2010年8月29日日曜日

8月に読んだ残りの本

不本意ですが、一冊一冊感想を書くゆとりがないまま溜まってしまったので。

①ヴィルヘルム・ゲナツィーノ『そんな日の雨傘に』
 重いけれど軽やかな、「靴男」の果てしないモノローグ。「自分が許可してもいないのにこの世にいる」という気分から逃れることができない、46歳、無職の主人公は、何をするでもなく、「人生の面妖さ」に思いをめぐらし、平凡で、どこにでもある、様々な路上の出来事に目を留める。地下道のホームレスの男たち、足元に置かれた他人のトランク、サーカスの娘と馬のペニス......。そのたびにとりとめのない想念が脳裏をよぎり、子ども時代の光景がなんとなしに思い出され、なにげない言葉が心に引っかかる。遊歩の途中でつぎつぎと出会うのは、過去になんらかの関係を持った中年の女たち......彼女らの思い出がふつふつと浮かんでくる。主人公がなにかから気をそらすように歩き回るのは、同棲していた女が愛想を尽かして出て行ってしまったからだ。しかも靴を試し履きする臨時収入が減り、生活もままならなくなってきている。そうした挫折と失意が、居場所のない思いをいっそう深めてゆく......。
 作家は本書で一躍注目を浴び、2004年にドイツ最高の文学賞《ビューヒナー賞》を受賞している。

エクス・リブリスから。主人公はダメ人間っぷりに、はまってしまう作品。たぶんダメ人間ほどはまってしまうんじゃないかと。「この主人公いいなぁ」とすら思ってしまった僕はやはりダメ人間のようです。臨終コンパニオンのくだりには笑わされました。ダメ人間っていうのは街を遊歩することができる人なのかも、とも思わされました。


②久生十蘭 『久生十蘭短篇選』
現役の作家のなかにも熱狂的なファンの少なくない、鬼才、久生十蘭の精粋を、おもに戦後に発表された短篇から厳選。世界短篇小説コンクールで第一席を獲得した「母子像」、幻想性豊かな「黄泉から」、戦争の記憶が鮮明な「蝶の絵」「復活祭」など、巧緻な構成と密度の高さが鮮烈な印象を残す全15篇。

こないだ河出の短編集を読んで気に入ったので。やっぱり面白かったです。こんなにジャンルを問わず、しかも面白く書けるもんですか。河出の短編集よりもおすすめかも。解説が充実しているのも魅力。


③『世界文学全集 短篇コレクションⅠ』
南北アメリカ、アジア、アフリカの傑作20篇。新訳・初訳も含むアンソロジー。トニ・モリスン「レシタティフ」、アチェベ「呪い卵」、張愛玲「色、戒」などの新訳・初訳から、コルタサル、カーヴァー、目取真 俊

【収録作品】
コルタサル 「南部高速道路」
パス 「波との生活」
マラマッド 「白痴が先」
ルルフォ 「タルパ」
張愛玲 「色、戒」
イドリース 「肉の家」
ディック 「小さな黒い箱」
アチェベ 「呪い卵」
金達寿 「朴達の裁判」
バース 「夜の海の旅」
バーセルミ 「ジョーカー最大の勝利」
モリスン 「レシタティフ──叙唱」
ブローティガン 「サン・フランシスコYMCA讃 歌」
カナファーニー 「ラムレの証言」
マクラウド 「冬の犬」
カーヴァー 「ささやかだけれど、役にたつこと」
アトウッド 「ダンシング・ガールズ」
高行健 「母」
アル=サンマーン 「猫の首を刎ねる」
目取真俊 「面影と連れて」

短篇コレクション。錚々たる顔ぶれ。著者を選ぶセンスはさすが、なのかもしれません。知らない人、読んだことない人もぽつぽついて、なかなか面白い読書でした。でも、作品の選択は……どうでしょう。まぁ色々な事情があるんでしょうが、長編を載せることができなかった人をまず挙げて、その後に掲載できる作品を見繕ったのかな。あえてこの作品ですか?っていう気がしなくもないです。訳者はいい人揃いなんじゃないでしょうか。読書を広げるという意味でもとてもいい本です。


④安田浩一 『ルポ 差別の貧困の外国人労働者』
日本経済にとって、外国人労働者は都合の良い存在であり続けた。企業の繁栄を支え、あるいは不況企業の延命に力を貸してきた。しかし日本は、その外国人を社会の一員として明確に認識したことがあっただろうか。第一部では、「奴隷労働」とも揶揄されることも多い、「外国人研修・技能実習制度」を使って日本に渡ってきた中国人の過酷な労働状況を概観する。第二部では、かつて移民としてブラジルへ渡った日本人の主に子どもや孫たちが、日本で「デカセギ労働者」として味わう生活と苦労、闘う姿を追う。こうした中国人研修生・実習生と日系ブラジル人を中心に、彼ら・彼女らの心の痛みを描きながら、日本社会をも鋭く映す、渾身のルポルタージュ。

