2010年9月8日水曜日

ウィリアム・ギブスン 『ニューロマンサー』

ケイスは、コンピュータ・カウボーイ能力を奪われた飢えた狼。だが、その能力を再生させる代償に、ヤバイ仕事をやらないかという話が舞いこんできた。きな臭さをかぎとりながらも、仕事を引き受けたケイスは、テクノロジーとバイオレンスの支配する世界へと否応なく引きずりこまれてゆく。話題のサイバーパンクSF登場!

これくらい読んどけよ、と言われたので読みました。SFってあんま読んでない。全然、か。そういえば小学校の終わりくらいに、ファウンデーションシリーズとか読んだなぁ。
サイバーパンクの代名詞かつ、SFの金字塔、とのことです。なかなか面白くてぐいぐい読んでしまいますが、気を抜くと何が何だかよく分からなくなります。Amazonレビューやその他の感想を読む限りでは、とりあえずかっこいい。話の筋が分からなくても、その分からなさもまたかっこいい。謎のカタカナ語やルビがちりばめられた感じも、よく分からなさを助長するけれども、それ以上に(だからこそ、らしい)最高にクールだろ? とまぁそういうことのようです。もちろんそれだけじゃないですが。

確かに。これが出た当時はものすごい衝撃だったんだろう。最先端の遥か先を行くような、めちゃくちゃかっこいい小説だったんだろう。けど、この作品とほぼ同い年の僕からしてしまうと、(サイバーパンクという言葉と同様に)ちょっと古さを感じてしまう。僕にとっては、その最先端のやや古びた感じゆえに、とてもかっこいい小説だと思うんだけれど。この感覚はこの小説をリアルタイムで読んだ人には、どうやっても伝わらないだろうな。25年経って、それでもやっぱり「新しさ」はあって、それはどこか古びた感じをまとった「新しさ」なんだよなぁ。25年経つと違った味が出てくる、それって名品の証なんだと思う。

思弁的な深みには欠ける気がするし、プロットも今となっては通俗的だけれど。当時のSFでどれだけハードボイルドな文体のものがあったのか、よく分からないけれど、素材と文体がすごく素敵に噛み合っているように思います。また読み返したくなる。SFももう少し読まんとなぁー

2010年9月7日火曜日

吉田兼好 『徒然草』(角川ソフィア文庫版)

日本の中世を代表する知の巨人、兼好が見つめる自然や世相。その底に潜む、無常観やたゆみない求道精神に貫かれた随想のエキスを、こなれた現代語訳と原文で楽しむ本。現代語訳・原文ともに総ルビ付きで朗読にも最適。

角川ソフィアの「ビギナーズ・クラシックス日本の古典」というシリーズです。「ビギナーズクラシックス」なんて(笑)と思う向きもあるかとは思いますが、まがうことなきビギナーなので。さすがというかなんというか、まず現代語訳があって、そのあとに原文(総ルビ)がきます。語釈・注釈はほとんどなく、そのあとは解説(ただし役には立たない)が続く感じ。途中で気付いたけれど、全然原文読んでない。訳も、良くいえばだいぶこなれているし、悪くいえば意訳し過ぎなので、単語の意味とかもほとんど取れない。しかも抄録です。
でも、まぁビギナーなのでしょうがないですね。訳については編訳者の親切なのだと思います。ただ、各段の後に続く解説はいただけないですね。興ざめというか、余計です。

内容について、思うところもありますが、ソフィア文庫読んだくらいで分かったように語るんじゃねえ、と言われたらそれまでなので、やめにします。「花は盛りに」がとりわけ面白かったです。それにしても、高校1、2年で読むらしいですが、全く記憶にないのはどういうわけだろう。

2010年8月29日日曜日

8月に読んだ残りの本

不本意ですが、一冊一冊感想を書くゆとりがないまま溜まってしまったので。

①ヴィルヘルム・ゲナツィーノ『そんな日の雨傘に』
 重いけれど軽やかな、「靴男」の果てしないモノローグ。「自分が許可してもいないのにこの世にいる」という気分から逃れることができない、46歳、無職の主人公は、何をするでもなく、「人生の面妖さ」に思いをめぐらし、平凡で、どこにでもある、様々な路上の出来事に目を留める。地下道のホームレスの男たち、足元に置かれた他人のトランク、サーカスの娘と馬のペニス......。そのたびにとりとめのない想念が脳裏をよぎり、子ども時代の光景がなんとなしに思い出され、なにげない言葉が心に引っかかる。遊歩の途中でつぎつぎと出会うのは、過去になんらかの関係を持った中年の女たち......彼女らの思い出がふつふつと浮かんでくる。主人公がなにかから気をそらすように歩き回るのは、同棲していた女が愛想を尽かして出て行ってしまったからだ。しかも靴を試し履きする臨時収入が減り、生活もままならなくなってきている。そうした挫折と失意が、居場所のない思いをいっそう深めてゆく......。
 作家は本書で一躍注目を浴び、2004年にドイツ最高の文学賞《ビューヒナー賞》を受賞している。

エクス・リブリスから。主人公はダメ人間っぷりに、はまってしまう作品。たぶんダメ人間ほどはまってしまうんじゃないかと。「この主人公いいなぁ」とすら思ってしまった僕はやはりダメ人間のようです。臨終コンパニオンのくだりには笑わされました。ダメ人間っていうのは街を遊歩することができる人なのかも、とも思わされました。


②久生十蘭 『久生十蘭短篇選』
現役の作家のなかにも熱狂的なファンの少なくない、鬼才、久生十蘭の精粋を、おもに戦後に発表された短篇から厳選。世界短篇小説コンクールで第一席を獲得した「母子像」、幻想性豊かな「黄泉から」、戦争の記憶が鮮明な「蝶の絵」「復活祭」など、巧緻な構成と密度の高さが鮮烈な印象を残す全15篇。

こないだ河出の短編集を読んで気に入ったので。やっぱり面白かったです。こんなにジャンルを問わず、しかも面白く書けるもんですか。河出の短編集よりもおすすめかも。解説が充実しているのも魅力。


③『世界文学全集 短篇コレクションⅠ』
南北アメリカ、アジア、アフリカの傑作20篇。新訳・初訳も含むアンソロジー。トニ・モリスン「レシタティフ」、アチェベ「呪い卵」、張愛玲「色、戒」などの新訳・初訳から、コルタサル、カーヴァー、目取真 俊

【収録作品】
コルタサル 「南部高速道路」
パス 「波との生活」
マラマッド 「白痴が先」
ルルフォ 「タルパ」
張愛玲 「色、戒」
イドリース 「肉の家」
ディック 「小さな黒い箱」
アチェベ 「呪い卵」
金達寿 「朴達の裁判」
バース 「夜の海の旅」
バーセルミ 「ジョーカー最大の勝利」
モリスン 「レシタティフ──叙唱」
ブローティガン 「サン・フランシスコYMCA讃 歌」
カナファーニー 「ラムレの証言」
マクラウド 「冬の犬」
カーヴァー 「ささやかだけれど、役にたつこと」
アトウッド 「ダンシング・ガールズ」
高行健 「母」
アル=サンマーン 「猫の首を刎ねる」
目取真俊 「面影と連れて」

短篇コレクション。錚々たる顔ぶれ。著者を選ぶセンスはさすが、なのかもしれません。知らない人、読んだことない人もぽつぽついて、なかなか面白い読書でした。でも、作品の選択は……どうでしょう。まぁ色々な事情があるんでしょうが、長編を載せることができなかった人をまず挙げて、その後に掲載できる作品を見繕ったのかな。あえてこの作品ですか?っていう気がしなくもないです。訳者はいい人揃いなんじゃないでしょうか。読書を広げるという意味でもとてもいい本です。


④安田浩一 『ルポ 差別の貧困の外国人労働者』
日本経済にとって、外国人労働者は都合の良い存在であり続けた。企業の繁栄を支え、あるいは不況企業の延命に力を貸してきた。しかし日本は、その外国人を社会の一員として明確に認識したことがあっただろうか。第一部では、「奴隷労働」とも揶揄されることも多い、「外国人研修・技能実習制度」を使って日本に渡ってきた中国人の過酷な労働状況を概観する。第二部では、かつて移民としてブラジルへ渡った日本人の主に子どもや孫たちが、日本で「デカセギ労働者」として味わう生活と苦労、闘う姿を追う。こうした中国人研修生・実習生と日系ブラジル人を中心に、彼ら・彼女らの心の痛みを描きながら、日本社会をも鋭く映す、渾身のルポルタージュ。

怒りに、あるいは羞恥に身を震えさせながら読むべき本。七つ森書館というところから『外国人研修生殺人事件』みたいなタイトルの本が数年前に刊行され、それを読んで大きな衝撃を受けた記憶があります。同じ著者だったのですね。本書の冒頭で触れられる殺人を犯した研修生については、この『外国人研修生殺人事件』という本で詳しく書かれています。ジャーナリストとしても、とても真摯で、文章も、思考もしっかりした信頼のおける書き手だと感じます。
彼ら研修生の悲惨な実態がこれでもかと書き連ねてあります。その一つ一つが衝撃的。自分が乗っかっている地面の下ではこんなことが起こっている。それに気付かない振りをするのも、全く気付かないのも、どちらも等しく恥ずべきことなのでしょう。外国人労働者なしに日本社会が成立しているなんて幻想を抱いている人がまだ多いのにはびっくりします。そんなわけないでしょう。それは現代に始まった話じゃなく、これまでもずっとそうやってきたんじゃないかと僕は思っているのですが。ただ、それを彼らの「協力」なしに、とか言い換えてしまうおめでたい「多文化主義」には僕は組することはできません。
日系ブラジル人についても、保見団地に調査にいったり、彼らのバーベキューに参加したりしたことがあるので、他人事とは思えません。この不況のなかで彼らがどうやって過ごしているのだろう。
とやかくいう前に本書を読むことから。読まなければいけない本といってもいいかと。

2010年8月24日火曜日

西川杉子 『ヴァルド派の谷へ—近代ヨーロッパを生きぬいた異端者たち』

ピエモンテの谷に住む異端の末裔ヴァルド派。宗教的迫害を生きぬいてきた彼らが、存亡の危機を迎えたのは、17世紀末、時代はすでに「啓蒙の世紀」。谷を守るため、ヨーロッパの啓蒙空間をかけまわるヴァルド派と、彼らを支えたヨーロッパ諸勢力の意外な結びつきを通して、錯綜するヨーロッパの近代を考える。

読了本が積もってしまっているので走り書きで。9月からはちゃんと書きたいと思いますが。

山川から「ヒストリア」というシリーズが出ています。ややマニアックな世界史をややマニアックな切り口でさくっと切り取るとても面白い叢書。2008年で刊行が途絶えていますが、終わってしまったのでしょうか。

ヴァルド派……寡聞にして僕は聞いたことがありませんでした。
起源は12〜13世紀に遡るという。創始者はヴァルデスという高利貸しで、彼は福音書の俗語訳を行い、それを手がかりに説教を始めるようになった。その運動はやがて、聖書に立ち返れ、という教会改革運動に発展していった。つまり、ヴァルド派の教義は宗教改革の先駆け的存在だったと評価することもできる。彼らはそれゆえローマ・カトリック勢力により異端視され、弾圧の対象とされ続けてきた。しかし、その弾圧の網の目をかいくぐり、彼らは自分たちの信仰を守り続けてきた。

本書の舞台はそれ以降、17世紀末のヴァルド派に注目し、丁寧な資料分析によって、この時代をヴァルド派がいかに生きぬいたかを躍動的に描き出している。
面白い点は幾つかあるが、第一には、彼らの信仰が教義の独自性云々よりも、まずローマ・カトリックの歴史的対抗者であり、プロテスタントの盟主として自らを位置づけていたこと、そして「谷」への執着だと思う。彼らは長年ローマ・カトリックの弾圧を跳ね返し続けてきたことをプロテスタント諸国・諸教会にアピールし、それによって援助を獲得し、それをもとに生き延びてきた。教義的には他のプロテスタントとほぼ変わらないが、そうした伝統や自らのルーツである「谷」にアイデンティティのよりどころを見出し、特異性を保ってきたこと。
第二には、彼らを援助するような超-国境的なプロテスタント同士のネットワークが形成されていたことである。そして彼らはそれをうまく利用した。そしてそうしたネットワークと当時の国際情勢は無関係ではなく、むしろ国家間の利害関係とも深く関わるものだったという。宗教改革の時代ではなく、この17世紀に彼らは危機に瀕し、そして同時に彼らを救うようなこうした関係ができ上がっていたことというのは、僕にとっては初めての発見でとても楽しくなってしまった。こういったところから歴史を読むというのはとても刺激的なことだと思う。

面白かったです。勉強になりました。

現代位相研究所編 『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる社会学』

社会の現実は社会学の中にはなく、社会の現実の中にこそ社会学はある。古典的学説から近年の議論に至るまで、10のテーマの中から100のキーワードをピックアップし、わかりやすく解説。

現代位相研究所って何ですか?ミヤダイさんの教え子さんたちの集いでしょうか。一橋の塚越さんだけどこかで話を聞いたことがあります。一橋の社研でフーコーの研究している「できる」院生がいる、とか。あそこでフーコーをメインに据えて研究する人ってあんまいないからたぶんこの人のことだろうと思うのだけれど。まぁそれはいいや。

「フシギなくらい見えてくる」のか「本当にわかる」のか僕にはよくわかりません。社会学を何年か学んできた(はずの)僕の印象です。
はっきり言ってしまえば本書は「入門書」でもなければ「ブックガイド」でもない。ましてや社会学「概論」でも。じゃあこれは何か、といえば、僕はこの本は社会学の「カタログ」だと思う。あのセシールとかニッセンとかのやつ。で、「カタログ」としては本書はとてもよくできている。こういった類いの本ではこれまであまり扱われてこなかったテーマ、例えばゲーム理論とか、アーキテクチャとか、ラディカル・デモクラシーとか、講座派と労農派とかも、節操なくない?と思うほどに盛り込んでいる。この節操のなさもまた、カタログ的でよし。
わずか2ページで「解説」なんてできるわけもなくて、商品紹介が延々と続きます。そのなかで気になる商品=議論・本があったら手に取ってみればいいのではないでしょうか。
でも、カタログって普通1500円もしないよなー

ところで、なぜエピグラフはニーチェ? しかも内容と関係薄いし。

2010年8月15日日曜日

ロベルト・ボラーニョ 『野生の探偵たち 上・下』

1975年の大晦日、二人の若い詩人アルトゥーロ・ベラーノとウリセス・リマは、1920年代に実在したとされる謎の女流詩人セサレア・ティナヘーロの足跡をたどって、メキシコ北部の砂漠に旅立つ。出発までのいきさつを物語るのは、二人が率いる前衛詩人グループに加わったある少年の日記。そしてその旅の行方を知る手がかりとなるのは、総勢五十三名に及ぶさまざまな人物へのインタビューである。彼らは一体どこへ向かい、何を目にすることになったのか。

圧巻。これを誰かが書いたというのが僕にはちょっと信じ難いです。
構成は三部構成。第一部と第三部はガルシア=マデーロという少年によって書かれた日記からなっています(第一部「メキシコに消えたメキシコ人たち」は1975年11月2日付け〜12月31日付け、第三部「ソノラ砂漠」は1976年1月1日付け〜2月15日付け)。第二部はアルトゥーノ・ベラーノとウリセス・リマの軌跡をたどった53人もの証言集からなっています。正直あまりに登場人物が膨大すぎて、途中で混乱したりしましたが。同じ姓の人間が何人も出てくるとさすがに整理がつかないものです。


第一部の日記では、ガルシア=マデーロが、ベラーノやリマが率いる「はらわたリアリスト」の仲間に加わり、様々な人と出会いながら、彼らに巻き込まれ(または、自分から巻き込まれに行き)、ベラーノやリマとともに、1920年代に実在したとされるセサレア・ティナヘーロを追い求め、北のソノラ砂漠へと赴くまでが書かれている。第三部はその続きからだから、第一部→第三部→第二部と読んでいくやり方もありえるかもしれない。でもそれがいいのかどうかはよく分からないけど。
第二部はとても不思議な構造になっている。ほぼ時系列(証言が行われた日時)に沿って証言は進んでいくが、アマデオ・サルバティエラの証言だけ、例外的に同じ日時に行われたものが分割され、各所にちりばめられている。その証言は1976年1月、つまりリマやベラーノたちがソノラ砂漠を訪れている最中に行われている。彼が語るのは、リマとベラーノがティナヘーロの情報を求めて彼のもとを訪ねた時の話である。しかし、このインタビュアーは一体誰なのか? これは第二部を読みながらずっと抱えていた疑問で未だに解けていない。

この小説には明かされないこと、見えないことが沢山ある。ティナヘーロのノートの内容も明かされることがなければ、ベラーノのノートの内容も明らかにされない。「インタビュアー」はいなくなってしまったリマとベラーノの軌跡をたどる。彼(便宜的にこうしておこう)が何のために証言をかき集めているかは、よく分からない。そもそも彼が誰なのか分からない。ベラーノとリマが消えてすぐ証言を集め始めるこの「インタビュアー」は30年間もの間、世界各地を飛び回りながら、彼らに関する証言を執拗に集め続ける。けれどなぜ?
あるいはこう言った方がいいのかもしれない、この小説の中心的な人物は常に「不在」だと。インタビュアーも不在なら、ベラーノもリマも常にいない。日記の書き手であるガルシア=マデーロもいなければ、リマやベラーノが追い続けるティナヘーロも不在だと言っていい。リマの居場所を突き止め、話を聞くことは、このインタビュアーに取っては容易いことだっただろう。けれど、彼の証言を得ることはない。
リマとベラーノとこのインタビュアーの違いは、前者がティナヘーロに出会うことを目指しているのに対して、後者は必ずしもそれをリマやベラーノに出会うことを目指していないことにある。リマとベラーノの軌跡を多数の証言を組み合わせることによって「分厚く」描き出すことをこのインタビュアーは目指しているように思える。だからこの証言集には一見関わり合いのなさそうな「余分」とも思えるくだりが数多くある。ベラーノについてあるいはリマについて語っているうちに、それがいつしか自分の話となり,また文学なんかの話になる。「群像劇」といってしまうと陳腐になってしまうが、ベラーノやリマに常に焦点があるのではなくて、その周囲の人びと、彼らの人生や彼らが置かれている状況が何重にもなって描き出すことが目指されているのかもしれない。だから、なんというかこの小説は、一面では虚構なのかもしれないけれど、何よりも「歴史」なんじゃないかと思う。

そういえば、この小説は「半自伝的」らしい。ベラーノがボラーニョその人である、と。作家の写真とか見ると、あぁ確かにベラーノのイメージそっくりだなぁ。ベラーノもリマもガルシア=マデーロも、みんなボラーニョの投影のような気がしてしまうけれど。

個人的にはイニャキ某という人物がひどく気に入りました。まだ世に出てもいない批評のせいでベラーノに決闘を挑まれ、その後に彼に薬を送ってしまったり、ブックフェア会場では、批評と作者の関係について深遠な議論を展開したり。
訳のおかげもあるんだろうけど、証言者がそれぞれ特徴を持っていて、読んでいて飽きなかったなぁ。それぞれの記述について書いていったらキリがなさそう。

あと、タイトルの「野生の探偵たち」ってどういう意味なんだろう。あとあと、セサレア・ティナレーロがある教師に語った来るべき時代の話、26××年の話って「2666」という彼の著作となんか関わりがあるんだろうか。『通話』も読み直したいな、でまたこの本を読んでみたい。そのころには「2666」も刊行されているかな。

2010年8月14日土曜日

アーネスト・ヘミングウェイ 『ヘミングウェイ短編集』

マッチョなイメージの強いヘミングウェイだが、彼はモダニズムの作家として、繊細でおそろしいほどの切れ味をもつ短篇を生みだした。彼は、女たちをひじょうに優しい手つきで描く。弱く寂しい男たち、冷静で寛大な女たちを登場させて描きだしたのは、「人間のなかで人間であることの孤独」だった。ジョイスが完璧と賞賛した「清潔で明るい場所」をはじめ、14作を新訳・新編集で贈る。

誰でも知ってるヘミングウェイ。小学生だか中学生だかに読んだり読まされたりした人も多いんじゃないかと想像します。僕もそんな感じで、名前は知っているし、有名な作品を子どものときに読んだ記憶があるけれど、それ以来全く読んでませんでした。しかし、なんで『老人と海』とかを子どものときに読ませようとするんだろうか。

そんなこんなでふと読んだヘミングウェイの短編集。悪くなかったです。確かにマッチョ&ハードボイルドって感じとは少し違うなぁ。すごくレイモンド・カーヴァーっぽい。というかカーヴァーがヘミングウェイの影響を受けていたのか。読後のすっきり感はあんまりなくて、むしろもやもや感が残るけど、そこもまた魅力なんだろうなぁ。この短編集のなかで明らかな「オチ」が用意されている作品はあんまりない。「オチ」を作ることは、そこでその作品の世界を完結させてしまうことになる。「オチ」がないことによって、それぞれの短編の世界が開かれたままになる。キアロスタミじゃないけど「そして人生はつづく」、という感じ。

そういえば訳者解説で、ヘミングウェイは本当にマチズムの作家なのか、という問いが投げかけられていた。ヘミングウェイは長らく「マチズム」というラベルを貼られ続けてきたが、それは果たして妥当だったのか、という問いだった。この短編集を読み終えた印象としては、やっぱりマチズムが色濃い作家だなぁ、という感じ。確かに、男性主義とかマッチョな価値観に翻弄される男たちがこの短編集には登場する。訳者はここに、マチズムではなく反マチズムを、強さではなく弱さを見出している。けれど、それは反マチズムなのか? マチズムに翻弄され敗北していくナイーヴな男たちを描くヘミングウェイの、同じくナイーヴな筆致。その筆致から、まるで彼の傷口を舐めてあげるような、ホモソーシャルな交感を感じ取ってしまうのは僕だけだろうか。この男たちのナイーヴさはマチズムの裏返しであって、反マチズムではないと僕は思ってしまう。

あちこち行った彼らしく、汽車とか駅とかカフェとかホテルとかよく登場しますね。ああいった刹那的に出会う人はすごく魅力的に見えて、家族とか常に一緒にいる人に対しては嫌悪感をもつ、ってなんだか分かる気がするけど、彼の小説の場合少し極端ですね。あるいはそんなものなのか。

やっぱり短編の名手、ですね。最後の短編なんかつくづくうまいと思う。
あと、あんまいい訳と思わなかったんだけれど、この訳者は定評がある人なんですね。ちょっと意外。

2010年8月8日日曜日

酒井啓子 『〈中東〉の考え方』

パレスチナ問題、イランのゆくえ、イスラーム主義、インターネットなどメディアの影響……。「中東」と呼ばれる地域のニュースは、背景が複雑で理解しにくいと言われます。著者も、大学での授業や、一般向けの講演などを通して、その困難さを感じてきました。なんとか「手がかり」となる本ができないか……。本書は、これらのさまざまな問題を、国際政治と現代史の枠組みのなかで理解することを狙いとした新書です。

「中東」近現代史についてのさっくりした概説書。それ以上でもそれ以下でもないと思う。終章が一番おもしろかったかな。中東の近現代史が分からずに、世界史の成績が伸びない高校生向きかも。
中東の市井の人に注目するんだ、って言っている割には、そうゆう記述がほとんどないのはいかがなものかと思います。ただ、繰り返しですが、概説書としては悪くないんじゃないでしょうか。

2010年8月7日土曜日

コーマック・マッカーシー 『ザ・ロード』

空には暗雲がたれこめ、気温は下がりつづける。目前には、植物も死に絶え、降り積もる灰に覆われて廃墟と化した世界。そのなかを父と子は、南への道をたどる。掠奪や殺人をためらわない人間たちの手から逃れ、わずかに残った食物を探し、お互いのみを生きるよすがとして――。
世界は本当に終わってしまったのか? 現代文学の巨匠が、荒れ果てた大陸を漂流する父子の旅路を描きあげた渾身の長篇。ピュリッツァー賞受賞作。(解説:小池昌代)

ぞくぞく文庫化が進むコーマック・マッカーシー。国境三部作、『ブラッド・メリディアン』、『血と暴力の国』と読んできたので、邦訳が出ているものは一通り読んでみたことになる。
やっぱりこの作品は国境三部作→『血の暴力の国』→『ザ・ロード』って流れとして読みたいと思う。『血と暴力の国』のラストはこの『ザ・ロード』と繋がっていることは、両書を読んだほとんどの人が気付くことだろう。だから?と問われると困るけど、西部民がインディアンを「征伐」していた時代も、第二次世界大戦以前も、以後も、そして(ヴェトナム戦争を経て)現代も、更にある「破局」の後も、人間は変わらず誰かを殺している、そして抗いようのない何かに押し流され続けている、ということには気付くことができる。世界が破局を迎え、すべてが変わってしまったように見えるけれども、そういった意味から言えば「何も変わっていない」。
彼らは南に向う。理由がないわけではないが、そのどれも本質的なことではない。寒いから、狼を戻したいから、インディアンを征伐したいから。私たちは因果律にがんじがらめになっているように見えるけれど、実際のところある原因が何かの行動を引き起こすのではないかもしれない。マッカーシーの描く人物は(そしてともすれば私たちもまた)は何かに常に押し流されている。しかし、人びとはときにそれに抗おうとする。

