えているのだという。
確かに、ダンテ地獄篇で際立つのは亡者たちの過去(生の時代)についてのダンテへの語りであり、様々な責め苦を甘んじて受け続ける亡者の強さだったと思う。彼らが語るのは、故郷、祖国、家族、友人たちとの関わりであり、カステルッチはそれを「人間関係」という。私たちは人間関係を切り離すことのできない「必要なもの」ととらえている。だから、私たちは「人間関係」から逃れることなどできない。それは往々にして地獄行きと結びつく。天国に行くことができる人間はごく僅かなのかもしれない。あるいはその僅かの者も本当に天国に行けるのだろうか。
「天国篇」のインスタレーション。あそこに流れている水をレテ川として捉えてみたい。レテ川は全てを忘却させる力をもつ。煉獄をこえ、天国へ向かうものは、この川の水を飲み、全てを捨て去る。
…しかし、このインスタレーションの男は、いつまでもレテ川から出ることはできない。つまり、それ以前の人間関係などを捨て去ることができないのだ。そしてその様はあたかも地獄の責め苦のようにも見えてしまう。天国行きを約束されたはずの男は、忘却を果たすことができず(それは彼を彼たらしめているものだから)、いつまでも天国に辿り着くことができない。天国篇の短さの意図について、カステルッチは本心を隠した回答をしているのは明らかだろう。天国篇の短さの理由は、天国に辿り着くことが不可能だからに他ならない。実際のところ、レテ川の水を飲むのは煉獄篇最終部のことであり、実のところ私たちはダンテの天国篇の世界に踏み込むことすらなく、現実の世界に送り返されてしまう。
あと、アメリカについて。ウォーホル、バスケットボール、そして煉獄篇の舞台。なぜアメリカなのか。これまた謎。ただ、近代(モダニズム)においてアメリカのもつ象徴性とか神話性とかと関係づけることができるかもしれない。また、イタリアにとってのアメリカ、は気になるテーマ。
ダンテの神曲において、地獄と天国が永遠のものであるのに対して、煉獄は過渡的な移行の状態である。煉獄にいる人々は、生前の行いに応じて、様々な苦行を負い、それは生前の行いを贖うに足るまで続く。煉獄は許しの場ではなく、苦行への忍耐の場である。したがって、煉獄では唯一時間が意味をもつ。カステルッチにおいても同様に、煉獄篇だけが、時間をもつ。しかし、この作品の息苦しさは何といえばいいのだろう。煉獄にいるのは誰かすらも分からない。
ただ、こう考えることはできる。煉獄において贖われるべき罪が人間関係に起因するものであり、私たちがそれを避けることができないのであれば、そしてそれでも天国を希求するのであれば、私たちは煉獄においてそれを贖わなければならない。それは、避けることのできないものだから、どこまでも不条理のものに見える。同様に、このカステルッチの煉獄篇も、どこまでも不条理な物語である。だけれども、煉獄とは、やはりこういったものなのかもしれない。
ダンテの『神曲』はどこまでも英雄譚である。彼らは名をもつ存在である。
一方カステルッチの取り上げるのは「匿名」の人々である。だから、それは英雄が不可能な時代における「私たち」なのだ。天国にも、地獄の奥深くにも行くこともない、大多数の「私たち」。
…本当かよって自分でも突っ込みながら、ですが。時間があれば、ちょっと観なおしてみたい。
2010年3月22日月曜日
2010年2月23日火曜日
ダンテ・アリギエーリ 『神曲 煉獄篇』
ダンテとウェルギリウスは煉獄山のそびえ立つ大海の島に出た。亡者たちが罪を浄めている山腹の道を、二人は地上楽園を目指し登って行く。ベアトリーチェとの再会も近い。最高の名訳で贈る『神曲』、第二部。
地獄を抜けて煉獄へ。
地獄篇とは打って変わった冒頭の明るい描写が、あぁ、ここが煉獄なのか、と思わせます。彼らが山を登るごとに、少しずつ予感が高まる。そして、ついに地上楽園へとたどり着き、そこでベアトリーチェと再会する。
ここはとても印象的で、「ここまで来たのか!」と読んでいる者もダンテとともに感じる(かもしれない)。けれど、ベアトリーチェと出会ったあとの出来事、これは…ひょっとしてただの痴話喧嘩じゃないか?
