ポスト構造主義の限界をえぐり出し、西田哲学との通底性を探り出す本格的なミシェル・セール論。ミシェル・セールの哲学が、いかなる独創を有し、またどのような意図を持ったものであるかを解明する。
ミシェル・セールが気になっていて、けれどもただ読んでいくと彼の文体に幻惑されてなんだかわからぬままに終わってしまう、そんな危惧もあって彼の思想に分け入る指針のようなものを探していて手に取った本。まぁ勿論彼の文章に陶然となって引きずり込まれる経験をするという手もあったのだけれど。
しかし、まぁなんというか僕にはえらく難解でした。何回挫折しそうになったことか。セール自身の思想は「従来の思想」との相違という形をとって丁寧に繰り返し説明しているので読んでいくうちにつかめるだろう。だけど、その前提としてライプニッツ以降の哲学史についてのある程度の理解が必要とされる。とりわけライプニッツの解釈についての「従来の」思想史の中での理解、という点があまりに僕が知識が浅かったので、セールの思想の特異性というのをぼんやりとしか掴むことはできなかった。これはとても惜しいことだったと思います。ただ、基本的に他の思想家との比較、対比に基づいて議論を進めていて、セールの思想の重要な要素についてはかなり繰り返し指摘してあるので、背景知識が欠けていても我慢して読んでいけば少しずつ、分かってくる…かもしれない。しかしセールといわゆる「ポストモダン」の思想家との隔たりは、とりわけドゥルーズとの隔たりはそこまで大きいのかなぁと思ったりもした。とくにドゥルーズの内在平面が、それが全てを内在する「一=全体者」を志向しているとする批判。こうやって言葉で書いていると「あぁ、そうかもしれない」とも思ってしまうんだけどどうもすっきりしなかった。とりわけ最終章の西田における「場所」についての考察を読んでいくなかで。いや、ドゥルーズの議論にそういった「限界」があるのか、ということに僕が思い至らなかっただけのことなんだろうけど。むしろ、僕は内在平面というものをここで扱われるような西田における「場所」に近いものとして捉えていた。まぁそれが単に誤読だっただけかも知れないけど、そうした方向にドゥルーズを読み深めることもあるいはできるんじゃないか、とか思ったりもしました。最終章だって、西田の思想についてもう少し読んでいれば、きっと面白い発見が幾つもあったろうなぁ。
とにかくもっと勉強しなきゃ、と。それに尽きますね。そしてまた読み返したいなぁ。『来るべき思想史』、すぐに手を出そうか、すこし後にしようか。
…やっぱり思い直したんだけれども、このドゥルーズ批判はいかがなものかと。バディウのドゥルーズ批判を検証なしに受け入れてしまっているのではないかと感じます。バディウのドゥルーズ理解はあまりにも一面的だし、彼の批判自体は極めて恣意的なものだと思うことがある。そしてセールが語るドゥルーズについても、もう少し注意深くなる必要があるのかもしれない。
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