2009年10月14日水曜日

アントニオ・タブッキ 『イタリア広場』

舞台は中部イタリアの小さな村。三十歳で死ぬことが宿命づけられている一家の主の三代にわたる物語。ファシズム期をはさむ、激動のイタリア現代史をある家族の叙事詩として描く。

ある種の小説を読み終えた時に、頭の中がぐちゃぐちゃになるような、妙な混乱を感じるときがあります。それは一方ではとても心地よくて、けれどもそれをどこかに発露したくて仕方なくなる、そして実際に言葉にしてみようとするけれども、それは往々にして上手く行かない。最近読んだ小説では、ガッサン・カナファーニーの『ハイファに戻って』やボフミル・フラバルの『あまりにも騒がしい孤独』、あるいはフリオ・リャマサーレスの小説のあとでも同じような感覚をおぼえました。僕にとってこのごちゃごちゃした感覚は「いい小説」を判断する試験紙のようなものです。そしてこの小説を読んだ時にも。

タブッキを読め読め、といわれ続けていたけれどもなかなか読むことができず、『イタリア広場』が僕の読んだ初めての彼の小説でした。そしてこれまで読んでこなかったことをやっぱり後悔しましたし、これから読んでみたいな、と思っています(せっかくuブックスに幾つも入っているわけですし)。

30歳で死ぬことを宿命付けられた、ある家族の叙事詩。それだけでも興味が引かれるところですが、手にとって目次を開いてみると「エピローグ」から始まります。映画ではよくあるヤツですし、単なる回想という形でしたら別に目新しいこともない(中勘助の『銀の匙』)。けれどもこの小説の「回想」は、ある個人の記憶が呼び起こされてストーリーが展開していくのではなく、彼の家族の系譜そのものが「回想」される。あるいは、「彼」(まぁ読めばすぐ分かるので伏せることもないのですが)がそれまでまさしく吟遊詩人のようにアコーディオンを片手に各地を放浪しながら、その家族の物語を歌っていたことも含めると、まさしくここで回想されるのは叙事詩そのもののようです。そしてその家族の叙事詩は「イタリア近代史」そのものを描き出すことになります、ただしそれは「公的なイタリア近代史」として語られるような一種のマスター・ナラティヴとは異なった技法で、ですが。「叙事詩」は往々にして英雄譚ですし、彼を讃美することによってその統治を正統化する役割を果たすこともあります。それはそれまでの統治や政治体制を承認させ、下支えをする(上部構造の私的次元におけるヘゲモニーの問題を提起したのはグラムシでしたか)。であるならば、その統治に対する抵抗もまたこの位相において要請されるものなのだと思います。そしてタブッキはこの「公的な」イタリア近代史では消し去られてしまったある家族の叙事詩を紡ぎだすことによって、それにあくまでも文学的に抗おうとしているように感じました。この家族の男たちが30歳で死ぬことを宿命付けられているとはいえ、誰が彼らを実際に殺したのかということを思い起こした時、この抗いはより鮮明なものになるのではないでしょうか。この家族の叙事詩はそれ自体が一種の抵抗史であるとともに、それをつむぐこと自体もまた抵抗である、つまり二重の抵抗がこの小説には含まれているのではないでしょうか。
ただこういう謂いは、あまりにもこの家族だけに注目を寄せたものですね。この家族の傍らには常に共に闘う人々が、あるいはそれを見守る人々がいます。だからこれは、一つの「民衆史」なんですね。

特に最後の言葉、「平等は、小麦の分配装置では、手に入らない」。
教皇絶対的なカトリシズムからも、そして経済決定論的なマルクス主義からも一定の距離を置き、洞穴に隠遁したこの司祭の言葉に、そしてそこに込めたであろうタブッキの思いに、心が揺さぶられざるをえませんでした。

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