死んでしまったベアトリーチェが、なんで私のことを忘れて、あんな偽りの快楽に身を任せたの? 私ほど美しい肢体をもつものなど世の中になかったのに!(おいおい…)とダンテに吠えかかれば、ダンテは「すみませんでした、すみませんでした…」と謝り続け、あげくの果てに卒倒する。せっかく煉獄山の頂上、天国を間近にした地上楽園なのに、こんな俗っぽいやり取り。愕然です。
でも、ひょっとしたらこの俗っぽさがポイントなのかもしれない。前にも触れたように、ダンテはどこまでも俗っぽい。地上楽園のパレードについても、その俗っぽさが註で指摘されていた。こうした俗っぽさは、あるいは読み手に地獄や煉獄という、フィクショナルな世界に誘い、そして途中で置いてきぼりにせずに、ダンテに付いていかせるための、有効な手法だったのかもしれない。煉獄をイメージすること、これはキリスト教文化圏の埒外にいる僕にはひどく困難である(キリスト教徒にとっては必ずしもそうではないのかもしれないが)。「煉獄」は、現世とは全く切り離された「聖」の領域であり、非-現実的なものだと僕なんかは感じてしまうが、「煉獄」が現世の罪を贖う場であることから考えれば、全く切り離されているわけではないことがわかる。そこは現世と天国を架橋し、同時に分断する場所/装置のようだ。そこに俗っぽさを持ち込むダンテはどうなのか? どうなんだろう…、けれど「神曲」はもちろん現世の人びとに向けられた者であって、読者は、あくまで現世的な感性を持って、「神曲」を読む。であれば、「煉獄」が現世的か非現世的かに関わらず、それはどこまでも現世的なやり方で描かれなければならない。ベアトリーチェと痴話喧嘩をするのも、ヴェルギリウスに金魚の糞みたいに引っ付いて歩くのも、調子に乗って彼に叱られるのも、地上楽園で安っぽいパレードがなされるのも、ひょっとしたらそうした意図によるものなのかもしれない、などと勝手に思った。
同時にこの煉獄の世界はとても事細かに構成されている。そうしたフィクションの構造の緻密さ。また、天文学など自然科学や観察への深い関心。そして何よりもダンテの圧倒的な表現力。これらがものすごい相乗効果をもたらしている。
完全に引き込まれてしまいます。
あと、キリスト教って面白いなぁ、と思うのが、地獄と煉獄(天国)との線引き。結構悪い人でも、死の直前に、神に祈ればいつかは天国に行けるんだなぁ、と。逆に神に祈らなかった人は悪いことをしていなくても地獄や辺獄に行ってしまう。そんなもんですか。ちょっと不思議です。
ともあれ、ここまで来たので天国まで行ってみようかと思います。
あと、なんだか色々な本を読みたくなります。『デカメロン』も気になるし、オウィディウスの『変身物語』も読みたい。そしてもちろん『アエネイス』も。
地獄を抜けて煉獄へ。
地獄篇とは打って変わった冒頭の明るい描写が、あぁ、ここが煉獄なのか、と思わせます。彼らが山を登るごとに、少しずつ予感が高まる。そして、ついに地上楽園へとたどり着き、そこでベアトリーチェと再会する。
ここはとても印象的で、「ここまで来たのか!」と読んでいる者もダンテとともに感じる(かもしれない)。けれど、ベアトリーチェと出会ったあとの出来事、これは…ひょっとしてただの痴話喧嘩じゃないか?
死んでしまったベアトリーチェが、なんで私のことを忘れて、あんな偽りの快楽に身を任せたの? 私ほど美しい肢体をもつものなど世の中になかったのに!(おいおい…)とダンテに吠えかかれば、ダンテは「すみませんでした、すみませんでした…」と謝り続け、あげくの果てに卒倒する。せっかく煉獄山の頂上、天国を間近にした地上楽園なのに、こんな俗っぽいやり取り。愕然です。
でも、ひょっとしたらこの俗っぽさがポイントなのかもしれない。前にも触れたように、ダンテはどこまでも俗っぽい。地上楽園のパレードについても、その俗っぽさが註で指摘されていた。こうした俗っぽさは、あるいは読み手に地獄や煉獄という、フィクショナルな世界に誘い、そして途中で置いてきぼりにせずに、ダンテに付いていかせるための、有効な手法だったのかもしれない。煉獄をイメージすること、これはキリスト教文化圏の埒外にいる僕にはひどく困難である(キリスト教徒にとっては必ずしもそうではないのかもしれないが)。「煉獄」は、現世とは全く切り離された「聖」の領域であり、非-現実的なものだと僕なんかは感じてしまうが、「煉獄」が現世の罪を贖う場であることから考えれば、全く切り離されているわけではないことがわかる。そこは現世と天国を架橋し、同時に分断する場所/装置のようだ。そこに俗っぽさを持ち込むダンテはどうなのか? どうなんだろう…、けれど「神曲」はもちろん現世の人びとに向けられた者であって、読者は、あくまで現世的な感性を持って、「神曲」を読む。であれば、「煉獄」が現世的か非現世的かに関わらず、それはどこまでも現世的なやり方で描かれなければならない。ベアトリーチェと痴話喧嘩をするのも、ヴェルギリウスに金魚の糞みたいに引っ付いて歩くのも、調子に乗って彼に叱られるのも、地上楽園で安っぽいパレードがなされるのも、ひょっとしたらそうした意図によるものなのかもしれない、などと勝手に思った。
