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2010年7月17日土曜日

ナンシー・ヒューストン 『暗闇の楽器』

現代のマンハッタン/暗黒の中世フランス、二つの世界が時空を超えて交錯する奇跡のパラレル・ストーリー。高校生が選ぶゴンクール賞受賞作。

ナンシー・ヒューストンです。『時のかさなり』に続いて二作目。本書は1996年の作品。『時のかさなり』は2006年の作品ですから、少し前に書かれたものですね。どうりで若書きなところも……と言いたいところですが、訳者あとがきによれば本書が書かれたのは小説家としてデビューして15年目なんだとか。うーん、それにしては随分と肩肘張っている感じ。

この『暗闇の楽器』は2つのパートが交互に重ねられ、同時進行的に進んでいくスタイルをとっています。「復活のソナタ」は17世紀フランスを生きる双子の運命をたどった小説で、「スコルダトゥーラの手帖」はその小説を書いているナディアを追ったもの。だから読みながら、バルナベとバルブという男女の運命に翻弄される生き様を追いながら、それを同時進行的に書き進めていくナディアの回想、友人や元恋人、家族との関わりも追っていくことになります。メタ小説とでも言うんでしょうか。更にナディアは小説を書き進めるために悪魔ダイモーンの力を借りていて、ダイモーンの語りとナディアの書く小説が次第にズレていきます。これを面白いと取るか陳腐と取るか。
「復活のソナタ」だけ独立して読んでも面白い小説だと思うけれど(佐藤友紀っぽい?)、ナンシー・ヒューストンがやりたかったのはむしろ「スコルダトゥーラの手帖」なんでしょうね。

作家が創作を進めている場面、これは裏方(裏-局域?)のところであまり見てはいけないというか、見せたがらないところなんじゃないかと思うけれど、彼女はそのブラックボックスをあけすけに晒してしまう。創作とは単に作家が作品を書くことじゃないということ、作家はゼロ地点から創作をスタートするのではなく、悪魔的なものの力を借りつつ物語を始め、その物語が作者に交感し、作者は作品を動かしていく。そんな過程をこの「スコルダトゥーラの手帖」のパートはうまく描いている。この悪魔とのやり取りは、ちょっといかにも過ぎて寒々しいけれど、目次の前にこう書かれていることを忘れてはいけないのでしょう。

『復活のソナタ』のエピソードの多くは、アンドレ・アラベルジェールが『ペリーの耕作人たちの日々』(セルクル・ジェネアロジック・デュ・オー=ベリー出版、1993年)の中で語っている実際の出来事に着想を得ている。

こんな本があるかどうか、こんな出版社があるのかどうか、こんな著者がいるのかどうか甚だ疑わしいところですが。何かのアナグラムなのでは?と疑ってしまいます。また「実際の出来事」などという不用意な言葉遣いをするとも思えませんし、きっとこれもナンシー・ヒューストンの創作なんだと思います。そのことは話を複雑にさせてしまうので、とりあえず脇に置きましょう。

この但し書きに従えば、本書に登場する悪魔ダイモーンというのは、結局のところアンドレ・アラベルジェールに他ならないし、悪魔の語りとはこの『ペリーの耕作人たちの日々』なる本ということにならないでしょうか。単に悪魔の語りに従うのであれば、それは単なる口述筆記でしかないし、以前の何かの剽窃ということになってしまいます。このパートから僕が学んだことというのは、先も触れたようにまず、創作というのはゼロ地点からスタートするものではないということ。そしてもとにある「何か」が次第に運動し始め、その運動と作者の筆致、生き様などと共鳴を始める。その共鳴によって、「何か」が元来であれば導いていくであろう方向から逸れていく。この逸脱こそが創作なのではないでしょうか。(余談ですがジャック・ランシエールが「人間は文学的動物である」というのは、まさにこの逸脱とも深く関係するように思います。)

これはナンシー・ヒューストンのお師匠さんに対する一つの回答なんでしょうね。

2010年7月16日金曜日

パスカル・キニャール 『アマリアの別荘』

夫の浮気を知ったアンは、決然とすべての生活を“処分”して、新たな人生を始めるための旅に出る。さまざまな出逢いが交錯し、思いがけない事態が迫りくる。彼女は安らぎの場所を見いだせるのか?…現代フランスを代表する作家の集大成にして傑作長篇。

