2009年12月29日火曜日

姫野カオルコ 『もう私のことはわからないのだけれど』

動けないし、しゃべれないし、
もう私のことはわからないのだけれど……。

母は、だれかが自分を訪ねて来てくれたことが、よくわかっています。
いちばんきれいな顔で迎えてくれますから。


母、父、子ども……。家族について
日本のどこかに暮らすごく普通の人がふともらしたつぶやきを、
作家・姫野カオルコが写し取った掌編小説集。

だれにも言えない本当の気持ちを
この本を開く時ならぶつけてもいい。

ひとりで泣くこともある、あなたに贈る愛の詩。


しっとりといい本です。新聞かなにかへの投稿のような形式を取っていて、おやっと思いますが、すぐに引き込まれます。とても優しい世界。まだないけれど、これから親やら親族やらを介護していかなくてはならないことになる。それはきっと愛憎が文字通り渦巻く世界で、とてつもなくしんどいことなんだろう。けれども、そのなかで彼らが呟く言葉、それら一つ一つはとってもシンプルなものの積み重ねなんだけれど、なんともいえない重み、温かさが詰まっている。それが何にも知らない僕にも伝わってくる。そして僕もいつか彼らの側に立つ。その次は彼らに介護される側に。それはどうしようもないことで、ただその日が来るのを待つしかない。けれどそれを待っているあいだに彼らの呟きが聞けたこと、これはやっぱりいいことだったと思う。

2009年12月17日木曜日

上野修 『スピノザの世界』

スピノザの思想史的評価については多くのことが言われてきた。デカルト主義との関係、ユダヤ的伝統との関係。国家論におけるホッブズとの関係。初期啓蒙主義におけるスピノザの位置。ドイツ観念論とスピノザ。現代では、アルチュセール、ドゥルーズ、ネグリ、レヴィナスといった名前がスピノザの名とともに語られる。スピノザはいたるところにいる。が、すべては微妙だ。たしかにスピノザについてはたくさん言うべきことがある。そのためにはスピノザの知的背景と時代背景、後代への影響、現代のスピノザ受容の状況を勉強する必要がある。けれども、まずはスピノザ自身の言っていることを知らなければどうしようもない。そのためには、スピノザがどこまで行ったのか、彼の世界を果てまで歩いてみるほかない。彼が望んだようにミニマリズムに与し、彼の理解したように事物の愛を学ぶほかないのである。

いい本。
僕はこれまでスピノザには惹かれるものを感じてたんだけれども、なかなか近づくことができなかった。これまで読んだのは「小エチカ」と「エチカ」の前半くらい。「小エチカ」も旧仮名遣いだから難儀しながら(慣れればそれほどでもないのだろうけど、いまだに訓練が足らずあまり得意ではありません)読んだ記憶があり、内容もふむふむと思いながらもとても咀嚼し切れなかった。「エチカ」もあの装置の中になかなか飛び込んでいけずに、よいしょ、と飛び込んではみたけれども上手く行かず途中で投げ出してしまった、という恥ずかしい(これは本当に恥ずかしい…)記憶があります。
上野さんはこの新書で「エチカ」の読解を中心に据えています。ポイントを抑えた引用と丁寧な解説、入門書としてこれ以上ないほどオーソドックスな形。上野さんの思想とスピノザの思想が実に上手く噛み合っているような印象をうけます。でも、この1冊だけじゃ分かったつもりにならない。それがこの本のいいところ。この本を読んだ人は、きっと「エチカ」を読みたくなる。あるいはスピノザのほかの著作を。またはドゥルーズの「スピノザ」を読みたくなるかもしれない。スピノザの哲学には何かが息づいているのだろうか。上野の新書も、またドゥルーズの『スピノザ』も、それぞれの書き手のスピノザと彼の思想に対する共鳴・思い入れで溢れている。そして、それが読む人の心をうつ。不思議なことです。スピノザの思想を「理解」する前に、そうした共感が先立っているかのようです。
僕もスピノザの何たるかなんて全くわかっていないけれども、不思議な親近感を抱いてしまっています。嫌なことがあったときや自分の有り様にうんざりしたとき。そんな時に哲学というものがこれほどまでに人を助けてくれるとは思いもよらなかった。ちょっとした予感がある、それは僕がこれからの人生でスピノザを読み続けることになるだろう、ということ。
『エチカ』を読み直そう、と決意。

