2010年5月28日金曜日

小島信夫 『アメリカン・スクール』

アメリカン・スクールの見学に訪れた日本人英語教師たちの不条理で滑稽な体験を通して、終戦後の日米関係を鋭利に諷刺する、芥川賞受賞の表題作のほか、若き兵士の揺れ動く心情を鮮烈に抉り取った文壇デビュー作『小銃』や、ユーモアと不安が共存する執拗なドタバタ劇『汽車の中』など全八編を収録。一見無造作な文体から底知れぬ闇を感じさせる、特異な魅力を放つ鬼才の初期作品集。

「アメリカン・スクール」が読みたくて、手に取ったのですが、どれもこれも面白い。「占領下」や敗戦後の日米関係やらを扱った研究にはしばしば取り上げられる「アメリカン・スクール」。マイク・モラスキーさんか新城郁夫さんのどっちかが分析しているやつを読んだことがあるなぁ。内容は……忘れてしまったけれど、なんだか面白かったような気がする。

読みながら、なんだか滑稽で笑ってしまうシーンが幾つもあるんだけれども……なんというか、後味がすごく悪い。なんというか思わず笑ってしまって、後でそのことを悔いることって誰にでもあると思うんだけど、そんな感覚がする。笑えない笑い、というんだろうか。その理由を愚考するに、やっぱりこの小説群は「占領」や「戦後」というものの深層を抉りとっているからなんだろう。あるいは、その経験によってどうしようもなく刻み込まれてしまった心性のようなものを。戦後の日米関係がこれ以降今日に至るまで全くと言っていいほど同じ論理で動いているわけで、それを読みながら嗅ぎ取ったせいなのかもなぁ、とか思いました。でもAmazonレビューでは素直に楽しんでいる人もいるみたいだから、まぁ当てにはならないのだけど。
そんなこと考えて意味あるの?って聞かれたらそれまでだけど、この小説を同時代の人が読んだとき、どんな感情を抱いたのかってすごく興味がある。小島信夫のような小説を書ける現代作家がいないように、小島信夫を同時代的な感覚で読むことができる読者もいないと思うし、この小説群の痛烈な皮肉に彼らが気付かないはずはなかっただろうから。結局のところ、彼らは、その小説の中に彼ら自身を見出したであろうから。ひょっとしたら、僕もそうだったのだろうか?

「アメリカン・スクール」について。
大したことは言えないのでさっくりと箇条書きに。
1.伊佐と山田を、単に対照的な存在として捉えてそこに戦後の日本(人)の2つの有り様を見出す読み方よりも、それをひっくるめて、伊佐と山田を根源的には同じものとして、コインの裏表として捉える方が面白い気がする。
2.「親米保守」という言葉を久々に思い出した。酒井直樹の言うところの国民主義を超克した「新しい植民地体制」との関係。
3.何よりも解説を江藤淳が書いているのがなによりも面白い。色々な意味で「アメリカン・スクール」の解説に彼以上にふさわしい人間はいないだろう(酒井直樹『希望と憲法』参照)。
4.ジェンダー的にはかなり厄介な話かも。この小説に限った話ではないのだけれど、小島信夫の描く女性ってどこかおかしい。ただの女性蔑視の裏返しな気もする。この辺けっこう歪んでいるなぁと。名字だけ=男性、下の名前=女性なのね。
5.箸を忘れた、ってオチはどうなんだろう。
6.小島信夫って身体性がキーワードなのか?体が思い通りに動かなかったり、勝手に動いたり、怪我をしたり。それが行動をどんどん左右して色々な出来事を引き起こしていく。どうにもならないこと、そうせざるをえないこと、が幾つも彼の小説では起こるけど、その一つに自分自身もあるみたい。
7.やっぱこの舞台って沖縄だろうか。だとすれば、相当に厄介な小説。