完全にやられてしまいました。今年読んだ本のなかでトップ3に入るんじゃないか、と思うくらい。ページを早く捲りたい、けれども捲る毎に残りページが少なくなっていくのが惜しくてしょうがない。一節一節の文章の美しさに陶然としていると、あっという間にページ数と時間が過ぎ去っていく。終わって欲しくない、いつまでもこの世界が続いて欲しいと思わず願ってしまうようなそんな小説。何だろう、行間すら、版面の文字と空白のバランスすらも美しい、といったらさすがに褒め過ぎだろうか。そんな風に感じるほど、とにかく僕はこの小説にやられてしまったのです。

何でなのか。それを説明しなきゃ何も伝わらないし、できればそれを言葉にして伝えたい、と思うのだけれどどうもうまくいかない。ちょうど、ジョルジュがアンを愛し、アンがアマリアの別荘とレナを愛したように、訳も分からず惹かれてしまったのだ、……とでもいえば格好がつくだろうか。アン・イダンという女性を軸に物語は進むのだけれど、時折人称は入れ替わる。入れ替わるようで入れ替わらない。アンの一人称のような、三人称のような。アンは「私」であり「彼女」でもあり「アン」でもあり、「エリアンヌ」でもある。時に「私」はアンであり、シャルルでもある。この距離感とその揺れ動きが絶妙なリズムで折り重ねられる。そして、随所に見られる音楽への言及。音楽的という言葉が指す内容はよく分からないけれど、確かに構成なんか交響曲っぽいのかな。後付けですが。そういえば小説も楽譜も同じく紙とインクからできているんだった。

何がそんなにいいのか全く伝わらないままですが、とりあえず、おすすめです。

2010年5月6日木曜日

ヴェルコール 『海の沈黙 星への歩み』

ナチ占領下のフランス国民は、人間の尊さと自由を守るためにレジスタンス運動を起こした。ヴェルコールはこうした抵抗の中から生まれた作家である。ナチとペタン政府の非人間性をあばいたこの二編は抵抗文学の白眉であり、祖国を強制的につつんだ深い沈黙の中であらがいつづけ、解放に生命を賭けたフランス人民を記念する。

古本屋で買った途端に復刊されてしまったヴェルコール。『星への歩み』は加藤周一が訳したのですね。
『海の沈黙』が1942年、『星への歩み』が1943年ですから、まさに「抵抗文学」と呼ぶにふさわしいだろうし、フランスの「国民文学」といってもいいかもしれません。画家であったジャン・ブリュレルが、抵抗運動のなかで、作家ヴェルコールとなる。こうした最中に書かれる作品が、誰に向けて書かれたものだったかといえば、「フランス国民(民衆)」だったであろうし、彼らを目覚めさせ、解放運動へと駆り立てていく、それがこうした作品の果たした役割だったかと思います。

何が言いたいかといえば、それがこの作品の魅力であると思うのだけれど、そのせいでいまいちこの小説に入っていけなかったんですね。フランスの描き方が、特に「あるべき」フランスの姿というのが、あまりにナルシシスティックというか、鼻についてしまった。しかも、それを「他者」に仮託している点にも違和感を抱いてしまった。具体的に言えば、『海の沈黙』のドイツ人将校フォン・エブレナクは、フランス文化に深い愛情を抱いており、ドイツによる侵攻の結果としてドイツとフランスが融合することを夢想している。『星への歩み』のトーマ・ミュリッツはフランス、特にパリを愛するあまり、フランスに帰化したユダヤ系(?)チェック人である。どちらからもフランスはこよなく愛されている。そしてその愛ゆえに、彼らは戦争の犠牲となっていく。それに対して、じゃあフランス人はどうする? こうヴェルコールが迫っているように感じてしまった。『海の沈黙』においてフランス人の「私」と「姪」は沈黙を守り続ける。最後の最後になって、彼らは口を開くことになるのだけれど、彼らのしたことと言えばそれだけである。フランス人の沈黙や無抵抗さをヴェルコールは挑発的に掻き立てているのではないか。
もちろん素直に読めば、ナチスとペタンなどそれに迎合したフランス人への弾劾なのだろうけれど、この2作が書かれた背景が、そうした読みに留まらせてくれない。彼らが抱くフランスへの愛こそ、フランスをまとめあげ、フランス国民を結びつける理念のあるべき姿であるにも関わらずそれが台無しにされてしまったこと、そしてそれを「フランス」が守るどころか、それを踏みにじったナチスへ迎合する姿勢すら示していること、ヴェルコールが弾劾しているのはまさにこの点なんだろうと思う。トーマやヴェルネル自身を描きたかったのではなく。