破局後の世界において、人が生きるために誰かを殺す、あるいはそれを食べるというのは、弾劾されるべきことなのだろうか。少なくとも弾劾する人はいない。良心とか神とかによる禁止の声も、こうした世界においてはもはや届かない。少なくとも彼らのなかで神は既に死んでいるのだから。彼らは生きるために(彼らは何のために生きるのか?と問うのはあまり意味がないように思う)、あるいは生への執着に取り憑かれるようにして、他人から物を奪い、子どもを食べる。私たちは生きているというよりも、生への衝動に押し流されているだけなのかもしれない。

ここに登場する息子と、彼が迎えることになるラストシーンこそ、まさにこうした「何か」に対する抗いではないだろうか。このラストシーンはこれまで凄惨な人間の衝突を見続けてきた読者からすれば、ひどくありえないことのように思える。これまで人間の動物的な側面(単純化するためあえてこうした言い方をする)を見てきた私たちはここで初めて「人間的なもの」の交流を目の当たりにする。父子の関係を除いての話だけれど、言ってしまえばこの子どもだけが常に「火」を灯していたのだ。彼がいなければ、彼の父親は、それまで登場し続ける「悪者」と何ら変わらなかっただろう。(だからこの作品はひどくキリスト教的な世界観に裏打ちされているように思う。)

破局後の世界において、「火を持つ者」とは、こうした人間性を持ち続ける者であり、恐らくは神を信じる者なのだろう。結局のところ、「火」とは人間性の換喩なのではないか。そして恐らく「世界」はこうした「火を持つ者」において初めて成立する。他者との交流がなければ、あるいは他の「人間」の存在を想像することができなければ、「世界」を構成することはできない(「他者への想像力」という意味で、父親は「火」を持っていないことは明らかだ)。ラストシーンにおいて、彼は同じく「火を持つ者」と出会う。そして、父の死とともに失われた「世界」を、改めて構成することになる。こうした抗いこそが「世界」を構成するのかもしれない。このことはエスポジトが共同体=コムニタスを他者から/への贈与と位置づけたこととも結びつけられるのかもしれない。

……うーん、何の話をしているのか。とりあえず、『ザ・ロード』を読む前に彼の他の作品を読むことを薦めたいと思う。
破局後の世界だけあって動物の描写がないのがやや残念。その代わり自然の描写は、さすがマッカーシーという感じ。やっぱり僕はこの人の小説は好きだなぁ。

2010年8月6日金曜日

目取真俊 『沖縄「戦後」ゼロ年』

沖縄戦から六十年。戦後日本の「平和」は、戦争では「本土」の「捨て石」に、その後は米軍基地の「要石」にされた沖縄の犠牲があってのもの。この沖縄差別の現実を変えない限り、沖縄の「戦後」は永遠に「ゼロ」のままだ。著者は、家族らの戦争体験をたどり、米軍による占領の歴史を見つめ直す。軍隊は住民を守らない。節目の六十年の日本人に、おびただしい犠牲者の血が証し立てた「真実」を突きつける。

5年前に出た本だし、結構時事批評的な側面が強いにも関わらず、全く古さを感じさせない。もちろんそれは「何も変わっていない」からなのだけど。随分多くの文献や資料を読み込んできたのだろう。憶測だけど、野村浩也なんかと立ち位置は結構似ているのかもしれない。とりあえず読んでおきたい1冊。これを読み終えたら、次に彼のブログを読んでみるといいんじゃなかろうか。

菅瀬晶子 『新月の夜も十字架は輝く—中東のキリスト教徒』

数多い中東のキリスト教の諸教派について、その歴史と特徴を簡単に紹介。キリスト教徒が具体的にはどのような人びとなのかを、衣食住から精神的なものまで、さまざまな実例をあげて解説。キリスト教徒たちが中東の近代化から今日にいたるまではたしてきた役割と、今後の展望について叙述。

山川から「イスラームを知る」というブックレットシリーズが出ていることを知り、手に取ってみた。12冊ほど出る予定で、今も刊行中だけれども、テーマとしてはかなり面白そうなものが揃っている印象。そのうちこの本では、副題が示す通り、中東に暮らすキリスト教徒に焦点を当てている。マロン派とか、コプト教徒とか、〜正教会とか、名前は聞いたことあるけど、どんなんだかよく分かっていなかったので、その辺を整理してくれているあたり、とてもありがたかった。
あと、どうしても彼らの存在ってあまり目を向けられることが少なくて、彼らの内実を知ることはこれまでなかったのだけれども、かなり図版も入れつつ、親切に紹介してくれる。中東ではどうしてもマイノリティにならざるをえない彼らと、マジョリティのイスラーム教徒との微妙な力関係も同様に興味深い。
なかでも、次の2点は印象的だった。
一つは、彼らの信仰や儀式が土着の多神教的な民衆信仰と混淆している、という指摘。そしてイスラーム教徒もまた、こうした民間信仰の影響を受けており、したがって、こうした土着的な信仰の影響が色濃い儀式において、キリスト教徒も、イスラーム教徒も、その異教的な側面は認識しつつも、共に儀式に参加し、信仰を共有する部分があるのだ、ということ。これを「寛容」として捉えていいのかは分からないけれど、それでもとても興味深い。
もう一つが、彼らキリスト教徒が、汎アラブ主義、もしくはアラブナショナリズムの興隆に大きな役割を果たしていた、という指摘。これは教科書的な中東史ではほとんど触れられない点で、私も初めて知った。とはいえ、個人的にまだ中東とその歴史が全体像として把握できていなくて、ここでの記述とこれまで読んできた中東についての知識がどう結びつくのか、ちょっと整理できていないのだけれど。彼らの視点から中東の(そして西洋の)歴史を辿り直すというのはとても面白い試みじゃないだろうか。こういった研究もっと読んでみたいな。僅か112ページのブックレットだけれど、とても勉強になります。

2010年8月3日火曜日

テオプラストス 『人さまざま』

哲人でも賢人でもない古代ギリシアの平凡な人びとの世態人情,それを明かしてくれるのがこの愛すべき小品だ.アリストテレスの愛弟子テオプラストスが,つれづれの興にまかせて,その軽妙犀利な筆をふるい,古代ギリシアのちまたに暮らす民衆の身すぎ世すぎの姿をとらえた人物スケッチ三〇篇.「空とぼけ」「おしゃべり」「けち」「へそまがり」「お節介」などなど,どのページにも,いにしえのギリシア庶民のさざめきがこだましている.

「よみた屋」をぶらぶらしていて、ふと発見した本。テオプラストス……どこかで聞いたことがある、と思ったらいま枕頭本(?)にしている『動物たちの沈黙』だった。だらだら読みすぎてほとんど理解しちゃいないけれど。
多数の著作があったとされるようですが、現存しているのはそのうちのごく僅か、とのことです。現在、日本語で読めるのは、本書の他には『植物誌』のみとのこと。

本書の内容は、とてもシンプル。古代ギリシアの嫌なタイプの人間30種類を延々と書き連ねてあります。読んだ感想はきっと誰も大差ないんじゃないでしょうか。あぁ、古代ギリシアっつってもあんま今も変わんないんだなぁ、とか、こう言う奴いるよね、とか、あっ俺けっこう当てはまってるかも……とか。ともすれば、すごい難しく考えることができるのかもしれないけれど、もし「あとがき」で訳者が述べるように、テオプラストスが一種の遊びとしてこの人物スケッチを書いたのであれば、読む側もそれを素直に楽しめばいいのではないでしょうか。

2010年8月2日月曜日

カルロ・ギンズブルグ 『チーズとうじ虫』

16世紀イタリアのフリウリ地方に住む粉挽屋。その男の名はドメニコ・スカンデッラといったが、人びとからはメノッキオと呼ばれていた。白のチョッキ、白のマント、白麻の帽子をいつも身につけ、裁判に現われるのも、この白ずくめの服装だった。
彼は教皇庁に告訴されていた、その肝をつぶすような異端のコスモロジーゆえに。彼は説く、「私が考え信じているのは、すべてはカオスである。すなわち、土、空気、水、火、などこれらの全体はカオスである。この全体は次第に塊りになっていった。ちょうど牛乳のなかからチーズの塊ができ、そこからうじ虫があらわれてくるように、このうじ虫のように出現してくるものが天使たちなのだ……」。二度の裁判を経て、ついに焚刑にされたメノッキオ。
著者ギンズブルグは、古文書館の完全な闇のなかから、一介の粉挽屋の生きたミクロコスモスを復元することに成功した。それは農民のラディカリズムの伝統のなかに息づく古くかつ新しい世界・生き方をみごとに伝えている。

いわずと知れた、歴史学の古典中の古典。歴史学のあり方を根底から覆した著作、ということができるかも?
恥ずかしながら、初めて読んだのですが、思わず読後に「すげぇなぁ……」と呟いてしまうほど。
歴史学についてほとんど学んだことないにも関わらず。
別に歴史学について何か知りたいとか、方法論を学びたいとか、そういった意図がなくても、また何らかの知識を前提としなくても、この本はとても面白く読むことができると思う。16世紀イタリアの田舎に住む一粉挽工がなぜこんなにも特異なコスモロジー(これだけ読んでも面白い!)を会得し、それを論じ得たのか? それを追求していくギンズブルグの叙述には推理小説的な面白さが満ち溢れていて、読み物としても非常に面白い。
まずは裁判史料を読み解きながら、彼はこの謎に踏み込んでいく。しかし、それはすぐに行き詰まってしまう。彼が語ったことを分析するだけでは、このなぜ?という疑問に答えることはできない。誰かに吹き込まれたのか? そう審問官に問われ続けるけれども、粉挽工は人からではなく、書物の中から学んだと答え続ける。次いでギンズブルグは、メノッキオが読んだとされる書物を突き止め(あるいは推測し)、それを読み解く。しかし、そうした書物の叙述とメノッキオの発言には齟齬が生じている……。そこでギンズブルグはその齟齬にこそ注目していく。そうした探求の中で明らかになっていくのは、書物には還元し切れない、農民たちの間に長い間伏流のように流れ続けてきた民間思想(宗教?)の存在である。それは貴族や教会や都市の思想と完全に独立しているわけではないが、完全に従属しているわけでもない。メノッキオの思想とは、そうした民衆の口承によって語り継がれた思想と、書物から得た知見との混合によって形成されたものだと言う(ともすれば本書は一種の書物論として読むことすらできるのではないだろうか)。

こうして、私たちはメノッキオがどのようなやり方でかれの書物を読んだかを見てきた。言葉や文章を必要に応じて歪めつつどのように文脈から取り外し、さまざまに異なる文章を結びつけ、さまざまな恐ろしいアナロジーをあふれ出させたかを見てきた。そのたびごとに、テクストとメノッキオのそれへの反応とのつきあわせはかれが判然としない形で有している解読の鍵について想定するように導いたし、あれこれの異端集団との関係だけでは十分な説明にならないことを示させた。…最も人を当惑させるかれの主張は、マンドヴィルの『旅行記』や『ジュディチオの物語』などの全く無害なテクストとの接触から生まれたのであった。これらのテクストはメノッキオの言うような書物ではないが、書かれた頁と口頭伝承の文化は、メノッキオの頭のなかで、爆発性の混合物を作り出したのである(pp.121)

また、「61 支配者の文化と従属階級の文化」の記述は決定的に重要だと思われる。そこで彼が指摘するのは、支配者の文化と従属階級の文化の複雑な関わり合いである。少なくとも16世紀の段階において単に両者が独立しているとか、対立しているとか、従属しているとか、そんな単純な話ではないのだ。それは一部分だけ取り出すことが不可能なほど複雑な関係なのだと、ギンズブルグは言う。そして対抗宗教改革の奔流のなかで、こうした複雑な関係を断ち切り、従属階級の文化は次第に抑圧されていく。メノッキオの事例はこうした文脈で位置づけられなくてはならない。

メノッキオという一粉挽工の事例ですら、これだけ多くのことを語ることができる。しかし、メノッキオほど十分に裁判史料が残っているケースは稀であり、ほとんど多くの「異端者」たちは何も語ることもできない。彼らについては「私たちは何も知らない。」



そういえば、今月号の『思想』ではヘイドン・ホワイトの特集を組んでますね。『メタヒストリー』の刊行が10月に延びたせいでちょっと間の抜けた感じになってしまいましたが。対談に安丸先生が出ていて、その対談だけでも一読の価値あり、かも。その『思想』所収のヘイドン・ホワイト「実用的な過去」という論文は去年の東洋大学の講演のようです。なかなか面白い講演で勉強になりました。まとめたノートが見当たらないけれど、黒板にふと描いた図が面白かった気がする。この論文にはその図は載っていないけど。その講演の後に、上村忠男さんがヘイドン・ホワイトに「カルロ・ギンズブルグによる批判に対して、あなたはこれまで反駁をしてこなかったように思うが、その点についてどう考えているのか?」という趣旨の質問をしていました。それに対する回答は『思想』の上村さんの論文にまとめられている、というかその回答をまとめたものを論文に仕上げた印象すら受けてしまうけれど。でも、とても興味深い内容ですね。

サンティアーゴ・パハーレス 『螺旋』

絶妙な語り口、緻密なプロット、感動のラスト。大ベストセラー小説『螺旋』の作者トマス・マウドは、本名はもちろん住んでいる場所すら誰にも明かさない“謎”の作家。「なんとしても彼を見つけ出せ!」出版社社長に命じられた編集者ダビッドは、その作家がいるとされる村に向かう。一方、麻薬依存症の青年フランは、盗んだバッグに偶然入っていた『螺旋』をふと読み始めるのだが……。いったいトマス・マウドとは何者なのか? 2つのストーリーが交錯する時、衝撃の事実が明らかになる! 驚異のストーリーテラーが放つ、一気読み必至の長編小説。

またもや書かなきゃいけない本が溜まってしまった。いや、別に書かなくてもいいのだけど。とりあえず早足で。
ヴィレッジブックス×木村榮一さんというと、フリオ・リャマサーレスの印象がとても強いのだけど、これはリャマサーレスの新刊Las Rosas De Piedraではありません。僕が買ったあの本はかなり分厚いハードカバーで、せっかく届いたのに序盤で早くも挫折したのでした。パハーレスの本よりもそっちの方を訳してほしかったな。リベンジするのと訳が出るの、どっちが先だろうか。

ということで、サンティアーゴ・パハーレス。知りませんでした。30過ぎのとても若い作家さん。原著が出たのが2004年だから、これは25歳のときの作品ですか。これはびっくり。25歳で、こんな小説が書けるんですね。かなり色々作り込みながら仕上げてある作品、といった感じです。章によって緩急を変えていて、読んでいて飽きさせず、とても心地よい。そして一気読み系。小説内小説『螺旋』を中心にしてその周囲に巻き起こる人間同士の交流を描いた作品。すっ飛ばしたままの伏線もあるけれど、概ねきれいにまとめてくれているので読後感はすっきりです。まさしく大団円ってやつですね。書物とか物語への信頼、というものがひしひしを感じられて、こちらまで本の可能性、というのを信じたくなります。そういった意味でもこのパハーレスという作家は、「ストーリーテラー」なんでしょうね。ジョン・アーヴィングのことをなんとなく想起しました。
フリオ・リャマサーレスがあまりにも衝撃的だったせいで、現代スペイン文学というとどうしても彼のイメージなんだけれど、こういった若い作家さんもいるんですね。これからが楽しみ。

2010年7月28日水曜日

中野香織 『モードとエロスと資本』

エロスのエネルギーこそがモードを盛り立て、奢侈品の消費が資本主義を牽引してきた。しかし中世以来の循環が金融危機以後、停止。時代の映し鏡であるモードを通して変化を遂げる社会を描く!

色々なブログなどを見ていると評価が高いようですが……。近頃の新書ってこういうもんですかね。文章が読めたもんじゃない。2週間くらいで一気に書いたんじゃないかなぁ。議論もかなり雑駁だし。タイトルももう少し何とかならないもんですか、三段噺ですかっていう。読む気をなくさせる文章。

昔はファッションは「恋愛」によって規定されていたけれど、最近はそうじゃなくなってきて、ここ数年ではそうした空虚さへの批判から「倫理」によって規定されるようになってきている、とまぁこれだけの話。ふーんとしか思わなかったです。ってか本当にそうなのかな。もちっときっちりジェンダーの議論とかしてほしい。というか「ファッション」って誰が着てるもののことを言っているのか。ここでいう「昔」って要は西欧の貴族層とかのことで、それ以外の人が着てたものはファッションじゃない、と。個人的には中世ヨーロッパの農民や同時代の中東なんかの「ファッション」のほうが興味あります。「倫理」云々の話はファッションだけのことでもないし、ファッションの空虚さの埋め合わせというのも、一見分かりやすいけど、ほんとに?と思わなくもない。もっとちゃんとした文章で書いてくれれば説得力があるのかもしれないけど、こんな書きなぐり文章でいわれても、その時点で不信感を持ってしまいます。暴走資本主義という言葉も突然出てくるけど、それって何を指してるのか。惹いてくる人物にいちいち「さん」を付けるのもやだなぁ。もはやいちゃもんですが。集英社新書は玉石混淆とはいいますが、これは僕にはただの石にしか見えません。読まなかったことにしようかとも思ったのですが一応感想だけ。

2010年7月22日木曜日

ジル・ドゥルーズ 『批評と臨床』

文学とは錯乱/一つの健康の企てであり、その役割は来たるべき民衆=人民を創造することなのだ。文学=書くことを主題に、ロレンス、ホイットマン、メルヴィル、カント、ニーチェなどをめぐりつつ「神の裁き」から生を解き放つ極限の思考。ドゥルーズの到達点をしめす生前最後の著書にして不滅の名著。

カバンやらポケットやらに突っ込んでだらだら読んでいたらぐちゃぐちゃになってしまいました。そんな読み方ができるのも文庫ならでは。ポケットにドゥルーズが入る、ふとした時間にぱらぱらページを捲れる、というのはなんだか贅沢な心地がします。

秩序だった哲学書ではもちろんなく、これはむしろ批評・論文集といった感じ。カント、ニーチェ、スピノザ、ベケット、ルイス・キャロル、ロレンス、メルヴィル、マゾッホ……など彼がこれまで好んで取り上げてきた人物がごっそり取り上げられています。それもまた贅沢な感じ。素人から見ると、議論の内容もどこか集大成といった趣があります。ある程度網羅されているような。

しかし、まぁなんという速度なんだろう。まるで猛るような筆致。相変わらずなかなかついていけないけれど、この文章に惹かれてしまう。終章の『エチカ』論はとても面白くて、あぁ『エチカ』読みたい、と。そういえば『スピノザ』のラストは感動的ですらあったなぁ。あぁスピノザもドゥルーズもいい奴だったんだろうなぁ、などとふざけたことを思った記憶があります。この第五部とドゥルーズの速度を同列に捉えようとするのは筋違いなんだろうか。

第五部の幾何学的方法はある発明の方法であり、それは、隔たりと跳躍、中断と縮約によって、すなわち、論述する理性的人間というよりもむしろ探しまわる犬の流儀で、事を進めることになるだろう。…これらの性質は、「より手速く」するための、論述における単なる不完全さとしてではなく、絶対的速度を獲得する新たな秩序=次元の思考の力能として姿を現しているのである。(pp.306-307)

バートルビー論は個人的には面白かったなぁ。バートルビーに新たなるキリストを見る、というのはそれだけ聞くとおいおいって思わずにいられないけれど……。論文読んでいくと、あぁそういうことか、と思わされる。まぁ流されやすいので。そういえばアガンベンのバートルビー論って読んでないなぁ。月曜社だっけか。

速度と密度がすごすぎて、とても読み込めていません。あと20年くらいはかかるかもしれないなぁー。

2010年7月20日火曜日

久生十蘭 『久生十蘭ジュラネスク 珠玉傑作集』

「小説というものが、無から有を生ぜしめる一種の手品だとすれば、まさに久生十蘭の短篇こそ、それだという気がする」と澁澤龍彦が評した文体の魔術師の、絢爛耽美なめくるめく綺想の世界。

久生十蘭初めて読んだなぁー。時代物、幻想譚、ミステリー、歴史小説風、アメリカもの、ユーモア……僅か10編だけど、なるほど多彩ですね。主に口述筆記で書いていたらしいことを知ってびっくり。口述筆記で小説を紡ぐってなかなかイメージがわかないなぁ。頭の中で物語を創り上げているってことなのか。それにしては文章も雰囲気があっていいですね。口述筆記で輪郭を固めた後に、文章を練り上げていったんでしょうか。
「南部の鼻曲がり」(1946年)で日系人を取り上げたり、「美国横断鉄道」(1952年)では鉄道建設での中国系移民に対する残虐な扱いを暴露したり、となかなか面白い。作品が発表された時期を見ると思わずにやりとしてしまいます。「遣米日記」は1942年ですか。
全集買う気にはならないけどもう少し読んでみたいな。
文庫だと、今手に入るのは岩波から出た短編集と講談社文芸文庫のやつくらいだろうか。

2010年7月17日土曜日

ナンシー・ヒューストン 『暗闇の楽器』

現代のマンハッタン/暗黒の中世フランス、二つの世界が時空を超えて交錯する奇跡のパラレル・ストーリー。高校生が選ぶゴンクール賞受賞作。

ナンシー・ヒューストンです。『時のかさなり』に続いて二作目。本書は1996年の作品。『時のかさなり』は2006年の作品ですから、少し前に書かれたものですね。どうりで若書きなところも……と言いたいところですが、訳者あとがきによれば本書が書かれたのは小説家としてデビューして15年目なんだとか。うーん、それにしては随分と肩肘張っている感じ。

この『暗闇の楽器』は2つのパートが交互に重ねられ、同時進行的に進んでいくスタイルをとっています。「復活のソナタ」は17世紀フランスを生きる双子の運命をたどった小説で、「スコルダトゥーラの手帖」はその小説を書いているナディアを追ったもの。だから読みながら、バルナベとバルブという男女の運命に翻弄される生き様を追いながら、それを同時進行的に書き進めていくナディアの回想、友人や元恋人、家族との関わりも追っていくことになります。メタ小説とでも言うんでしょうか。更にナディアは小説を書き進めるために悪魔ダイモーンの力を借りていて、ダイモーンの語りとナディアの書く小説が次第にズレていきます。これを面白いと取るか陳腐と取るか。
「復活のソナタ」だけ独立して読んでも面白い小説だと思うけれど(佐藤友紀っぽい?)、ナンシー・ヒューストンがやりたかったのはむしろ「スコルダトゥーラの手帖」なんでしょうね。

作家が創作を進めている場面、これは裏方(裏-局域?)のところであまり見てはいけないというか、見せたがらないところなんじゃないかと思うけれど、彼女はそのブラックボックスをあけすけに晒してしまう。創作とは単に作家が作品を書くことじゃないということ、作家はゼロ地点から創作をスタートするのではなく、悪魔的なものの力を借りつつ物語を始め、その物語が作者に交感し、作者は作品を動かしていく。そんな過程をこの「スコルダトゥーラの手帖」のパートはうまく描いている。この悪魔とのやり取りは、ちょっといかにも過ぎて寒々しいけれど、目次の前にこう書かれていることを忘れてはいけないのでしょう。

『復活のソナタ』のエピソードの多くは、アンドレ・アラベルジェールが『ペリーの耕作人たちの日々』(セルクル・ジェネアロジック・デュ・オー=ベリー出版、1993年)の中で語っている実際の出来事に着想を得ている。

こんな本があるかどうか、こんな出版社があるのかどうか、こんな著者がいるのかどうか甚だ疑わしいところですが。何かのアナグラムなのでは?と疑ってしまいます。また「実際の出来事」などという不用意な言葉遣いをするとも思えませんし、きっとこれもナンシー・ヒューストンの創作なんだと思います。そのことは話を複雑にさせてしまうので、とりあえず脇に置きましょう。

この但し書きに従えば、本書に登場する悪魔ダイモーンというのは、結局のところアンドレ・アラベルジェールに他ならないし、悪魔の語りとはこの『ペリーの耕作人たちの日々』なる本ということにならないでしょうか。単に悪魔の語りに従うのであれば、それは単なる口述筆記でしかないし、以前の何かの剽窃ということになってしまいます。このパートから僕が学んだことというのは、先も触れたようにまず、創作というのはゼロ地点からスタートするものではないということ。そしてもとにある「何か」が次第に運動し始め、その運動と作者の筆致、生き様などと共鳴を始める。その共鳴によって、「何か」が元来であれば導いていくであろう方向から逸れていく。この逸脱こそが創作なのではないでしょうか。(余談ですがジャック・ランシエールが「人間は文学的動物である」というのは、まさにこの逸脱とも深く関係するように思います。)

これはナンシー・ヒューストンのお師匠さんに対する一つの回答なんでしょうね。

2010年7月16日金曜日

パスカル・キニャール 『アマリアの別荘』

夫の浮気を知ったアンは、決然とすべての生活を“処分”して、新たな人生を始めるための旅に出る。さまざまな出逢いが交錯し、思いがけない事態が迫りくる。彼女は安らぎの場所を見いだせるのか?…現代フランスを代表する作家の集大成にして傑作長篇。

完全にやられてしまいました。今年読んだ本のなかでトップ3に入るんじゃないか、と思うくらい。ページを早く捲りたい、けれども捲る毎に残りページが少なくなっていくのが惜しくてしょうがない。一節一節の文章の美しさに陶然としていると、あっという間にページ数と時間が過ぎ去っていく。終わって欲しくない、いつまでもこの世界が続いて欲しいと思わず願ってしまうようなそんな小説。何だろう、行間すら、版面の文字と空白のバランスすらも美しい、といったらさすがに褒め過ぎだろうか。そんな風に感じるほど、とにかく僕はこの小説にやられてしまったのです。

何でなのか。それを説明しなきゃ何も伝わらないし、できればそれを言葉にして伝えたい、と思うのだけれどどうもうまくいかない。ちょうど、ジョルジュがアンを愛し、アンがアマリアの別荘とレナを愛したように、訳も分からず惹かれてしまったのだ、……とでもいえば格好がつくだろうか。アン・イダンという女性を軸に物語は進むのだけれど、時折人称は入れ替わる。入れ替わるようで入れ替わらない。アンの一人称のような、三人称のような。アンは「私」であり「彼女」でもあり「アン」でもあり、「エリアンヌ」でもある。時に「私」はアンであり、シャルルでもある。この距離感とその揺れ動きが絶妙なリズムで折り重ねられる。そして、随所に見られる音楽への言及。音楽的という言葉が指す内容はよく分からないけれど、確かに構成なんか交響曲っぽいのかな。後付けですが。そういえば小説も楽譜も同じく紙とインクからできているんだった。

何がそんなにいいのか全く伝わらないままですが、とりあえず、おすすめです。

2010年7月15日木曜日

ステファヌ・ナドー 『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』

逃走か、あるいは競闘か?
21世紀の最もラディカルな
『アンチ・オイディプス』臨床実践!

