2009年4月10日金曜日

岡田温司 『処女懐胎―描かれた「奇跡」と「聖家族」』

処女にしてキリストを宿したとされるマリア。処女懐胎はキリスト教の中心に横たわる奇跡であり、夥しい図像を生み出してきた。「無原罪」の「罪のない」という否定の図像化一つとってみても、西洋絵画に与えたインスピレーションは巨大である。また、「養父」ヨセフや、「マリアの母」アンナはどのように描かれてきたのか。キリスト教が培ってきた柔軟な発想と表象を、キリストの「家族」の運命の変転を辿りつつ描き出す。

僕は、ムリーリョの作品、とりわけプラド美術館(だったはず)で観た「無原罪の御宿りImmaculate Conception」が大好きで―ムリーリョは幾つも同じテーマを扱っていますが―、彼独特の霞んだような幻想的な背景、人物の描き方(スティロ・バポローソってやつですね)に惹かれてきました。同じ理由でカリエールなんかも好きなんですけど、それはまた別の話。ムリーリョは「無原罪の御宿り」の他にも、聖家族や聖母子なんかをよく描いている印象があります。
さて、この新書はそうした無原罪の御宿りから、受胎告知(処女受胎)、ヨセフやアンナまで、マリアや養父ヨセフやマリアの母アンナといった人物がどのように捉えられ描かれてきたかを整理したものです。まず、通読して驚くことは、いかに時代時代によって、これらのイメージが自在に解釈し直され、描かれてきたかということでしょう。一見、こうした宗教画は同時代性からは超越しているように思われるかもしれないけれども、そんなことは全くなく、むしろ宗教画であるがゆえに同時代性に強く規定されてきたということです。本書は聖家族を構成する人々の描かれ方を様々な観点―著者の言葉を借りれば人類学的観点やジェンダー的観点など―から辿ることによって、そうした事実をあぶりだす事に成功しているように思います。例えば、人々はマリアに理想的な女性像を投影する。ヨセフには、そして彼とマリア、イエスとの関係には、あるべき父の姿や家族像を投影する。そうして構成された作品の中には、必ずしも原典に記述がなかったり場合によっては反するかのように見えるものもあるわけですが。こうした絵画の論じ方は非常に面白いなぁと僕は思います。僕自身、ラファエル前派のメンバーの一人であったウィリアム・ホルマン・ハントの「神殿で見出された主キリスト」という作品を似たような観点から論じたことがあります。もちろん彼ほど丁寧に考察を進めることはできませんでしたが、少し補足しておくと、この「神殿で見出された主キリスト」という作品は、ルカによる福音の2-41以降の逸話に基づいており、デューラーらも同じ逸話から作品を制作しています。ただ、それ以前の作品とハントのそれには多くの相違があってその背景を考察したものでした。まぁそんな瑣末な話は置いておきましょう。
つまり、宗教画やそこに描かれたイエスの「家族」の有り様のなかに、そうした当時の人々の理想という時代による要請が描きこまれているということ自体とても面白いですし、そこから当時の人々の心情や社会の変化などを探ることもできる、非常に開かれた美術史研究のあり方なのかな、と思います。

この著者の岡田温司さんという方は非常に面白そうな人で、他にも中公からマグダラのマリアについて論じた新書を出したりする一方で、アガンベンの翻訳やイタリア現代思想の紹介を精力的に行っています。本業はイタリア美術史なのでしょうが、哲学や政治思想などにも関心を持っているようです。この新書でのアプローチの斬新さにはそういった彼独特の横断性が生かされているのかもしれません。他の著書をもっと読んでみたいものです。

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