個人的にはいまいちでした。

2010年4月29日木曜日

マルグリット・ユルスナール 『とどめの一撃』

「エリック、なんて変ったんでしょう」ともに少年期を過ごした館に帰り着いたエリック、コンラートのふたりを迎えたのはコンラートの姉ソフィーだった。第一次世界大戦とロシア革命の動乱期、バルト海沿岸地方の混乱を背景に3人の男女と愛と死のドラマが展開する。フランスの女流作家ユルスナール(1903‐87)の傑作。

ユルスナールの中編小説。岩波文庫版で読みましたが、現在は白水社のユルスナールコレクションに「アレクシス」などとともに収録されているようです。

小説の前に、映画の話を。この『とどめの一撃』は1976年にフォルカー・シュレンドルフによって映画化されています。シュレンドルフといったらニュー・ジャーマン・シネマを代表する映画監督の一人ですね。本作や「ブリキの太鼓」など文芸作品の映画化を得意にしている印象です。トゥルニエの『魔王』やムージルの『テルレスの青春』も映画化しているんですか。

この映画が日本語字幕付きでYoutubeに落ちていたので、ついでに観てみました。個人的にはそこまでいい映画とも思いませんでしたが、いつ消されるかわからないので、気が向いたら観てみてください。

ちなみに(真偽はさておき)この映画を観て、ユルスナールは「フェミニズム映画だ」と発言したらしいです。確かに言わんとすることは分かる気がします。エリックの一人称の独白もあって、小説ではエリックの葛藤やら抑圧やらが巧みに描き出されています。しかし、それを映画は表現できません。更に1970年代半ばという時代背景も相まってか、ソフィーの振る舞いや行動が映画の進行の鍵となっていきます。ひょっとしたらその点を指して、「フェミニズム映画」だと評したのかもしれません。
更にそれよりも大きな相違がこの映画と小説のあいだにはあります。映画においては、エリックは露骨なくらい明らかに、コンラートに対して恋愛感情を抱いています。むしろこの三角関係とその末路を描き出すことにシュレンドルフは執心しているように感じられました。このエリックのコンラートへの愛というのは、小説ではほとんど前景化していません。そして、そのせいでラストシーンの魅力が大いに減ぜられているのも事実です。

個人的な印象としては、エリックは自分の独白以上にソフィーを愛していただろうし、ともすればそれ故に彼女を遠ざけ続けたのだと思います。他方で、コンラートに対してもエリックが強烈な愛情を抱いていたのだろうとも。
とはいえこのことは置いておいて、まず、ユルスナールがわざわざ付けた「序」について。
この「序」はオリジナルの刊行当時(1939年)にはなく、1962年に書き足されたものあったもの、とのことです。どういう経緯なのかは分かりません。でも、これがあとがきではなく冒頭に置かれているがゆえに、読者は本文を読む前に、この解説めいた「序」を読まなくてはいけなくなります。丁寧にも、本作の背景、構成、形式、主題、鑑賞のポイント、などをあらかじめ教えられることになります。
これがエリックの独白(待合室での聞き手を想定しない語り)によってなされていること、そしてそれ故に必ずしもその語りをそのまま鵜呑みにしてはならず、読者は語られたことに注目するだけではなく、語られなかったことにも注目しなければならない、と警告されます。そんなことをいわれるとどんな読者だって注意深く彼の独白に耳を傾けることになるでしょうし、(ときに過剰なまでに)その行間を埋めていこうとするはずです。
その「序」から1カ所だけ引用すると、

『とどめの一撃』の中心主題は、なによりもまず、同じ窮地に立たされ、同じ危険にさらされたこれら三人に見られる種族の共通性であり、運命の連帯感なのだ。なかでもエリックとソフィーは、自分自身の極限まで行き着こうとする一徹さと情熱的な趣味によって似通っている。ソフィーが過ちを犯すのは、誰かに身をまかせたい、誰かの気に入りたいという欲望よりもはるかに、身も心も捧げ尽くしたいという欲求からなのである。コンラートに対するエリックの愛着は、肉体的行動以上のものであり、感情的態度を超えるものとさえいえる。