2009年12月7日月曜日

岡田英弘 『歴史とはなにか』

 歴史は科学ではなく物語である。インド文明は「歴史のない文明」だ。「中世」なんて時代区分は不要。資本主義経済はモンゴル帝国が世界に広めた。フランス語は人工的に創り出された言葉。十九世紀末まで「中国人」はいなかった。文献通りなら邪馬台国はグアム島あたり。神武から応神までの天皇は実在しない。『古事記』は最古の歴史書ではない……など、一見突飛なようでいて実は本質をついた歴史の捉え方。歴史学者としての年来の主張を集大成した、まことにエキサイティングな論考です。

んなこたーない。
いま、「歴史」にまつわる新書の企画を立てていて、関連書籍をとりあえず斜め読み。だめだね、これ。Amazon高評価=面白いってわけではない何よりの証拠(あるいは僕の感覚がずれているという証拠か)。歴史は物語って、そんな簡単に言えちゃうもんですか。もう少し考えてみたいなぁ。とにかく「アイデンティティ」やら「文明」やら文脈依存的な言葉を説明もせず使いすぎですって。あなたのいう「アイデンティティ」って何よ?とか「マルクス主義歴史学」の弊害ってそういうことなの?それって寧ろ近代主義批判でなくて?とかつっこみたくなります。亀井勝一郎のほうが数段まともな批判をしていたのではないかと。「インド文明は歴史のない文明である」って、そりゃ「インド」なる概念が構築されたのがイギリスの植民地主義の下でのことなんだから、そんな大仰に言わなくても…。
うーん、どう考えても岩波新書の『歴史とは何か』の方がいいよねぇ。明らかにタイトル被せているのに全く言及がないってのも不思議な話ですが。あぁカーのやつも読み返さねば。

とはいえ、とはいえです。ちゃんと読んでみたら面白いのかもしれません、一応。

2009年12月3日木曜日

プブリウス・オウィディウス・ナソ 『恋愛指南』

愛の名著か背徳の書か.詩人に名声と流刑の運命をもたらした教訓詩は機知と諧謔で人の世の望みに応える.航海術や馬術同様,恋愛にもわざがある.遊びの恋,戯れの愛,洒脱と雅を離れることなく,知的にことを運ぶには…当時の男女に伝授する奇手巧手の話から〈黄金のローマ〉の社会や文化へと読者はいつしか誘われる.

定評のある沓掛さん訳、なんともくだらな面白い本です。3巻構成で、1巻は男性が女性を口説き落とすためのテクニックの伝授、2巻目は落とした女性をどうやってキープしておくかの秘訣の伝授、3章は女性はいかに男性の誘いを引き寄せるかの技法の伝授。とはいえ、この本の内容を本気にした人は(まさかいないだろうけど…)まぁ痛い目にあるでしょうね。
なんてゆうか、こういう発想の人って今の時代にもいるし人間なんてものはそう変わるものではないんですね、どの時代でもどの地域でも。とはいえ古代ローマというのはひどく男性中心的な社会だったんですね、まぁそれも今でも大して変わらないですか。

オウィディウスの活躍した時代のローマ、あるいはオウィディウス自身の生涯について、僕はほとんど知らなかったので、この解説はとても興味深く読みました。

しかし、恋愛=異性愛となったのはいつからなのだろう。『饗宴』を読む限りでは、恋愛=異性愛という図式は必ずしも成立していない気がする。一方、この本が想定しているのは、異性愛であることは明らかだ。この間に一体何があったのか。よく分からないけれど、あるいはこうした著作それ自体がこうした図式を強化・再生産させる作用を果たしたと言えるのかもしれないし、『饗宴』の中にも、僕が忘れているだけであるいは、恋愛=異性愛図式が成立していたのかもしれない。