そう、小島信夫の小説ってものすごく厄介だし、ときに不可解。出征先を舞台にした小説が幾つかあったけれど、現地の人間には驚くほど無関心というか鈍感(「燕京大学部隊」なんて典型だと思う)。とりあえずもう少し読むかな。

2010年5月24日月曜日

都甲幸治 『偽アメリカ文学の誕生』

フィッツジェラルド、サリンジャー、デリーロはもちろん本邦初紹介の作家から、日本では知られざる村上春樹の素顔にいたるまで最新型の“アメリカ文学”の魅力をこの一冊にパッケージ!21世紀もっとも話題のアメリカ文学者・都甲幸治の第一評論集、ついに刊行。

今月は日本の小説を読もう、と思っていたのだけれど、どうにも飽きてしまってふと手に取った本。都甲幸治って誰ですか、って感じだったけど、柴田さんの教え子なんですね。ふーん。

まぁ買いかどうかは置いておいて、図書館で借りるくらいはいいんじゃないでしょうか。さっくり読めてしまうし、読み返すことはあんまりないと思うので。
いかんせん文章が粗いし、別にテーマがある訳でもない。深い考察がある訳でもない。ブックガイド? うん、そんな言葉がぴったり。引用を除いたら内容がほとんどなくなってしまいそう、そんな本です。「偽アメリカ文学」ってキャッチーな響きだけど、結局のところそれだけの話?って思わなくもないし、もっと掘り下げられるテーマだとは思うのだけれど。ところどころフーコーやらスピヴァクやらボードリヤールやら(アメリカ文学の話なのにドゥルーズは出てきません、がっかり)が出てくるけど、装飾、といった印象は拭えない。

だけど、幾つかの点で評価するとしたら、まず村上春樹の海外でのインタビューを訳して載せている点。これは、彼が海外メディアへのインタビューで色々な話をしていることは知ってるけど、別に調べるほどの関心はないよね、という人(僕のことです)にとって。二つめに、現代アメリカ文学の書き手を紹介してくれていることについて。とはいえ「翻訳では読めないアメリカ文学」にデニス・ジョンソンが載っているのはいかがなものか。刊行の時点で少なくとも『ジーザス・サン』は刊行されていたし、『煙の樹』だってエクス・リブリスの刊行予定にあったじゃないか。追記なりなんなりしとけよ、とか思ってしまいます。別に細部に突っ込みたい訳ではなくて、こうやってあちこちに書いた文章を1冊の本として刊行するんだったら、ある程度の一貫性はもたせて、内容も加筆・修正するべきだと思うわけです。まぁいいや。で、評価する3点めはドン・デリーロにかなりの頁数を割いて個別の作品を紹介していること。ドン・デリーロと言えば、そのほとんどの作品が絶版状態でなかなか手に入らない、「読みたいけど読めない作家」を典型する書き手ですね。古本高すぎだろ、とか思いつつ、いまだに『墜ちていく男』以外読めていません。評価は高いのに、日本での知名度はピンチョンやら故アップダイクやらコーマック・マッカーシーやらに比べるとさほど高くない印象。彼を紹介してくれた意義は大きい。ますます読みたくなった。これだけで、この本のブックガイドとしての役割は十分に果たされたと思う。
ドン・デリーロと言えば、半年位前にヘイドン・ホワイト(『メタヒストリー』は作品社からようやく、まもなく、いよいよ刊行予定)が来日したときの講演で、トニ・モリスンやゼーバルトと並んで、歴史を語る小説の書き手として高く評価していましたね。トニ・モリスンは『ビラヴド』をゼーバルトは『アウステルリッツ』を挙げていたけれど、デリーロは何だったろうか、『リブラ』だったか? そう、その講演自体もとても面白かったのだけれど(特にギンズブルクに対する再反論)、それはまた別の話。ただ、デリーロについて論じている中で都甲さんがホイットマンに言及しているのが示唆的だった。これは、本書に対する不満ともつながるのだけれど、あまりに現代文学の特異性みたいなのに重きを置きすぎている、というか記述を絞りすぎている。むしろ、例えばドゥルーズがマイナー文学として称揚してみせたような「アメリカ文学」と彼の言うところの「偽アメリカ文学」との結びつき、あるいは離接を論じて欲しかった。ドン・デリーロはそのための手がかりになる、ような気が本書を読んでいるときにはしたのだけれど。
今後の活躍に期待、といったところでしょうか。でもこんな文章書いてて翻訳とか大丈夫なの?とか不安になります。余計なお世話ですね。