残念ながらエリックはコンラートについて多くを語らなかった。その語らなかったことが何を意味するのかは、様々な捉え方があるだろう。最後にソフィーは命を落とし、それを「悔い」として引き受けたエリックのなかでソフィーは生き続けることになる。いわばソフィーは身も心もエリックに捧げ尽くすことを貫徹し、それによってエリックのなかで「生きる」ことになるんだろう。エリックはコンラートにとどめを刺すことができなかった。何度もその誘惑に駆られながらも、卑怯さ故にそれを達成することができなかった。しかし、ソフィーに対してはそれが可能だった。ソフィーにとどめを刺すことができたのはソフィーがそれを望んでいたからで、コンラートにとどめを刺すことができなかったのは、それを望んでいるかどうか分からなかったからなのかもしれない。この三者の関係は愛と憎悪と死と沈黙が入り交じっていて、とても捉えにくい、というのが正直なところ。ユルスナールの解説以上のことを書こうとしたけれども、僕の技量ではとてもできませんでした。

2010年4月20日火曜日

マルグリット・ユルスナール 『東方綺譚』

古典的な雅致のある文体で知られるユルスナールの一風変ったオリエント素材の短篇集。古代中国の或る道教の寓話、中世バルカン半島のバラード、ヒンドゥ教の神話、かつてのギリシアの迷信・風俗・事件、さては源氏物語など、「東方」の物語を素材として、自由自在に、想像力を駆使した珠玉の9篇。

マルグリット・ユルスナールの短編集。オリエント(日本、中国、インドからギリシャ、スラヴ諸国まで)の小説、逸話、伝承などから自由に発想が広がっていく。短いながらも良くまとまった、いい短編集です。
ただ面白い話があるだけではない。かといって教条じみているわけでもない。じんわりと「何か」が伝わってくるような、そんな寓話ぞろいです。
ユルスナールらしい、というべきなのかわからないけれど、端正な文章でとても魅惑的かつ幻想的です。翻訳もその雰囲気をよく伝えてくれている。
オリエントというのは、やはり幻想的な着想を羽ばたかせるには格好の素材なのですね。異教の神々、ニンフなどへの関心が読み取れるのは、彼女らしいなぁ(よくわからないけれど)。
冒頭の「老絵師の行方」と最後の「コルネリウス・ベルクの悲しみ」を対比的に読んでみるととても面白い。これを東−西の図式に置き換えてはいけないのだろうけど。
そういえば「コルネリウス・ベルク〜」にはチューリップ狂が登場する。チューリップの蒐集と新種開発への執心、その市場化の過程は、近代植民地=資本主義を(オリエンタリズムと呼んでもいいのだろうが)想起させる。オリエントを蒐集し、展示・園芸すること、そしてオリエントそのものをも開発創造すること(ウマ・ナラヤン「文化を食べる」参照)。あえて、一歩引くならば、ユルスナールもまたこうしたチューリップ狂とさほどの違いはないのかもしれない。彼女もまた「オリエント」を蒐集し、創造したわけだから。
とはいえ他方で、「オリエント」という他者を構築することは、その対極としての「自己」を創造することでもあった。オリエントを堕落した、色黒い、醜い存在とみなし、そうではないものとして「西洋」を位置づける。こうした点について酒井直樹は「有徴―無徴」という印象的な言葉を用いていた。しかしユルスナールの小説はそうした観点からは少しズレているように思える。どうズレているのか、これはもう少し考えなければいけないところだけれども、むしろそこまで見切った上で、あえて「オリエント」を取り上げ、両者の間で実験的に戯れているかのような、そんな印象も抱いてしまう。それは彼女の「異端」への関心がそうさせるのだろうか。


何よりも。今日はとても大変なことがあって、その合間にこの本をパラパラ読んでいました。だから内容はあまり残っていないし、それは上を読んでいただければ分かることだと思います。
ただ、そのなかにあって彼女の文章を読むことそれ自体が、自分の中のバランスや落ち着きを取り戻すのに役立ってくれた。やっぱり小説にはそんな力があって、それを改めて感じさせてくれたこの短編集に感謝したいです。また今度ちゃんと読もう。

