2009年12月17日木曜日

上野修 『スピノザの世界』

スピノザの思想史的評価については多くのことが言われてきた。デカルト主義との関係、ユダヤ的伝統との関係。国家論におけるホッブズとの関係。初期啓蒙主義におけるスピノザの位置。ドイツ観念論とスピノザ。現代では、アルチュセール、ドゥルーズ、ネグリ、レヴィナスといった名前がスピノザの名とともに語られる。スピノザはいたるところにいる。が、すべては微妙だ。たしかにスピノザについてはたくさん言うべきことがある。そのためにはスピノザの知的背景と時代背景、後代への影響、現代のスピノザ受容の状況を勉強する必要がある。けれども、まずはスピノザ自身の言っていることを知らなければどうしようもない。そのためには、スピノザがどこまで行ったのか、彼の世界を果てまで歩いてみるほかない。彼が望んだようにミニマリズムに与し、彼の理解したように事物の愛を学ぶほかないのである。

いい本。
僕はこれまでスピノザには惹かれるものを感じてたんだけれども、なかなか近づくことができなかった。これまで読んだのは「小エチカ」と「エチカ」の前半くらい。「小エチカ」も旧仮名遣いだから難儀しながら(慣れればそれほどでもないのだろうけど、いまだに訓練が足らずあまり得意ではありません)読んだ記憶があり、内容もふむふむと思いながらもとても咀嚼し切れなかった。「エチカ」もあの装置の中になかなか飛び込んでいけずに、よいしょ、と飛び込んではみたけれども上手く行かず途中で投げ出してしまった、という恥ずかしい(これは本当に恥ずかしい…)記憶があります。
上野さんはこの新書で「エチカ」の読解を中心に据えています。ポイントを抑えた引用と丁寧な解説、入門書としてこれ以上ないほどオーソドックスな形。上野さんの思想とスピノザの思想が実に上手く噛み合っているような印象をうけます。でも、この1冊だけじゃ分かったつもりにならない。それがこの本のいいところ。この本を読んだ人は、きっと「エチカ」を読みたくなる。あるいはスピノザのほかの著作を。またはドゥルーズの「スピノザ」を読みたくなるかもしれない。スピノザの哲学には何かが息づいているのだろうか。上野の新書も、またドゥルーズの『スピノザ』も、それぞれの書き手のスピノザと彼の思想に対する共鳴・思い入れで溢れている。そして、それが読む人の心をうつ。不思議なことです。スピノザの思想を「理解」する前に、そうした共感が先立っているかのようです。
僕もスピノザの何たるかなんて全くわかっていないけれども、不思議な親近感を抱いてしまっています。嫌なことがあったときや自分の有り様にうんざりしたとき。そんな時に哲学というものがこれほどまでに人を助けてくれるとは思いもよらなかった。ちょっとした予感がある、それは僕がこれからの人生でスピノザを読み続けることになるだろう、ということ。
『エチカ』を読み直そう、と決意。

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