2010年5月15日土曜日

古井由吉 『聖耳』

現代文学の達成をしるす最新連作小説
現し世に耳を澄ませば平穏の内にひろがる静かな狂躁生死の、夢現の、時間の境を越えて立ちあらわれる世界の実相

古井由吉です。いいですよね、彼の文章は。読んでいるだけで不思議な心地になります。ゆらゆらしてしまいます。
病院の描写をしているかと思えば、そこから全く違う世界を連想する。ある人の話を聞いているうちに、その人の語りの世界に入り込んで、いつの間にか自分自身がそれを追憶していく。ふと見つめた光景から過去を想起する。そんな風にして文章がどんどん重ねられていく。文章の余りの美しさに陶然としてしまう。そして、読み終わった後の余韻。『忿翁』を読んだときは、心情や内的な印象を、あくまで身体的に表現する描写の巧みさ、その生々しい感覚にやられてしまったわけですが。なんだか、読んでいるうちに、幻惑されてトリップしてしまうような、そんな感じです。内容というか、主題のようなものは、ほぼ一貫していて、それがさまざまな形式でもって反復的に語られています。「空襲」についての語りも多かったのが印象的だった。
この小説、というか古井由吉の小説って、彼と同世代の人が読んだら、どう感じるのだろう。年齢的な要素とか、時代的な要素によって、(とりわけ彼の小説の場合)全く小説の印象が違うんじゃないか、とか思ったりします。「老い」の感覚みたいなものを僕はまだ実感しているわけではないので、魅力的に感じたりもするんだけど、実際のところどうなんだろうなぁ。

しかし、つくづく美しい文章なこと。

2010年5月12日水曜日

森見登美彦 『四畳半神話体系』

私は冴えない大学3回生。バラ色のキャンパスライフを想像していたのに、現実はほど遠い。悪友の小津には振り回され、謎の自由人・樋口師匠には無理な要求をされ、孤高の乙女・明石さんとは、なかなかお近づきになれない。いっそのこと、ぴかぴかの1回生に戻って大学生活をやり直したい!さ迷い込んだ4つの並行世界で繰り広げられる、滅法おかしくて、ちょっぴりほろ苦い青春ストーリー。

周りには「えっ?」と引かれても、好きですよ森見登美彦。エンタメ小説なんだから面白くなきゃ。面白くないエンタメ小説なんて最悪だと思います。

ここまでやり切ってくれれば、もう文句の付けようがないでしょう。レトロな重々しさを装った独白調も、突っ込み待ちのボケも、ばかばかしい設定も、マニアックな京都ネタも、大学院などによくいそうなキャラクターも、みんないい。もちろん黒髪の乙女も。中村佑介さんのイラストがよく似合う。

どこがいいの?と聞かれても、僕自身が森見登美彦の小説を、いつもある種の共感でもって読んでしまうので、客観的な評価なんてできるわけがない。
だけどここに一つ問題があって、それは、僕が本谷有希子『生きているだけで、愛』はあんなに毛嫌いして、なんで共感するのか分からない、とか言っておきながら、森見登美彦にはあっさり共感してしまったということ。たまたま自分がそうじゃなかっただけで、本谷有希子の小説に共感する人はたくさんいる。
なのに、やっぱり自分の感性でもって小説は読むしかないから、どうしても好き嫌いが出てしまう。この「共感」というもの、あるいは共感が作り出す「読者」という集団ってよく考えるとけっこう不思議な代物。だから、客観的な評価なんてそもそもありえない、わけで。ただ、その他方で、名作と呼ばれる作品や、誰もが評価する小説が存在することも真実。こういう問題ってなんだか美学の学問領域の話みたいですね。まぁ僕が言いたかったのは、僕は森見登美彦は面白いと思う、というだけのことです。

