2009年4月29日水曜日

平井玄 『千のムジカ』

ドゥルーズとオーネット・コールマンのリトルネロ、サイード/バレンボイムの企て、ジョン・ゾーンの棘、マイルス・デイヴィスとガーヴェイ主義、パレスチナのクレズマー、セックス・ピストルズの空虚、そしてコザ暴動に響く島唄とロック・・・・・・。剥き出しになった資本主義の軋轢を、街頭に飛び散る抗争の唸りとして聴きとるために。大きく転回した時代に立ち向かう新たな音楽/思想の可能性。

音楽論と思想・哲学の交叉点に関心があったので、かなり面白く読みました。あちこちに掲載した連載や論文を加筆修正してまとめただけあって、かならずしも首尾一貫しているわけではないですが。
音楽自体にさほど精通しているわけではない僕にとってはいい取っ掛かりになったような気がします、最近はベント・エゲルプラダのようなヨーロピアン・ジャズばっかを聴いていた僕にとっては、ジャズというものにもっと向き合ってみようと思わせるのに十分でした。1章で提示される、ウェーバー-アドルノ-サイードとシャトレ-ドゥルーズ-ガタリという2つの音楽を巡る思想家の系譜は、面白いなぁと。いや当たり前っちゃ当たり前なのですが。こういう系譜を想定したときに一番アンビバレントな存在はやはりサイードですよね。少なくとも音楽においては明らかに彼は「西洋」的な人間でしょう。彼のことだから恐らくそんなことは千も承知なのでしょうけれど。音楽については彼は「西洋」の普遍性を信じていたのでしょうか。ある部分ではそうなのかもしれない。けれども、例えば、彼がウェスト・イースタン・ディヴァンのワークショップを開いたとき、ウェスト・ブロンクスの音楽家にコーランの英訳を提供しようとしたとき、そしてドゥルーズの思考に賛意を示したとき、彼はもはやその系譜には留まらない存在であった、そう平井は理解しているように思います。「西洋音楽」が非‐西洋にも開かれたものであること、それは「西洋音楽」の普遍性として捉えるべきではない。むしろ開かれているがゆえにその内部において攪乱され、その多義性―あるいは「普遍」とされるものの内部に孕まれている多数の特異点―を呈することになる。そこから無限の広がりを見せるのだ、そう考えるべきなのだと思います。
ギルロイの『ブラック・アトランティック』においても、本論においてもこうした越境的な音楽の交流というのが重要なポイントとなっています。人が移動するときに音楽は常にともに移動する。録音機器やラジオなどのテクノロジーの発展によって人が移動しなくても、音楽はまさに越境的な広がりを見せていく。思いもよらぬ場所で、思いもよらぬ音楽が登場する。その背景にはそうした越境的な音楽からの影響がある。リゾーム?イメージとしてはそれに近いものを感じる。そうした音楽に対して、「近代(資本主義や合理主義をひっくるめた曖昧な表現として)」はそれを掌握しようとする。パターン化し、類型化し、大量生産し流通経路に乗せ、マーケティング・広告を通じてショー化し、最後にゴミ箱かブックオフへ。しかし音楽はそれに抗い続ける。なぜなら、「近代」が音楽を掌握しようとするとき何かがそこから抜け落ちるから。そしてその「何か」こそ音楽の本質をなしているから。その何かを、「近代」は一番掴みたいのだがそれをすることはできない。掌握された音楽はいわば残余であってどこか「死んでいる」、そういったら言い過ぎだろうか。

じゃあ、と誰かは言うだろう。「生きた」音楽にはどこで出会うことができるんだ?と。資本主義から自律した空間で音楽と出会う?そんな夢みたいなこと本気で言っているの、と。確かにその通りだろう。平井もあとがきで述べている通り、私たちはみな資本主義の奴隷なのだ。そこに構成的外部など見出すべきじゃない。
とりあえずヒットチャートをにぎわす音楽のことは脇に置いておこう。それらの多くはからっぽだから。「近代」によって摘み取られ搾り取られた残滓のようなものだから。けれどもこの世にあるのはそんな音楽ばかりじゃない。それだけで十分じゃないか、と僕なんかは思ってしまいます。
音楽から歴史を、世界を眺めると、それらがこうも異なる様相を見せるのか、と。面白いですね。

ちなみに参考文献・ディスクには気になる本やディスクが幾つも載っていて、個人的にはいいリストだなぁと思いました。


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