怒りに、あるいは羞恥に身を震えさせながら読むべき本。七つ森書館というところから『外国人研修生殺人事件』みたいなタイトルの本が数年前に刊行され、それを読んで大きな衝撃を受けた記憶があります。同じ著者だったのですね。本書の冒頭で触れられる殺人を犯した研修生については、この『外国人研修生殺人事件』という本で詳しく書かれています。ジャーナリストとしても、とても真摯で、文章も、思考もしっかりした信頼のおける書き手だと感じます。
彼ら研修生の悲惨な実態がこれでもかと書き連ねてあります。その一つ一つが衝撃的。自分が乗っかっている地面の下ではこんなことが起こっている。それに気付かない振りをするのも、全く気付かないのも、どちらも等しく恥ずべきことなのでしょう。外国人労働者なしに日本社会が成立しているなんて幻想を抱いている人がまだ多いのにはびっくりします。そんなわけないでしょう。それは現代に始まった話じゃなく、これまでもずっとそうやってきたんじゃないかと僕は思っているのですが。ただ、それを彼らの「協力」なしに、とか言い換えてしまうおめでたい「多文化主義」には僕は組することはできません。
日系ブラジル人についても、保見団地に調査にいったり、彼らのバーベキューに参加したりしたことがあるので、他人事とは思えません。この不況のなかで彼らがどうやって過ごしているのだろう。
とやかくいう前に本書を読むことから。読まなければいけない本といってもいいかと。

2010年8月24日火曜日

西川杉子 『ヴァルド派の谷へ—近代ヨーロッパを生きぬいた異端者たち』

ピエモンテの谷に住む異端の末裔ヴァルド派。宗教的迫害を生きぬいてきた彼らが、存亡の危機を迎えたのは、17世紀末、時代はすでに「啓蒙の世紀」。谷を守るため、ヨーロッパの啓蒙空間をかけまわるヴァルド派と、彼らを支えたヨーロッパ諸勢力の意外な結びつきを通して、錯綜するヨーロッパの近代を考える。

読了本が積もってしまっているので走り書きで。9月からはちゃんと書きたいと思いますが。

山川から「ヒストリア」というシリーズが出ています。ややマニアックな世界史をややマニアックな切り口でさくっと切り取るとても面白い叢書。2008年で刊行が途絶えていますが、終わってしまったのでしょうか。

ヴァルド派……寡聞にして僕は聞いたことがありませんでした。
起源は12〜13世紀に遡るという。創始者はヴァルデスという高利貸しで、彼は福音書の俗語訳を行い、それを手がかりに説教を始めるようになった。その運動はやがて、聖書に立ち返れ、という教会改革運動に発展していった。つまり、ヴァルド派の教義は宗教改革の先駆け的存在だったと評価することもできる。彼らはそれゆえローマ・カトリック勢力により異端視され、弾圧の対象とされ続けてきた。しかし、その弾圧の網の目をかいくぐり、彼らは自分たちの信仰を守り続けてきた。

本書の舞台はそれ以降、17世紀末のヴァルド派に注目し、丁寧な資料分析によって、この時代をヴァルド派がいかに生きぬいたかを躍動的に描き出している。
面白い点は幾つかあるが、第一には、彼らの信仰が教義の独自性云々よりも、まずローマ・カトリックの歴史的対抗者であり、プロテスタントの盟主として自らを位置づけていたこと、そして「谷」への執着だと思う。彼らは長年ローマ・カトリックの弾圧を跳ね返し続けてきたことをプロテスタント諸国・諸教会にアピールし、それによって援助を獲得し、それをもとに生き延びてきた。教義的には他のプロテスタントとほぼ変わらないが、そうした伝統や自らのルーツである「谷」にアイデンティティのよりどころを見出し、特異性を保ってきたこと。
第二には、彼らを援助するような超-国境的なプロテスタント同士のネットワークが形成されていたことである。そして彼らはそれをうまく利用した。そしてそうしたネットワークと当時の国際情勢は無関係ではなく、むしろ国家間の利害関係とも深く関わるものだったという。宗教改革の時代ではなく、この17世紀に彼らは危機に瀕し、そして同時に彼らを救うようなこうした関係ができ上がっていたことというのは、僕にとっては初めての発見でとても楽しくなってしまった。こういったところから歴史を読むというのはとても刺激的なことだと思う。

面白かったです。勉強になりました。

現代位相研究所編 『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる社会学』

社会の現実は社会学の中にはなく、社会の現実の中にこそ社会学はある。古典的学説から近年の議論に至るまで、10のテーマの中から100のキーワードをピックアップし、わかりやすく解説。