2010年5月9日日曜日

本谷有希子 『生きているだけで、愛』

あんたと別れてもいいけど、あたしはさ、あたしと別れられないんだよね、一生。母譲りの躁鬱をもてあます寧子と寡黙な津奈木。ほとばしる言葉で描かれた恋愛小説の新しいカタチ。

これはちょっとないでしょう。なんで評価が高いのかちょっと理解できない。そんなに共感を呼びますか、びっくり。
何も書くことありません、本当に。
相性が悪いようなので、本谷さんは今回で打ち止めにします。ごめんなさい。

佐藤亜紀 『ミノタウロス』

20世紀初頭、ロシア。人にも獣にもなりきれないミノタウロスの子らが、凍える時代を疾走する。 文学のルネッサンスを告げる著者渾身の大河小説。

初めて読む、佐藤亜紀。海外文学大好きなんだろうなぁ、この人、というのが第一印象。
文章が読みにくい、という話はよく聞きますが、そんなことはない。むしろ読みやすいくらいでしょう。文章が格調高い、という話もたまに聞きますが、まだ僕にはよく分からなかったです。

なんというか、とりたてて書くことはないような気がします。面白い大河風エンタメ+ファンタジー小説、ってことで終わらせちゃだめでしょうか。だめですか。
多分、この小説の面白さの一つは、一人称の回想風の語りにあると思います。ユルスナールじゃありませんが、こうした回想風の語りにおいて、語り手はいつも真実を語っている訳ではないし、彼が語っていること、語っていないことに注目して文脈を埋め合わせていかなければならない、したがって読者の力量が問われることになる。きっと佐藤亜紀はこのことを承知の上で、戦略的にこうしたスタイルを採用したのでしょう。同時に、この一人称の回想風の語りのときに、僕がいつも思うのは、ラストシーンをどんな風に処理するんだろう、ということ。その意味で、この小説のラストシーンはちょっと面白い。死体が語る。そしてラストの一文。不思議な処理ですね。文字通り、些事ですが。

ミノタウロス、ということの意味はよく分かりません。ギリシャ神話?単純に、人間性と動物性の問題を提起したかったのでしょうか。でも、わざわざ内戦状態を(しかも、第一次大戦期の現ウクライナ周辺を)舞台に設定した意図は分かりません。主人公の性向やらが、この内戦状態と深く関わっているのであれば、「自然状態」における人間の動物性を描き出したかったのか?でもそんな感じもしないんですね。単純に少年が「非道」になっていく過程を、つまり転倒したビルドゥングスロマンとして描き出したかったんだと推察してはいるのですが、でも、なんでこの舞台設定?と思わずにはいられません。まぁ、別にどの舞台設定でもいいんでしょうけど。これ、舞台を同年代のアメリカ−メキシコ国境にしたら、コーマック・マッカーシーみたいになっちゃいますね。会話文の使い方といい。思弁性に欠けるコーマック・マッカーシーみたいな。
まぁでも面白かったです。別な本も読んでみます。

2010年5月7日金曜日

内田百閒 『冥途・旅順入城式』

いまかいまかと怯えながら,来るべきものがいつまでも出現しないために,気配のみが極度に濃密に尖鋭化してゆく――このような生の不安と無気味な幻想におおわれた夢幻の世界を稀有の名文で紡ぎだした二つの短篇集を収める.漱石の「夢十夜」にも似た味わいをもつ百間(一八八九―一九七一)文学の粋. (解説 種村季弘)