ポップ心理学、資本主義、そして死。
混沌が支配する日常を《くたばらずに》生き抜くために、
ガタリ=ドゥルーズはいかに実践しうるのか?
カフカ、プルースト、三島由紀夫、
『スター・ウォーズ』、バッグス・バニーを駆使する、
鮮烈なエクリチュール機械の誕生!


読み終えて日が経ってしまい、忘れてしまった部分が多々。というのもこの本の次に読んだ本があまりに素晴らしかったから。
この三島論はどうなのだろうか。プルーストについて書いているところはとても面白かったなぁ。

挑発的かつお茶目な文体は印象に残っています。たまにくどくていらっとしますが。

ポップ心理学のくだりを読んで、あぁ、どこも事情は同じなのねと。こういうのによくもなぁうんざりせずに付いていくものです。

あと、そうそう、『表象』で「ドゥルーズの逆説的保守主義」とかいう小特集が組まれていたことを思い出した。これって「ドゥルーズ=ガタリの逆説的保守主義」とはいえないけれど、ドゥルーズとガタリを無理やりぶった切ってドゥルーズの方だけ見たら、なるほど逆説的保守主義ですね、っていいたいだけというように解釈してしまったんだけれども。でもそれだったら『アンチオイディプス草稿』を訳した当人たちがわざわざするほどのことでもないしなぁーと思案していたものでした。

もちろんAOがベースになっているんだけれど、注釈書のような退屈な代物じゃない。『使用マニュアル』となると、読者に使い方を説明してくれそうだけど、何よりもこの本自体が一つのAOの活用になってます。アンチ・オイディプスを実践すること。何のために? くたばらないために。

ノスタルジーについて言及も印象に残っている箇所の一つ。ノスタルジーと「失われた時」を求めることの違い。そういや光文社の古典新訳からも『失われた時を求めて』の訳が出るみたい。某訳の『純粋理性批判』なぞいいからこっちに力を注いで欲しい。

そういや、最近のドゥルーズ=ガタリについて論じたものってあまり脱-コード化とか使っていないような気がする。気のせいかな。

こんなのですみません、今度はちゃんと読みます。

2010年7月6日火曜日

フラ・トマーゾ・カンパネッラ 『太陽の都』

スペイン支配下の南イタリア独立を企て挫折した自らの改革運動の理想化の試みとして,カンパネッラ(一五六八―一六三九)が獄中で執筆したユートピア論.教育改革をはじめ,学問,宗教,政治,社会,技術,農工業,性生活等人間の営為のすべてにわたる革新の基本的素描が対話の形で展開される.ルネサンス最後の巨人の思想を集約した作品.

この間、ふと「カポディモンテ美術館展—ルネサンスからバロックまで」という企画展を見てきた。その話をここでしようとは思わないのだけど、そのときたまたま読んでいたのがこの『太陽の都』で、なんとも小さな偶然に少し嬉しくなってしまった。というのもこの展示品が書かれたちょうど同時期に、この本は書かれたのだから。一方は、ナポリで学びカラブリアに共和国を樹立しようと蜂起を試みた廉で投獄され、ナポリの獄中で『太陽の都』を著す。他方で、画家たちは教皇を輩出するほどにまで繁栄を遂げたファルネージ家をパトロンとして絵画を描き続けた。期せずして17世紀前後のナポリのもつ、出会うはずのない二つの様相に同時に触れることができた。この二つを重ね合わせ、うまく話を展開することができればそれはとっても面白い話になるだろう。僕にそんな器用なことはできないけれど、もし重ね合わさる部分があるとすれば、それは「キリスト教」であり「カトリック」であり「対抗宗教改革」だと思う。
そういえば、展示されていた作品を見ていてふと「みんな上を見ている」ということに気付いた。それは描かれている人物もそうだし、その絵を見ている人も、なぜか上の方を見上げている。幾つかの絵画には正面の上端に「光」が描かれている。ひょっとしたら、彼らはそれを見ていたのかもしれない。何が言いたいかというと、ここで展示されていた宗教画は「幻視」に関わるものが多かったのではないか、ということ。ストイキツァの『幻視絵画の詩学』を読んで以来、絵画における幻視というものが気になっていて—無論、ストイキツァのあの本はもう少し後のスペインが中心だったけれど—そうした超越的なものを媒介する、そして「現実」を侵犯する幻視絵画がこの時代の南イタリアの絵画群にも見られることはとても興味深かった。そして、ここから飛躍すれば、超越的なものの姿を垣間見させ、人々の日常実践を変革させていく機能を果たす幻視絵画と、カンパネッラが記したようなユートピア論はどこか似ている。つまりカンパネッラもまた獄中でオリエントの理想的な共同体「太陽の都」を幻視し、著述している、という意味において。

訳者も解説で述べているように、ユートピアは単なる夢想ではない。それは現実に存在しているわけではないが、一種の可能性として存在している。それを「来るべきもの」といってしまうのにも少しためらいがある。それはやってくるもの、というよりもこちらから向っていくものだから。それは遂行的であるし、実践と深く結びついている。だからユートピアとは夢想よりも「希望」に近い。あるいはユートピアを論じることは一種の「希望という方法」(宮崎広和)なのかもしれない。


話が完全にそれてしまった。肝心の『太陽の都』の話をしていない。この本はジェノヴァの商人と騎士との対話という形をとっている。ジェノヴァの商人がオリエントにある「太陽の都」の様子を事細かに説明していく。都市の形・大きさから、教育・宗教・政治・科学技術・社会制度まで仔細に紹介し、騎士が時折同意や感嘆の声を上げ、あるいは疑問を差し挟んだりする。文章としても平易なので概ね読みやすく、また面白い内容になっているように思う。ところどころ矛盾もあるし、「俺はこんなとこには住みたかないなぁ」と正直思ったけれど、カンパネッラにとって、これが本当に理想とする社会なのかはよく分からない(きっと誰にも分からないだろう)。ただ、この対極に当時のカラブリアがあったのだろう、ということはよくわかる。また、天文学、技術から政治にいたる全面的な描写も、いかにもルネサンス的な関心の広さを物語っているようでとても面白い。また、解説で訳者が触れているように、カンパネッラの思想と神秘主義との関わりも、気になるところ。そう、解説が面白いんですね。というかカンパネッラの生涯の紹介が。
読んでどうなることもないけれど、何となく面白いので気が向いたらいかがでしょうか。

2010年6月29日火曜日

マイク・デイヴィス 『スラムの惑星』

ネオリベラリズムが主導するグローバリゼーションの下、世界各国で「スラム化」が進行、10億を超えるスラム居住者が生まれている。都市問題の論客デイヴィスがその現状と構造を鋭く抉り、貧困の世界的な同時進行にどう立ち向かうかを考察する。待望の邦訳。

これは先週に読み終えた本。なんだかいまいちでしたね。『要塞都市L.A.』みたいなのを期待していたのに、ひたすらと国連のレポートやら他の人の研究やらを書き連ねているばかり。フィールドワークをしたわけじゃなくて、二次文献を整理している、もっと有り体に言ってしまえば、整理も資料の精査もせずにただ盛り込んでいるだけ、のような気がします。『要塞都市〜』を読んだのはだいぶ前で、手元にもないので分かりませんが、マイク・デイヴィスってこんな感じだったっけ?と思ってしまいます。

確かにこれだけ書き連ねれば、スラム化という現象が世界中で生じていることはよく分かる。けれども、何も見えてこない。実態とかけ離れた開発計画なんかを批判するけれど(もちろんその批判は真っ当だと思う)、マイク・デイヴィスのこの著作もまた、実態を描くということ、そこに住んでいる人の生を描くということとはほど遠いのだろう。果たして、(こと第三世界における)都市貧困と「スラム化」というものは常にイコールなのか。彼が「スラム化」と指しているものは何なのか。彼はそれぞれの地域、国家、都市によって異なる文脈があるにもかかわらず、それを安易に「スラム化」と名指すことによって、問題を単純化し、見誤ってしまっているのではないか。そんな疑問をもつ読者もいるだろう。だから、都市研究、特にスラムなどの研究にはエスノグラフィックな調査が必要だと思うし、それをせずにひたすら統計データと二次資料を積み重ねていく彼の手法には正直感心しなかった。都市スラムのエスノグラフィックな調査のほうが、個人的には読んでいて楽しいので。そういえば昔読んだ松田素二さんの『抵抗する都市』なんか面白かったなぁ。あれ、『都市を飼い馴らす』のほうだっけか、ナイロビのやつ。まぁいいや。

いくら手法は単調だとはいっても、時折見せる分析はやはり鋭いし、エピローグなんかはけっこう面白かった。明石書店だし、買いかどうかは微妙ですが、図書館などで読む分にはいいのかもしれません。「都市」って最近気になる、という人にも。

2010年6月28日月曜日

マルカム・ラウリー 『火山の下』

ポポカテペトルとイスタクシワトル。二つの火山を臨むメキシコ、クワウナワクの町で、元英国領事ジェフリー・ファーミンは、最愛の妻イヴォンヌに捨てられ、酒浸りの日々を送っている。1938年11月の朝、彼のもとに突然イヴォンヌが舞い戻る。ぎこちなく再会した二人は、領事の腹違いの弟ヒューを伴って闘牛見物に出かけるが、領事は心の底で妻を許すことができず、ますます酒に溺れていく。彼を現実に引き戻そうとするイヴォンヌとヒューにもなすすべはなく、二人の救いの手を拒絶する領事は、ドン・キホーテさながらに、破滅へと向かって衝動的に突き進んでいく。ナチスの台頭やスペイン内戦など不穏な世界情勢を背景に、領事の悲喜劇的な一日が、の祝祭的な禍々しさと重なり合い、ジョイスの『ユリシーズ』を思わせる圧倒的な凝集力で描き出される。聖書、ギリシア神話、メキシコの歴史、更に『神曲』『失楽園』『ファウスト』等の文学作品をモチーフとして、領事の滑稽ながらも切実たる狂気の行方が、叙情的かつ重層的に、イメージ豊かにあぶり出されていく。ガルシア=マルケス、大江健三郎ら世界の作家たちが愛読する二十世紀の不滅の傑作、待望の新訳。

これは2週間くらい前に読み終えた本でしょうか。すごい小説です。
なんというか胃もたれしてしまいました。圧倒的な筆力に消化不良を起こしてしまいます。
図書館で借りたのですが、これは買い直すべきだ、とつくづく。繰り返し読むに足るし、そうやって反芻して読まなきゃまたやられてしまいます。ある意味、『闇の奥』をクルツ大佐の側に立って描き直したらこんな感じになるのかもしれない、とか思ったりしました。というか『闇の奥』への一つの応答なのかもしれませんね。

なんか一気呵成に書き上げたようにも見えるし、綿密に計算して構築したようにも見える。こんな小説書ける人いるんですね。現実と幻想の間を漂う、なんて言葉が生温く聞こえるほど、混沌としています。小説の中でいわゆる「事実」なんてさして重要なことではないのかもしれない。会話をしているうちに全然違うことを想起して、その妄想が途方もなく、現実を圧倒するほどに肥大していく。時間がものすごくたったような気もするし、あっという間なような気もする。そんなことは誰にでもあると思うけれど、小説のなかにその感覚を落とし込むのってすごく難しいような気がする。けれどラウリーは難なくこなしてみせる。章毎に人物の視点が入れ替わるけれど、その視点によって、物事の見え方も捉え方も違うし、「世界」も違っていく。描写なんかも、一見とりとめのないようで、でも無駄なところは全くない。あるいは無駄さえも必要な部分として読ませるような、そんな感じです。うーん、うまく言えない。すごく、インプリケーションに富んでいるし、寓話的にすら思えるんだけれど、その先のものもなかなか掴めない。
なんというか、すごいです。できれば注釈が欲しかった。

もっとまともな感想が書ければと思うけれど、なかなか僕にはできません。やられてしまいました。いつかまた立ち向かってやろうと思います。

修道士マルクス/修道士ヘンリクス 『西洋中世奇譚集成 聖パトリックの煉獄』

腹を食い破る蛇、悪霊たちの打擲、四肢を断ち切る処刑人、灼熱と悪臭……
想像を絶する責め苦と試練が待ち受ける西欧版地獄とは?

12世紀、ヨーロッパを席巻した冥界巡り譚「聖パトリキウスの煉獄」「トゥヌクダルスの幻視」を収録。2人の騎士は臨死体験を通して、異界を訪問する。無数の悪霊の襲来から始まり、灼熱、悪臭、寒冷、虫、蛇、猛獣が跋扈する煉獄で、執拗な拷問と懲罰を受けた後、甘美にして至福の天国を見学し、現世へと帰還する。中世人の死生観を熟読玩味する。


しばらくパソコンから離れた生活を送っていたので、なかなか書けませんでした。その間に、何冊か本を読み終えたのですがだいぶ時間が経っているので、とりあえず読んだ本の紹介程度に。また7月からはちゃんとしたいと思うのですが。

ってことで、3週間ほど前に読んだ、講談社学術文庫「西洋中世奇譚」シリーズの新刊。「トゥヌクダルスの幻視」と「聖パトリキウスの煉獄」の二篇を収めています。『神曲』を読んでいて地獄篇の拷問場面が一番面白かった、という人にはおすすめです。『神曲』ってやっぱ洗練されているんだなぁ、こっちはもっと露骨にえぐいです。神曲は地獄→煉獄→天国だけども、この二篇では、どちらも天国には行かないんですね。煉獄の最後にある地上の楽園止まりだったと記憶しています。「幻視」というのはとても面白いテーマで、以前ヴィクトル・ストイキツァの『幻視絵画の詩学』という本を読んで感銘を受けたことがあります。といってもあの本で扱っているのは16〜17世紀ごろのスペインの宗教画でしたが。ただ、幻視を描く宗教画と、こういった幻視譚はそれが担った役割においては似ているところがあるのかもしれません。こういった煉獄譚が当時、誰にどのように読まれていたのか、その辺は気になるところですね。平民の生活を(自発的に)統制/管理するための技術、みたいな役割を果たしていたであろうことは予測がつきますが、それだけに尽きない魅力があるようにも思います。
詳細な解説も魅力。

2010年6月7日月曜日

白石嘉治 『不純なる教養』

資本主義の終わりを、われわれはどのように生きればいいのか?時間と場所を倒錯させ、無数の新たな夢をつむぐための「不純なる教養」。

とても魅惑的かつ挑発的な論集。『超訳なんちゃら』を読んでいる暇とお金があったらこっちを読みましょう。
とりわけ数百万もの借金を背負って大学院を出た僕にとって、とても刺激的な1冊だった。奨学金という名の下に行われる悪質な学生ローン。運良く僕は無利子だったけれど、大多数は利息付きの借金を背負わされることになる。貸与の奨学金なんて語義矛盾もいいとこだろう。将来の自分から借金しているだけで、学生支援機構なる団体は、そんな生活に困窮する学生たちに取り憑いて、利益を吸い上げる寄生虫に過ぎない。寄生虫の割りには偉そうな連中で、自分がいいことをしている、と本気で信じているかのようだ。寄生虫なら寄生虫らしくすればいいのに。ついでにいえば、彼らの奨学金には有利子の第2種と、無利子の第1種がある。貸与人数を見ると平成21年度には、有利子が80万人、無利子が34万人となっている(文科省のHP)。学生のための奨学金なのにそもそも利息をふんだくる神経も信じ難いけれど、もっと深刻なのは誰が有利子で誰が無利子か、という点だ。無利子と有利子であれば、基本的には(有利子の方が高い金額を借りることができるものの)無利子を選ぶのが当然だけれど、3分の2は有利子での貸与を余儀なくされている。有利子については年収制限さえ合えばほぼ受給できるけれど、無利子については学力条件などが厳しい。しかし、この学力条件とは一体何を意味しているのだろう? 僕のいた大学では無利子の奨学金をもらっている人ばかりで有利子の奨学金をあえて受給している人を見たことがなかった。(あえてこう言うのだけれど)「いい大学」→「いい企業」という図式が確固として存在している現状からすれば、将来大企業などで安定的な雇用に就き高い所得を得ることが予測される学生には無利子の奨学金を貸与し、そうではない(つまり、安定的な取り立てが望めないであろう)学生には有利子の奨学金を貸与する、という形になっている。つまり後者の学生の方が、明らかに重い負債を背負わされることになる上に、その返済も前者の学生にも増して困難になることが容易に見て取れる。それに追い打ちをかけるのが、返済滞納者の「ブラックリスト化」だろう。安定的な職にありつけないならば、奨学金など返せる訳がない。そんな人々にもっと懸命に働いてカネを生み出せ、じゃないとお前はクレジットカードも使えないし、家にも住めないぞ、と彼らはいう。彼らは、奨学金を滞納することは、「人間」として生きるにあるまじき行為であって、「負け犬」で「敗残者」である、という烙印を捺そうとしている。このことは学生支援機構が、学生を「支援する」わけでもなんでもなく、学生の不安定さに取り憑くたちの悪い借金取り以外のなにものでもないことを証している。
出発点に戻ろう。なぜ奨学金が借金なのか。しかもなぜその3分の2が利子付きなのか。この制度は誰のために、何のためにあるのか。
もちろん白石氏のいうように、給付型というのが奨学金のあるべき姿であることは間違いない。それがもし本当に困難であるならば(必ずしも困難とは思われないが)、有利子を廃し、ブラックリスト化を撤廃し、無利子の奨学金に一元化することは給付型に至るステップとして考慮されるべきだろう。学生ローンではなく、学生支援機構という名を冠しているのであれば、他の民間ローンとは一線を画したその名に恥じない機構のあり方があるのではないだろうか。
……とはいえこれはやや現実主義的な考えかもしれない。学生、ことに大学院生にとって、研究は「仕事」であるし、労働活動でもある。ちょうど家事労働と同じように、大学院生の研究活動もまた労働なのだ。しかし、この研究活動を行うにあたって、(一部のエリート学生を除き)彼らに対しては一切の賃金が支払われないどころか、大学に何十万(もしくはそれ以上の)学費を毎年納めなければならない。一部を除き、とは学振の特別研究生に選ばれれば、月々生活するに足る給与と研究費が支払われるからである。このことが示唆しているのは大学院生の研究活動は本来それだけの賃金を得るに値する労働だ、ということではないだろうか。だから、大学院生に賃金を!と叫ぶ声を、僕としては簡単に笑い流すことはできない。そして卒業した彼らの多くが非常勤講師という云ってしまえば「パート」労働という不安定な状況におかれていたり、予備校や高専などで生計を立てていくしかないことを考えたときに、もはや一体誰が学者なぞになりたがるだろうか、などと思ったりもする。だからこそ、彼らの研究にかける情熱には、本当に敬意を表したいと思う。

もちろんこの本は奨学金の話ばかりしているわけではない。というか、結局のところ奨学金の話の根底にあるものは、ネオリベ批判と大学とは何か、という2つの問題なのだろう。前者に関していえば、「私たちは経済学者に指図されるために生まれてきたのではない」(192ページ)という一言に集約されるだろう。後者の大学論は、(これは地下大学での西山さん×平井さん×白石さんの鼎談を聞いていても思ったことだけど)抜群に面白い。大学の起源にまで掘り下げながら、大学はどこにあるのか、知識人とは何かを饒舌に語っている。そう、「知識人」とは何かということについて、これまでの自分の認識を転換して改めて考えてみたい、と思った。僕はこの言葉をあまりに啓蒙主義的に捉えすぎていたかもしれない。

笙野頼子論は措いておいて、ベーシックインカムの議論と『来るべき蜂起』についての紹介についても少し。
ドゥルーズ=ガタリはベーシックインカムを擁護するだろうか?という一風変わった問いを提出しながら、彼はベーシックインカムを積極的に肯定する。BIが導入されれば、上記のような奨学金を巡る問題も、ひとまず片がつくわけだ。
しかし、ここで白石氏はBIの導入が労働意欲の減退をもたらすことはない、と断言する。こんなに簡単に断言できるかどうか、僕には少し自信がない。主婦の家事労働や院生の研究活動のように、人々はお金が支払われる/れないの問題に関わらず労働をする、確かにそうかもしれない。けれど、例えば工場でひたすらお弁当を作るような労働に、あるいは清掃に、それでもみながみな従事するのだろうか。これはそこで働いている人への軽蔑でもなんでもなくて、純粋な問いである。結局、誰かが弁当を作らなくてはいけないし、誰かが清掃をしなくてはいけない。それを誰が埋め合わせるのか?労働に貴賤はない、それが白石氏のBIへのあるいは人間の労働への前提にあるようだけれども、本当にそうなのか?(繰り返すけれど、これは修辞的な問いではなく、純粋な問いです。) そういえば現代思想のBI特集にも寄稿してたなぁ。そもそも現代思想がこれまでBIの特集をしていなかったことに驚いたけど。
『来るべき蜂起』は買いました。早く読みたいところですが、読書の予定が詰まっていてなかなか読めそうにありません。なので保留。しかし、やたらにみんなこの本のことに言及するのね。

あと、そう、ヴィルノの「環境」と「世界」の違いについての話とか、スティグレールの話とか結構面白かった。ヴィルノって読んだことなかったかも。スティグレールは『現勢化』がとっても面白かったので気になる思想家の一人です。
とまぁこんな風に読者をいい感じに挑発してくれます。あぁあれも読みたい、これも読みたい、と。面白い。

2010年6月6日日曜日

ジャン=リュック・ジリボン 『不気味な笑い フロイトとベルグソン』

ベルクソン、フロイト、ベイトソンの思想、モリエール、カフカ、サルトルの文学、チャップリンやタチの映画などの新しい読解から、この永遠の謎の解明に一石を投じる、ブルデューとともにLiber叢書を立ち上げた現代フランスの知性による画期的な哲学エッセイ。

とても薄い本。注釈と訳者解説を除けば60ページちょっと。ジリボンという著者のことも知らず、タイトルにつられてなんとなしに読んでみました。
「フロイトとベルグソン」という副題になっているけれど、ほぼベースになっているのはベルグソン。特に『笑い』を、滑稽さと不気味さの共通点/分割点を考察する、という観点から再評価しようとしています。
文章も平易で読みやすいけれど、きっちり練り上げられた本、という印象はあまりしない。思いついたことをとりあえず繋げていった「研究ノート」といった感じ。論旨もやや錯綜しているし、ところどころに飛躍があるようにも思う。特にラカンの〈現実界〉を巡る議論を持ち出しかけ、手に負えない、とそれを撤回するところなんかはおいおい、と。ジリボンとしてはそっちに落としたかったんじゃないか、とも思えるのだけど。ただ、そうすると枠化=象徴化で、枠化できない残余=不気味なものということになって、それ自体整理としてはとってもシンプルで分かりやすいけれど、別にそんなに面白い話でもないし、喜劇=滑稽さ/悲劇=不気味さというそれまで依拠してきた二項対立の議論とは少しズレてしまう。そのせいだろうか? ただ、Ⅺ以降を読むと、やっぱラカン方向に落としたかったように読めるのだけど。

喜劇は滑稽さをもたらすものでそれを観る私たちは劇のなかに引きずり込まれることはなく、他方で悲劇は不気味さを伴うもので、そうした不気味さが私たちを劇の世界に引きずり込んでいく。こういった二項対立的な構図をベースに置きながら、それを少しずつジリボンは掘り崩そうとする。実は滑稽さと不気味さが対極にあるものというよりも、一つの反応の2つの有り様としてあるのだと彼はいう。つまり、ある枠(認識枠組み)と対象との乖離ゆえに滑稽さが生じ、枠が宙づりにされるときに不気味さが生じるのだと。しかしその閾を決定付ける因子とは何なのだろう。そもそも枠が「宙づり」になる、とはどういうことなのか。『モダン・タイムズ』の滑稽さと、アウシュヴィッツの底知れない不気味さ。この二つを同列に分析することができるのか(これは極論じゃない)。それは不可能ではないだろうし、必要なことと僕は思うのだけど、〈枠〉という概念がその分析装置として妥当なのかはよくわからない。