2010年3月29日月曜日

ルイ=フェルディナン・セリーヌ 『なしくずしの死 上・下』

『夜の果てへの旅』の爆発的な成功で一躍有名になった作者が四年後の一九三六年に発表した本書は、その斬新さのあまり非難と攻撃によって迎えられた。今日では二十世紀の最も重要な作家の一人として評価されるセリーヌは、自伝的な少年時代を描いた本書で、さらなる文体破壊を極め良俗を侵犯しつつ、弱者を蹂躙する世界の悪に満ちた意志を糾弾する。

“絶望のアナーキスト”から“反ユダヤ主義者・対独協力者・戦争犯罪人”まであらゆるセンセーショナルな肩書きを背負ったセリーヌは、呪われた作家だ。だがその絶望と怒りの底には、声なき弱者への限りない慈しみが光る。そして哀しみとユーモアも。生来負債として負わされている死を、なしくずしに支払っていくしかないと謳う、狂憤の書にして愛に満ちた救いの書。

『夜の果てへの旅』に続き、二作目のセリーヌ。ただ『夜の果てへの旅』を読んでからだいぶ時間が経ってしまったので、重ね合わせながら読むことはできなかった。
文体破壊云々は、日本語に変換されてしまうとよく分からなくなってしまう。原語で読むとなかなかの衝撃、らしい。最も翻訳を介してもこれだけの衝撃を与えるわけですが。あとがきによればある批評家は「この卑猥な叙事詩はフランス語ではない、俗語で書かれている」、と評したとか。最下層の人々の日常やその生き様を克明に描き出そうとすれば、「フランス語」の域からは外れてしまう。逆に言えば、セリーヌ以前のフランス文学においては、最下層の人々の生というのはここまで露骨に描かれてこなかった、ということなのかもしれない。

反ユダヤ主義者やら戦争犯罪人やら、セリーヌを指してよくいわれるけれども、僕が読んだ2つの作品でそれらはほとんど前景化していない。だから、率直に言ってよく分からない。もっとも略歴によると、彼の反ユダヤ主義的言説が活発になったのは『なしくずしの死』刊行以後らしいが。反ユダヤ主義的言説というのが具体的にいかなるものなのか、その背景は何なのかについては若干興味がある。というのも、この2つの小説を読む限り、この世界のあらゆるものが罵倒の対象になっているし、そこにユダヤ人が付け加えられたからと言って特に驚くことはない。にも関わらずユダヤ人に呪詛をはくシーンが全くと言っていいほど登場しないのはなぜか。反ユダヤ主義的言説は彼がこの2つの小説を書いた時点でも、のさばっていただろうに。まぁ、ひとまずそのことは置いておこう。

この小説が呪詛と怒りに満ちた小説だとあらかじめ知っている人は、冒頭の一節に意表を突かれるかもしれない。この物語はこんな文章で始まる。

みんなまたひとりぼっちだ。こういったことはみんな実にのろまくさくて、重苦しくて、やり切れない……やがて私も年をとる。そうしてやっとおしまいってわけだ。たくさんの人間が私の部屋にやって来た。連中はいろんなことをしゃべった。大したことは言わなかった。みんな行っちまった。みんな年をとり、みじめでのろまになった、めいめいどっか世界の片隅で。

『なしくずしの死』というタイトルと、内容紹介の「生来負債として負わされている死を、なしくずしに支払っていくしかないと謳う」、というくだりと、訳者によるあとがき。それらとこの一節を重ね合わせると、なんとなく見えてくることがある。フェルディナンや彼の家族、そして発明家クルシアル、彼らは絶えず不条理な運命に翻弄される(もちろん自分でそれを招き寄せている部分はあるけれど)。人生は苦痛に満ちていて、彼らはきしんだ悲鳴を上げ続ける。彼らの世界、人生はどこまでもこの苦痛の繰り返しに過ぎない。それを繰り返していくうちに、いつしか年を取り死んでいく。彼らは、あらかじめある負債を背負っていて、それを支払い続ける。それが帳消しになったときにもたらされるものが死なのだろう。
ただ、負債それ自体は苦痛だとしても、その支払い自体は希望や歓びのある行為なのかもしれない。彼らは、様々な困難に直面する。それに憤り、嘆き、絶望する。しかしその中でも、何かを見出してそれに乗り越えようとする。そうした乗り越えを目指す彼らの様子を、セリーヌは昂揚感とともにつぶさに描き出している。こうした彼らの強靭さは生の力強さそのものであって、こうした根源的な生の肯定がこの小説にはある。つまり、あらかじめ背負わされた負債を彼らは生の力そのものによって報いようとする。神は助けてくれない。助けてくれるのは、生それ自体なのだ。