百閒、怖いよ百閒……
なんとも、薄気味悪い靄に包まれた小説群、その数47篇。
雰囲気というか、それこそ感覚的なレベルで怖いし、それが何よりも面白い。
冒頭の一節は、ごく日常的な、何の変哲もない描写のはずなのに、それがいつしか、不気味な異界へと移り変わっていく。
何でもない日常なのに、なんかいつもと違う気がする。誰かの気配がする。妙な気分になる。すると、その予感通り、日常の世界が、不気味で幻想的な世界へと変容していく。それが怖くて仕方ないし、もとの世界に戻りたいと思うのだけれども、どうすればいいか分からずに、あるいは何かに導かれるようにして、その世界の深みへと迷い込んでいく。
このいわく言語化し難い、感覚とか気配のレベル、それには誰しも駆られることがあるだろうし、それ故に百閒の小説は薄気味悪い。論理的に理解するとか以前に、その雰囲気が伝わってきてしまう。実際、何が何だかよく分からなかった小説が幾つもあったのだけれども、分かる/分からないの次元の問題ではなく、分からなくても十分怖い(ひょっとしたら「分かってしまう」ほうがもっと怖いのかもしれないけど)。

更に言えば、私たちが気味悪さや恐怖(場合によっては嫌悪感)を感じる対象は、日常と全く同じでもなければ、全く異質のものでもない。全く異質のものであれば、それは異化的な効果を生み出し、むしろ恐怖感から私たちは免れることができる。多分一番怖いのは、日常生活と同じように見えるけれど、どこかがおかしい、そういったときではないだろうか。
それは逆に言えばこういうことだ。ちょっとした細部の違いが恐怖を掻き立てる。そしてその細部に注目することによって、別の世界が姿を現す。このことはジジェクが『ラカンはこう読め!』で説明していた〈対象a〉や欲望の対象=原因を巡る記述と重なる部分があるのかもしれないけれど、だからどうということもないので、措いておく。

怪奇譚の怖さは、その内容によるのは勿論だけれど、なによりも語り口がそれを盛り立てる。百閒はこうした語り口、文章表現、描写、場面設定、効果音などなどが抜群に巧い。たった数行でなんとも面妖な雰囲気を作り出すことができる。だから、怖い。

ともあれ、内田百閒の面白さは日常から非日常へ、現実/幻想、生/死、人間/動物などという図式に頓着せず、両者のあわいを自在に往来しながら、短くてもこちらがむわっとするほど密度の濃い特有の世界を作り出すところにあるのだろう。怖い怖い連呼したけれど、それだけじゃない。「件」の末文にはなんとも脱力させられるし、「白子」のシュールさにはにやっとしてしまう。「冥途」は短いながらもどこかしんみりさせられるし、「山高帽子」の言語感覚には脱帽させられる。
怪奇譚にとどまらない、(カフカをも思い起こさせるような)寓話性にも富んでいる。とても面白い。

なんとも贅沢な短編集です。

2010年5月6日木曜日

ヴェルコール 『海の沈黙 星への歩み』

ナチ占領下のフランス国民は、人間の尊さと自由を守るためにレジスタンス運動を起こした。ヴェルコールはこうした抵抗の中から生まれた作家である。ナチとペタン政府の非人間性をあばいたこの二編は抵抗文学の白眉であり、祖国を強制的につつんだ深い沈黙の中であらがいつづけ、解放に生命を賭けたフランス人民を記念する。

古本屋で買った途端に復刊されてしまったヴェルコール。『星への歩み』は加藤周一が訳したのですね。
『海の沈黙』が1942年、『星への歩み』が1943年ですから、まさに「抵抗文学」と呼ぶにふさわしいだろうし、フランスの「国民文学」といってもいいかもしれません。画家であったジャン・ブリュレルが、抵抗運動のなかで、作家ヴェルコールとなる。こうした最中に書かれる作品が、誰に向けて書かれたものだったかといえば、「フランス国民(民衆)」だったであろうし、彼らを目覚めさせ、解放運動へと駆り立てていく、それがこうした作品の果たした役割だったかと思います。

