少年ピンが加わったパルチザン部隊は、“愛すべきおちこぼれ”たちのふきだまりだった。普段、酒や女で頭がいっぱいの彼らが「死」をもってあがなおうとしているのは何なのだろう。なんとも嫌らしくて、不可解な大人たちである。パルチザンの行動と生活を少年の目を通して寓話的に描く。奇想天外な現代小説の鬼才・カルヴィーノの文学的原点の傑作。
パルチザン。なんともかっこいいイメージ。ファシストによる弾圧を耐え忍び、来るべき社会にために武器を手に取る闘士たち。そんなイメージをこの小説はこれでもか、っていうくらいに打ち壊してくれます。1946年にこの小説が発表されたこと、それ自体が大きな驚きでした。この時代、恐らく人々は解放感でいっぱいだっただろうし、自分がその解放のためにいかに闘ってきたか(実際にどうであったかは置いておいて)を盛んに主張していたことだろう。そんななかでこの小説はひとつの「爆弾」だったかもしれない。マスター・ナラティヴに抗すること。民衆の側から、「そうではなかった」、あるいは「そうであったのになかったことにされてきた」歴史を描くこと、これがネオ・レアリズモ文学というものなのかな、と僕は思います。タブッキの『イタリア広場』しかり、ヴィットリーニしかりパヴェーゼしかりギンズブルグしかり、そしてカルヴィーノのこの小説しかり。イタリアの文学にはそうした伝統が脈々と流れ着いているようです。あるいはオルミの『木靴の樹』もそうした系譜に位置しているのかもしれません。
ピンにとって大人たちはみな不可解で信用の置けない存在に見える。黒シャツのファシストもパルチザンも大差なく、大人たちはみな酒やら女やらピストルやら、そんなものに夢中になっているだけだ、と。ピンの所属する師団は吹き溜まりのようなところで、そこにはパルチザンの理念も、全体主義社会への反発もなにもない。それは闘士というよりも落伍者の集団だった。
確かにパルチザンに参加した者たちみなが、崇高な理念の下に結集した、という訳ではないだろう。やむにやまれぬ事情があったり、行き場所がどこにもなかったり、そうやって人が集まっていったのかもしれない。小説の後半部で、キムという人物が登場する。彼の発言・思想はこの小説のなかで奇妙に際立っている。キムもまた、ファシストたちと自分たちパルチザンの間にはほとんど違いはない、ただ向きが逆なだけだと。自分たちは正しい方向を向いているが、彼らのそれは誤っている、私たちは「歴史の一部」になることができるけれども、彼らは歴史を作ることはできないのだと。その上で、いわば偶発的に集まってきた人々を、正しい方向に向けさせるのが自分の役割であると、キムは考える。ここでの「歴史」とはマスター・ナラティヴのことではないだろう。むしろ一人一人の血が通うような生きられた「歴史」とでもいうのだろうか(難しい、少し保留で。けど竹内好ならば恐らくこうした「歴史」が息づいた文学のことを「国民文学」と呼んだだろう)。解説やあとがきを読んでいると、カルヴィーノはピンとキムの両方に自分を照射していたのではないか、との指摘がある。そうであれば、キムが「人々を正しい方向に向けさせるのが自分の役割」と思ったように、カルヴィーノもまた解放後の浮ついた社会の中で、再び人々を正しい方向に向けさせていくのが自分の役割であると考えたのだろうか。
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