最終章の結論部分については、ちょっと意味が分からなかった。枠化(ここでは「意味づけられる」ことを意味する)以前の、生の豊穣さ(ベルグソン)やら不条理さ(カミュ)やら不気味さ(サルトル)やらに触れた後に、彼はそうした枠化されえない世界、意味消失の世界には別のヴァージョンもあるのだ、という。そこでは枠は依然として存在しているが、それらの審級(枠とは審級である)は特権的な存在ではなく、脆弱な、「消失のふり」をしたものであると。そしてそこでは滑稽さと不気味さが両立する。なんだか手順をすっ飛ばしたずいぶん強引な脱構築のような気もするけど。そしてその後には笑いは簡単に低俗化してしまうから私たちはそうした堕落から笑いを守らなきゃいけない、笑いは神秘に近しいものとなりうる(「笑いは夢の親戚であり、神秘に接して花を開き、熱狂のさなかにそれ自体が神秘に達する」)、などとよく分からない話になっています。ちょっとむりやり落とそうとしすぎな感があります。これはよくない。

この本は完成された本、というよりもやっぱり研究ノートなんでしょう。気になるところや面白いところもあるのですが、いかんせん……
何れにしても、ベルグソンの『笑い』は読みたいですね。岩波文庫でしたか。

2010年5月28日金曜日

小島信夫 『アメリカン・スクール』

アメリカン・スクールの見学に訪れた日本人英語教師たちの不条理で滑稽な体験を通して、終戦後の日米関係を鋭利に諷刺する、芥川賞受賞の表題作のほか、若き兵士の揺れ動く心情を鮮烈に抉り取った文壇デビュー作『小銃』や、ユーモアと不安が共存する執拗なドタバタ劇『汽車の中』など全八編を収録。一見無造作な文体から底知れぬ闇を感じさせる、特異な魅力を放つ鬼才の初期作品集。

「アメリカン・スクール」が読みたくて、手に取ったのですが、どれもこれも面白い。「占領下」や敗戦後の日米関係やらを扱った研究にはしばしば取り上げられる「アメリカン・スクール」。マイク・モラスキーさんか新城郁夫さんのどっちかが分析しているやつを読んだことがあるなぁ。内容は……忘れてしまったけれど、なんだか面白かったような気がする。

読みながら、なんだか滑稽で笑ってしまうシーンが幾つもあるんだけれども……なんというか、後味がすごく悪い。なんというか思わず笑ってしまって、後でそのことを悔いることって誰にでもあると思うんだけど、そんな感覚がする。笑えない笑い、というんだろうか。その理由を愚考するに、やっぱりこの小説群は「占領」や「戦後」というものの深層を抉りとっているからなんだろう。あるいは、その経験によってどうしようもなく刻み込まれてしまった心性のようなものを。戦後の日米関係がこれ以降今日に至るまで全くと言っていいほど同じ論理で動いているわけで、それを読みながら嗅ぎ取ったせいなのかもなぁ、とか思いました。でもAmazonレビューでは素直に楽しんでいる人もいるみたいだから、まぁ当てにはならないのだけど。
そんなこと考えて意味あるの?って聞かれたらそれまでだけど、この小説を同時代の人が読んだとき、どんな感情を抱いたのかってすごく興味がある。小島信夫のような小説を書ける現代作家がいないように、小島信夫を同時代的な感覚で読むことができる読者もいないと思うし、この小説群の痛烈な皮肉に彼らが気付かないはずはなかっただろうから。結局のところ、彼らは、その小説の中に彼ら自身を見出したであろうから。ひょっとしたら、僕もそうだったのだろうか?

「アメリカン・スクール」について。
大したことは言えないのでさっくりと箇条書きに。
1.伊佐と山田を、単に対照的な存在として捉えてそこに戦後の日本(人)の2つの有り様を見出す読み方よりも、それをひっくるめて、伊佐と山田を根源的には同じものとして、コインの裏表として捉える方が面白い気がする。
2.「親米保守」という言葉を久々に思い出した。酒井直樹の言うところの国民主義を超克した「新しい植民地体制」との関係。
3.何よりも解説を江藤淳が書いているのがなによりも面白い。色々な意味で「アメリカン・スクール」の解説に彼以上にふさわしい人間はいないだろう(酒井直樹『希望と憲法』参照)。
4.ジェンダー的にはかなり厄介な話かも。この小説に限った話ではないのだけれど、小島信夫の描く女性ってどこかおかしい。ただの女性蔑視の裏返しな気もする。この辺けっこう歪んでいるなぁと。名字だけ=男性、下の名前=女性なのね。
5.箸を忘れた、ってオチはどうなんだろう。
6.小島信夫って身体性がキーワードなのか?体が思い通りに動かなかったり、勝手に動いたり、怪我をしたり。それが行動をどんどん左右して色々な出来事を引き起こしていく。どうにもならないこと、そうせざるをえないこと、が幾つも彼の小説では起こるけど、その一つに自分自身もあるみたい。
7.やっぱこの舞台って沖縄だろうか。だとすれば、相当に厄介な小説。

そう、小島信夫の小説ってものすごく厄介だし、ときに不可解。出征先を舞台にした小説が幾つかあったけれど、現地の人間には驚くほど無関心というか鈍感(「燕京大学部隊」なんて典型だと思う)。とりあえずもう少し読むかな。

2010年5月24日月曜日

都甲幸治 『偽アメリカ文学の誕生』

フィッツジェラルド、サリンジャー、デリーロはもちろん本邦初紹介の作家から、日本では知られざる村上春樹の素顔にいたるまで最新型の“アメリカ文学”の魅力をこの一冊にパッケージ!21世紀もっとも話題のアメリカ文学者・都甲幸治の第一評論集、ついに刊行。

今月は日本の小説を読もう、と思っていたのだけれど、どうにも飽きてしまってふと手に取った本。都甲幸治って誰ですか、って感じだったけど、柴田さんの教え子なんですね。ふーん。

まぁ買いかどうかは置いておいて、図書館で借りるくらいはいいんじゃないでしょうか。さっくり読めてしまうし、読み返すことはあんまりないと思うので。
いかんせん文章が粗いし、別にテーマがある訳でもない。深い考察がある訳でもない。ブックガイド? うん、そんな言葉がぴったり。引用を除いたら内容がほとんどなくなってしまいそう、そんな本です。「偽アメリカ文学」ってキャッチーな響きだけど、結局のところそれだけの話?って思わなくもないし、もっと掘り下げられるテーマだとは思うのだけれど。ところどころフーコーやらスピヴァクやらボードリヤールやら(アメリカ文学の話なのにドゥルーズは出てきません、がっかり)が出てくるけど、装飾、といった印象は拭えない。

だけど、幾つかの点で評価するとしたら、まず村上春樹の海外でのインタビューを訳して載せている点。これは、彼が海外メディアへのインタビューで色々な話をしていることは知ってるけど、別に調べるほどの関心はないよね、という人(僕のことです)にとって。二つめに、現代アメリカ文学の書き手を紹介してくれていることについて。とはいえ「翻訳では読めないアメリカ文学」にデニス・ジョンソンが載っているのはいかがなものか。刊行の時点で少なくとも『ジーザス・サン』は刊行されていたし、『煙の樹』だってエクス・リブリスの刊行予定にあったじゃないか。追記なりなんなりしとけよ、とか思ってしまいます。別に細部に突っ込みたい訳ではなくて、こうやってあちこちに書いた文章を1冊の本として刊行するんだったら、ある程度の一貫性はもたせて、内容も加筆・修正するべきだと思うわけです。まぁいいや。で、評価する3点めはドン・デリーロにかなりの頁数を割いて個別の作品を紹介していること。ドン・デリーロと言えば、そのほとんどの作品が絶版状態でなかなか手に入らない、「読みたいけど読めない作家」を典型する書き手ですね。古本高すぎだろ、とか思いつつ、いまだに『墜ちていく男』以外読めていません。評価は高いのに、日本での知名度はピンチョンやら故アップダイクやらコーマック・マッカーシーやらに比べるとさほど高くない印象。彼を紹介してくれた意義は大きい。ますます読みたくなった。これだけで、この本のブックガイドとしての役割は十分に果たされたと思う。
ドン・デリーロと言えば、半年位前にヘイドン・ホワイト(『メタヒストリー』は作品社からようやく、まもなく、いよいよ刊行予定)が来日したときの講演で、トニ・モリスンやゼーバルトと並んで、歴史を語る小説の書き手として高く評価していましたね。トニ・モリスンは『ビラヴド』をゼーバルトは『アウステルリッツ』を挙げていたけれど、デリーロは何だったろうか、『リブラ』だったか? そう、その講演自体もとても面白かったのだけれど(特にギンズブルクに対する再反論)、それはまた別の話。ただ、デリーロについて論じている中で都甲さんがホイットマンに言及しているのが示唆的だった。これは、本書に対する不満ともつながるのだけれど、あまりに現代文学の特異性みたいなのに重きを置きすぎている、というか記述を絞りすぎている。むしろ、例えばドゥルーズがマイナー文学として称揚してみせたような「アメリカ文学」と彼の言うところの「偽アメリカ文学」との結びつき、あるいは離接を論じて欲しかった。ドン・デリーロはそのための手がかりになる、ような気が本書を読んでいるときにはしたのだけれど。
今後の活躍に期待、といったところでしょうか。でもこんな文章書いてて翻訳とか大丈夫なの?とか不安になります。余計なお世話ですね。

2010年5月15日土曜日

古井由吉 『聖耳』

現代文学の達成をしるす最新連作小説
現し世に耳を澄ませば平穏の内にひろがる静かな狂躁生死の、夢現の、時間の境を越えて立ちあらわれる世界の実相

古井由吉です。いいですよね、彼の文章は。読んでいるだけで不思議な心地になります。ゆらゆらしてしまいます。
病院の描写をしているかと思えば、そこから全く違う世界を連想する。ある人の話を聞いているうちに、その人の語りの世界に入り込んで、いつの間にか自分自身がそれを追憶していく。ふと見つめた光景から過去を想起する。そんな風にして文章がどんどん重ねられていく。文章の余りの美しさに陶然としてしまう。そして、読み終わった後の余韻。『忿翁』を読んだときは、心情や内的な印象を、あくまで身体的に表現する描写の巧みさ、その生々しい感覚にやられてしまったわけですが。なんだか、読んでいるうちに、幻惑されてトリップしてしまうような、そんな感じです。内容というか、主題のようなものは、ほぼ一貫していて、それがさまざまな形式でもって反復的に語られています。「空襲」についての語りも多かったのが印象的だった。
この小説、というか古井由吉の小説って、彼と同世代の人が読んだら、どう感じるのだろう。年齢的な要素とか、時代的な要素によって、(とりわけ彼の小説の場合)全く小説の印象が違うんじゃないか、とか思ったりします。「老い」の感覚みたいなものを僕はまだ実感しているわけではないので、魅力的に感じたりもするんだけど、実際のところどうなんだろうなぁ。

しかし、つくづく美しい文章なこと。

2010年5月12日水曜日

森見登美彦 『四畳半神話体系』

私は冴えない大学3回生。バラ色のキャンパスライフを想像していたのに、現実はほど遠い。悪友の小津には振り回され、謎の自由人・樋口師匠には無理な要求をされ、孤高の乙女・明石さんとは、なかなかお近づきになれない。いっそのこと、ぴかぴかの1回生に戻って大学生活をやり直したい!さ迷い込んだ4つの並行世界で繰り広げられる、滅法おかしくて、ちょっぴりほろ苦い青春ストーリー。

周りには「えっ?」と引かれても、好きですよ森見登美彦。エンタメ小説なんだから面白くなきゃ。面白くないエンタメ小説なんて最悪だと思います。

ここまでやり切ってくれれば、もう文句の付けようがないでしょう。レトロな重々しさを装った独白調も、突っ込み待ちのボケも、ばかばかしい設定も、マニアックな京都ネタも、大学院などによくいそうなキャラクターも、みんないい。もちろん黒髪の乙女も。中村佑介さんのイラストがよく似合う。

どこがいいの?と聞かれても、僕自身が森見登美彦の小説を、いつもある種の共感でもって読んでしまうので、客観的な評価なんてできるわけがない。
だけどここに一つ問題があって、それは、僕が本谷有希子『生きているだけで、愛』はあんなに毛嫌いして、なんで共感するのか分からない、とか言っておきながら、森見登美彦にはあっさり共感してしまったということ。たまたま自分がそうじゃなかっただけで、本谷有希子の小説に共感する人はたくさんいる。
なのに、やっぱり自分の感性でもって小説は読むしかないから、どうしても好き嫌いが出てしまう。この「共感」というもの、あるいは共感が作り出す「読者」という集団ってよく考えるとけっこう不思議な代物。だから、客観的な評価なんてそもそもありえない、わけで。ただ、その他方で、名作と呼ばれる作品や、誰もが評価する小説が存在することも真実。こういう問題ってなんだか美学の学問領域の話みたいですね。まぁ僕が言いたかったのは、僕は森見登美彦は面白いと思う、というだけのことです。

2010年5月9日日曜日

本谷有希子 『生きているだけで、愛』

あんたと別れてもいいけど、あたしはさ、あたしと別れられないんだよね、一生。母譲りの躁鬱をもてあます寧子と寡黙な津奈木。ほとばしる言葉で描かれた恋愛小説の新しいカタチ。

これはちょっとないでしょう。なんで評価が高いのかちょっと理解できない。そんなに共感を呼びますか、びっくり。
何も書くことありません、本当に。
相性が悪いようなので、本谷さんは今回で打ち止めにします。ごめんなさい。

佐藤亜紀 『ミノタウロス』

20世紀初頭、ロシア。人にも獣にもなりきれないミノタウロスの子らが、凍える時代を疾走する。 文学のルネッサンスを告げる著者渾身の大河小説。

初めて読む、佐藤亜紀。海外文学大好きなんだろうなぁ、この人、というのが第一印象。
文章が読みにくい、という話はよく聞きますが、そんなことはない。むしろ読みやすいくらいでしょう。文章が格調高い、という話もたまに聞きますが、まだ僕にはよく分からなかったです。

なんというか、とりたてて書くことはないような気がします。面白い大河風エンタメ+ファンタジー小説、ってことで終わらせちゃだめでしょうか。だめですか。
多分、この小説の面白さの一つは、一人称の回想風の語りにあると思います。ユルスナールじゃありませんが、こうした回想風の語りにおいて、語り手はいつも真実を語っている訳ではないし、彼が語っていること、語っていないことに注目して文脈を埋め合わせていかなければならない、したがって読者の力量が問われることになる。きっと佐藤亜紀はこのことを承知の上で、戦略的にこうしたスタイルを採用したのでしょう。同時に、この一人称の回想風の語りのときに、僕がいつも思うのは、ラストシーンをどんな風に処理するんだろう、ということ。その意味で、この小説のラストシーンはちょっと面白い。死体が語る。そしてラストの一文。不思議な処理ですね。文字通り、些事ですが。

ミノタウロス、ということの意味はよく分かりません。ギリシャ神話?単純に、人間性と動物性の問題を提起したかったのでしょうか。でも、わざわざ内戦状態を(しかも、第一次大戦期の現ウクライナ周辺を)舞台に設定した意図は分かりません。主人公の性向やらが、この内戦状態と深く関わっているのであれば、「自然状態」における人間の動物性を描き出したかったのか?でもそんな感じもしないんですね。単純に少年が「非道」になっていく過程を、つまり転倒したビルドゥングスロマンとして描き出したかったんだと推察してはいるのですが、でも、なんでこの舞台設定?と思わずにはいられません。まぁ、別にどの舞台設定でもいいんでしょうけど。これ、舞台を同年代のアメリカ−メキシコ国境にしたら、コーマック・マッカーシーみたいになっちゃいますね。会話文の使い方といい。思弁性に欠けるコーマック・マッカーシーみたいな。
まぁでも面白かったです。別な本も読んでみます。

2010年5月7日金曜日

内田百閒 『冥途・旅順入城式』

いまかいまかと怯えながら,来るべきものがいつまでも出現しないために,気配のみが極度に濃密に尖鋭化してゆく――このような生の不安と無気味な幻想におおわれた夢幻の世界を稀有の名文で紡ぎだした二つの短篇集を収める.漱石の「夢十夜」にも似た味わいをもつ百間(一八八九―一九七一)文学の粋. (解説 種村季弘)

百閒、怖いよ百閒……
なんとも、薄気味悪い靄に包まれた小説群、その数47篇。
雰囲気というか、それこそ感覚的なレベルで怖いし、それが何よりも面白い。
冒頭の一節は、ごく日常的な、何の変哲もない描写のはずなのに、それがいつしか、不気味な異界へと移り変わっていく。
何でもない日常なのに、なんかいつもと違う気がする。誰かの気配がする。妙な気分になる。すると、その予感通り、日常の世界が、不気味で幻想的な世界へと変容していく。それが怖くて仕方ないし、もとの世界に戻りたいと思うのだけれども、どうすればいいか分からずに、あるいは何かに導かれるようにして、その世界の深みへと迷い込んでいく。
このいわく言語化し難い、感覚とか気配のレベル、それには誰しも駆られることがあるだろうし、それ故に百閒の小説は薄気味悪い。論理的に理解するとか以前に、その雰囲気が伝わってきてしまう。実際、何が何だかよく分からなかった小説が幾つもあったのだけれども、分かる/分からないの次元の問題ではなく、分からなくても十分怖い(ひょっとしたら「分かってしまう」ほうがもっと怖いのかもしれないけど)。

更に言えば、私たちが気味悪さや恐怖(場合によっては嫌悪感)を感じる対象は、日常と全く同じでもなければ、全く異質のものでもない。全く異質のものであれば、それは異化的な効果を生み出し、むしろ恐怖感から私たちは免れることができる。多分一番怖いのは、日常生活と同じように見えるけれど、どこかがおかしい、そういったときではないだろうか。
それは逆に言えばこういうことだ。ちょっとした細部の違いが恐怖を掻き立てる。そしてその細部に注目することによって、別の世界が姿を現す。このことはジジェクが『ラカンはこう読め!』で説明していた〈対象a〉や欲望の対象=原因を巡る記述と重なる部分があるのかもしれないけれど、だからどうということもないので、措いておく。

怪奇譚の怖さは、その内容によるのは勿論だけれど、なによりも語り口がそれを盛り立てる。百閒はこうした語り口、文章表現、描写、場面設定、効果音などなどが抜群に巧い。たった数行でなんとも面妖な雰囲気を作り出すことができる。だから、怖い。

ともあれ、内田百閒の面白さは日常から非日常へ、現実/幻想、生/死、人間/動物などという図式に頓着せず、両者のあわいを自在に往来しながら、短くてもこちらがむわっとするほど密度の濃い特有の世界を作り出すところにあるのだろう。怖い怖い連呼したけれど、それだけじゃない。「件」の末文にはなんとも脱力させられるし、「白子」のシュールさにはにやっとしてしまう。「冥途」は短いながらもどこかしんみりさせられるし、「山高帽子」の言語感覚には脱帽させられる。
怪奇譚にとどまらない、(カフカをも思い起こさせるような)寓話性にも富んでいる。とても面白い。

なんとも贅沢な短編集です。

2010年5月6日木曜日

ヴェルコール 『海の沈黙 星への歩み』

ナチ占領下のフランス国民は、人間の尊さと自由を守るためにレジスタンス運動を起こした。ヴェルコールはこうした抵抗の中から生まれた作家である。ナチとペタン政府の非人間性をあばいたこの二編は抵抗文学の白眉であり、祖国を強制的につつんだ深い沈黙の中であらがいつづけ、解放に生命を賭けたフランス人民を記念する。

古本屋で買った途端に復刊されてしまったヴェルコール。『星への歩み』は加藤周一が訳したのですね。
『海の沈黙』が1942年、『星への歩み』が1943年ですから、まさに「抵抗文学」と呼ぶにふさわしいだろうし、フランスの「国民文学」といってもいいかもしれません。画家であったジャン・ブリュレルが、抵抗運動のなかで、作家ヴェルコールとなる。こうした最中に書かれる作品が、誰に向けて書かれたものだったかといえば、「フランス国民(民衆)」だったであろうし、彼らを目覚めさせ、解放運動へと駆り立てていく、それがこうした作品の果たした役割だったかと思います。

何が言いたいかといえば、それがこの作品の魅力であると思うのだけれど、そのせいでいまいちこの小説に入っていけなかったんですね。フランスの描き方が、特に「あるべき」フランスの姿というのが、あまりにナルシシスティックというか、鼻についてしまった。しかも、それを「他者」に仮託している点にも違和感を抱いてしまった。具体的に言えば、『海の沈黙』のドイツ人将校フォン・エブレナクは、フランス文化に深い愛情を抱いており、ドイツによる侵攻の結果としてドイツとフランスが融合することを夢想している。『星への歩み』のトーマ・ミュリッツはフランス、特にパリを愛するあまり、フランスに帰化したユダヤ系(?)チェック人である。どちらからもフランスはこよなく愛されている。そしてその愛ゆえに、彼らは戦争の犠牲となっていく。それに対して、じゃあフランス人はどうする? こうヴェルコールが迫っているように感じてしまった。『海の沈黙』においてフランス人の「私」と「姪」は沈黙を守り続ける。最後の最後になって、彼らは口を開くことになるのだけれど、彼らのしたことと言えばそれだけである。フランス人の沈黙や無抵抗さをヴェルコールは挑発的に掻き立てているのではないか。
もちろん素直に読めば、ナチスとペタンなどそれに迎合したフランス人への弾劾なのだろうけれど、この2作が書かれた背景が、そうした読みに留まらせてくれない。彼らが抱くフランスへの愛こそ、フランスをまとめあげ、フランス国民を結びつける理念のあるべき姿であるにも関わらずそれが台無しにされてしまったこと、そしてそれを「フランス」が守るどころか、それを踏みにじったナチスへ迎合する姿勢すら示していること、ヴェルコールが弾劾しているのはまさにこの点なんだろうと思う。トーマやヴェルネル自身を描きたかったのではなく。

個人的にはいまいちでした。

2010年5月5日水曜日

矢部史郎 『原子力都市』

人文・社会科学の分野で異彩を放つ思想家・矢部史郎が、日本全国の「原子力都市」を自らの足で訪ね描いた現代日本地理。私たちは「鉄の時代」の次にあらわれた「原子の時代」の都市の全貌をいまだはっきりと把握できておらず、本書はそれを実際に都市を歩くなかから探り出そうとする。オバマ政権の誕生以降、あらためて注目をあびはじめた「核の時代」。こうした時代背景のなかで、「在野の思想家」のユーモアと鋭さを併せもつ分析の刃が、新しい時代の政治と文化を斬る。

都市を歩くことは難しい。都市を見つめることはもっと難しい。
何らかの目的なしに、都市を見つめ、感じ、語らうこと、それはよっぽどのことがなければできるもんじゃない。僕は「郊外」と呼ばれる場所に生まれて、「都会」にはうんざりするほど長い間通い続けている。今住んでいるところだって、「都会」と呼ばれる地域にある。僕は頻繁に、そこに行く。例えば、渋谷に行く(服を買いに、あるいは映画を観に)、銀座に行く(お昼を食べに、あるいは文房具を見に)、神保町へ行く(古本を漁りに、そしてコーヒーを嗜むために)、下北沢に行く(髪を切りに)……といったように。まるで、都市とは何かをするための場所で、街路はそのための通路でしかないかのように思いながら。
そんなとき、僕は都市を見てはいないし、それと語らってなどいない。なにもせずに都市と戯れながら、また思いを馳せつつ、ただ遊歩すること。それって単純な行為のようで、その実とても難しいことのように思う。

だけど、そういえば海外に旅行するとき、僕はひたすらに歩き回る。よくわからない住宅地に迷い込んだり、怪しげな界隈に入ったり、「ここは行った方がいいよ」と言われた場所に行き着けなかったり。そんなふわふわした散歩はとても好きで、そんなことを何日も続けていると、なんとなくその街のことが「分かった」つもりになったりする。けれど、それを続けていく中で今度は頭の中に地図ができあがってしまう。今までふわふわした、いわば混沌とした世界が、秩序付けられて、ここを行けばこっちに辿り着けて、本屋はここにあって、美術館地区はあっちにある、という具合に。そうすると、都市は、後景へと引き下がってしまって、「街を歩く」という楽しさも、ふわふわした感覚もなくなってしまう。それはもう帰ってこない。

勿論、これはごく私的な印象論に過ぎなくて、矢部史郎のこの本とは何の関係もない。この「都市」というものの掴みがたさや、「都市」そのものを意識することの難しさについて、僕は言いたかったのだ。