同時にこの煉獄の世界はとても事細かに構成されている。そうしたフィクションの構造の緻密さ。また、天文学など自然科学や観察への深い関心。そして何よりもダンテの圧倒的な表現力。これらがものすごい相乗効果をもたらしている。
完全に引き込まれてしまいます。
あと、キリスト教って面白いなぁ、と思うのが、地獄と煉獄(天国)との線引き。結構悪い人でも、死の直前に、神に祈ればいつかは天国に行けるんだなぁ、と。逆に神に祈らなかった人は悪いことをしていなくても地獄や辺獄に行ってしまう。そんなもんですか。ちょっと不思議です。
ともあれ、ここまで来たので天国まで行ってみようかと思います。
あと、なんだか色々な本を読みたくなります。『デカメロン』も気になるし、オウィディウスの『変身物語』も読みたい。そしてもちろん『アエネイス』も。
2010年1月27日水曜日
ダンテ・アリギエーリ 『神曲 地獄篇』
1300年春、人生の道の半ば、35歳のダンテは古代ローマの大詩人ウェルギリウスの導きをえて、生き身のまま地獄・煉獄・天国をめぐる旅に出る。地獄の門をくぐり、永劫の呵責をうける亡者たちと出会いながら二人は地獄の谷を降りて行く。最高の名訳で贈る、世界文学の最高傑作。第1部地獄篇。
昔、読みたいなぁと思い、書店で岩波文庫のをパラパラして、あぁムリだ、と思ったことがあります。あれは山川丙三郎さんの訳でしたか。河出文庫から平川訳が刊行されだしたのは一昨年のこと。いつ読むかはわからないけれど、と思いながら買っておいた記憶があります。
それを読み出したきっかけは、友人から、『神曲』をモチーフにしたロメオ・カステルッチの舞台&インスタレーションの話を聞いたこと。そんなんやってたなんて知らなかったよ、と思いながらその話を聞くうちにどうにもこうにも読みたくなってきた。それで買っておいたことを思い出して、読み出してみたら面白いじゃないか、と。「読むの難しいんだろうなぁ…」って思って躊躇っているひとがいたら、河出文庫版を強く薦めます。
きっと山川訳も寿岳訳もそれなりに個性と良さがあるんでしょうし、その辺は好みとかにもよるんでしょうが、とりあえず、1つの作品をこれだけのヴァージョンで楽しめることを素直に喜ぶべきでしょう。
平川さんによる河出文庫版は、言葉も平易ですし、訳注も、単なる用語解説に留まらず、さまざまな関連テクストにおける記述なども引用されていて、とても参考になります。
まだ地獄篇しか読んでいないし、関連テクストも全く読んでいない状況ですが、それでもすごく面白い。まず、ギリシア・ローマ的世界観とキリスト教的世界観がこういった形で融合を果たしているんだという素直な驚きがあります。次に、ダンテの描写力・表現力・創造力、これは尋常じゃないですね。地獄というフィクションをここまで見事に構築するのか、と。その全体構造もすばらしいけれど、ここの描写も非常に迫力があります。遠くから見ても、ごく間近に接近してみてもすばらしい。確かに、ゴシック式聖堂のような、という喩えは言い当て妙ですね。
例えば、地獄篇の第13歌、第7の圏谷の第2の円の自殺者たちが樹に変えられた森で、ダンテがある樹の一本の枝をもいだときの描写。「緑の生木の一方の端が燃えるとき、/もう一方の端ではじわじわと煮えたぎり、/熱気が洩れざまにしゅーしゅーと音をたてる。/それと同じように枝をもがれた幹から言葉と血が/もろともに吹き出した。私は枝を地に落として、/おびえた人のように立ちすくんだ」。生々しいというか写実的。僕からみれば、全体としては地獄なんて想像の構築物でしょ、と思うのだけれど、この構築物の土壌は驚くほどリアルな描写が積み重なっている。そこに登場する様々な人物と彼らが語る物語、そして彼らが蒙っている罰とその描写の巧みさ。それらによってこの「地獄」は圧倒的な存在感をもって屹立している。
あと、ダンテのなんともいえない人間臭さ。過剰な自己アピールと、怖がりっぷりと、罰を受けているものに対しての反応(怒ったり、涙を流したり、髪を引っ張ったり)とか。先生、先生と金魚のフンみたいに付いて回って、調子に乗ると先生に窘められてしゅんとする。俺は良心だ!的な態度を強調しながら、罪人には平気で嘘をついたり、喋らせようと暴行を加えたり。なんだ面白いじゃないかと。ふざけた感想ですみませんが。