だからこの小説はとても力強いし、面白い。「……」を多用し、地の文と会話文と心情の独白が自由に入り交じるこの文体は、否応無しに読む者をこの虚構の世界へと引きずり込む。距離を保ちながらこの小説を読むことはひどく難しい。気付けばフェルディナンやクルシアルと一体化している。そして彼らの思いが転移するがごとく、様々な心情・怒り・共感を読者の植え付ける。だから、読んでいて気分が悪くなることが何回もあった。これほどの力を持つ小説はそうはないだろう。

思わず笑ってしまうシーン、目を背けたくなるシーン、ごちゃごちゃして訳が分からなくなってしまうシーン、色々あります。個人的には家族一緒に船でイギリスに旅行する際のゲロ地獄シーンにどん引きしました。

2009年10月25日日曜日

アティーク・ラヒーミー 『悲しみを聴く石』

戦場から植物状態となって戻った男。コーランの祈りを唱えながら看病を続ける妻。やがて女は、快復の兆しを見せない夫に向かって、誰にも告げたことのない罪深い秘密を語り始める……。

アティーク・ラヒーミー(今年のノーベル賞のオッズにも顔を覗かせていましたね)の邦訳としては2作目。「エクス・リブリス」よくやってくれました。前回は『ミスター・ピップ』なるひどく凡庸かつ西洋中心主義的な作品を紹介して(しかも誤植だらけの)唖然とさせられたものですが、これでよしとしましょう。

舞台はアフガニスタンのどこか、あるいは別のどこか。アフガニスタンでの出来事を強く意識しながらも、それを他のどこかでも起こっているような普遍的な問題として捉えてほしい、というラヒーミーの意図なのでしょうか。

更に冒頭の掲げられるエピグラフ;
「身体から、身体を通して、身体とともに、身体に始まり、身体に終わる」(アントナン・アルトー)

このエピグラフを掲げた目的は何なのだろうか。率直に言って、僕は精神分析には疎く、これから先に書くことはあまり自信がないけれど。
恐らくこの小説は「分裂症」をめぐるものだ。女の引き裂かれる感覚、幻覚、肥大した身体感覚…この女が「分裂症」に陥る、その原因は「オイディプス・コンプレックス」と結びつけて解釈されうるようにも読める。パパ‐ママ図式の中に囚われているようにも。「分裂症」を患った女性が、植物状態となった男(しかし精神科医とはこのようなものではないだろうか?)に対して、語り続ける。自らの「秘密」を次々と。その告白の過程は、自由連想法的な治療の過程そのものなのではないか。人が自らの悲しみを告白する、その告白は「サンゲ・サブール」に転移して、その告白が終わった時、その石は砕けるという。
彼女を抑圧しているのは、あるいはパパ-ママ図式ではないのかもしれない。オイディプス云々も関係ないのかもしれない。彼女を抑圧するものは社会そのものであって、そこに含まれる暴力や家父長制でもあるのだから。その全てが極めて男性性的なものなのは間違いないけれども。その象徴たる英雄=夫が植物状態となり単なる「石」と化す。それによって彼女はその抑圧から離れ、自由に語りだす。そして彼女の欲望は解放される。