都市を見つめることは難しい。ましてや都市を研究することなど、僕にとっては不可能なことのように思える。
都市社会学(観光社会学を加えてもいい)や都市空間論について僕が感じる空虚さもこの点に関わってくる。こうした研究や、研究者たちは、結局のところ「都市」について何一つ語ってはいないのだから。彼らは、「郊外」について語る、あるいは「都市問題」について語る、「都市開発」について語る。しかし、「都市」そのものについては何も語っていないに等しい。それは「都市」について語ることの難しさを、そのまま浮き彫りにしている(ような気がする)。都市人類学と言えばいいのか、都市に住まう人々の(とりわけ移民やエスニックマイノリティなど)エスノグラフィックな調査なんかは結構面白いと思うのだけれど(例えば、松田素二さんの『都市を飼い馴らす』とか)。

そんななか、矢部史郎は本書で、それとは全く違う観点から、「都市」について思考している。本書は随想的でもあるし、紀行文のようでもある。そうした読み物として見ても、優れた著述だと思うし、難解な用語などほとんど出てこない。けれど、僕はこの本は、日本における都市研究の最先端なんじゃないか、とすら思う。彼は都市を歩くこと、都市を見つめること、そしてそれぞれの都市の観察を縫い重ねることによって、全く新しい「都市」概念を創り上げている。それが「原子力都市」である。

本書の冒頭、矢部は次のように語る。

「原子力都市」はひとつの仮説である。
「原子力都市」は、「鉄の時代」の次にあらわれる「原子の時代」の都市である。「原子力都市」は輪郭を持たない。「原子力都市」にここやあそこはなく、どこもかしこもすべて「原子力都市」である。どれは、土地がもつ空間的制約を超えて海のようにとりとめなく広がる都市である。(中略)
 生活が味気ないというだけのはなしはそろそろきりあげて、次の話をしようと思う。(pp.4-5)

では、「原子力都市」の特徴とは何か。それは、
①技術と投機的な巨大計画による専制とそれに伴う労働者の地位の喪失
②放射性物質の性質が、時間/空間の秩序を平滑化させる点。ひいては、資本主義的活動領域と非資本主義的活動領域との区分を無効化する点
であるという。どちらにおいても、(名前こそ挙がらないものの)U.ベックのリスク社会論との関わりが推察される。特に9.11以降、リスク社会論は少し違う意味合いもはらむようになったが、そもそもベックが念頭においていた出来事はチェルノブイリであり、近代社会を支えてきた技術革新が、そうした社会を破滅へと導くような放射能汚染や環境問題を生み出してきた。つまり、近代社会の推進力が近代社会そのものを掘り崩してしまうような再帰的状況、そのことを彼はリスク社会と呼んでいたように思う。そのリスクは、国境や階級を超え、まさしくグローバルに共有されるものであり、各国民-国家によって対処できる性質のものではない。彼が最近コスモポリタニズムに傾倒しているのはその当然の帰結なんだろう。(ベックを長らく読み返していないので、内容あやふやです。そもそもちゃんと読めてなかったか。)
話がそれた。リスクという言葉は、今日あらゆる領域へと拡散している。金融危機も、テロリズムも、偽装も、車の故障も、みんなリスクである。そしてそのリスクと最も結びつけられるのは、管理という言葉だ。企業のリスク・マネージメント。リスクをいかに読み込み、それに対処するか。そもそも目に見えず、管理できないからこそリスクなのだし、従ってリスク・マネージメントは十全には達成できない。だけれども(それゆえに)、あらゆるリスクに対処するために各企業は懸命な努力を続ける。そうしたリスク・マネージメントの対象になるのは、究極的には労働者に他ならない。リスク・マネージメントは、ある意味でそうした労働者の切り下げと、労働への没入の強要(古典的に搾取と呼んでもいいだろうし、「労務管理」とも呼べるかもしれない)の言い換えに他ならない。
矢部氏は、それを労働者から人材(ライヴ・ウェア)へと端的に表現している。

しかし、そうした中で、平滑空間と化した「原子力都市」の内部にはさまざまな蠢き、分子的運動が見られるという。そうした民衆の蠢動を、国家は都市計画という名の下に無力化させようとしてきた。にもかかわらず、そうした国家による統制を脱臼化させるような運動が起こっていることを彼は見逃さない。この点は少しマルチチュード的でもあるし、それゆえに正直に言ってやや楽観的な観測のようにも見えるけれど。
都市計画や首都圏の拡大(つくばエクスプレス、副都心線、スカイツリー)などをこうした文脈から捉えたことがなかったので、とても面白い。(とりわけ東京など)都市についての見方が変わることは間違いないし、そうしたパフォーマティヴな意味合いも本書にはあるのだろう。

難しい言葉はほとんど出てこないし、読み物としてもよくできている。その実ドゥルーズ=ガタリ、ハキム・ベイ、ネグリ=ハート、ウルリッヒ・ベックなどさまざまな領域から思想を汲み上げつつ、それと都市を見つめる独自の視線とを実に魅力的な形で組み合わせている。こんな面白い都市論ができるんだなぁ、と。とてもよい本。

2010年5月2日日曜日

本谷有希子 『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』

「お姉ちゃんは最高におもしろいよ」と叫んで14歳の妹がしでかした恐怖の事件。妹を信じてはいけないし許してもいけない。人の心は死にたくなるほど切なくて、殺したくなるほど憎憎しい。三島由紀夫賞最終候補作品として議論沸騰、魂を震撼させたあの伝説の小説がついに刊行。

なんというか、とっても分かりやすい小説。文章は粗い感じですし、日本語が上手という感じはしませんが、とりあえず、分かりやすい。突っ込みどころも多々ある。演劇的なのかどうかわからないけれど、すごく図式化しやすい感じ。この人はこういうキャラで、あの人はこんな感じ、で、こんなことがあって、二人の関係はこうなって……とか言った具合に。頭を使わずにそのまま読んでいけます。分かりやすい分、強烈な面白さはあります、きっちり落としますし。人物造形が余りにも平面的とか、リアクション(行動・振る舞い)がわざとらしい、とか、登場人物に人間味がない(役柄とかキャラみたい)とか、こういう点に突っ込みを入れてはいけないのかな。著者の思うつぼのような気がします。

ただ、どうにも気になるのは、ここまで家族の死をぞんざいに扱った小説はそうはないだろう、ということ。両親が死に、更にはその息子も死んでしまうのというのに、人を悼む、という感情が(登場人物の誰一人として)これっぽっちも見られないのはどういうことか。葬式も、仏壇も、まるで登場人物の書き割りや場面設定に過ぎない。いくらなんでも、これはやり過ぎだと思うが、他方でこの感性の決定的な欠落こそが、現代の若手作家の特徴なのかもしれない。あとは、描写力の貧しさと世界の狭さか。それでも(ごく短時間に)読ませてくれる、その疾走感は心地よい。

2010年4月30日金曜日

岡真理 『彼女の「正しい」名前とは何か』

西洋フェミニズムの「普遍的正義」の裏に、異なる文化への差別意識がひそんではいないか―。女性であり、かつ植民地主義の加害者の側に位置することを引き受け、「他者」を一方的に語ることの暴力性を凝視しながら、ことばと名前を奪われた人びとに応答する道をさぐる、大胆にして繊細な文化の政治学。

『アラブ、祈りとしての文学』は優れた書物だった。優麗な文体と、根源的な問題意識と感性に裏打ちされた批評とが高度なレベルで調和していて、読む者の心を打つようなそんな本。装幀も素敵でしたね。あれを読んで以来、「アラブ文学」に親しむようになった。何よりもガッサン・カナファーニーの小説を読むきっかけとなったこと、それだけで僕にとって『アラブ、祈りとしての文学』は大きな意味をもつ著作だった。

そんな岡真理が、2000年に著したのが、本書。といっても『現代思想』などへの掲載論文を加筆修正し、編集したものだけれども(こんな本ばっかり目につきますね)。文章はまだ若書き、というか筆が上滑りしている印象がある。というよりも、ある種の切迫感に追いつめられているような、そんな印象。これはきっと岡真理が、非常に真摯な研究者である証だろう。彼女は、自身の問題意識と現実との間に板挟みになり、そんな中でなんとか自分自身を前に進めていこうとしていたのではないだろうか。もちろん、この本は読者を(つまりこの場合は「日本人」男性、女性を)撃つ、あるいはその基盤を切り崩すことを目指しているわけだけれども、それ以上に自傷的な印象すら受けてしまう。繰り返されるポジショナリティへの反問と出口なしにすら見える非対称的な関係性の弾劾。ひたむき、かつ真摯に紡がれる思考たち。恐らく、「第三世界」フェミニズムを(から、ではなく)思考するというのはこういうことなのだろう。とりわけ西洋化された人間が、「第三世界」の女性たちについて考えるというのは非常に困難なことなのは間違いない。まず自らの土台を徹底的に掘り崩さなくてはいけないのだから。しかし、この土台の切り崩しは貫徹しえないだろうし、非対称的な関係性は完全に消え去ることなどないだろう。それにも関わらず(というよりも、だからこそ)、「第三世界の女性たち」と対話的な関係を取り持たなければならない。「サバルタン」という言葉を岡真理は本書で一度も用いようとしない、恐らくは意図的に。それは彼女たちを「サバルタン」と名付けてしまう暴力を彼女が重々承知しているからなのだろう。あるいは、そもそも「サバルタン」と名付けることなど可能なのだろうか。「サバルタン」とはどこまでも不可視的な存在だろうし、一種の「残余」としてしか位置づけられないだろう。見えない、けれどもそこにいるはずの何かを指す言葉、それが「サバルタン」なのだろう。しかし、見えない、というときの主体は何か。それはやはり「西洋」に他ならない。つまり「サバルタン」とは西洋が、見えないものを可視化させ対象化するための用語に過ぎないのではないか。したがって「サバルタン」はどこまでいっても客体=モノでしかなく、語ることなどできない。いや、語ることができないというよりも、聞き取ってもらえないというべきだろうか。彼女たちは常に語っているのだろうから。
岡が何よりも反発するのはこうした、第三世界の女性たちを客体化していくやり方なのだろう。西洋のフェミニストたちは第三世界の女性たちについて語る。その議論の場を占めるのは西洋の人々だけであり、第三世界の人々に居場所はない。恐らく、西洋にとって、彼女たちは「議題」でしかないのだ。しかし、彼女たちはモノではない。西洋人たちのサロンに押し掛け、その植民地主義的な思考法を、空間性そのものを暴き出してみせる。そのとき、西洋の女性たちは対話を拒否し、彼女たちを前-近代的で野蛮な存在と断ずることによって再び彼女たちをモノへと押し込めようとする……。

そんな中、岡は彼女たちと対話の空間を開くことを目指している。しかし、その中で文学が占める位置とはどのようなものなのか。アラブ文学を研究することと彼女たちとの対話的空間を創出することはどのように関わるのか。この点についての掘り下げは、まだこの時点では十分になされてはいないし、ひたすら「西洋」を、そして自らを弾劾することに留まっている。そうした態度はナイーヴすぎると批判されても仕方がない点だろう。ある意味では本書は過渡的な著作なのだと思うし、『アラブ、祈りとしての文学』においてそれは体現されているのだと、僕は思う。
とはいえ、岡の真摯さに僕自身としては痛みを伴うような感銘を受けた。彼女の真摯な叙述にはやはりこちらも真摯になって耳を傾けるべきだろう。
(ちなみに「西洋」という言葉を幾度となく使ったけれど、この中には当然「日本」も含まれる。)

2010年4月29日木曜日

依田高典 『行動経済学—感情に揺れる経済心理』

完全無欠な人間が完全な情報を得て正しい判断をする―これが経済学の仮定する経済人である。だが、現実にはこのような人間はいない。情報はあまりに多く、買い物をしたあとでもっと安い店を知って後悔する。正しい判断がいつも実行できるわけではなく、禁煙やダイエットも失敗しがちだ。本書は、このような人間の特性に即した「行動経済学」を経済学史の中に位置づけ直し、その理論、可能性を詳しく紹介する。

経済学についての素養は全くないままに、とりあえず話題だからということで読んでみました。なんだか構成があまりよくないし、重複する内容が繰り返されるのはちょっとアレですが。経済学関係の書籍(特に新書)は活発ですね。

伝統的な経済学と行動経済学の最大の違いは人間の合理性についての認識にあるとのこと。

伝統的経済学では、人間を完全に合理的であると考えるところから出発する。もちろん、だからといって、経済学者が、人間が本当にホモエコノミクスのように振る舞うと信じている訳ではない。完全合理性の仮定から予想される均衡経済の状態を考え、実際の人間の合理性が不完全であるならば、現実の経済がどの程度均衡状態から外れるのかを考えれば良かろうと思っている。…だが、そのような迂回したアプローチで本当に痒いところに手が届くのかどうかはよく分からない。

人間の合理性には限界があって、現実の経済は完全合理性の仮定した均衡状態と一致することはない。であるならば、人間の非合理的に見える行動を分析することを経済学に組み込まなくてはならない。この発想が行動経済学の基底にあるものなんだろう。だから、人間の対象把握や行動を分析する認知心理学のような学問と行動心理学は親和性が高いし、そこで見られる知見をモデル化(数式化?)することによって、より精度の高い経済行動の把握に努めることになる。ヒューリスティックスなんて認知心理学以外で聞くことになるとは思わなかったよ。

話がごちゃごちゃしていますが、おおむね親切に説明してくれているので、確かに経済学の知識がなくても読むことができる…はずです。が、正直言って第3章あたりはちょっときつかったなぁ。数式の意味がよく分からなかったり。あと、読むことはできるとはいっても、ある程度知識をもった上で本書を読むのとでは、全然違うと思う。やっぱりある程度勉強してから、こういう最先端(?)のを追うべきだなぁ、と改めて思いました。

経済学で、こういう問題意識から新たな学問が発展していくというのはとても面白いこと。ただ、終盤部の脳科学と経済学との関係はちょっといかがわしさと危うさを感じます。脳科学ってちょっと怪しい、いやだいぶ怪しい。ロンブローゾの後を継いだ学問になりかねないなぁ、と。脳科学者もなんだか怪しげな人たちばっかだし。
あと、経済学というのはどこまでいってもマネージメントのための学問ですね。国家の学といってもいいけれども。行動経済学の発展は、より精確に個人の行動を国家や企業によって管理することへと間違いなく帰結するでしょう。あぁ罪深い。。特定検診・特定保健指導なんかを肯定的に評価しちゃって…。「効用」というマジックワードをこうも汎用的に使ってみせるのはさすがは経済学者だな、と。健康+長寿が即「将来のより大きい効用」とかおめでたいと言うかなんというか…
誰かアナーキー経済学でもやってくれりゃいいのに。いつまでも恭順な犬でいいのか、立ち上がってくれよ。
あぁ、相性の悪さ故に言わなくてもいいことを言ってしまった。単に理解できないことに対する僻みなのであまり気にしないでください。

マルグリット・ユルスナール 『とどめの一撃』

「エリック、なんて変ったんでしょう」ともに少年期を過ごした館に帰り着いたエリック、コンラートのふたりを迎えたのはコンラートの姉ソフィーだった。第一次世界大戦とロシア革命の動乱期、バルト海沿岸地方の混乱を背景に3人の男女と愛と死のドラマが展開する。フランスの女流作家ユルスナール(1903‐87)の傑作。

ユルスナールの中編小説。岩波文庫版で読みましたが、現在は白水社のユルスナールコレクションに「アレクシス」などとともに収録されているようです。

小説の前に、映画の話を。この『とどめの一撃』は1976年にフォルカー・シュレンドルフによって映画化されています。シュレンドルフといったらニュー・ジャーマン・シネマを代表する映画監督の一人ですね。本作や「ブリキの太鼓」など文芸作品の映画化を得意にしている印象です。トゥルニエの『魔王』やムージルの『テルレスの青春』も映画化しているんですか。

この映画が日本語字幕付きでYoutubeに落ちていたので、ついでに観てみました。個人的にはそこまでいい映画とも思いませんでしたが、いつ消されるかわからないので、気が向いたら観てみてください。

ちなみに(真偽はさておき)この映画を観て、ユルスナールは「フェミニズム映画だ」と発言したらしいです。確かに言わんとすることは分かる気がします。エリックの一人称の独白もあって、小説ではエリックの葛藤やら抑圧やらが巧みに描き出されています。しかし、それを映画は表現できません。更に1970年代半ばという時代背景も相まってか、ソフィーの振る舞いや行動が映画の進行の鍵となっていきます。ひょっとしたらその点を指して、「フェミニズム映画」だと評したのかもしれません。
更にそれよりも大きな相違がこの映画と小説のあいだにはあります。映画においては、エリックは露骨なくらい明らかに、コンラートに対して恋愛感情を抱いています。むしろこの三角関係とその末路を描き出すことにシュレンドルフは執心しているように感じられました。このエリックのコンラートへの愛というのは、小説ではほとんど前景化していません。そして、そのせいでラストシーンの魅力が大いに減ぜられているのも事実です。

個人的な印象としては、エリックは自分の独白以上にソフィーを愛していただろうし、ともすればそれ故に彼女を遠ざけ続けたのだと思います。他方で、コンラートに対してもエリックが強烈な愛情を抱いていたのだろうとも。
とはいえこのことは置いておいて、まず、ユルスナールがわざわざ付けた「序」について。
この「序」はオリジナルの刊行当時(1939年)にはなく、1962年に書き足されたものあったもの、とのことです。どういう経緯なのかは分かりません。でも、これがあとがきではなく冒頭に置かれているがゆえに、読者は本文を読む前に、この解説めいた「序」を読まなくてはいけなくなります。丁寧にも、本作の背景、構成、形式、主題、鑑賞のポイント、などをあらかじめ教えられることになります。
これがエリックの独白(待合室での聞き手を想定しない語り)によってなされていること、そしてそれ故に必ずしもその語りをそのまま鵜呑みにしてはならず、読者は語られたことに注目するだけではなく、語られなかったことにも注目しなければならない、と警告されます。そんなことをいわれるとどんな読者だって注意深く彼の独白に耳を傾けることになるでしょうし、(ときに過剰なまでに)その行間を埋めていこうとするはずです。
その「序」から1カ所だけ引用すると、

『とどめの一撃』の中心主題は、なによりもまず、同じ窮地に立たされ、同じ危険にさらされたこれら三人に見られる種族の共通性であり、運命の連帯感なのだ。なかでもエリックとソフィーは、自分自身の極限まで行き着こうとする一徹さと情熱的な趣味によって似通っている。ソフィーが過ちを犯すのは、誰かに身をまかせたい、誰かの気に入りたいという欲望よりもはるかに、身も心も捧げ尽くしたいという欲求からなのである。コンラートに対するエリックの愛着は、肉体的行動以上のものであり、感情的態度を超えるものとさえいえる。

残念ながらエリックはコンラートについて多くを語らなかった。その語らなかったことが何を意味するのかは、様々な捉え方があるだろう。最後にソフィーは命を落とし、それを「悔い」として引き受けたエリックのなかでソフィーは生き続けることになる。いわばソフィーは身も心もエリックに捧げ尽くすことを貫徹し、それによってエリックのなかで「生きる」ことになるんだろう。エリックはコンラートにとどめを刺すことができなかった。何度もその誘惑に駆られながらも、卑怯さ故にそれを達成することができなかった。しかし、ソフィーに対してはそれが可能だった。ソフィーにとどめを刺すことができたのはソフィーがそれを望んでいたからで、コンラートにとどめを刺すことができなかったのは、それを望んでいるかどうか分からなかったからなのかもしれない。この三者の関係は愛と憎悪と死と沈黙が入り交じっていて、とても捉えにくい、というのが正直なところ。ユルスナールの解説以上のことを書こうとしたけれども、僕の技量ではとてもできませんでした。

2010年4月27日火曜日

岡田温司 『イタリア現代思想への招待』

ジョルジョ・アガンベン、ウンベルト・エーコ、アントニオ・ネグリ、マッシモ・カッチャーリ…。いまや世界の現代思想のシーンは、イタリアの思想家たちを抜きにしては語れない。ジル・ドゥルーズやジャック・デリダらフランスの巨星たちがあいついでこの世を去ったあと、なぜ、イタリア思想の重要性に注目が集まるのか。現代思想の最尖端で、いま何が問題なのか、そしてどのような可能性があるのか。哲学、美学、政治学、社会学、宗教学、女性学など幅広い分野での彼らの刺激的な仕事を、明快な筆致で紹介する。

まさに三面六臂という形容がふさわしい、分野を超え精力的な活躍を続ける岡田温司さん。
本書は、「ラチオ」での連載をまとめたもの。そういえば「ラチオ」はもう出ないんでしょうか。なかなか読み応えのあるいい思想誌だと思うのですが。

最近何かと話題のイタリア現代思想の紹介本。痒いところに手が届くような、実にありがたい企画ですね。といっても邦訳がなかなかないので、もっと痒くなってしまうのがオチでしょうが。いつぞやに触れたアドリアーナ・カヴァレロも言及されています。カヴァレロはジュディス・バトラーが『自分自身を説明すること』で引用していましたね。
アガンベン、カッチャーリ、エスポジトなどなど話題の思想家を丁寧に紹介しています。邦訳がないものについても、各々の思想のエッセンスをちゃんと押さえて書いてくれているので、下手な本を読むよりも勉強になります。

アガンベンと言えば、最近続々と刊行されていますね。ここ半年では『思考の潜勢力』(月曜社)、『言葉と死』(ちくま)、『王国と栄光』。あと岩波から『アガンベン入門』なるものも出ています。何かと毀誉褒貶が激しいですが。アガンベンへの批判ってみんながみんな似通ったことを言っている気がするんですが、どうなんでしょう。特に「フーコー主義者」の人はやたら手厳しいですね。とりあえず、これでホモ・サケル三部作の訳書が揃った訳ですし、一通り読んでからにしましょう。『ホモ・サケル』と『例外状態』くらいしか読んでいないので。アガンベンブーム、来るのでしょうか。

カッチャーリと言えば、『多島海』は一体いつになれば……。月曜社の近刊予告に出てはや数年、といった感じですが。「(理念としての?)ヨーロッパ」というのははっきりいってよく分からないので、ぜひ読みたいのですが。そういえば竹内好は「方法としてのアジア」のなかでこんなことを言っていましたね。

西洋的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性を作り出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する。(『日本とアジア』pp.469)

何やら謎めいた一節ですし、これだけだと誤解を招きかねないところだとは思います。だけれども、場合によってはこの竹内の思想とカッチャーリの「ヨーロッパ」がどこかで響き合うのかもしれない、とは思う訳です。そのためにも、ぜひぜひお願いします。

この他にも色々と紹介しています。その他言及されていた人々についてはhttp://guards-dance.blogspot.com/2008/06/blog-post_19.htmlが丁寧に起こしてくれています。ご参照まで。

アウトノミア関係の話がもう少しあってもいいとは思いましたが、それは欲張り過ぎというものでしょう。そういやフランコ・ベラルディは出てきませんでしたね。ちょっと毛色が違うのかな。

数年後には、ここに載っていた思想家たちの著作が少しずつ邦訳されていくことになるでしょう。確かに面白いもの。でも早く読みたいなぁと思ったら、イタリア語を勉強する方が早いかもしれないですね。僕としても、これは読んでみたいなぁと思う本がいくつもいくつもありました。

ただの紹介本には留まらない、とても有用なイタリア現代思想ガイド+解説書です。
これを読んで「フランスの時代は終わったね、これからはイタリアだよ」とかのたまってみたい人にもいいんじゃないでしょうか、ただそんなこと言うと失笑されるリスクはあります。

コーマック・マッカーシー 『平原の町』

十九歳になったジョン・グレイディ・コールは国境近くの牧場で働いていた。メキシコ人の幼い娼婦と激しい恋に落ちた彼は、愛馬や租父の遺品を売り払ってでも彼女と結婚しようと固く心に決めた。同僚のビリーは当初、ジョン・グレイディの計画に反対だった。だがやがて、その直情に負け、娼婦の身請けに力を貸す約束をする。運命の恋に突き進む若者の鮮烈な青春を、失われゆく西部を舞台に謳い上げる、国境三部作の完結篇。

『すべての美しい馬』『越境』を読んでからだいぶ間が空いてしまった。
どれが一番好きかって聞かれたらやっぱり『越境』って答えるだろうけれど、この三部作を読み終えた人なら、そんなことを尋ねたりなんかしないだろう。なんで、彼がこの後、『血と暴力の国』を書いたのか、それが今ならよく分かる。あるいは、彼は同じことを様々な形(場所、時間)で書き続けているのかもしれない。

前二作のような、メキシコへの冒険、彷徨がない分、自然や動物たちの描写は抑制されており、人間同士の語らいが前景化している。それが一面では魅力を減じさせていることは否定できないが、その分彼特有の会話のスタイル、あるいはこういってよければ、絢爛さを取り払ったドライかつ簡潔な語らいが活かされており、リズミカルな雰囲気さえ生んでいるように思う。自然や動物たちの描写が抑制されているとはいっても、その描き方の挿入は実に絶妙で、やはり圧倒的な存在感を放っている。
解説で豊崎が言うように、恋愛譚だけに注目するならば、それはソープオペラ的で「陳腐」ですらあるのだけれども、読んでいる最中にそんなことを感じることはないだろう。本書の、あるいはこの三部作がもつ思弁的な性格や、描写の美しさ、更には失われゆく世界への哀惜がそうさせるのかもしれない。

