2009年10月25日日曜日

アティーク・ラヒーミー 『悲しみを聴く石』

戦場から植物状態となって戻った男。コーランの祈りを唱えながら看病を続ける妻。やがて女は、快復の兆しを見せない夫に向かって、誰にも告げたことのない罪深い秘密を語り始める……。

アティーク・ラヒーミー(今年のノーベル賞のオッズにも顔を覗かせていましたね)の邦訳としては2作目。「エクス・リブリス」よくやってくれました。前回は『ミスター・ピップ』なるひどく凡庸かつ西洋中心主義的な作品を紹介して(しかも誤植だらけの)唖然とさせられたものですが、これでよしとしましょう。

舞台はアフガニスタンのどこか、あるいは別のどこか。アフガニスタンでの出来事を強く意識しながらも、それを他のどこかでも起こっているような普遍的な問題として捉えてほしい、というラヒーミーの意図なのでしょうか。

更に冒頭の掲げられるエピグラフ;
「身体から、身体を通して、身体とともに、身体に始まり、身体に終わる」(アントナン・アルトー)

このエピグラフを掲げた目的は何なのだろうか。率直に言って、僕は精神分析には疎く、これから先に書くことはあまり自信がないけれど。
恐らくこの小説は「分裂症」をめぐるものだ。女の引き裂かれる感覚、幻覚、肥大した身体感覚…この女が「分裂症」に陥る、その原因は「オイディプス・コンプレックス」と結びつけて解釈されうるようにも読める。パパ‐ママ図式の中に囚われているようにも。「分裂症」を患った女性が、植物状態となった男(しかし精神科医とはこのようなものではないだろうか?)に対して、語り続ける。自らの「秘密」を次々と。その告白の過程は、自由連想法的な治療の過程そのものなのではないか。人が自らの悲しみを告白する、その告白は「サンゲ・サブール」に転移して、その告白が終わった時、その石は砕けるという。
彼女を抑圧しているのは、あるいはパパ-ママ図式ではないのかもしれない。オイディプス云々も関係ないのかもしれない。彼女を抑圧するものは社会そのものであって、そこに含まれる暴力や家父長制でもあるのだから。その全てが極めて男性性的なものなのは間違いないけれども。その象徴たる英雄=夫が植物状態となり単なる「石」と化す。それによって彼女はその抑圧から離れ、自由に語りだす。そして彼女の欲望は解放される。

なんだかよく分からなくなってきた。あまりよく知らないことをつなげて言いたいことを組み立てるというのはちょっとムリがありますね。なんだろう。この女性があまりにも西洋化しすぎているのではないかという批判がある。それはあとがきにも触れられていることだし、Amazonのレビューにも早速そんな趣旨のコメントがあった(その人はイスラーム圏の女性のことはよく知らないけれど、と但し書きを付けてはいたが)。
しかし、その意見はひどく高圧的なものだ。イスラーム圏の女性は、アフガニスタンの女性は西洋化されてはいない、性を露にすることはなく、雄弁に語ることはない、そういった前提の下に、この小説に出てくるムスリム女性は「西洋的すぎるね」とか、これは「いかにも厳格なムスリム女性だねぇ、イスラームはけしからん」とか言ったりする。そんなものオリエンタリズムの焼き直しではないか。あるべきオリエンタルな女性のイメージを勝手に抱き、それをそこにいるであろう女性に押し付ける。アフガニスタンで過ごし、フランスに移住することになった男性の語る女性像よりも、彼らの抱く表象としてのムスリム女性、アフガニスタンの女性は絶対的なものらしい。そんな一括りにアフガニスタンの女性はこういうものだ、なんてイメージをもつことはどう考えてもこっけいでしょう。「近頃の若いもんは~」っていうのと同レベル(もっと性質が悪い)の戯言でしかないだろうに。


何の話かわからなくなってきたけれども、この小説はなかなかよいですよ。削ぎ落とされた描写と女性の時に饒舌すぎるほどの語り。それをつなぎとめる空白。短い小説ですが、じっくりかみ締めながら読むことができる作品です。

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