現代位相研究所って何ですか?ミヤダイさんの教え子さんたちの集いでしょうか。一橋の塚越さんだけどこかで話を聞いたことがあります。一橋の社研でフーコーの研究している「できる」院生がいる、とか。あそこでフーコーをメインに据えて研究する人ってあんまいないからたぶんこの人のことだろうと思うのだけれど。まぁそれはいいや。

「フシギなくらい見えてくる」のか「本当にわかる」のか僕にはよくわかりません。社会学を何年か学んできた(はずの)僕の印象です。
はっきり言ってしまえば本書は「入門書」でもなければ「ブックガイド」でもない。ましてや社会学「概論」でも。じゃあこれは何か、といえば、僕はこの本は社会学の「カタログ」だと思う。あのセシールとかニッセンとかのやつ。で、「カタログ」としては本書はとてもよくできている。こういった類いの本ではこれまであまり扱われてこなかったテーマ、例えばゲーム理論とか、アーキテクチャとか、ラディカル・デモクラシーとか、講座派と労農派とかも、節操なくない?と思うほどに盛り込んでいる。この節操のなさもまた、カタログ的でよし。
わずか2ページで「解説」なんてできるわけもなくて、商品紹介が延々と続きます。そのなかで気になる商品=議論・本があったら手に取ってみればいいのではないでしょうか。
でも、カタログって普通1500円もしないよなー

ところで、なぜエピグラフはニーチェ? しかも内容と関係薄いし。

2010年8月15日日曜日

ロベルト・ボラーニョ 『野生の探偵たち 上・下』

1975年の大晦日、二人の若い詩人アルトゥーロ・ベラーノとウリセス・リマは、1920年代に実在したとされる謎の女流詩人セサレア・ティナヘーロの足跡をたどって、メキシコ北部の砂漠に旅立つ。出発までのいきさつを物語るのは、二人が率いる前衛詩人グループに加わったある少年の日記。そしてその旅の行方を知る手がかりとなるのは、総勢五十三名に及ぶさまざまな人物へのインタビューである。彼らは一体どこへ向かい、何を目にすることになったのか。

圧巻。これを誰かが書いたというのが僕にはちょっと信じ難いです。
構成は三部構成。第一部と第三部はガルシア=マデーロという少年によって書かれた日記からなっています(第一部「メキシコに消えたメキシコ人たち」は1975年11月2日付け〜12月31日付け、第三部「ソノラ砂漠」は1976年1月1日付け〜2月15日付け)。第二部はアルトゥーノ・ベラーノとウリセス・リマの軌跡をたどった53人もの証言集からなっています。正直あまりに登場人物が膨大すぎて、途中で混乱したりしましたが。同じ姓の人間が何人も出てくるとさすがに整理がつかないものです。


第一部の日記では、ガルシア=マデーロが、ベラーノやリマが率いる「はらわたリアリスト」の仲間に加わり、様々な人と出会いながら、彼らに巻き込まれ(または、自分から巻き込まれに行き)、ベラーノやリマとともに、1920年代に実在したとされるセサレア・ティナヘーロを追い求め、北のソノラ砂漠へと赴くまでが書かれている。第三部はその続きからだから、第一部→第三部→第二部と読んでいくやり方もありえるかもしれない。でもそれがいいのかどうかはよく分からないけど。
第二部はとても不思議な構造になっている。ほぼ時系列(証言が行われた日時)に沿って証言は進んでいくが、アマデオ・サルバティエラの証言だけ、例外的に同じ日時に行われたものが分割され、各所にちりばめられている。その証言は1976年1月、つまりリマやベラーノたちがソノラ砂漠を訪れている最中に行われている。彼が語るのは、リマとベラーノがティナヘーロの情報を求めて彼のもとを訪ねた時の話である。しかし、このインタビュアーは一体誰なのか? これは第二部を読みながらずっと抱えていた疑問で未だに解けていない。