何が言いたいかといえば、それがこの作品の魅力であると思うのだけれど、そのせいでいまいちこの小説に入っていけなかったんですね。フランスの描き方が、特に「あるべき」フランスの姿というのが、あまりにナルシシスティックというか、鼻についてしまった。しかも、それを「他者」に仮託している点にも違和感を抱いてしまった。具体的に言えば、『海の沈黙』のドイツ人将校フォン・エブレナクは、フランス文化に深い愛情を抱いており、ドイツによる侵攻の結果としてドイツとフランスが融合することを夢想している。『星への歩み』のトーマ・ミュリッツはフランス、特にパリを愛するあまり、フランスに帰化したユダヤ系(?)チェック人である。どちらからもフランスはこよなく愛されている。そしてその愛ゆえに、彼らは戦争の犠牲となっていく。それに対して、じゃあフランス人はどうする? こうヴェルコールが迫っているように感じてしまった。『海の沈黙』においてフランス人の「私」と「姪」は沈黙を守り続ける。最後の最後になって、彼らは口を開くことになるのだけれど、彼らのしたことと言えばそれだけである。フランス人の沈黙や無抵抗さをヴェルコールは挑発的に掻き立てているのではないか。
もちろん素直に読めば、ナチスとペタンなどそれに迎合したフランス人への弾劾なのだろうけれど、この2作が書かれた背景が、そうした読みに留まらせてくれない。彼らが抱くフランスへの愛こそ、フランスをまとめあげ、フランス国民を結びつける理念のあるべき姿であるにも関わらずそれが台無しにされてしまったこと、そしてそれを「フランス」が守るどころか、それを踏みにじったナチスへ迎合する姿勢すら示していること、ヴェルコールが弾劾しているのはまさにこの点なんだろうと思う。トーマやヴェルネル自身を描きたかったのではなく。

個人的にはいまいちでした。

2010年5月5日水曜日

矢部史郎 『原子力都市』

人文・社会科学の分野で異彩を放つ思想家・矢部史郎が、日本全国の「原子力都市」を自らの足で訪ね描いた現代日本地理。私たちは「鉄の時代」の次にあらわれた「原子の時代」の都市の全貌をいまだはっきりと把握できておらず、本書はそれを実際に都市を歩くなかから探り出そうとする。オバマ政権の誕生以降、あらためて注目をあびはじめた「核の時代」。こうした時代背景のなかで、「在野の思想家」のユーモアと鋭さを併せもつ分析の刃が、新しい時代の政治と文化を斬る。

都市を歩くことは難しい。都市を見つめることはもっと難しい。
何らかの目的なしに、都市を見つめ、感じ、語らうこと、それはよっぽどのことがなければできるもんじゃない。僕は「郊外」と呼ばれる場所に生まれて、「都会」にはうんざりするほど長い間通い続けている。今住んでいるところだって、「都会」と呼ばれる地域にある。僕は頻繁に、そこに行く。例えば、渋谷に行く(服を買いに、あるいは映画を観に)、銀座に行く(お昼を食べに、あるいは文房具を見に)、神保町へ行く(古本を漁りに、そしてコーヒーを嗜むために)、下北沢に行く(髪を切りに)……といったように。まるで、都市とは何かをするための場所で、街路はそのための通路でしかないかのように思いながら。
そんなとき、僕は都市を見てはいないし、それと語らってなどいない。なにもせずに都市と戯れながら、また思いを馳せつつ、ただ遊歩すること。それって単純な行為のようで、その実とても難しいことのように思う。

