この本、実によいです。
「残余」の視座から歴史を紡ぐこと、本書はその一つの試みだと酒井は言います。「残余the Rest」とはなにか?一つは、非‐西洋としての「残余」、つまりthe Westと対に置かれてきたthe Restの位置から歴史を紡ぐこと、それは彼が長年行ってきたDislocation of the West(『西洋の脱臼』、『西洋の脱地図化』)の試みでもあります。そしてもう一つの「残余」とは主権国家の管轄外(例外状態という言葉がこの場合は適切なのかどうかはわかりませんが)に置かれてきた人々のことです。つまり「残余」の視座から歴史を語ることとは、非対称な権力関係において客体化されてきた「残余」に注目し、その位置から、マスター・ナラティヴとは異なる歴史を語ること、そうした位置からこれまでの「歴史」を問い直し、ある意味では書き換えることによってナショナル・ヒストリーそれ自体を解体させる意図が見て取れます。
私見ですが、酒井が「残余」という言葉に拘るのは、単にその暴力性を批判するためではなく、おそらくその言葉によってある基準によって選び取られた人々以外の存在がすべて一緒くたに括られるからでしょう。「残余」には雑多な全てが抛りこまれます。したがってそれは単一ではありえず、常に重層的・多義的なものを孕んでいるわけです。その「残余」のなかにある無数の線、それは「残余」の世界を飛び出し、(奇妙な言い回しですが)「非‐残余」へと放射されます。「残余」に注目することでこうした無数の線の存在、それにあらゆる人が隔てられているということに改めて目が向けられることになるでしょう。
なにより本書の最大の意義は、帝国的国民主義や体制翼賛型少数者といった独特の用語を切り口として、第2次世界大戦後(あるいはそれ以前も含めた「近代」)の日本とアメリカ(西洋)の関係における国民主義の共犯性を明らかにした点でしょう。ウェストファリア条約以降の「国際社会」なるものは結局のところ西洋諸国のみが参与できる枠組みに過ぎず、その「残余」はそこから排除され続けた。そこに日本という非‐西洋とも見える国家が参与していく。その際に国際連盟に日本が提出した「人種平等」条項の追加案は西洋諸国に大きな影響を与えることになる。そこにはたとえば日本人とアメリカの黒人が西洋に対して共闘する可能性が秘められていた(現にデュボイスらはこの日本の姿勢に協調のメッセージを送るわけですが)わけです。けれども実際には日本は西洋に対峙するポーズを示しておきながら、実際にはアジア諸国の人々や国内のアイヌ人や沖縄人らに対して人種差別的な姿勢を強化していた。つまり、日本は西洋に対峙するというよりも、彼らの一員に加わろうとしていただけでした。その後、日本の敗戦後、アメリカによる占領が始まり、これ以降日本は「新たな植民地主義」下に置かれることとなります。植民地主義下の政策について先ず押さえなければならないのは、そこで行使される暴力がなければないほどそれは統治が有効に機能しているということです。被植民者が自らが統治されているとは気づかないほどにその統治が成功しているケース、それは戦後日本以外にありえないのではないでしょうか。本書に付されているライシャワーの覚書、彼は1942年の時点で日本の敗戦後の統治の有り様について極めて重要な点を幾つも指摘しています。まず、日本にはドイツのナチ党及びヒトラー、イタリアのファシスト党及びムッソリーニのように、「都合のよい」スケープ・ゴートが存在しないこと、それゆえ日本を統治するためには(それはアジアにおけるアメリカの存在を確固たるものにするには不可欠なものでした)、極めて周到に用意された「思想戦」を展開する必要があることを指摘します。その上で日本がアジアで統治を行うために設けた傀儡政権のコマ不足を指摘する一方、日本を傀儡政権によって統治する際には最良の傀儡が存在していることに注意を促します、その存在とはつまり、天皇です。つまり、日本の戦後統治において天皇が必要なことは当初から認知されており、彼の戦争責任なるものは最初から不問に付すことはアメリカにとっては戦中から決定事項だったわけです。つまり戦後日本の国民主義化を推進することは、そうしたアメリカによる間接統治にとってはより都合がいいということになります。かくして、日本の保守たちは、民族主義に訴えながら、同時にアメリカの支配による恩恵を蒙ってきたことになる。ここに帝国的国民主義の共犯性が見出されることになる。こうした共犯性を孕んだ国民主義の代表人物として、酒井は江藤淳を取り上げます。江藤に対する酒井の分析は実に見事なもので、非常に読み応えがあります。
自衛隊についても酒井は極めて興味深い指摘をしています。つまり、朝鮮戦争勃発時にGHQの命によって警察予備隊が設立されたわけですが、その当初の目的は「国内の治安維持」でした。つまり、国民を保護するというよりも、敵対的な日本人に銃を向けることを想定して設置された部隊なんですね。だれがその相手を決めるのか。勿論アメリカでしかないわけです。はっきりいって自衛隊はアメリカの軍隊なんですね。近年の自衛隊についてのもめごとをこうした文脈においてみると、更に保守を自認する国民主義者とアメリカの共犯性にも目を向けたとき、その事態は今日でも変わっていないことがはっきりと見て取れるわけです。例えば4月25日付けのこのニュース。細かい解説は必要ないですよね。
安倍元首相「集団的自衛権、解釈変更をマニフェストに」
安倍元首相は25日、愛知県瀬戸市での講演で「集団的自衛権の行使を含めた(憲法)解釈の変更を、私たちのマニフェストに入れて選挙に臨むべきだ」と述べ、行使を禁じた政府の憲法解釈の見直しを自民党の選挙公約に掲げ、総選挙の争点にする必要があるとの考えを示した。
安倍氏は、北朝鮮が米国に向けて撃った弾道ミサイルに対し、日本が現在の憲法解釈に従って迎撃しなかった場合には「その瞬間に日米同盟は終わりだ」と強調。「解釈を変えていくことによって日本はより安全になる」とし、集団的自衛権をめぐる解釈変更が必要だと主張した。
(朝日新聞2009年4月25日21時9分)
http://www.asahi.com/politics/update/0425/TKY200904250168.htmlより引用
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