この小説には明かされないこと、見えないことが沢山ある。ティナヘーロのノートの内容も明かされることがなければ、ベラーノのノートの内容も明らかにされない。「インタビュアー」はいなくなってしまったリマとベラーノの軌跡をたどる。彼(便宜的にこうしておこう)が何のために証言をかき集めているかは、よく分からない。そもそも彼が誰なのか分からない。ベラーノとリマが消えてすぐ証言を集め始めるこの「インタビュアー」は30年間もの間、世界各地を飛び回りながら、彼らに関する証言を執拗に集め続ける。けれどなぜ?
あるいはこう言った方がいいのかもしれない、この小説の中心的な人物は常に「不在」だと。インタビュアーも不在なら、ベラーノもリマも常にいない。日記の書き手であるガルシア=マデーロもいなければ、リマやベラーノが追い続けるティナヘーロも不在だと言っていい。リマの居場所を突き止め、話を聞くことは、このインタビュアーに取っては容易いことだっただろう。けれど、彼の証言を得ることはない。
リマとベラーノとこのインタビュアーの違いは、前者がティナヘーロに出会うことを目指しているのに対して、後者は必ずしもそれをリマやベラーノに出会うことを目指していないことにある。リマとベラーノの軌跡を多数の証言を組み合わせることによって「分厚く」描き出すことをこのインタビュアーは目指しているように思える。だからこの証言集には一見関わり合いのなさそうな「余分」とも思えるくだりが数多くある。ベラーノについてあるいはリマについて語っているうちに、それがいつしか自分の話となり,また文学なんかの話になる。「群像劇」といってしまうと陳腐になってしまうが、ベラーノやリマに常に焦点があるのではなくて、その周囲の人びと、彼らの人生や彼らが置かれている状況が何重にもなって描き出すことが目指されているのかもしれない。だから、なんというかこの小説は、一面では虚構なのかもしれないけれど、何よりも「歴史」なんじゃないかと思う。

そういえば、この小説は「半自伝的」らしい。ベラーノがボラーニョその人である、と。作家の写真とか見ると、あぁ確かにベラーノのイメージそっくりだなぁ。ベラーノもリマもガルシア=マデーロも、みんなボラーニョの投影のような気がしてしまうけれど。

個人的にはイニャキ某という人物がひどく気に入りました。まだ世に出てもいない批評のせいでベラーノに決闘を挑まれ、その後に彼に薬を送ってしまったり、ブックフェア会場では、批評と作者の関係について深遠な議論を展開したり。
訳のおかげもあるんだろうけど、証言者がそれぞれ特徴を持っていて、読んでいて飽きなかったなぁ。それぞれの記述について書いていったらキリがなさそう。

あと、タイトルの「野生の探偵たち」ってどういう意味なんだろう。あとあと、セサレア・ティナレーロがある教師に語った来るべき時代の話、26××年の話って「2666」という彼の著作となんか関わりがあるんだろうか。『通話』も読み直したいな、でまたこの本を読んでみたい。そのころには「2666」も刊行されているかな。

2010年8月14日土曜日

アーネスト・ヘミングウェイ 『ヘミングウェイ短編集』

マッチョなイメージの強いヘミングウェイだが、彼はモダニズムの作家として、繊細でおそろしいほどの切れ味をもつ短篇を生みだした。彼は、女たちをひじょうに優しい手つきで描く。弱く寂しい男たち、冷静で寛大な女たちを登場させて描きだしたのは、「人間のなかで人間であることの孤独」だった。ジョイスが完璧と賞賛した「清潔で明るい場所」をはじめ、14作を新訳・新編集で贈る。

誰でも知ってるヘミングウェイ。小学生だか中学生だかに読んだり読まされたりした人も多いんじゃないかと想像します。僕もそんな感じで、名前は知っているし、有名な作品を子どものときに読んだ記憶があるけれど、それ以来全く読んでませんでした。しかし、なんで『老人と海』とかを子どものときに読ませようとするんだろうか。

そんなこんなでふと読んだヘミングウェイの短編集。悪くなかったです。確かにマッチョ&ハードボイルドって感じとは少し違うなぁ。すごくレイモンド・カーヴァーっぽい。というかカーヴァーがヘミングウェイの影響を受けていたのか。読後のすっきり感はあんまりなくて、むしろもやもや感が残るけど、そこもまた魅力なんだろうなぁ。この短編集のなかで明らかな「オチ」が用意されている作品はあんまりない。「オチ」を作ることは、そこでその作品の世界を完結させてしまうことになる。「オチ」がないことによって、それぞれの短編の世界が開かれたままになる。キアロスタミじゃないけど「そして人生はつづく」、という感じ。

そういえば訳者解説で、ヘミングウェイは本当にマチズムの作家なのか、という問いが投げかけられていた。ヘミングウェイは長らく「マチズム」というラベルを貼られ続けてきたが、それは果たして妥当だったのか、という問いだった。この短編集を読み終えた印象としては、やっぱりマチズムが色濃い作家だなぁ、という感じ。確かに、男性主義とかマッチョな価値観に翻弄される男たちがこの短編集には登場する。訳者はここに、マチズムではなく反マチズムを、強さではなく弱さを見出している。けれど、それは反マチズムなのか? マチズムに翻弄され敗北していくナイーヴな男たちを描くヘミングウェイの、同じくナイーヴな筆致。その筆致から、まるで彼の傷口を舐めてあげるような、ホモソーシャルな交感を感じ取ってしまうのは僕だけだろうか。この男たちのナイーヴさはマチズムの裏返しであって、反マチズムではないと僕は思ってしまう。