オオカミもコヨーテも、そして山犬さえも消えていく世界。消えていくのは動物たちだけではなく、牧場も、そしてカウボーイも消えていく運命にある。牧場が軍に接収されることはまさに象徴的な位置を占めている。辺境としての境界は消え去っていく。ビリーもジョン・グレイディ・コールも、その後に来る世界においては必要とされない存在だったろう。国境に縛られず、自在に彷徨する「無法者」にはそんな世界には居場所がなかったのかもしれない。ジョンはそんな世界に定住し、そこで生きる決意をしていたのだけれども、その願いは果たされることはなかった。ビリーは彷徨を続けた後、ニューメキシコでようやく、居場所を見つけることになるのだけれど。

この作品の基底には失われゆく世界に対する哀惜がある、といった。これは私見なのだけれど、「哀惜」は「ノスタルジー」ではない。「ノスタルジー」はある意味では、過去を存在したことのない理想的な世界へと形象化させることであり、その幻想の世界に住まうことである。しかし、「哀惜」というのは弔いに近しいものだと思う。弔いがしばしば象徴的な殺害を意味するように、「哀惜」というのは死んでしまった世界を悼み、悼むことによってその空虚を引き受ける行為なのではないだろうか。

読んでいるうちに、エピローグの長さに驚くことになるかもしれない。あるいはいっきに半世紀もの時間をすっ飛ばすことにびっくりさせられるかもしれない。この半世紀、本当に沢山のことがアメリカでは起こっていたはずである。だけれども、マッカーシーはそれに触れようとしない。それはビリーにとってこうした出来事が何の意味を持ちえなかったことの証とも捉えられるだろうし、ともすれば、色々なことがあったはずのこの半世紀に実は何の変わっていなかった、でも言いたいかのようにすら思える。
しかし、このエピローグの最も印象的な部分は、ハイウェイの袂での、ビリーと男との語らいだろう。やや冗長とも思えるこのやり取りは、『越境』に幾度となく登場する老人の語らいを思い起こさせるとても魅力的な部分である。この部分で、マッカーシーは小説を書くということをこの二人に語らせようとしているように思える。三部作を読んだ後、この部分を読み返すのはとても感動的な経験だった。

この作品のもう一つの基底である、キリスト教について、特にソドムの市や、マグダレーナ(否応なくマグダラのマリアを連想させる)や、癲癇などについて、気にはなるけれど、考えが至らないので何も書かないことにする。

越境三部作は本当に素晴らしい。ぜひぜひ。

2010年4月20日火曜日

マルグリット・ユルスナール 『東方綺譚』

古典的な雅致のある文体で知られるユルスナールの一風変ったオリエント素材の短篇集。古代中国の或る道教の寓話、中世バルカン半島のバラード、ヒンドゥ教の神話、かつてのギリシアの迷信・風俗・事件、さては源氏物語など、「東方」の物語を素材として、自由自在に、想像力を駆使した珠玉の9篇。

マルグリット・ユルスナールの短編集。オリエント(日本、中国、インドからギリシャ、スラヴ諸国まで)の小説、逸話、伝承などから自由に発想が広がっていく。短いながらも良くまとまった、いい短編集です。
ただ面白い話があるだけではない。かといって教条じみているわけでもない。じんわりと「何か」が伝わってくるような、そんな寓話ぞろいです。
ユルスナールらしい、というべきなのかわからないけれど、端正な文章でとても魅惑的かつ幻想的です。翻訳もその雰囲気をよく伝えてくれている。
オリエントというのは、やはり幻想的な着想を羽ばたかせるには格好の素材なのですね。異教の神々、ニンフなどへの関心が読み取れるのは、彼女らしいなぁ(よくわからないけれど)。
冒頭の「老絵師の行方」と最後の「コルネリウス・ベルクの悲しみ」を対比的に読んでみるととても面白い。これを東−西の図式に置き換えてはいけないのだろうけど。
そういえば「コルネリウス・ベルク〜」にはチューリップ狂が登場する。チューリップの蒐集と新種開発への執心、その市場化の過程は、近代植民地=資本主義を(オリエンタリズムと呼んでもいいのだろうが)想起させる。オリエントを蒐集し、展示・園芸すること、そしてオリエントそのものをも開発創造すること(ウマ・ナラヤン「文化を食べる」参照)。あえて、一歩引くならば、ユルスナールもまたこうしたチューリップ狂とさほどの違いはないのかもしれない。彼女もまた「オリエント」を蒐集し、創造したわけだから。
とはいえ他方で、「オリエント」という他者を構築することは、その対極としての「自己」を創造することでもあった。オリエントを堕落した、色黒い、醜い存在とみなし、そうではないものとして「西洋」を位置づける。こうした点について酒井直樹は「有徴―無徴」という印象的な言葉を用いていた。しかしユルスナールの小説はそうした観点からは少しズレているように思える。どうズレているのか、これはもう少し考えなければいけないところだけれども、むしろそこまで見切った上で、あえて「オリエント」を取り上げ、両者の間で実験的に戯れているかのような、そんな印象も抱いてしまう。それは彼女の「異端」への関心がそうさせるのだろうか。


何よりも。今日はとても大変なことがあって、その合間にこの本をパラパラ読んでいました。だから内容はあまり残っていないし、それは上を読んでいただければ分かることだと思います。
ただ、そのなかにあって彼女の文章を読むことそれ自体が、自分の中のバランスや落ち着きを取り戻すのに役立ってくれた。やっぱり小説にはそんな力があって、それを改めて感じさせてくれたこの短編集に感謝したいです。また今度ちゃんと読もう。

2010年4月18日日曜日

熊野純彦編著 『日本哲学小史—近代100年の20篇』

明治初年にフィロソフィーという考え方が移入されて以降、日本哲学にはいくつものドラマが生まれた。例えば漱石や鴎外のように、文学と混淆していた黎明期、西田幾多郎が『善の研究』で日本中の青年を魅了し、田邊元や和辻哲郎が西洋の哲学者と切り結びつつ独自に思想を花ひらかせた頃、西田とはまったく異なる文体で大森荘蔵や廣松渉が哲学を語り始めた戦後…。本書によってはじめて、近代日本哲学の沃野が一望される。

いってしまえば日本哲学の見取り図のような感じ。新書でこれを出しますか。
僕が感じたこの本の印象をまとめると、大きな衝撃とある種の不可解さ、ということになるだろう。

何が衝撃だったかというと、ここに登場する哲学者のことを僕がほとんど知らなかったということ。20人のうち、半分ちょっとしか知らなかった。もちろん、それは僕の無知に帰せられるべきことではある。けれども、20代の人々にアンケートを採れば、それが単純に個人的な問題に還元されないことが明らかになると思う。恐らく彼らもまたここに登場する人物のことをほとんど知らないだろう。和辻、大森、西田、田邊、九鬼、このあたりまで、名前を聞いたことがある程度ではないだろうか。あるいはもっと少ないかもしれない。これはともすれば40〜50代の人には信じ難いことなのかもしれない。

つまり、僕が言いたいのは日本思想、あるいは日本における「哲学」の系譜に断絶が生じているのではないかということだ。若い世代の人々にとって日本の哲学は西洋のそれよりも縁遠いものとなっているのではないだろうか。例えばフランスのここ100年の代表的な思想家を20人挙げたとして、ほとんどの人が名前程度であれば全て知っていることだろう。あるいはここ100年の日本の代表的な作家を20人挙げたとしても、ほとんどの人は答えられるだろう。
ではなぜ?なぜたかだか数十年前の思想家たちがこんなにも忘れ去られてしまったのだろうか。
その理由を考えているのだけれども、いまいち明確な理由を導き出せないでいる。
彼らの思想から新たな何かを引き出すことができない、というわけでは決してない。そのことは本書を通じて強く感じたことでもある。独特の語彙ばかりで理解できない、ということはあるかもしれないが、独特の語彙の使用は日本の哲学に限定される話では全くない。また、田中美知太郎のように、ごく平易な言葉を通して思索を深めた哲学者もいるのだから理由としては脆弱だろう。現代思想ブームの中で、彼らの思想が時代遅れと決めつけられ、忘れ去られていったということは考えられるかもしれない。しかし、それはそんな決定的な要因だろうか。考えれば考えるほど、よく分からなくなってしまう。

しかし、少なくとも言えることは、彼らの思想は受け継ぐに足るものだ、ということであり、まだまだ多くの思想をそこから引き出し発展させることができる、ということだ。例えば「日本語で哲学をすること」という問題。これはどうしても日本文化論へと横滑りしてしまいがちである。不思議なことに、ある語彙の含意を探るためにフランス語やラテン語の語源を辿る、というのはよくあることだけれども、日本語でそれをやろうとするとどうにも怪しげな印象を抱かせてしまう(そう感じるのは僕だけかもしれないが)。これはそうした営み自体に問題があるのか、それとも怪しさを感じ取ってしまう僕のほうに問題があるのだろうか。「日本語で哲学をすること」とはどういうことなのか。今日の日本の哲学者たちは本当に「日本語で哲学をしている」と言えるのか。それとも「日本語で哲学をする」こと自体が否定されていったのだろうか。そもそも…「日本語で哲学をする」とはどのような営為なのだろうか。
とりあえず僕は、彼らの思想に少しずつ触れていきたいと思ったのでした。

もう一つ、不可解さについて。
これは単純な話で、なんでこの新書はこんな分かりにくい形態を採ったのか、ということ。
2部構成になっていて、前半では熊野さんが日本の「哲学」の歴史をざっくりと素描している。これはとても勉強になり、ありがたかった。
で、後半部では、20人の代表的な思想家の論文をそれぞれ20人の研究者が8ページずつ割いて解説している。解説によっては、えっ?と思うものや意味分かんない…と思ってしまうものも。というか、基本的に中途半端な印象でした。これだったら、第1部をもう少し加筆して、それだけ1冊の新書にまとめてくれた方がありがたかった。もしくはある論文の解説ではなく、それぞれの哲学者の思想を素描してみせるとか。あるいはもとの論文だけ載せてくれる方がまだよかった。はっきりいって意味が分からないうちに終わってしまうし、それぞれの思想家の全体像が全く見えてこない。しかも論文だから、もとの文章に当たるのがなかなか厄介。最悪、その思想家の主著にして欲しかった。
これは本当に残念なことで、わざわざこんな形態にした意味を明らかにして欲しいくらい。しかも、それぞれの論文を解説した人がどんな研究をしていて、どこで研究をしているのか、どんな本を書いているのか、とかの情報が全くなく、不親切と言わざるをえない。年表やら索引やら役に立つものがついているんだから、第2部ももっと頑張って欲しかったなぁと思う。いや、頑張ったんだろうけれども方向性が間違っている、というべきだろうか。

とはいえ、そんな欠点を補って余りある内容ですし、第2部もそれなりに知識のある方にとってはとても魅力的な内容なのでしょう。(僕には編集方針を間違えたとしか思えませんが)良書であることには間違いないです。

2010年4月17日土曜日

川上弘美 『蛇を踏む』

藪で、蛇を踏んだ。「踏まれたので仕方ありません」と声がして、蛇は女になった。「あなたのお母さんよ」と、部屋で料理を作って待っていた…。若い女性の自立と孤独を描いた芥川賞受賞作「蛇を踏む」。“消える家族”と“縮む家族”の縁組を通して、現代の家庭を寓意的に描く「消える」。ほか「惜夜記」を収録。

川上弘美。「神様」とか「ぽたん」とか「惜夜記」とか、断片的にしか読んだことがなく、とりあえず割と初期の作品が入っている『蛇を踏む』でも読んでみようかと思いまして。
「ぽたん」とかの直接的には言及されないけれども、空気感とかちょっとした描写を通して伝わってくるエロスな感じを川上弘美っぽさの一つだと、勝手に思っています。この3つの小説にも端々にそんなところがあってよいですね。
他にも、飲み食いシーンや動物が頻繁に登場する、とか色々あるんでしょうけど、なんといっても文章がいいですね。彼女独特のリズム感、言い回し、かなと漢字の混じり具合なんかがあって、読んでいると不思議な心地になります。フィルターというか霞のようなものがぼんやりとかかっている、実に不思議な文章なんですね。
内容も同じく。無数の蛇に取り囲まれ、体の中に入り込まれても「難儀である。」として片付けてしまう登場人物。蛇が蛇水になって、体内をムズムズしているのに難儀って…と思わず突っ込んでしまう。彼女の小説はどこかふわふわしてつかみ所がないんだけれども、登場人物も同じく、です。人物造形がリアルじゃない、なんていっても意味がありません。そもそも本人が「うそばなし」と称しているわけですから。
第一、この本を開いて、それぞれの小説の冒頭を読んだ瞬間に、読者は自らが住まう世界とは全く違う法則や秩序で組み立てられた世界に踏み込むことになります。
そこでは、人間と動物を分割するはずの線が消え、人間は動物になり、動物は人間になる。両者は互いを自由に行き来する。あるいは現実と空想の世界の境が不分明になる。というよりも現実、非現実という分有が存在する以前の、なんとも形容し難い、混沌とした世界がそこにはある。「蛇を踏む」について言えば、そこに向う側の世界に魅惑され、中身はほとんど向う側の世界にいる人々(蛇だけど)のものとなりながらも、それでも向う側の世界に踏み込むことができず、格闘を続けながらどこまでも押し流されていく主人公の様子に、少女時代をアメリカで過ごした著者自身の経験や苦悩が投影されていることを読み取ることができるかもしれない。けれど、松浦寿輝があとがきで、蛇を何かの象徴だと読み替えるのは止めろ、といっていたのでそんな妄想は止めることにしましょう。確かに、そのまま読んだ方が面白いかもしれません。これはどこまでも蛇を踏んだことによって、可能世界というか、全く異なるやり方で構成された世界に放り込まれた物語である、と。
川上弘美の小説には、様々な動物が登場します。実在のもの、空想のもの、そんな区別はこの世界においてはさほどの意味をもたないのでしょう。「惜夜記」にも多くの動物たちが登場します。
この小説の奇数章では、馬、泥鰌、獅子などという動物名が章題となっています(紳士たち、なんてものもありますが)。そうした動物たちにまつわる幻想が奇数章では繰り広げられます。
一方、偶数章では、章題はすべて自然科学系の用語となっています。例えば、フラクタル、カオス、ビッグクランチ、非運多数死、シュレディンガーの猫などなど。そしてそれぞれの用語は確かにその章の内容にぴったりくるようにしつらえられています。一方に量子力学などの自然科学、他方に動物たち。これは面白い中編小説ですよ。幻想的というのか、夢十夜的というのか、「フェミニンな内田百閒」的というのか。ちなみに最後のは松浦寿輝命名です。言い当て妙なのかどうなのか…

川上弘美いいですね。『ハヅキさんのこと』でも読みたいなぁ。

『ミクロコスモス—初期近代精神史研究 第1集』

レオナルド・ダ・ヴィンチに代表されるような、一人の人間があらゆる領域に手をそめて優れた業績を残した《初期近代》という時代(15-18世紀)がいま、見直されつつある。その時代の多様な豊かさと深さを解明するには、分野横断的な精神史研究が欠かせない。『ミクロコスモス』はそうした現代的要請に応えるべく発刊される学術誌であり、オリジナル論考のほか、海外の優れた研究論文の翻訳やラテン語等の重要原典テクストの翻訳、最新の研究動向や文献紹介をお届けする。第1集では、8本の多彩な論考や3本の動向紹介のほか、ゴルトアマーやフィチーノの翻訳を収める。シリーズ「古典転生」第2回配本(別巻1)。

あっというまに品切れ状態になったらしい、『ミクロコスモス』。こうした野心的な思想誌が刊行されること自体、喜ばしいことだと思うし、それが注目を集め、売れていったことはもっと喜ばしいことだと思う(どれくらい刷ったのだろう。1500くらいかな)。
青土社からも、澤井繁男さんの『魔術師たちのルネサンス』が刊行され、フランセス・イエイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』も近刊予定と聞く。ブームが来るのだろうか。
確かにこうしたジャンルに関心をもつ人々は多いもので、特に出版人にはそんなマニアックな人が多いらしい。平凡社で中世思想原典集成をやった編集者さんの話はよく聞くけれど。また、ちくま学芸文庫でも一時期、こうしたジャンルのものを多数刊行していたことがあるけれど、現在はほぼ品切れ状態のようだ。そう、このジャンルは「難しい」のだ。人文・学術書とはいえもちろんビジネスであって、このジャンルは好きな人はいるけれども、なかなか売れにくい。オカルティズムまで完全に振り切って(方向付けを変えて)しまえば、また違う人たちを集めることができるのかもしれないけれど、オカルティズムとこうした本は明らかに違うのだ。だから、そんななかで『ミクロコスモス』が刊行されたこと、そしてそれが意外なほど良く売れたこと、それはとても素晴らしいことだと思う。
ここまで書いて、「このジャンル」とか「こうした本」という言い方を多用していることに気付く。そう、こうした『ミクロコスモス』や『魔術師たちのルネサンス』に典型されるようなジャンルは、とても名付けにくいのだ。どう呼べばいいかいつも困ってしまう。錬金術とか、占星術とか、というと誤解を招くし、パラケルススとかだよ、といっても知らない人には伝わらない。それらの研究は非常に横断的なものなので、特定のディシプリンに押し込むこともできない。だから、この本の副題を見て、「そうか、そういう命名の仕方があったのか」と得心した。
「初期近代精神史」
ここに2つの驚きがあった。ただ、あまりにそれが当たり前すぎるので、こんなことに驚くのは僕くらいかもしれない。
それは一つには、「精神史」という形で彼らの思考の系譜を位置づけることができるということ、もう一つには彼らの思考が「初期近代」であったということだ。
前者についていえば、確かに知の歴史として括ることで、その学問横断的な性格は掴むことができるし、地下水脈として流れ続ける思想の系譜として、あるいはそれらを星座のように位置づけることも可能にしている。他方で、intellectual historyが「精神史」と訳されたときに、少し違う色合いを帯びてしまうことは否めないけれど。
もう一つの「初期近代」という言葉。もちろんこれは15〜18世紀という時期区分を何よりも指しているようだけれど、本書に登場するような様々な思想が「初期近代」として位置づけられる、ということにも注目したい。彼らの思想は、近代における異端というよりも、また近代において排除された前近代的なものというよりも、近代の萌芽そのものであった、ということができるのではないか。まさしくそれは近代に養分を与え、様々な果実をみのらせるような、豊穣な土壌として、あるいはその地下を流れる水脈としても理解されなくてはならないのではないか。その水脈は、地上に湧き上がっているのかもしれないし、ひょっとすると大地の奥底に沈み込んでいるのかもしれないが。
だから、とても重要な研究であるし、僕は興味深くこれらの論文を読んだ。多いに面白がりながら、時に(頻繁に?)わかんないなぁ〜、と呟きながら。
ゴルトアマーの論文やフィチーノの『光について』、はとても面白そうなんだけど僕にはハイレベルだった。というか、冒頭から庭園の論文までのところは、面白い面白いといいながら読んでいたのだけれど、だんだんよく分からなくなってきた。それはたぶん僕が息切れしたせいなんだろうけど。なんだろう、ものによっては精神史というかもっと表層的な素描に留まっているものもあったりして、それは少し残念だった。
とはいえ、知ることは面白い、とつくづく。第2集(はあるのか?)を期待しつつ、もう少し勉強することにします。

追記:第2集も話は進んでいるようです。
(以下参照http://twitter.com/microcosmos001
それにしてもみなさんツイッター好きですね。僕はあまり気が進みませんが。

2010年4月12日月曜日

ギャビン・ライアル 『深夜プラス1』

ルイス・ケインの引き受けた仕事は、マガンハルトという男を車で定刻までにリヒテンシュタインへ送り届けることだった。だが、フランス警察が男を追っており、さらに彼が生きたまま目的地へ着くのを喜ばない連中もおり、名うてのガンマンを差し向けてきた! 執拗な攻撃をかいくぐり、ケインの車は闇の中を疾駆する! 熱気をはらんで展開する非情な男の世界を描いて、英国推理作家協会賞を受賞した冒険アクションの傑作。

どうやら僕にはハードボイルドさが足りない。そんなことをふと思って、とりあえずハードボイルドな小説でも読んでハードボイルドな気分に浸ることにしました。
やや安直な経緯だけれども、読み終わった今はすっかりハードボイルドです。

そんなこんなでギャビン・ライアル。いちいちかっこいいですね。わざとらしくかっこいいのが素敵です。Amazonのレビューに、これだけは知っておいてね、という固有名詞が幾つかあって、銃器やら自動車の名前なんですけど、画像検索してみると期待通りにかっこいい。
話は、もうどうでもいいです。金持ちをリヒテンシュタインまで送っていくだけの話なので。極端な話、リヒテンシュタインじゃなくてスロヴェニアでもいいし、金持ちじゃなくて仏像でもいいんだと思います(仏像じゃかっこ悪いからだめかな)。こういうのって何よりも雰囲気を楽しむ小説じゃないでしょうか。
ただ、いかんせんオリジナルの刊行が1965年。なかなか伝わりにくくなっているところもあるのではないでしょうか(上野車の名前とかもその一つでしょう)。レジスタンスとか、第二次世界大戦とか、この小説が刊行された頃はそれを通過してきた人々がほとんどで、そうした人には、ある種の「生々しさ」を伴いながら、この小説は読まれたのかもしれない、と思います。武器を手に取り戦場に向かった人間たち(レジスタンスも含めて)がその後、ある者は弁護士となり、産業スパイとなり、あるいは銃から離れられずにガンマンになる。この小説に登場する人物の背後には、戦争とレジスタンスという劇的な経験が横たわっていて、当時の読者たちはその存在をひしひしと感じ取ったことでしょう。
だけれども、この小説をそんな風に読むことができる人はもはやほとんどいないんだと思います。先にこの小説の内容はどうでもいいと言い放ったり、何よりも雰囲気を楽しむべきだ、とあえて言ったのはそういった意味合いです。このかっこよさの奥底に絡み付いている何かの正体が分からなければ、「かっこよさ」それ自体を楽しめばいいのだと、僕は思います。
また、この小説では何人か「ガンマン」が登場する。彼らは言ってしまえば、先の大戦の生き残りで絶滅危惧種みたいなものなんでしょう。しかし、この「ガンマン」って言葉は、アメリカの西部劇をイメージさせますね。そうか、1965年だから丁度マカロニ・ウェスタンの時期と重なるんですね。ギャビン・ライアルはマカロニ・ウェスタンを観ていたのでしょうか。
まぁそんなことよりも、ガンマンはタバコを左手で吸うらしいですよ。右手は空けておかなければいけないらしいです。警察は買いかぶってはいけないけれど、侮ってもいけないそうです。マティーニのとき、グラスは凍らせてはいけません。うっすらくもるくらいがいいそうです。なるほど。
車と銃と暴力と酒、の世界ですね。中学生くらいの時に読んでいたら、痛々しい真似をしていたかもしれません。というか、ひょっとして今の40代くらいの人たちって、もろにこういった冒険ハードボイルド小説をくぐり抜けてきた世代じゃなかろうか、いや憶測ですが。

何と言えばいいのか分からないけれど、かっこよさとともに、ある種共感に近いものを感じたんですね。その共感って言うのは喩えていうと、絶滅危惧種の動物の姿に対して覚えてしまう、失われていくものに対する寂寞と同情みたいな、いわく言い難い感情なのですが。

他方で、この小説でのホモソーシャルな結びつきや、性別的な役割分担、男性中心主義的な感じはこの「かっこよさ」の裏返し(別の一面)でしょうし、「ハードボイルド」ってマスキュリニティそのもののような気もします。マスキュリニティがあまり好きではない僕は結局ハードボイルドにはなれないのでした。

2010年4月9日金曜日

ガブリエル・ガルシア=マルケス 『予告された殺人の記録』

町をあげての婚礼騒ぎの翌朝、充分すぎる犯行予告にもかかわらず、なぜ彼は滅多切りにされねばならなかったのか?閉鎖的な田舎町でほぼ三十年前に起きた幻想とも見紛う殺人事件。凝縮されたその時空間に、差別や妬み、憎悪といった民衆感情、崩壊寸前の共同体のメカニズムを複眼的に捉えつつ、モザイクの如く入り組んだ過去の重層を、哀しみと滑稽、郷愁をこめて録す、熟成の中篇。

やられてしまいます。文句なしにすばらしい、お手本みたいな(でも絶対にまねすることのできない)中編小説。

村人誰もがそのことを知っていた。犯人たちは悠々と刃物を研ぎ、その時を待っていた。けれども、その殺害を誰も止めることはできなかった。なぜだったのだろう?
この小説は(少なくとも表面上は)この問いに向き合い、緻密な調査・インタビューによって、事件前後の村の様子、人々の行動とその背景を分析し、緻密に再構成した、という形をとっている。だからカポーティ的なノンフィクション・ノベルというべきなのかもしれないが、どの程度ガルシア=マルケスが「現実に即して」ということを意識していたのかはよくわからない。非常に強くそのこと意識していたようにも見えるし、それよりももっと共同体や人々の深層を抉り出すことに主眼を置いているようにも見える。
…あるいは、この発想がそもそも間違っているのかもしれない。この事件の「真相」に辿り着くにあたってはどうしてもインタビュー、つまり当事者の語りに頼らなければならない。こうした語りがそれぞれ真実というわけでは無論なく、それは一面的なものの見方で、しかもその根底にはインタビュイーの価値観や限界がどうしても入り込んでいる。とはいえそれらを緻密に組み合わせることによって、真相に接近することくらいはできるだろう。しかも、その組み合わせの素材一つ一つに住民の価値観や感性が入り込んでいるのであれば、それらを組み合わせることによって、住民の心性を排除するのではなく、それを組み込んだまま真相に接近することになる、と考えられる。だから、「真相」に辿り着こうとすることと、共同体や人々の心性、深層を抉り出そうとすることは背反しない。