だけど、そういえば海外に旅行するとき、僕はひたすらに歩き回る。よくわからない住宅地に迷い込んだり、怪しげな界隈に入ったり、「ここは行った方がいいよ」と言われた場所に行き着けなかったり。そんなふわふわした散歩はとても好きで、そんなことを何日も続けていると、なんとなくその街のことが「分かった」つもりになったりする。けれど、それを続けていく中で今度は頭の中に地図ができあがってしまう。今までふわふわした、いわば混沌とした世界が、秩序付けられて、ここを行けばこっちに辿り着けて、本屋はここにあって、美術館地区はあっちにある、という具合に。そうすると、都市は、後景へと引き下がってしまって、「街を歩く」という楽しさも、ふわふわした感覚もなくなってしまう。それはもう帰ってこない。

勿論、これはごく私的な印象論に過ぎなくて、矢部史郎のこの本とは何の関係もない。この「都市」というものの掴みがたさや、「都市」そのものを意識することの難しさについて、僕は言いたかったのだ。

都市を見つめることは難しい。ましてや都市を研究することなど、僕にとっては不可能なことのように思える。
都市社会学(観光社会学を加えてもいい)や都市空間論について僕が感じる空虚さもこの点に関わってくる。こうした研究や、研究者たちは、結局のところ「都市」について何一つ語ってはいないのだから。彼らは、「郊外」について語る、あるいは「都市問題」について語る、「都市開発」について語る。しかし、「都市」そのものについては何も語っていないに等しい。それは「都市」について語ることの難しさを、そのまま浮き彫りにしている(ような気がする)。都市人類学と言えばいいのか、都市に住まう人々の(とりわけ移民やエスニックマイノリティなど)エスノグラフィックな調査なんかは結構面白いと思うのだけれど(例えば、松田素二さんの『都市を飼い馴らす』とか)。

そんななか、矢部史郎は本書で、それとは全く違う観点から、「都市」について思考している。本書は随想的でもあるし、紀行文のようでもある。そうした読み物として見ても、優れた著述だと思うし、難解な用語などほとんど出てこない。けれど、僕はこの本は、日本における都市研究の最先端なんじゃないか、とすら思う。彼は都市を歩くこと、都市を見つめること、そしてそれぞれの都市の観察を縫い重ねることによって、全く新しい「都市」概念を創り上げている。それが「原子力都市」である。

本書の冒頭、矢部は次のように語る。

「原子力都市」はひとつの仮説である。
「原子力都市」は、「鉄の時代」の次にあらわれる「原子の時代」の都市である。「原子力都市」は輪郭を持たない。「原子力都市」にここやあそこはなく、どこもかしこもすべて「原子力都市」である。どれは、土地がもつ空間的制約を超えて海のようにとりとめなく広がる都市である。(中略)
 生活が味気ないというだけのはなしはそろそろきりあげて、次の話をしようと思う。(pp.4-5)

では、「原子力都市」の特徴とは何か。それは、
①技術と投機的な巨大計画による専制とそれに伴う労働者の地位の喪失
②放射性物質の性質が、時間/空間の秩序を平滑化させる点。ひいては、資本主義的活動領域と非資本主義的活動領域との区分を無効化する点
であるという。どちらにおいても、(名前こそ挙がらないものの)U.ベックのリスク社会論との関わりが推察される。特に9.11以降、リスク社会論は少し違う意味合いもはらむようになったが、そもそもベックが念頭においていた出来事はチェルノブイリであり、近代社会を支えてきた技術革新が、そうした社会を破滅へと導くような放射能汚染や環境問題を生み出してきた。つまり、近代社会の推進力が近代社会そのものを掘り崩してしまうような再帰的状況、そのことを彼はリスク社会と呼んでいたように思う。そのリスクは、国境や階級を超え、まさしくグローバルに共有されるものであり、各国民-国家によって対処できる性質のものではない。彼が最近コスモポリタニズムに傾倒しているのはその当然の帰結なんだろう。(ベックを長らく読み返していないので、内容あやふやです。そもそもちゃんと読めてなかったか。)
話がそれた。リスクという言葉は、今日あらゆる領域へと拡散している。金融危機も、テロリズムも、偽装も、車の故障も、みんなリスクである。そしてそのリスクと最も結びつけられるのは、管理という言葉だ。企業のリスク・マネージメント。リスクをいかに読み込み、それに対処するか。そもそも目に見えず、管理できないからこそリスクなのだし、従ってリスク・マネージメントは十全には達成できない。だけれども(それゆえに)、あらゆるリスクに対処するために各企業は懸命な努力を続ける。そうしたリスク・マネージメントの対象になるのは、究極的には労働者に他ならない。リスク・マネージメントは、ある意味でそうした労働者の切り下げと、労働への没入の強要(古典的に搾取と呼んでもいいだろうし、「労務管理」とも呼べるかもしれない)の言い換えに他ならない。
矢部氏は、それを労働者から人材(ライヴ・ウェア)へと端的に表現している。