あちこち行った彼らしく、汽車とか駅とかカフェとかホテルとかよく登場しますね。ああいった刹那的に出会う人はすごく魅力的に見えて、家族とか常に一緒にいる人に対しては嫌悪感をもつ、ってなんだか分かる気がするけど、彼の小説の場合少し極端ですね。あるいはそんなものなのか。

やっぱり短編の名手、ですね。最後の短編なんかつくづくうまいと思う。
あと、あんまいい訳と思わなかったんだけれど、この訳者は定評がある人なんですね。ちょっと意外。

2010年8月8日日曜日

酒井啓子 『〈中東〉の考え方』

パレスチナ問題、イランのゆくえ、イスラーム主義、インターネットなどメディアの影響……。「中東」と呼ばれる地域のニュースは、背景が複雑で理解しにくいと言われます。著者も、大学での授業や、一般向けの講演などを通して、その困難さを感じてきました。なんとか「手がかり」となる本ができないか……。本書は、これらのさまざまな問題を、国際政治と現代史の枠組みのなかで理解することを狙いとした新書です。

「中東」近現代史についてのさっくりした概説書。それ以上でもそれ以下でもないと思う。終章が一番おもしろかったかな。中東の近現代史が分からずに、世界史の成績が伸びない高校生向きかも。
中東の市井の人に注目するんだ、って言っている割には、そうゆう記述がほとんどないのはいかがなものかと思います。ただ、繰り返しですが、概説書としては悪くないんじゃないでしょうか。

2010年8月7日土曜日

コーマック・マッカーシー 『ザ・ロード』

空には暗雲がたれこめ、気温は下がりつづける。目前には、植物も死に絶え、降り積もる灰に覆われて廃墟と化した世界。そのなかを父と子は、南への道をたどる。掠奪や殺人をためらわない人間たちの手から逃れ、わずかに残った食物を探し、お互いのみを生きるよすがとして――。
世界は本当に終わってしまったのか? 現代文学の巨匠が、荒れ果てた大陸を漂流する父子の旅路を描きあげた渾身の長篇。ピュリッツァー賞受賞作。(解説:小池昌代)

ぞくぞく文庫化が進むコーマック・マッカーシー。国境三部作、『ブラッド・メリディアン』、『血と暴力の国』と読んできたので、邦訳が出ているものは一通り読んでみたことになる。
やっぱりこの作品は国境三部作→『血の暴力の国』→『ザ・ロード』って流れとして読みたいと思う。『血と暴力の国』のラストはこの『ザ・ロード』と繋がっていることは、両書を読んだほとんどの人が気付くことだろう。だから?と問われると困るけど、西部民がインディアンを「征伐」していた時代も、第二次世界大戦以前も、以後も、そして(ヴェトナム戦争を経て)現代も、更にある「破局」の後も、人間は変わらず誰かを殺している、そして抗いようのない何かに押し流され続けている、ということには気付くことができる。世界が破局を迎え、すべてが変わってしまったように見えるけれども、そういった意味から言えば「何も変わっていない」。
彼らは南に向う。理由がないわけではないが、そのどれも本質的なことではない。寒いから、狼を戻したいから、インディアンを征伐したいから。私たちは因果律にがんじがらめになっているように見えるけれど、実際のところある原因が何かの行動を引き起こすのではないかもしれない。マッカーシーの描く人物は(そしてともすれば私たちもまた)は何かに常に押し流されている。しかし、人びとはときにそれに抗おうとする。

破局後の世界において、人が生きるために誰かを殺す、あるいはそれを食べるというのは、弾劾されるべきことなのだろうか。少なくとも弾劾する人はいない。良心とか神とかによる禁止の声も、こうした世界においてはもはや届かない。少なくとも彼らのなかで神は既に死んでいるのだから。彼らは生きるために(彼らは何のために生きるのか?と問うのはあまり意味がないように思う)、あるいは生への執着に取り憑かれるようにして、他人から物を奪い、子どもを食べる。私たちは生きているというよりも、生への衝動に押し流されているだけなのかもしれない。

ここに登場する息子と、彼が迎えることになるラストシーンこそ、まさにこうした「何か」に対する抗いではないだろうか。このラストシーンはこれまで凄惨な人間の衝突を見続けてきた読者からすれば、ひどくありえないことのように思える。これまで人間の動物的な側面(単純化するためあえてこうした言い方をする)を見てきた私たちはここで初めて「人間的なもの」の交流を目の当たりにする。父子の関係を除いての話だけれど、言ってしまえばこの子どもだけが常に「火」を灯していたのだ。彼がいなければ、彼の父親は、それまで登場し続ける「悪者」と何ら変わらなかっただろう。(だからこの作品はひどくキリスト教的な世界観に裏打ちされているように思う。)