住民たちの鬱屈や、アラブ人や金持ちに対する反感、憎悪みたいなものがこの小説には見え隠れする。確かにそれはそうで、吐き出し所がない、あるいは吐き出し切れないようなどうしようもない鬱屈さ、やり切れなさみたいなものが人々の言葉には滲んでいる。
それと同じように、この共同体は既に崩壊しかけている、あるいは崩壊している。解説のなかにバヤルド・サン・ロマンが「モダニティ」を体現する人物だ、という指摘があった。言われてみれば確かに。ただ、ガルシア=マルケスの巧みさは、こんなところにも見え隠れしていて、どうやらこのバヤルドは彼の家族の階級からはつまはじきにされているらしい。そしてバヤルド自身も、(恐らくは)金銭的に依存しつつも、自分が属する階級に不満を抱いている。「モダニティ」を体現する人物が実はそれ自体から疎外されているという奇妙な構図がここにある。更に、ガルシア=マルケスはアンヘラ・ビカリオとの再会という後日談も織り込む。バヤルドへの恋心に気付いたアンヘラが書いた2000もの手紙(しかも開封されていない)を携え、バヤルドは23年後アンヘラの前に姿を現す(このシーンは結構好き)。なんでこんな後日談を組み入れたのか、不思議と言えば不思議だけれど。


この小説は無数の語りの積み上げからなっている。過去のある出来事、それが無数の(というか住民数の)解釈によって多様化する。つまり一つの出来事がN個の物語となる。そうしてできたN個の物語、それは30年もの時間のなかで更に変化を遂げていく。そうした物語を再び組み合わせ、伝承を作り出す(祖型化)、ガルシア=マルケスはひょっとしたらそんな伝承生成をこの小説で行ったのかもしれない。

何よりも終盤部、殺害現場が見事に再現される。まるでスローモーションで映像が頭にこびりつくような、圧倒的な筆致、表現力。そう、読者はこの本を読み進めるなかで、凄惨な殺害シーンがいつか再現されることを期待している。そしてその期待が頂点に達するその瞬間に、ガルシア=マルケスはその場面を描き始める。その時に読者が味わう感情の奔出と昂揚感。「カタルシスとは何か?」を問われたなら、この本を読んでもらえばいい。この小説はそれが何たるかを十全に教えてくれるだろう。
小説を読む歓びを改めて教えてくれる1冊。この小説が420円で読めることを私たちは幸福に思うべきなのかもしれない、とさえ思わせてくれる。

2010年4月7日水曜日

矢部謙太郎 『消費社会と現代人の生活—分析ツールとしてのボードリヤール』

本書では、ともすれば専門用語の羅列へと傾きがちな、それゆえ「難解」なボードリヤールの消費社会論を、社会学とりわけ「コミュニケーション」の観点から、初学者にとって理解しやすいよう可能な限り平易に読み解いていきたい。そして、読者に、ボードリヤールの消費社会論を現代の諸現象を分析するための有効な理論枠組のひとつとして活用してもらうことを目指す。
本書の構成としては、ボードリヤールの消費社会論の基本的な考え方を、各講の末尾に「命題」という形でコンパクトにまとめて提示する。各講でひとつずつ命題を提示することによって、ボードリヤールの消費社会論を読者に無理なく段階的に理解してもらうと同時に、各命題によってどのような現象が分析されるか、その「使い勝手のよさ」も段階的に確認してもらえればと思う。(「はしがき」より)

「早稲田社会学ブックレット」なるマイナーなブックレットシリーズがあります。このシリーズは更に、「社会学のポテンシャル」「社会調査のリテラシー」「現代社会学のトピックス」という3つに分かれています。そのうちの「現代社会学のトピックス」の1冊です。
有り体に言って、上の紹介文に書いてあることが全てです。つまりさくっと読めるボードリヤール消費社会論の入門書、です。

矢部さんがまず指摘するのは、ボードリヤールの消費社会論を果たして日本の社会学はちゃんと受け止めてきたのか、という問いです。ポストモダンブームのなかで、ボードリヤールも彼の消費社会論も流行し消費されていった、結果としてボードリヤールも消費社会論も時代遅れだよ、なんて言われるようになってしまったということだと思います。もちろん、社会学の講義のなかで、ほぼ必ず消費社会論には時間を割くだろうけれども、それはボードリヤールの議論を額面通り、表面的に受け取っただけの議論に終始してしまっていて、十分に社会学としてボードリヤールの投げかけたものを深化させてこなかったのではないか、という反省なのだと思います。その反省に立って、社会学としてボードリヤールの議論をリブートさせよう、ということを彼は目指しているのだと思います。ただ、この本はあくまで入門書なので、彼が目指す、社会学的にボードリヤールの議論を深化させるということ自体があまり見えてきません。これは少し残念です。
とはいえ、こんな薄っぺらいブックレットでも、平易な言葉で分かりやすく噛み砕いて、しかも一定の質を担保したまま消費社会論を紹介してみせる矢部さんというのは力のある研究者なのかもしれません。今後が楽しみですね。
あと気になるのはボードリヤール=消費社会論みたいなのってどうなんでしょう。読んでみないと分かりませんが、ボードリヤールも近いうちに読み直しが進むのかもしれませんね。
そうそう消費社会論についてはひとつ気になる切り口があるのですが、それはもう少し勉強してからにしたいと思います。

ジェームズ・グラハム・バラード 『クラッシュ』

六月の夕暮れに起きた交通事故の結果、女医の目の前でその夫を死なせたバラードは、その後、車の衝突と性交の結びつきに異様に固執する人物、ヴォーンにつきまとわれる。理想通りにデザインされた完璧な死のために、夜毎リハーサルを繰り返す男が夢想する、テクノロジーを媒介にした人体損壊とセックスの悪夢的幾何学を描く。バラードの最高傑作との誉れも高い問題作、初文庫化。

バラードの最高傑作とも称され、SF小説の一つの金字塔とさえ言われるこの作品。クローネンバーグが映画化したことでも知られていますが…ごめんなさい、僕この小説だめでした。読むのがしんどくてしょうがなかったです。映画も見ようと思ったけれども、この小説を読んだだけでお腹いっぱいとなってしまいました(若干吐き気も…)。
僕が感じた「しんどさ」は、表面的には、何が起こっているのかわからない、誰がその場にいて何をしているのかがなかなか掴めないということにありました。この小説のスピード感に付いていけなかった、ということだと思いますが。あと、もっと深く考えようとすれば、こうしたテクノロジーとの性的な合一やこの小説自体の倒錯した暴力性に「嫌悪感」に近いものを覚えてしまったということにもあるのだと思います。こうしたものに「嫌悪感」を覚えるということ自体、この小説のテーマとも深く関わることでしょうし、考察に値することかもしれません。

ただ、幾つかのことはやはり書き留めておきたいと思います。一つは「車」というのは、閉ざされた特異な空間でありながら、身体の延長でもある、という点についてです。ジジェクでしたか、車は外から見るととてもちっぽけに見えるのに、中に入るととても広く感じる、という点にどこかで言及していたかと思います。どういう文脈だったのか思い出せませんが、そのことだけ妙に印象に残っていました。車というのは(基本的には)密閉された空間であり、内部と外部が明確に線引きされています。車内から眺める外の景色がなぜかリアリティをもたないように感じることさえあるように思います。同時に運転手にとっては車は自分の身体と同化させなければ、上手に運転することはできないでしょう。障害物を避けるときにどの程度ハンドルを回せばいいのか、車の幅はどれくらいあるのか、アクセルをどの程度踏み込めばスピードが出るのか、など、車の運転には、それを自分の身体へと接続する、身体化することが求められるわけです。また、車好きの車に対する愛着というのもそうでない人には理解しかねるほど、奥深いもののようです(僕にはよく分かりません)。ついでに言えば、僕は小さいとき、車の正面から見た姿を「顔」として認識していました。「あの車、嫌な顔してるね」とかそんなことを話したりしていた訳です。そういえば、この小説でカーセックスというのがたびたび出てきますが、なんでそんなことをするんでしょう。車の密閉性とか、にもかかわらず外部とガラス1枚で繋がっていることに対する露出狂的な欲望とかがあるのかもしれませんが、ドライブにはひょっとしたら人を性的に掻き立てる何かがあるのかもしれません。
なんだか色々考えていくと、人間と車との関係というのはつくづく「奇妙」なもので、車というのは単なる機械以上の存在のようにも思えます。人間の身体と車の接続というのが、運転の前提にあるとすれば、車と人間との合一というのもさほど奇異なものにも思えなくなってきます。テクノロジーの身体化とかサイボーグとか、気にはなっているのですが、なかなか本を読めていません。ダナ・ハラウェイとかも気になっているのですが。
他に気になったのは、「クラッシュ」や死への欲望とかそういったことについてです。破局や死への欲望はこの小説を通底して流れています。クラッシュが凄惨であればあるほど、その光景を見たくなってしまう、あるいは見たくないと思いながら見てしまう、ということはひょっとしたらあるのかもしれません。「うわぁ……」と言葉を失いながら破局的な光景に立ちすくむような、そんな魅惑が実はあるのかもしれないと思います。ただ、こうした凄惨な光景への欲望は、果たして破滅への欲望や死への欲望と同一のものなのか、これはよくわかりません。「人類滅亡」がことあるごとにメディア等で話題になることを考えたら、ひょっとしたら、私たちはどこかで滅亡したいのではないか、とさえ思えてきますが…。ちょっとわからないなぁ、というのが正直なところです。
そしてこれら2つのことが歪に絡まり合い同一化しているところが、この小説の奇妙さであり、魅力であるのでしょう(僕はそこに嫌悪感を感じた、ということです)。
きっともっとちゃんと読める人が読めば、ここから多くの論点を抽出できるのでしょうが、僕はちょっとできそうにありません。

2010年4月6日火曜日

藤野豊 『強制された健康—日本ファシズム下の生命と身体』

ファシズム―それは人間を資源として戦争に動員する。十五年戦争下に推進された、心身の健康を強制する政策と病者・障害者たちへの差別を論じ、「存在に値する命」を選別する国家体制を追及する鮮烈なファシズム論。

品切れ状態のようです。面白いのに。
ハンセン病や部落問題の歴史的な研究で名高い藤野さん。本書では日本のファシズムにおける厚生運動、健民運動について考察をしています。
ファシズムと健康の結びつきは、よくナチスの文脈で語られますが、日本においても類似した運動が見られたのですね。そうか、厚生省の設立も1938年だったのか。国民の健康を国家が積極的に管理・涵養していく体制の成立とファシズムへの移行が重なるようにして立ち上がってきたこと、そのなかで国民を人口学的な「人的資本」とみなし、活用できるものは活用し、不要なものは排除していったこと、これらを丹念に論じています。
とはいえ、彼は戦時体制とファシズム体制の間に明確に線を引こうとしています。曰く、

単なる戦時体制では説明できない、生殖段階から国民の健康と体力を国家が管理し、「人的資源」として利用もすれば廃棄もする体制、「存在に値する生命」と「存在に値しない生命」を国家が選別した体制、それをわたくしはファシズムのファシズムたる所以とみなすからである。

これが、彼の独自性であり、同時に批判の対象となりうるところだと思います。ファシズムと戦時体制(総動員体制はこちらに位置づけられるでしょう)を区別することは妥当なのか、という問いを必然的に喚起します。これはつまりファシズムをどう捉えるのか、という問いなのだと思いますが、ファシズムを近代における「特異」として論じるべきなのか、それとも近代の「帰結」として捉えるべきなのでしょうか。
個人的には後者として捉えられるべきだと思いますし、そう認識した方が、藤野さんが注目する国民の健康と国家の関係というものもより明確に位置づけられるのではないでしょうか。フーコーのことはよく知りませんが、そうした個々人の健康に国家が介入し、積極的に健康な身体を作り上げようとすること、更にはそれを一種の「人的資本」とみなして活用しようとすること、これはファシズムに特異な問題というよりも、近代という文脈の上で考えるべきなのではないか、と思います(北欧やアメリカなどでも「断種」は行われていたわけですし)。

こうした厚生省を中心として成立した体制やその活動は、(もちろん多少の変化はあったでしょうが)戦後へと引き継がれていきます。「健康な」身体のための個々人への国家の介入もまたそのまま今日へと引き継がれていると思います。特に戦後という文脈では、そうした「厚生」と強く結びついたのは「労働」ではないでしょうか。「24時間戦えますか」ではないですが、労働に耐えうる身体を涵養するために国家の身体への介入は止むことなく、むしろある意味では強化されたようにも思えます。とはいっても死んでは元も子もないですから、死なない程度に最大限身体を搾取することが求められたし、それに耐えうるような身体が要請されたのではないか、とも勝手に思っています。その最も象徴的なものが「厚生労働省」という名称・体制それ自体ではないでしょうか。

もちろん安易に現代に結びつけるべきではないと思いながらも、どうしても関連づけずにはいられませんでした。まぁ反・禁煙ファシズムということで。

2010年4月3日土曜日

木下古栗 『ポジティヴシンキングの末裔』

たかぶるだけ
たかぶらせておいて
帰宅。
〈想像力の文学〉から著者初の単行本刊行。

まったくもって毛深い体質ではなかったはずなのに、ある朝、純一郎が目覚めると、手足が自らの陰毛によって緊縛されていた……(「ラビアコントロール」)。枕に額を預けて目をつむった。眠りの底なし沼に沈みそうになる。このまま性器をまさぐり出せば俺はマスターベーションを避けられないだろう……(「糧」)。不可思議な官能のスパイスがまぶされた約30篇が競演する初作品集。

こんな本の感想を書くなんて、こっちが恥ずかしくなりますが。
「たかぶるだけ たかぶらせておいて 帰宅。」
というコピーに惹かれて買ってしまいました。

しかもこんな本をお薦めするなんて、もっと恥ずかしくなりますが。
早川から出ている謎のレーベル「想像力の文学」の一つです。
実にくだらない。本当に、本当に下らない。下ネタとグロネタのオンパレードです。しかもそれが30篇以上も続く。読んでいて吹き出すこと、ドン引きすること、突っ込みを入れてしまうこと、多々あります。

書き出しからすでに独特の雰囲気が漂っていて、やられてしまいます。
ところどころ書き出しだけ拾い上げてみると、
「ある未明、有閑マダムたちの住む高級住宅街の路地に大量の馬糞がばらまかれた。」
「内藤がへべれけになって帰宅すると、奥の部屋から苦しそうな呻き声が聞こえてきた。またしても中山が勝手に筋肉を鍛えているのだ。」
「この場に掲載するにはあまりにもお得な極秘情報が続々と入ってきている。」
「血気盛んな比較的薄着の青年たちが、いっせいに意味不明の言葉を怒鳴り合う。」
「ユッサユッサと揺れる中年女性の乳房。それは目にして嬉しい代物とはかけ離れている。」

…どうなんですかね、これ。こんな書き出しだったらまぁとりあえず読むしかないじゃないですか。で、読んでしまいます。でも、唐突に場面が変わったり、意味不明の展開になっていって読者が宙づりにされてしまう。互いに繋がっている短編もあったりするので、またページをめくるとまた書き出しに惹かれて読んでしまう。そんなこんなであっと言う間に読み終えてしまって、「…これは一体なんだったんだろう」と呟くことになります。なんてくだらない本を買ってしまったんだと思い、しかもそれを取り憑かれるように読んで、しかも感想まで書いてしまうなんて。
この人ただ者じゃないですね。81年生まれですか、若いですね。まぁ40〜50代の人がこれを書いていたら、ちょっと心配になってしまいますが。
不必要にも思える反復や切れ目なくダラダラ続く文章も、著者ならではの世界観を形作る一助になっていて、いい感じです。これだけ独自の(しかも一目見て異常と分かる)世界を創れる書き手って評価したくなります。宙づり感と下ネタ、妄想の暴走が面白いです。
自信をもって薦めるわけではありませんが、個人的には当たりでした。長いの読んでみたいな。

2010年4月2日金曜日

山森亮 『ベーシック・インカム入門』

近年におけるグローバリゼーションのなかで、約二〇〇年の歴史をもつ「ベーシック・インカム(基本所得)」の概念が
世界的に注目を集めている。
この新しい仕組みは、現代社会に何をもたらすのか。労働、ジェンダー、グローバリゼーション、所有......の問題を、あらゆる角度から捉え直す。

ベーシック・インカムの入門書。歴史、思想的位置づけ、経済学的視点、社会運動との関係など、幅広い観点から考察が行われていて、とてもよくできた本。あまりに幅広いので、ところどころ??と思うところやもっと広げて欲しいとこなんかもあるけれど、新書でここまで学べるのはありがたいことです。

昔VOLで特集してたけれど、BIって面白いですね。

ただ、個人的には(財政云々は除いて)幾つかの点で賛同しかねます。
一つは、メンバーシップの問題。この点について本書では言及はありませんが、BIをもらうのは誰か、という問題です。日本国籍所持者に限るのか、いわゆる永住者も含むのか、定住者は?留学生は?200万人以上の在留資格者もその対象になるのでしょうか、ならないのでしょうか。他方で、国外に居住する日本国籍所持者はどうなるのでしょうか。仮に日本国内に、長期滞在する全ての人々、を対象にするとしても「不法移民/不法滞在者」と名指される人々はもちろんそこから外れることになるでしょう。こうした人々がいわゆる「3K労働」などに従事させられることだって考えられるように思います。
もう一つは、国家による個人の掌握がより加速していくのではないか、という危惧です。近代国家が社会を掌握していったように、個々人が国家による統制の下に今まで以上に置かれるのではないでしょうか。家族や企業といったものを介さずに、国家と個人がより近しく結びつけられることに対する違和感/嫌悪感を感じます。
更に、本書でも廣瀬純による指摘として、BIが逆説的に社会運動を分節化し衰退させるのではないかということが挙げられていましたが、これも気になることの一つではあります。

にもかかわらず、このBIという発想は極めて魅力的なものだと思います。それはBIという視点を導入することによって、労働と賃金との関係の根源的な問い直しが可能になるからです。あくまで「理念としてのベーシック・インカム」に留まるにせよ、それ自体は高く評価されるべきだと僕は思っています。

果たして労働とは何なのでしょうか。
私たちが労働するのは、何のためなのでしょうか。賃金のため?それとも生きるため?賃金なしに労働は成立するのでしょうか、しないのでしょうか。労働は(生物学的な意味合いで)生きるための苦行に過ぎないのでしょうか。それとも単に生きるための糧を獲る活動以上の意味があるものなのでしょうか。もしそれなしに生きることができるならば、私たちはそれでも労働するのでしょうか、働かなくなるのでしょうか。あるいは、お金さえもらえればどんな労働でもいいのでしょうか。

フェミニズムやジェンダー関係の研究者や活動家がアピールしてきたことの一つに、家事労働も「労働」であり、賃金労働と同等、もしくはそれ以上の評価を与えられるべきだ、という点があるかと思います。であれば、外で働く人々(男性)が労働の対価に賃金を受け取るのに対し、家事労働に従事する人々(女性)は、その対価として何も受け取っていない、といってもいいでしょう。つまり、賃金が伴わずとも労働は成立するということになります。これは結局労働をいかに定義するか、という話ですが。

労働の対価を得ることができない彼女たちが生きるためには、男性の労働の対価である賃金に依存せざるを得ない。言い換えれば、女性たちは家事労働によって、男性から生きさせてもらう、という対価を得ることになります。しかしこれはよく考えれば奇妙な話で、更に男性はこのような生活基盤の部分的な譲渡によって賃金のみならず、再生産領域での行い全てを女性から獲得するということになります。こうした非対称性から女性たちを守るためにBIは意味を持ちます。女性たちは、BIによって個人的にお金を獲得することができるし、男性はBIが加わることによって、その増加分、労働時間を短縮させ家事労働の一部を担うことができる、かもしれない。まぁ絵に描いた餅のような話かもしれませんが。

完全に話がそれました。
現代の日本で飢餓という問題がどれほどリアルなものか、ちょっと僕には分かりません。ただ、日本における貧困とは、絶対的なものというよりも相対的なものなのではないか、と思ったりします(貧困研究についてほとんど無知なので間違っているかもしれません)。少なくとも、餓死の恐怖に怯えたことがある人は(特に若い世代には)ほとんどいないのではないでしょうか。たぶん、20世紀後半において(むろん先進国に限定された話ではありますが)初めて、人類は「飢え」というものからの恐怖から解放されたのだ、と思います(これは伊豫谷さんと昔話していたことです)。このことがもつ意味について、ぼんやり考えてはきましたが、BIによってそうした飢えからの解放がますます進んでいくことは間違いないことでしょう。飢えに対する恐怖が、人々を労働へと駆り立て、それが近代化の強力な推進力となってきた、ということは言えると思います。そしてその近代化の進展は、遂に飢えからの解放をもたらします。BIの導入はこの動きを決定づけることになるでしょう。そのとき、人々を労働に駆り立てるものとは一体何になるのでしょうか。
あるいは、この飢えに対する恐怖というのが、いつしか「より良い生を送ること」へと転換していくということは考えられるかもしれません。だけれども、これは以前ほど強力な推進力は持ちえないでしょうし、生きることがある程度担保されればそれでいい、という人もいるでしょう。いずれにせよ、現代において「労働」のもつ意味が問い返されるようになっていて、BIを巡る議論はその問い直しを根源的な形で行うことができるものなのだと思います。BIによって人間が飢えから解放されるとき、「労働」と「活動」とは同義になるようにすら思います。『人間の条件』を読み直したくなりますね。

戦後の日本社会は、社会保障やセーフティネットなど多くの部分を企業に頼ってきたように思います。いわゆる「日本型雇用形態」なるものを再評価しようとする人が結構いるようですが、それは企業に正社員として入社し、勤め上げた人にとっては望ましいところが多いのでしょう。けれど、そこから弾かれた存在に対して、このシステムは異常なほど冷淡なものであることは間違いありません。プレカリアスな状況に置かれた人々がこれだけいる(そして今後もよりいっそう増大していくであろう)なかで、企業を介したシステムはもはや意味をもたないのではないでしょうか。だからこそ、日本においてもBIが必要とされているのだと思います。それはすごくよくわかるのですが…。

そういえば、著者の山森さんはもともとアマルティア・センの研究をされていたようですね。アマルティア・センの研究と本書のようなベーシック・インカムの議論がどのように結びつくのか。ちょっと興味があります。

読みながら考えていたことがいくつもあったのですが、抜けてしまいました。思い出したら追加します。

2010年4月1日木曜日

長嶋有 『パラレル』

妻の浮気が先か、それとも僕の失職が原因か?ともあれ僕は、会社を辞め離婚した。顔面至上主義のプレイボーイ津田と、別れてもなお連絡が来る元妻、そして新しい恋人…。錯綜する人間関係と、男と女の行き違いを絶妙な距離感で描く長嶋有初の長篇。斬新な構成と思わず書きとめたくなる名言満載の野心作。

いやぁ軽いですね。2時間くらいでさくっと読み捨てられる、そんな感じ。6年前の小説ですか。こういった小説は古びてしまうのも早いですね。
設定にせよ、言い回しにせよ、とても戯画的というか、分かりやすい。頭を使わないで読んでいけます。時間軸を複数織り交ぜるやり方も、前後の文脈に沿ったものになっていて混乱することもないだろうし、分かりやすく伏線が置いてあるし、読後感もすっきりだから。
あっという間に読ませるんだから、そういった力はある作家さんなのでしょう。

でも、どうにも広がらない。だってこれ以上書くべきことが思いつかないんだもん。
ということでおしまい。どうやら僕は彼の良き読者になれそうにありません。ごめんなさい。

2010年3月29日月曜日

ルイ=フェルディナン・セリーヌ 『なしくずしの死 上・下』

『夜の果てへの旅』の爆発的な成功で一躍有名になった作者が四年後の一九三六年に発表した本書は、その斬新さのあまり非難と攻撃によって迎えられた。今日では二十世紀の最も重要な作家の一人として評価されるセリーヌは、自伝的な少年時代を描いた本書で、さらなる文体破壊を極め良俗を侵犯しつつ、弱者を蹂躙する世界の悪に満ちた意志を糾弾する。

“絶望のアナーキスト”から“反ユダヤ主義者・対独協力者・戦争犯罪人”まであらゆるセンセーショナルな肩書きを背負ったセリーヌは、呪われた作家だ。だがその絶望と怒りの底には、声なき弱者への限りない慈しみが光る。そして哀しみとユーモアも。生来負債として負わされている死を、なしくずしに支払っていくしかないと謳う、狂憤の書にして愛に満ちた救いの書。

