コレージュ・ド・フランス講義録を媒介に、1970年代後半のフーコーの問題系にフォーカス。 この時期のフーコーの関心は、社会防衛、セキュリティ、統治論、自由主義論などに あり、それらは私たちの(たとえば現在の日本の)日々の問題の核心とつながっている。 気鋭の論客たちが、理論、運動 - 政治、社会それぞれの側面から、フーコーを読み、 使いまわし、今日の社会・世界に向かう新たな視座を提示する。
フーコーを、とりわけ「後期」のフーコーを使うこと。彼の思想をただなぞり紹介する、そうではなく彼の思想を掴み、それを自身の思想に組み入れつつ、論考を組み立てていく。そんなコンセプトに基づいた論文集。
なかなか面白い論考があって、読みがいがありました。フーコー自身の思想についてある程度含蓄があれば、彼らの議論に共鳴したり反発したりすることができるはず。フーコー講義集成そろそろ手を出そうか、と思っているけれども、仕事の関係もあって、ちょっとムリかも…。ハイデガーを中心にドイツ哲学を勉強しなければならなくなりそうなので。
話を戻すと、高桑さんの「インセンティヴ」概念とフーコーを組み合わせる論考はとても面白かった。まだ単著ないんだなー、色々翻訳は多いけれども。あと芹沢さんも箱田さんも、そして最近気になる廣瀬さんも、それぞれ面白い論考ですよ。通して読んでいると、ぼんやりとフーコー思想が3Dで浮かび上がってくる…ような気がするのも面白いですね。もちろん3Dを見るには色眼鏡が必要ですが。
フーコーの思考を、アガンベンは強制収容所という空間に引きずり込んだ。それはある人から見れば酷く強引なやり方だったのかもしれないし、アガンベンの『ホモ・サケル』における議論にはフーコーの恣意的な解釈が多い、とかもよく聞く話だ。けれどもあとがきで芹沢さんが引用したフーコーの言葉を借りれば、彼はフーコーを「利用し、それをねじ曲げてキーキー言わせた」のかもしれない。アガンベンが例外状態の恒常化というとき、私は第二次世界大戦後に世界各地で起動するアメリカによる軍統治、<占領>のことを想起せざるを得ない。この<占領>について、フーコーの思想を上手く「使った」研究はないものだろうか?
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