破局後の世界において、「火を持つ者」とは、こうした人間性を持ち続ける者であり、恐らくは神を信じる者なのだろう。結局のところ、「火」とは人間性の換喩なのではないか。そして恐らく「世界」はこうした「火を持つ者」において初めて成立する。他者との交流がなければ、あるいは他の「人間」の存在を想像することができなければ、「世界」を構成することはできない(「他者への想像力」という意味で、父親は「火」を持っていないことは明らかだ)。ラストシーンにおいて、彼は同じく「火を持つ者」と出会う。そして、父の死とともに失われた「世界」を、改めて構成することになる。こうした抗いこそが「世界」を構成するのかもしれない。このことはエスポジトが共同体=コムニタスを他者から/への贈与と位置づけたこととも結びつけられるのかもしれない。

……うーん、何の話をしているのか。とりあえず、『ザ・ロード』を読む前に彼の他の作品を読むことを薦めたいと思う。
破局後の世界だけあって動物の描写がないのがやや残念。その代わり自然の描写は、さすがマッカーシーという感じ。やっぱり僕はこの人の小説は好きだなぁ。

2010年8月6日金曜日

目取真俊 『沖縄「戦後」ゼロ年』

沖縄戦から六十年。戦後日本の「平和」は、戦争では「本土」の「捨て石」に、その後は米軍基地の「要石」にされた沖縄の犠牲があってのもの。この沖縄差別の現実を変えない限り、沖縄の「戦後」は永遠に「ゼロ」のままだ。著者は、家族らの戦争体験をたどり、米軍による占領の歴史を見つめ直す。軍隊は住民を守らない。節目の六十年の日本人に、おびただしい犠牲者の血が証し立てた「真実」を突きつける。

5年前に出た本だし、結構時事批評的な側面が強いにも関わらず、全く古さを感じさせない。もちろんそれは「何も変わっていない」からなのだけど。随分多くの文献や資料を読み込んできたのだろう。憶測だけど、野村浩也なんかと立ち位置は結構似ているのかもしれない。とりあえず読んでおきたい1冊。これを読み終えたら、次に彼のブログを読んでみるといいんじゃなかろうか。

菅瀬晶子 『新月の夜も十字架は輝く—中東のキリスト教徒』

数多い中東のキリスト教の諸教派について、その歴史と特徴を簡単に紹介。キリスト教徒が具体的にはどのような人びとなのかを、衣食住から精神的なものまで、さまざまな実例をあげて解説。キリスト教徒たちが中東の近代化から今日にいたるまではたしてきた役割と、今後の展望について叙述。

山川から「イスラームを知る」というブックレットシリーズが出ていることを知り、手に取ってみた。12冊ほど出る予定で、今も刊行中だけれども、テーマとしてはかなり面白そうなものが揃っている印象。そのうちこの本では、副題が示す通り、中東に暮らすキリスト教徒に焦点を当てている。マロン派とか、コプト教徒とか、〜正教会とか、名前は聞いたことあるけど、どんなんだかよく分かっていなかったので、その辺を整理してくれているあたり、とてもありがたかった。
あと、どうしても彼らの存在ってあまり目を向けられることが少なくて、彼らの内実を知ることはこれまでなかったのだけれども、かなり図版も入れつつ、親切に紹介してくれる。中東ではどうしてもマイノリティにならざるをえない彼らと、マジョリティのイスラーム教徒との微妙な力関係も同様に興味深い。
なかでも、次の2点は印象的だった。
一つは、彼らの信仰や儀式が土着の多神教的な民衆信仰と混淆している、という指摘。そしてイスラーム教徒もまた、こうした民間信仰の影響を受けており、したがって、こうした土着的な信仰の影響が色濃い儀式において、キリスト教徒も、イスラーム教徒も、その異教的な側面は認識しつつも、共に儀式に参加し、信仰を共有する部分があるのだ、ということ。これを「寛容」として捉えていいのかは分からないけれど、それでもとても興味深い。
もう一つが、彼らキリスト教徒が、汎アラブ主義、もしくはアラブナショナリズムの興隆に大きな役割を果たしていた、という指摘。これは教科書的な中東史ではほとんど触れられない点で、私も初めて知った。とはいえ、個人的にまだ中東とその歴史が全体像として把握できていなくて、ここでの記述とこれまで読んできた中東についての知識がどう結びつくのか、ちょっと整理できていないのだけれど。彼らの視点から中東の(そして西洋の)歴史を辿り直すというのはとても面白い試みじゃないだろうか。こういった研究もっと読んでみたいな。僅か112ページのブックレットだけれど、とても勉強になります。

2010年8月3日火曜日

テオプラストス 『人さまざま』

哲人でも賢人でもない古代ギリシアの平凡な人びとの世態人情,それを明かしてくれるのがこの愛すべき小品だ.アリストテレスの愛弟子テオプラストスが,つれづれの興にまかせて,その軽妙犀利な筆をふるい,古代ギリシアのちまたに暮らす民衆の身すぎ世すぎの姿をとらえた人物スケッチ三〇篇.「空とぼけ」「おしゃべり」「けち」「へそまがり」「お節介」などなど,どのページにも,いにしえのギリシア庶民のさざめきがこだましている.