なんだかよく分からなくなってきた。あまりよく知らないことをつなげて言いたいことを組み立てるというのはちょっとムリがありますね。なんだろう。この女性があまりにも西洋化しすぎているのではないかという批判がある。それはあとがきにも触れられていることだし、Amazonのレビューにも早速そんな趣旨のコメントがあった(その人はイスラーム圏の女性のことはよく知らないけれど、と但し書きを付けてはいたが)。
しかし、その意見はひどく高圧的なものだ。イスラーム圏の女性は、アフガニスタンの女性は西洋化されてはいない、性を露にすることはなく、雄弁に語ることはない、そういった前提の下に、この小説に出てくるムスリム女性は「西洋的すぎるね」とか、これは「いかにも厳格なムスリム女性だねぇ、イスラームはけしからん」とか言ったりする。そんなものオリエンタリズムの焼き直しではないか。あるべきオリエンタルな女性のイメージを勝手に抱き、それをそこにいるであろう女性に押し付ける。アフガニスタンで過ごし、フランスに移住することになった男性の語る女性像よりも、彼らの抱く表象としてのムスリム女性、アフガニスタンの女性は絶対的なものらしい。そんな一括りにアフガニスタンの女性はこういうものだ、なんてイメージをもつことはどう考えてもこっけいでしょう。「近頃の若いもんは~」っていうのと同レベル(もっと性質が悪い)の戯言でしかないだろうに。


何の話かわからなくなってきたけれども、この小説はなかなかよいですよ。削ぎ落とされた描写と女性の時に饒舌すぎるほどの語り。それをつなぎとめる空白。短い小説ですが、じっくりかみ締めながら読むことができる作品です。

2009年10月21日水曜日

オノレ・ド・バルザック 『グランド・ブルテーシュ奇譚』

妻の不貞に気づいた貴族の起こす猟奇的な事件を描いた表題作、黄金に取り憑かれた男の生涯を追う「ファチーノ・カーネ」、旅先で意気投合した男の遺品を恋人に届ける「ことづて」など、創作の才が横溢する短編集。ひとつひとつの物語が光源となって人間社会を照らし出す。

おもしろいなぁ、バルザック。他も読みたい。
どれから読めばいいのかわかんないとき、光文社古典新訳文庫は本当に助けになります。これからも良質な作品を次々と送り出してほしいなぁ、と。

しかし宮下さん、ラブレーもモンテーニュもご苦労様です。完結したらまとめて読もうと思っているのでこれからもがんばってください。

2009年9月2日水曜日

ルイ=フェルディナン・セリーヌ 『夜の果てへの旅 上・下』

全世界の欺瞞を呪詛し、その糾弾に生涯を賭け、ついに絶望的な闘いに傷つき倒れた“呪われた作家”セリーヌの自伝的小説。上巻は、第一次世界大戦に志願入隊し、武勲をたてるも、重傷を負い、強い反戦思想をうえつけられ、各地を遍歴してゆく様を描く。一部改訳の決定版。
遍歴を重ねた主人公バルダミュは、パリの場末に住み着き医者となるが―人生嫌悪の果てしない旅を続ける主人公の痛ましい人間性を、陰惨なまでのレアリスムと破格な文体で描いて「かつて人間の口から放たれた最も激烈な、最も忍び難い叫び」と評される現代文学の傑作巨篇。

バタバタしているうちに放置気味でした。
あまり読書に時間が割けないようになり、なかなか進みません。そんななかでようやく『夜の果てへの旅』を読了。朝の通勤ラッシュの中で読むセリーヌはなんともいえないですね。僕の後ろに立っていた人は、「朝っぱらからなんて本読んでるんだ」、って思ったことでしょう。

なんて凄まじい呪詛だろう、資本家への、国家への、家族への、戦争への、人々への、自己への。人間の禍禍しい生き様を、全ての上っ面を剥ぎ取ったその中にある醜さを(あるいはその空虚を)、バルダミュ=セリーヌは暴き続ける。時に辟易し、読み飛ばしたいと思いながらも、結局読み進めてしまいました。モリーとの別れのシーンは非常に心に残った。そこには何かきらきらしたものがあるような気がして、他が仄暗さに包まれている分、一層。そう感じてしまうのは僕の「若さ」なのだろうか。バルダミュが「世界が閉じられてしまった」と感じた時、そして「自分の番が終わった」と感じた時の心情を、僕は理解することはできなかったように思う。「なしくずしの死」へと向っていることを認識すること、それは僕には難しい。まだこの小説を読むには早かったのだろうか?