しかし、そうした中で、平滑空間と化した「原子力都市」の内部にはさまざまな蠢き、分子的運動が見られるという。そうした民衆の蠢動を、国家は都市計画という名の下に無力化させようとしてきた。にもかかわらず、そうした国家による統制を脱臼化させるような運動が起こっていることを彼は見逃さない。この点は少しマルチチュード的でもあるし、それゆえに正直に言ってやや楽観的な観測のようにも見えるけれど。
都市計画や首都圏の拡大(つくばエクスプレス、副都心線、スカイツリー)などをこうした文脈から捉えたことがなかったので、とても面白い。(とりわけ東京など)都市についての見方が変わることは間違いないし、そうしたパフォーマティヴな意味合いも本書にはあるのだろう。

難しい言葉はほとんど出てこないし、読み物としてもよくできている。その実ドゥルーズ=ガタリ、ハキム・ベイ、ネグリ=ハート、ウルリッヒ・ベックなどさまざまな領域から思想を汲み上げつつ、それと都市を見つめる独自の視線とを実に魅力的な形で組み合わせている。こんな面白い都市論ができるんだなぁ、と。とてもよい本。

2010年5月2日日曜日

本谷有希子 『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』

「お姉ちゃんは最高におもしろいよ」と叫んで14歳の妹がしでかした恐怖の事件。妹を信じてはいけないし許してもいけない。人の心は死にたくなるほど切なくて、殺したくなるほど憎憎しい。三島由紀夫賞最終候補作品として議論沸騰、魂を震撼させたあの伝説の小説がついに刊行。

なんというか、とっても分かりやすい小説。文章は粗い感じですし、日本語が上手という感じはしませんが、とりあえず、分かりやすい。突っ込みどころも多々ある。演劇的なのかどうかわからないけれど、すごく図式化しやすい感じ。この人はこういうキャラで、あの人はこんな感じ、で、こんなことがあって、二人の関係はこうなって……とか言った具合に。頭を使わずにそのまま読んでいけます。分かりやすい分、強烈な面白さはあります、きっちり落としますし。人物造形が余りにも平面的とか、リアクション(行動・振る舞い)がわざとらしい、とか、登場人物に人間味がない(役柄とかキャラみたい)とか、こういう点に突っ込みを入れてはいけないのかな。著者の思うつぼのような気がします。

ただ、どうにも気になるのは、ここまで家族の死をぞんざいに扱った小説はそうはないだろう、ということ。両親が死に、更にはその息子も死んでしまうのというのに、人を悼む、という感情が(登場人物の誰一人として)これっぽっちも見られないのはどういうことか。葬式も、仏壇も、まるで登場人物の書き割りや場面設定に過ぎない。いくらなんでも、これはやり過ぎだと思うが、他方でこの感性の決定的な欠落こそが、現代の若手作家の特徴なのかもしれない。あとは、描写力の貧しさと世界の狭さか。それでも(ごく短時間に)読ませてくれる、その疾走感は心地よい。