「よみた屋」をぶらぶらしていて、ふと発見した本。テオプラストス……どこかで聞いたことがある、と思ったらいま枕頭本(?)にしている『動物たちの沈黙』だった。だらだら読みすぎてほとんど理解しちゃいないけれど。
多数の著作があったとされるようですが、現存しているのはそのうちのごく僅か、とのことです。現在、日本語で読めるのは、本書の他には『植物誌』のみとのこと。

本書の内容は、とてもシンプル。古代ギリシアの嫌なタイプの人間30種類を延々と書き連ねてあります。読んだ感想はきっと誰も大差ないんじゃないでしょうか。あぁ、古代ギリシアっつってもあんま今も変わんないんだなぁ、とか、こう言う奴いるよね、とか、あっ俺けっこう当てはまってるかも……とか。ともすれば、すごい難しく考えることができるのかもしれないけれど、もし「あとがき」で訳者が述べるように、テオプラストスが一種の遊びとしてこの人物スケッチを書いたのであれば、読む側もそれを素直に楽しめばいいのではないでしょうか。

2010年8月2日月曜日

カルロ・ギンズブルグ 『チーズとうじ虫』

16世紀イタリアのフリウリ地方に住む粉挽屋。その男の名はドメニコ・スカンデッラといったが、人びとからはメノッキオと呼ばれていた。白のチョッキ、白のマント、白麻の帽子をいつも身につけ、裁判に現われるのも、この白ずくめの服装だった。
彼は教皇庁に告訴されていた、その肝をつぶすような異端のコスモロジーゆえに。彼は説く、「私が考え信じているのは、すべてはカオスである。すなわち、土、空気、水、火、などこれらの全体はカオスである。この全体は次第に塊りになっていった。ちょうど牛乳のなかからチーズの塊ができ、そこからうじ虫があらわれてくるように、このうじ虫のように出現してくるものが天使たちなのだ……」。二度の裁判を経て、ついに焚刑にされたメノッキオ。
著者ギンズブルグは、古文書館の完全な闇のなかから、一介の粉挽屋の生きたミクロコスモスを復元することに成功した。それは農民のラディカリズムの伝統のなかに息づく古くかつ新しい世界・生き方をみごとに伝えている。

いわずと知れた、歴史学の古典中の古典。歴史学のあり方を根底から覆した著作、ということができるかも?
恥ずかしながら、初めて読んだのですが、思わず読後に「すげぇなぁ……」と呟いてしまうほど。
歴史学についてほとんど学んだことないにも関わらず。
別に歴史学について何か知りたいとか、方法論を学びたいとか、そういった意図がなくても、また何らかの知識を前提としなくても、この本はとても面白く読むことができると思う。16世紀イタリアの田舎に住む一粉挽工がなぜこんなにも特異なコスモロジー(これだけ読んでも面白い!)を会得し、それを論じ得たのか? それを追求していくギンズブルグの叙述には推理小説的な面白さが満ち溢れていて、読み物としても非常に面白い。
まずは裁判史料を読み解きながら、彼はこの謎に踏み込んでいく。しかし、それはすぐに行き詰まってしまう。彼が語ったことを分析するだけでは、このなぜ?という疑問に答えることはできない。誰かに吹き込まれたのか? そう審問官に問われ続けるけれども、粉挽工は人からではなく、書物の中から学んだと答え続ける。次いでギンズブルグは、メノッキオが読んだとされる書物を突き止め(あるいは推測し)、それを読み解く。しかし、そうした書物の叙述とメノッキオの発言には齟齬が生じている……。そこでギンズブルグはその齟齬にこそ注目していく。そうした探求の中で明らかになっていくのは、書物には還元し切れない、農民たちの間に長い間伏流のように流れ続けてきた民間思想(宗教?)の存在である。それは貴族や教会や都市の思想と完全に独立しているわけではないが、完全に従属しているわけでもない。メノッキオの思想とは、そうした民衆の口承によって語り継がれた思想と、書物から得た知見との混合によって形成されたものだと言う(ともすれば本書は一種の書物論として読むことすらできるのではないだろうか)。