あと、平川さんも指摘していましたが、地獄のなかに登場する英雄性を帯びた人物たち。苛烈な罰をもろともせず耐え抜く人々に対して、ダンテはどこかしら好意を抱きながら叙述しているように感じる。何故だろうか。
ただ、このモスクやムハンマドの描写は確かに、イスラーム教の人々からしたら許し難いでしょうね。ダンテのこのイスラーム嫌悪(恐怖)は当時の人々にも共有されていたものなのでしょうか。
あと、気になったのはこの圏谷の構成とそれに対応する罪、について。1300年ごろに罪というのがどのように序列化されていたか、を読み取ることができて興味深いです。構成についてはWikipediaがよくまとまっていて参考になりました。他にも書きたいことはいくつもあるのですが、先に煉獄に行かなくてはならないので、ここまで。
昔、読みたいなぁと思い、書店で岩波文庫のをパラパラして、あぁムリだ、と思ったことがあります。あれは山川丙三郎さんの訳でしたか。河出文庫から平川訳が刊行されだしたのは一昨年のこと。いつ読むかはわからないけれど、と思いながら買っておいた記憶があります。
それを読み出したきっかけは、友人から、『神曲』をモチーフにしたロメオ・カステルッチの舞台&インスタレーションの話を聞いたこと。そんなんやってたなんて知らなかったよ、と思いながらその話を聞くうちにどうにもこうにも読みたくなってきた。それで買っておいたことを思い出して、読み出してみたら面白いじゃないか、と。「読むの難しいんだろうなぁ…」って思って躊躇っているひとがいたら、河出文庫版を強く薦めます。
きっと山川訳も寿岳訳もそれなりに個性と良さがあるんでしょうし、その辺は好みとかにもよるんでしょうが、とりあえず、1つの作品をこれだけのヴァージョンで楽しめることを素直に喜ぶべきでしょう。
平川さんによる河出文庫版は、言葉も平易ですし、訳注も、単なる用語解説に留まらず、さまざまな関連テクストにおける記述なども引用されていて、とても参考になります。
まだ地獄篇しか読んでいないし、関連テクストも全く読んでいない状況ですが、それでもすごく面白い。まず、ギリシア・ローマ的世界観とキリスト教的世界観がこういった形で融合を果たしているんだという素直な驚きがあります。次に、ダンテの描写力・表現力・創造力、これは尋常じゃないですね。地獄というフィクションをここまで見事に構築するのか、と。その全体構造もすばらしいけれど、ここの描写も非常に迫力があります。遠くから見ても、ごく間近に接近してみてもすばらしい。確かに、ゴシック式聖堂のような、という喩えは言い当て妙ですね。
例えば、地獄篇の第13歌、第7の圏谷の第2の円の自殺者たちが樹に変えられた森で、ダンテがある樹の一本の枝をもいだときの描写。「緑の生木の一方の端が燃えるとき、/もう一方の端ではじわじわと煮えたぎり、/熱気が洩れざまにしゅーしゅーと音をたてる。/それと同じように枝をもがれた幹から言葉と血が/もろともに吹き出した。私は枝を地に落として、/おびえた人のように立ちすくんだ」。生々しいというか写実的。僕からみれば、全体としては地獄なんて想像の構築物でしょ、と思うのだけれど、この構築物の土壌は驚くほどリアルな描写が積み重なっている。そこに登場する様々な人物と彼らが語る物語、そして彼らが蒙っている罰とその描写の巧みさ。それらによってこの「地獄」は圧倒的な存在感をもって屹立している。
あと、ダンテのなんともいえない人間臭さ。過剰な自己アピールと、怖がりっぷりと、罰を受けているものに対しての反応(怒ったり、涙を流したり、髪を引っ張ったり)とか。先生、先生と金魚のフンみたいに付いて回って、調子に乗ると先生に窘められてしゅんとする。俺は良心だ!的な態度を強調しながら、罪人には平気で嘘をついたり、喋らせようと暴行を加えたり。なんだ面白いじゃないかと。ふざけた感想ですみませんが。
あと、平川さんも指摘していましたが、地獄のなかに登場する英雄性を帯びた人物たち。苛烈な罰をもろともせず耐え抜く人々に対して、ダンテはどこかしら好意を抱きながら叙述しているように感じる。何故だろうか。
ただ、このモスクやムハンマドの描写は確かに、イスラーム教の人々からしたら許し難いでしょうね。ダンテのこのイスラーム嫌悪(恐怖)は当時の人々にも共有されていたものなのでしょうか。
あと、気になったのはこの圏谷の構成とそれに対応する罪、について。1300年ごろに罪というのがどのように序列化されていたか、を読み取ることができて興味深いです。構成についてはWikipediaがよくまとまっていて参考になりました。他にも書きたいことはいくつもあるのですが、先に煉獄に行かなくてはならないので、ここまで。
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