2009年4月6日月曜日

アティーク・ラヒーミー 『灰と土』

ソ連軍の進攻を背景に、村と家族を奪われた父の苦悩をとおして、破壊と混乱のなかに崩れゆくアフガン社会を浮き彫りにする、映像感覚あふれる現代小説。 カーブル生まれの小説家・映像作家、ラヒーミーの第一作である本書は、アフガン社会の生の内面とイスラームの倫理を描き出して、大きな話題を呼んだ。20 か国で翻訳。

こういった括りが意味があるかはよく分かりませんが、アフガニスタン文学です。イスラーム圏の現代文学については世界的に有名な作家(ヨーロッパで評価される作家)以外はあまり紹介されていないのが現状で、とりわけ日本ではどうしてもマイナーかつマニアックなものとして受け取られがちですが、すばらしい作品がいっぱいあるな、と。岡真理の『アラブ、祈りとしての文学』を読んで以来、関心を持って触れています。カナファーニーのAll That's Left to You(邦題はわかりません)やバラカートの『六日間』も積読中なのですが。
まぁそんな中で読んだ『灰と土』。著者のラヒーミーはアフガニスタン、カブール生まれ。例によってフランスに移住し向こうの大学を出た後、映像作家などとして活躍をしているとのことで、本小説は彼にとって初めての小説ということになるそうです。
長さとしては中篇、といったほど。村を破壊され、家族を失った「きみ」が、砲撃で耳の聴こえなくなった孫を連れて息子の働いている炭鉱へ、家族の死を伝えに行く物語です。こういうとロード・ノヴェルみたく聞こえるけれども、そうではなくほとんど彼らは地理的に移動することはなく、専ら番小屋とカディールという人物のお店の間が舞台となります。物語はそういった実際の移動よりも、「きみ」の思索と幻想と回想が綯い交ぜになった夢想のようなものが中心になっています。彼の連れである孫と対話ができないこと、番人も自分の中に閉じこもっていて会話ができないこと、それゆえに彼もまた自分の世界に籠もってしまう。いや、そうではないのかもしれません。戦争を経験し続け、家族を失った人々はみな、自分の世界に引きこもってしまうのかもしれません。その世界には失ったはずの家族が生きており、以前の生活が残されているわけですから。全ての人々が殻に閉じこもる、そのときヤースィーンがいうように「誰もなにも話しかけてくれない」世界になってしまうのでしょう。それでも、可能ならば人々は殻から出て、誰かと話したいと思う。けれども話すことによって現実と直面しなくてはいけなくなる。ダスタギールが村で起ったことを説明するとき、彼は涙を流さずにはいられない。恥辱よりも名誉の穢れよりもまず、彼には絶望や悲しみに覆い尽くされてしまっている。
息子に彼は村で起ったことを伝えたい、と思う。けれどもそれは息子に恥辱を与え、息子を復讐へと向かわせるものでしかないことも分かっている。彼が息子に会いに行こうとするのは、彼にその出来事を伝え復讐へと駆り立てるためではなく、自分と対話をしてくれる誰かを求めていたからだったのだろう。
ムスリムにとっての名誉の重要性や恥辱の苦痛は、私が感じるであろうものとは違う。ある場合には当惑すら感じることがあることも正直に告白しよう。今岩波ホールで上映中の『シリアの花嫁』においても、アミンと姉の諍いにはこの名誉や恥辱といった問題が介在していて、アミンの態度には当惑を覚えたことも事実だ。けれども、恐らくこれはどうしようもない問題なのだ。考え方や価値観の違いはどこにでもあるもので、それを「西洋人は~」とか「ムスリムは~」と一般化することほど愚かなことはない。西洋人にも、価値観や考え方の違いは無数に存在していて、ムスリムでも日本人でもそれは同じだろう。差異を否定することは単一で正統な価値観や考え方の存在を暗黙の前提とする。そうではなくてすべきことは差異を肯定すること、絶対的に肯定することによってカテゴリー化自体の無意味さを露呈させることではないだろうか(ついでに言えば承認という言葉にはどこか権力関係が埋め込まれていて、僕はあまり好まない)。

完全に話しはずれましたが、アフガニスタン=タリバーン、イスラーム原理主義という連想が蔓延るなかで、こうした現代文学を読むことってとても重要なのかなと思ったりしました。

ちなみに今月中旬から、岩波ホールではマフマルバフ娘による初の長編映画が公開されるみたいですね。舞台はアフガニスタン。どんな感じなんでしょうか。