こうして、私たちはメノッキオがどのようなやり方でかれの書物を読んだかを見てきた。言葉や文章を必要に応じて歪めつつどのように文脈から取り外し、さまざまに異なる文章を結びつけ、さまざまな恐ろしいアナロジーをあふれ出させたかを見てきた。そのたびごとに、テクストとメノッキオのそれへの反応とのつきあわせはかれが判然としない形で有している解読の鍵について想定するように導いたし、あれこれの異端集団との関係だけでは十分な説明にならないことを示させた。…最も人を当惑させるかれの主張は、マンドヴィルの『旅行記』や『ジュディチオの物語』などの全く無害なテクストとの接触から生まれたのであった。これらのテクストはメノッキオの言うような書物ではないが、書かれた頁と口頭伝承の文化は、メノッキオの頭のなかで、爆発性の混合物を作り出したのである(pp.121)

また、「61 支配者の文化と従属階級の文化」の記述は決定的に重要だと思われる。そこで彼が指摘するのは、支配者の文化と従属階級の文化の複雑な関わり合いである。少なくとも16世紀の段階において単に両者が独立しているとか、対立しているとか、従属しているとか、そんな単純な話ではないのだ。それは一部分だけ取り出すことが不可能なほど複雑な関係なのだと、ギンズブルグは言う。そして対抗宗教改革の奔流のなかで、こうした複雑な関係を断ち切り、従属階級の文化は次第に抑圧されていく。メノッキオの事例はこうした文脈で位置づけられなくてはならない。

メノッキオという一粉挽工の事例ですら、これだけ多くのことを語ることができる。しかし、メノッキオほど十分に裁判史料が残っているケースは稀であり、ほとんど多くの「異端者」たちは何も語ることもできない。彼らについては「私たちは何も知らない。」



そういえば、今月号の『思想』ではヘイドン・ホワイトの特集を組んでますね。『メタヒストリー』の刊行が10月に延びたせいでちょっと間の抜けた感じになってしまいましたが。対談に安丸先生が出ていて、その対談だけでも一読の価値あり、かも。その『思想』所収のヘイドン・ホワイト「実用的な過去」という論文は去年の東洋大学の講演のようです。なかなか面白い講演で勉強になりました。まとめたノートが見当たらないけれど、黒板にふと描いた図が面白かった気がする。この論文にはその図は載っていないけど。その講演の後に、上村忠男さんがヘイドン・ホワイトに「カルロ・ギンズブルグによる批判に対して、あなたはこれまで反駁をしてこなかったように思うが、その点についてどう考えているのか?」という趣旨の質問をしていました。それに対する回答は『思想』の上村さんの論文にまとめられている、というかその回答をまとめたものを論文に仕上げた印象すら受けてしまうけれど。でも、とても興味深い内容ですね。

サンティアーゴ・パハーレス 『螺旋』

絶妙な語り口、緻密なプロット、感動のラスト。大ベストセラー小説『螺旋』の作者トマス・マウドは、本名はもちろん住んでいる場所すら誰にも明かさない“謎”の作家。「なんとしても彼を見つけ出せ!」出版社社長に命じられた編集者ダビッドは、その作家がいるとされる村に向かう。一方、麻薬依存症の青年フランは、盗んだバッグに偶然入っていた『螺旋』をふと読み始めるのだが……。いったいトマス・マウドとは何者なのか? 2つのストーリーが交錯する時、衝撃の事実が明らかになる! 驚異のストーリーテラーが放つ、一気読み必至の長編小説。

またもや書かなきゃいけない本が溜まってしまった。いや、別に書かなくてもいいのだけど。とりあえず早足で。
ヴィレッジブックス×木村榮一さんというと、フリオ・リャマサーレスの印象がとても強いのだけど、これはリャマサーレスの新刊Las Rosas De Piedraではありません。僕が買ったあの本はかなり分厚いハードカバーで、せっかく届いたのに序盤で早くも挫折したのでした。パハーレスの本よりもそっちの方を訳してほしかったな。リベンジするのと訳が出るの、どっちが先だろうか。

ということで、サンティアーゴ・パハーレス。知りませんでした。30過ぎのとても若い作家さん。原著が出たのが2004年だから、これは25歳のときの作品ですか。これはびっくり。25歳で、こんな小説が書けるんですね。かなり色々作り込みながら仕上げてある作品、といった感じです。章によって緩急を変えていて、読んでいて飽きさせず、とても心地よい。そして一気読み系。小説内小説『螺旋』を中心にしてその周囲に巻き起こる人間同士の交流を描いた作品。すっ飛ばしたままの伏線もあるけれど、概ねきれいにまとめてくれているので読後感はすっきりです。まさしく大団円ってやつですね。書物とか物語への信頼、というものがひしひしを感じられて、こちらまで本の可能性、というのを信じたくなります。そういった意味でもこのパハーレスという作家は、「ストーリーテラー」なんでしょうね。ジョン・アーヴィングのことをなんとなく想起しました。
フリオ・リャマサーレスがあまりにも衝撃的だったせいで、現代スペイン文学というとどうしても彼のイメージなんだけれど、こういった若い作家さんもいるんですね。これからが楽しみ。