『夜の果てへの旅』に続き、二作目のセリーヌ。ただ『夜の果てへの旅』を読んでからだいぶ時間が経ってしまったので、重ね合わせながら読むことはできなかった。
文体破壊云々は、日本語に変換されてしまうとよく分からなくなってしまう。原語で読むとなかなかの衝撃、らしい。最も翻訳を介してもこれだけの衝撃を与えるわけですが。あとがきによればある批評家は「この卑猥な叙事詩はフランス語ではない、俗語で書かれている」、と評したとか。最下層の人々の日常やその生き様を克明に描き出そうとすれば、「フランス語」の域からは外れてしまう。逆に言えば、セリーヌ以前のフランス文学においては、最下層の人々の生というのはここまで露骨に描かれてこなかった、ということなのかもしれない。

反ユダヤ主義者やら戦争犯罪人やら、セリーヌを指してよくいわれるけれども、僕が読んだ2つの作品でそれらはほとんど前景化していない。だから、率直に言ってよく分からない。もっとも略歴によると、彼の反ユダヤ主義的言説が活発になったのは『なしくずしの死』刊行以後らしいが。反ユダヤ主義的言説というのが具体的にいかなるものなのか、その背景は何なのかについては若干興味がある。というのも、この2つの小説を読む限り、この世界のあらゆるものが罵倒の対象になっているし、そこにユダヤ人が付け加えられたからと言って特に驚くことはない。にも関わらずユダヤ人に呪詛をはくシーンが全くと言っていいほど登場しないのはなぜか。反ユダヤ主義的言説は彼がこの2つの小説を書いた時点でも、のさばっていただろうに。まぁ、ひとまずそのことは置いておこう。

この小説が呪詛と怒りに満ちた小説だとあらかじめ知っている人は、冒頭の一節に意表を突かれるかもしれない。この物語はこんな文章で始まる。

みんなまたひとりぼっちだ。こういったことはみんな実にのろまくさくて、重苦しくて、やり切れない……やがて私も年をとる。そうしてやっとおしまいってわけだ。たくさんの人間が私の部屋にやって来た。連中はいろんなことをしゃべった。大したことは言わなかった。みんな行っちまった。みんな年をとり、みじめでのろまになった、めいめいどっか世界の片隅で。

『なしくずしの死』というタイトルと、内容紹介の「生来負債として負わされている死を、なしくずしに支払っていくしかないと謳う」、というくだりと、訳者によるあとがき。それらとこの一節を重ね合わせると、なんとなく見えてくることがある。フェルディナンや彼の家族、そして発明家クルシアル、彼らは絶えず不条理な運命に翻弄される(もちろん自分でそれを招き寄せている部分はあるけれど)。人生は苦痛に満ちていて、彼らはきしんだ悲鳴を上げ続ける。彼らの世界、人生はどこまでもこの苦痛の繰り返しに過ぎない。それを繰り返していくうちに、いつしか年を取り死んでいく。彼らは、あらかじめある負債を背負っていて、それを支払い続ける。それが帳消しになったときにもたらされるものが死なのだろう。
ただ、負債それ自体は苦痛だとしても、その支払い自体は希望や歓びのある行為なのかもしれない。彼らは、様々な困難に直面する。それに憤り、嘆き、絶望する。しかしその中でも、何かを見出してそれに乗り越えようとする。そうした乗り越えを目指す彼らの様子を、セリーヌは昂揚感とともにつぶさに描き出している。こうした彼らの強靭さは生の力強さそのものであって、こうした根源的な生の肯定がこの小説にはある。つまり、あらかじめ背負わされた負債を彼らは生の力そのものによって報いようとする。神は助けてくれない。助けてくれるのは、生それ自体なのだ。

だからこの小説はとても力強いし、面白い。「……」を多用し、地の文と会話文と心情の独白が自由に入り交じるこの文体は、否応無しに読む者をこの虚構の世界へと引きずり込む。距離を保ちながらこの小説を読むことはひどく難しい。気付けばフェルディナンやクルシアルと一体化している。そして彼らの思いが転移するがごとく、様々な心情・怒り・共感を読者の植え付ける。だから、読んでいて気分が悪くなることが何回もあった。これほどの力を持つ小説はそうはないだろう。

思わず笑ってしまうシーン、目を背けたくなるシーン、ごちゃごちゃして訳が分からなくなってしまうシーン、色々あります。個人的には家族一緒に船でイギリスに旅行する際のゲロ地獄シーンにどん引きしました。

2010年3月25日木曜日

佐藤俊樹 『桜が創った「日本」—ソメイヨシノ起源への旅』

一面を同じ色で彩っては、一斉に散っていくソメイヨシノ。近代の幕開けとともに日本の春を塗り替えていったこの人工的な桜は、どんな語りを生み出し、いかなる歴史を人々に読み込ませてきたのだろうか。現実の桜と語られた桜の間の往還関係を追いながら、そこからうかび上がってくる「日本」の姿、「自然」の形に迫る。

ちょうど時期も時期ってことで。
岩波新書の隠れた(?)名著です。実に良くできた本で、つくづく感心しながら読んでいました。
桜そのものよりも、桜に関する語り、イメージに焦点を当てています。
面白い点は幾つもありますが、まず古来の人々が「桜」に持っていたイメージ、理想的な桜の有り様を具現化したのが、ソメイヨシノであったということ。このことがソメイヨシノのイメージをそれ以前の(そして今日にもある)桜の多様な有り様に対して押し付けていったということ。それゆえソメイヨシノが登場し、広範に拡大していった後にそれ以前の桜の有り様を見ようとするとどうしてもソメイヨシノのイメージに引きずられてしまう。そうしたソメイヨシノを近代の産物だと見なして、それ以前の、「本来的」な桜の有り様を「ヤマザクラ」に見いだそうとする、つまり人工的かつ近代的なソメイヨシノに対して自然で伝統的なヤマザクラを対置させようとする発想も、まさしく近代的思考に他ならない、と喝破している。
このことがすぐ連想させるのは「ポスト・コロニアリティ」を巡る議論だろう。ポスト・コロニアルな局面において、植民地支配に対する反発として、しばしば、それ以前の原初的な姿を見出し、それに立ち返ろうとする動きが見られる。ただ、それは結局のところ植民地支配下の鏡像に過ぎず、それこそ西洋的な思考に他ならない。こうした矛盾に覆い尽くされた状況が、ポスト・コロニアルな局面ではないか。これについて、酒井直樹は「ポスト・コロニアル」という用語の「ポスト」にはpost factumとしての意味合いがあるという卓抜した指摘していた。植民地体制とはそうした、まさしく取り返しのつかない出来事なのであり、もはやそれ以前に立ち返ることなどできない、ということだろう。

話が逸れてしまった。次に面白いのは、桜と「日本人」が相互参照的に、あるいは再帰的に互いを創出させてきた、という点。「日本人」なる存在が「桜」を育て上げたのではない。ある人々が新たな桜を創出し、桜が「日本人」を創出させていく。そうした連累の果てに、現代の桜を巡る語りは位置している。「桜は日本にしかない」とか「桜のように日本人は……」とか「桜は日本人の感性に合っている」とか「西洋のバラが一輪の美しさであるのに対して、日本の桜は集合の美しさである。これは、西洋は個人主義的性格と日本の集合主義的性格に対応するものだ」とか。
現代の桜の語りの特徴として、個人的な桜に対するイメージが、突然日本人の桜のイメージや「日本」へのイメージへと飛躍していく点を指摘していた。何の論理もなく、情緒的に、あるいは随想的に両者が結びつけられる。こうした語りは確かによく耳にするし、違和感を感じるのだけれども、桜の描写の美しさにごまかされがちなのも真実だった。マイケル・ビリッグがバーナル・ナショナリズムという言葉を提唱していたけれども、確かに彼のいうようにネイションにまつわるイメージはこうした何気ない、日常生活のすぐ近くで機能しているのだろう。

もう一つ挙げれば、ソメイヨシノが接ぎ木によって広がっていくが故に、ほぼ同時期に、同じように咲き、同じように散っていく、ということ。このことが国民国家形成や帝国主義の拡大において一定の役割を果たしていたのではないか、という指摘である。同じような桜を見て、同じように楽しむ、そうしたソメイヨシノを取り巻く空間を地域は違えど多くの人々が共有する。そもそも桜は日本のイメージを密接に結びついている。そんな中でソメイヨシノは「日本/日本人」が形成されるにあたってのいわばイデオロギー装置の一端として機能したのではないか、ということはとても興味深い指摘だった。ソメイヨシノがクローンであるがゆえに、結果的に時間や空間を共有することが可能になった、ということだ。しかも何にも増して興味深いのはその時間、空間の原点ともいうべき地点が靖国神社であったということだろう。この靖国神社と桜の結びつきについて、第2部の前半にかなり紙数を割いて考察を行っている。

桜って面白いなぁとつくづく。桜を巡る語りに改めて注目したくなります。桜に対する著者のスタンスが明確で、単純化や飛躍を自制する語りがとても気に入りました。とても優秀な方なのかな、と勝手に思いました。
ソメイヨシノが咲いているうちに、とはいわないけれどもぜひご一読を。

2010年3月22日月曜日

ダンテ・アリギエーリ 『神曲 天国篇』

三昼夜を過ごした煉獄の山をあとにして、ダンテはベアトリーチェとともに天上へと上昇をはじめる。光明を放つ魂たちに歓迎されながら至高天に向けて天国を昇りつづけ、旅の終わりにダンテはついに神を見る。「神聖喜劇」の名を冠された、世界文学史に屹立する壮大な物語の完結篇、第三部天国篇。巻末に「詩篇」を収録。

ようやく読了。ちょうど各篇1ヶ月ペースで、3ヶ月かけてのんびり読みました。
ラストに向かうにつれて、妙な昂揚を感じますね。おぉ、ついに神のところまで!みたいな。とはいえ、天国篇は、ダンテの警告通り、そしてよく言われるように、難解というか馴染みにくい印象でした。口頭試問みたいな問答や神学的(?)な説明が大部分を占めていて、地獄篇や煉獄篇を読むのとはちょっと勝手が違いました。あと、ダンテの「これを詩で伝えることはできない」といった発言があまりにも多いのにもちょっとなぁ、と。たぶん、彼の言う通りなのだろうけれど。天国での出来事は人間には理解できない、といったことは天国の住民にも再三指摘されることだし、そうしたそもそも人間が理解できないということと、更にそれを言語化して他の人に伝えられるようにしなければならない、ということは不可能なことなのかもなぁ、とか。面白いのは天国には遠近法が成立しないということ。遠くも近くも同じように見える。ダンテのこの時代には遠近法は成立していないはずだけれど、あれはどこまでも人間の擬似的な視点(トリック)だものね。きっと逆遠近法の世界なんだなぁ、と。
煉獄篇を読んだときベアトリーチェとダンテの痴話喧嘩にどん引きした、と以前書きましたが、ベアトリーチェ=神学なんだよ、ということを天国篇を読んでいるなかで教わりました。ベアトリーチェとダンテの関係を単なる男女関係と読んではいけないのですね。あれは痴話喧嘩ではなく、俗人ダンテに対する神学からの叱責、みたいなものなのですね。俗人ダンテが神学によって深く自己を省みて、神学に魅了され、探求し、それとともに天国を旅していく、ということなのですね、反省。でも学問だけじゃなくて、観想も必要だということは、聖ベルナールへと導き手が変わることからわかるそうです。だとすると、ヴェルギリウスとは何だったのでしょう。
ともあれ、やはり天国で歓びに満ち、健やかに過ごしているはずの人々も、例によってフィレンツェやら法王庁やらには痛罵を繰り広げるんですね。あまりにも口さがない、そして俗っぽくはないか、と思いますがダンテの政治に対する執念やら怨恨やらが透けてみえて面白いです。

読んでよかったか?と聞かれると「よかったよ」って答えます。やっぱり面白い、あらゆる意味で。よくまぁこんなものを作り上げたなぁ、と驚嘆、です。『神曲』のなかで再三自分でも言ってるからあんま言いたくないのだけれど、この人は天才的ですね。細かな部品14233個を丹念かつ緻密に汲み上げて、恐ろしく巨大で、にもかかわらず均整のとれた構築物を作り上げたダンテというのは常人ではないですね。


以下は完全におまけです。いつも以上に意味不明かついい加減な内容になっていると思われますので、間違っても信じたりしないように。

少し前に、NHK教育でカステルッチの舞台・インスタレーション『神曲』が放映されていて、それを見て思ったこと。
ダンテの『神曲』に霊感を受けて作られた、あるいはそれを翻案したといった感じ。特に考察をする訳ではなく、疑問やら、素朴な印象やらを断片的に書き連ねただけですが。

地獄篇について、ダンテのそれとはっきりと重なるのは、ぱっと見たところでは、作者のカステルッチが冒頭シーンの犬に襲われるところくらいだろうか。ヴェルギリウスに連れられて地獄を順に巡っていく、というダンテのそれとは大いに異なるように思う。ダンテが地獄を明確かつ幾何学的に秩序づけたのに対し、カステルッチの舞台では、ダンテもヴェルギリウスも登場しない。
ただ、冒頭の犬に吠え立てられるシーンでは、カステルッチだけではなく、あたかも観客も犬に吠えかけられているように思う。そしてそれ以降ダンテ=カステルッチが登場しないことを考えたら、以降この舞台でダンテの役割を果たし、地獄を垣間みるのは観客自身なんだろう。
序盤の登場する“INFERNO”の文字がなぜ左右逆なのか。観客席から見るとそれは左右逆だけれども、舞台の方から見ると、それは左右正しく表記されている。つまり、観客こそが地獄篇の世界に入り込んでいるのだ。

また、ヴェルギリウスに相当する人物がいない訳ではない。この舞台に要所要所に登場するアンディ・ウォーホルがそれに近い役割を果たしている。途中、舞台の男女が次々と両手を開いて投身するシーンで背景に登場するテロップに書かれているのはウォーホルの作品とその製作年。なぜウォーホルなのか。ダンテがヴェルギリウスの影響下にあったのと同様に、私たちはウォーホルとともにあるということか?これは謎。

反復について。投身シーンでも、バウンドシーンでも、首切りシーンでも、同じ「ような」行為が何度も繰り返される。けれども、それは同じではない。バウンドの反復は違った光と音の反応を生み出すし、首切りもいつの間にか人数が減っていく。一方、ダンテの地獄では、地獄の住民は「終わりない責め苦」に苛まれる。火に炙られ、瀝青に煮られ続ける。それは同じものの繰り返しであり、違うものを生み出さない。この違いは一体なんだろうか。これも謎。

上映後のインタビューで、カステルッチは、(多分に韜晦が含まれているであろうが)興味深い発言をしている。地獄篇をなによりも彼は「生」や「人間関係」という文脈で捉えているのだという。
確かに、ダンテ地獄篇で際立つのは亡者たちの過去(生の時代)についてのダンテへの語りであり、様々な責め苦を甘んじて受け続ける亡者の強さだったと思う。彼らが語るのは、故郷、祖国、家族、友人たちとの関わりであり、カステルッチはそれを「人間関係」という。私たちは人間関係を切り離すことのできない「必要なもの」ととらえている。だから、私たちは「人間関係」から逃れることなどできない。それは往々にして地獄行きと結びつく。天国に行くことができる人間はごく僅かなのかもしれない。あるいはその僅かの者も本当に天国に行けるのだろうか。

「天国篇」のインスタレーション。あそこに流れている水をレテ川として捉えてみたい。レテ川は全てを忘却させる力をもつ。煉獄をこえ、天国へ向かうものは、この川の水を飲み、全てを捨て去る。
…しかし、このインスタレーションの男は、いつまでもレテ川から出ることはできない。つまり、それ以前の人間関係などを捨て去ることができないのだ。そしてその様はあたかも地獄の責め苦のようにも見えてしまう。天国行きを約束されたはずの男は、忘却を果たすことができず(それは彼を彼たらしめているものだから)、いつまでも天国に辿り着くことができない。天国篇の短さの意図について、カステルッチは本心を隠した回答をしているのは明らかだろう。天国篇の短さの理由は、天国に辿り着くことが不可能だからに他ならない。実際のところ、レテ川の水を飲むのは煉獄篇最終部のことであり、実のところ私たちはダンテの天国篇の世界に踏み込むことすらなく、現実の世界に送り返されてしまう。

あと、アメリカについて。ウォーホル、バスケットボール、そして煉獄篇の舞台。なぜアメリカなのか。これまた謎。ただ、近代(モダニズム)においてアメリカのもつ象徴性とか神話性とかと関係づけることができるかもしれない。また、イタリアにとってのアメリカ、は気になるテーマ。

ダンテの神曲において、地獄と天国が永遠のものであるのに対して、煉獄は過渡的な移行の状態である。煉獄にいる人々は、生前の行いに応じて、様々な苦行を負い、それは生前の行いを贖うに足るまで続く。煉獄は許しの場ではなく、苦行への忍耐の場である。したがって、煉獄では唯一時間が意味をもつ。カステルッチにおいても同様に、煉獄篇だけが、時間をもつ。しかし、この作品の息苦しさは何といえばいいのだろう。煉獄にいるのは誰かすらも分からない。
ただ、こう考えることはできる。煉獄において贖われるべき罪が人間関係に起因するものであり、私たちがそれを避けることができないのであれば、そしてそれでも天国を希求するのであれば、私たちは煉獄においてそれを贖わなければならない。それは、避けることのできないものだから、どこまでも不条理のものに見える。同様に、このカステルッチの煉獄篇も、どこまでも不条理な物語である。だけれども、煉獄とは、やはりこういったものなのかもしれない。

ダンテの『神曲』はどこまでも英雄譚である。彼らは名をもつ存在である。
一方カステルッチの取り上げるのは「匿名」の人々である。だから、それは英雄が不可能な時代における「私たち」なのだ。天国にも、地獄の奥深くにも行くこともない、大多数の「私たち」。

…本当かよって自分でも突っ込みながら、ですが。時間があれば、ちょっと観なおしてみたい。

2010年3月20日土曜日

丸川哲史 『竹内好—アジアとの出会い』

戦後思想史において独特の光彩を放ち、ナショナリズムやアジア主義の問題を考える上で不可欠な仕事を残した思想家、竹内好(一九一〇~七七)。いま、われわれはその遺産をいかに読み、いかに継承すべきか。魯迅、周作人、武田泰淳、京都学派、毛沢東、岸信介…6つの出会いをとおして竹内の思想をアクチュアルに問い直す。

今年生誕100周年の竹内好。みすずからも竹内関係の新刊があったなぁ。竹内の再評価が進んでいるのはここ10年ぐらいのことなのだろうか。
来週末に彼の本をもとに勉強会的なことをするらしく、なんか糸口になれば、と思って手に取った。丸川さんが竹内好論を書いた!という期待もあって。

僕が竹内の著作を読むようになったのは、学部生の時だったろうか。ちくまの『日本とアジア』を初めて読んだ時の驚きは今もよく覚えている。それはポスト・コロニアルなんて言葉が流行する遥か以前に、こんな根源的な思考をしていた思想家がいたのか、という驚きだった。とはいえ、その時は実は、竹内を「読んだ」というよりも「読み損ね」ていたのだ、と気付かされることになる。
そのきっかけとなったのが、僕が大学院に進学したときに、客員教授としていらしていた孫歌さんの授業。まさしく一流の研究者であり思想家でもある(そして人柄もとても素晴らしい)孫歌先生の授業を受けることができたこと、これは大学院に行って本当に良かった、と思うことの一つだった。テクストを読むということにかけて、彼女ほど抜きん出た方に出会ったことはないと思う。特に竹内を読むということがいかなることなのか、このことをまさしく実践的に思考していく、そんな授業だった。

竹内の文章は、ぱっと見るととても読みやすく、すらすら読んでしまいがちだけれども、実はとても難しい。彼は必死に言葉を見つけ、あるいは作り上げ、自分の思考を表現しようとする。けれども表現しきれない、そんな苦闘やそれゆえの飛躍が随所にあって、それを見落とさずに、あるいはそんな飛躍を埋め合わせながら、果たして彼は何を言わんとしているのかを理解しようとしていく、そうした過程が必要になるのだろうと思う。
彼はなによりも借り物の言葉に頼らない。あるいはたとえ借り物の言葉であっても、最後は借り主にそれを返すか捨てるかして、その本質を自分のものとする。そうした言葉の積み重ねから竹内の論文はなっている。だから、竹内を読むときには、ある意味で竹内に成らなければいけないのかもしれない。けれどもそうして読み手が竹内と一体化しては、そこから有効な思想をくみ出すことなどできない。だから竹内から最終的には離れなければならない。「出会う」こととはこうした運動に他ならない。
竹内が魯迅と出会い、また孫歌さんが竹内と出会ったように、いつか僕も竹内に出会いたい、そう思ってはいるのだけれども。

そんなこんなで丸川本。
竹内好の6つの出会い、に注目した章立てになっている。魯迅、周作人、武田泰淳、京都学派、毛沢東、岸信介。
さすがというかなんというか、なかなか質の高い議論が展開されていて、しっかり読み込んでいるなぁといった印象。思わず見逃してしまいそうな竹内がさらっと述べているところをしっかりとつかみ取り、咀嚼しながら論を組み立てていて、なるほどなぁと唸らされる。
とくに4章、5章は抜群に面白い。「世界史派」との関係に注目して「日本の近代と中国の近代」を読み解くあたりは、新鮮な発見が幾つも。

本書は改めて竹内好の魅力を教えてくれる本だと思う。したがってかなりおすすめ。
竹内好の生涯、研究姿勢、発言、視座、行動と彼のもつ思想は一貫していて、不可分なものなのだと思う(僕の竹内への関心は—恐らくは他の竹内に関心を抱く人々と同じように—彼の思想への関心と同じ位、彼の思想にも向けられている)。そして「思想」というものはこうあるべきなのだ、とも。借り物の思想と言葉に頼らないこと。そして「思想」がその人にきちんと「根付いている」ということ。竹内の思想が強靭なのは、彼の思想が彼自身にしっかりと根付いているからなのではないでしょうか。だから、本当のところ彼の思想だけを抜き出すことなどできない。彼の思想に近づきたいのであれば、彼自身と出会わなくてはならない。そしてその苦闘をするだけの価値がそこにはあるのだろう。まだまだ竹内好という思想資源はくみ尽くされてなどいないのだろう。あるいは今こそ竹内好が必要とされているのかもしれない。

そういえば「人と思考の軌跡」とタイトルの横に書かれているけれど、これは河出ブックスのシリーズなんだろうか。だとしたら、次にどんな本が出るんだろう。

2010年3月15日月曜日

万城目学 『鴨川ホルモー』

このごろ都にはやるもの、勧誘、貧乏、一目ぼれ。葵祭の帰り道、ふと渡されたビラ一枚。腹を空かせた新入生、文句に誘われノコノコと、出向いた先で見たものは、世にも華麗な女(鼻)でした。このごろ都にはやるもの、協定、合戦、片思い。祇園祭の宵山に、待ち構えるは、いざ「ホルモー」。「ホルモン」ではない、是れ「ホルモー」。戦いのときは訪れて、大路小路にときの声。恋に、戦に、チョンマゲに、若者たちは闊歩して、魑魅魍魎は跋扈する。京都の街に巻き起こる、疾風怒涛の狂乱絵巻。都大路に鳴り響く、伝説誕生のファンファーレ。前代未聞の娯楽大作、碁盤の目をした夢芝居。「鴨川ホルモー」ここにあり。

なんともまぁ、くだらない本です。くだらな面白いというか。
妄想とアイディアで、ここまで突っ走れるんだからたいしたものです。
どんどん読み進めていくことができるし読後感も決して悪くないです。「あぁ、面白かった、おしまい!」みたいな感じ。深く考える必要もないし、エンタメ小説としては成功作でしょう。
「読まなきゃ人生損している」(某書店の文庫担当者)ってほどじゃないし、むしろこれを読んだ時間分、人生を損しているんじゃないか、とも思いますが。まぁ面白かったからいいか。
でもなんだか森見登美彦とかぶるなぁ…

2010年3月14日日曜日

トーマス・ベルンハルト 『消去 上・下』

オーストリアの作家トーマス・ベルンハルト(1931-1989)の代表的長編小説をここに刊行。主人公フランツ‐ヨーゼフ・ムーラウが両親と兄の死を告げる電報を受け取るローマの章「電報」と、主人公が葬儀のために訪れる故郷ヴォルフスエックを描く章「遺書」からなる本書は、反復と間接話法を多用した独特の文体で、読者を圧倒する。ベケットの再来、20世紀のショーペンハウアー、文学界のグレン・グールド。挙げ句には、カフカやムジールと肩を並べる20世紀ドイツ語圏の最重要作家と評価されるベルンハルトとは、いったい誰なのか。

〈死神の鈎爪にがっしりつかまれているのが分かる。死神は私が何をしていても、片時もそばを離れない〉
ベルンハルトが本書のモットーに掲げたモンテーニュの言葉である。彼のどの作品においても死と自殺のテーマがライトモティーフのように、繰り返される。ベルンハルトの世界は死に浸潤されている。希望や愛など肯定的価値を帯びたいっさいのものが生息する可能性を奪われた作品世界は、極小にまで切り縮められている。当然、狭く息苦しい。しかし、ベルンハルトの小説が徹頭徹尾暗く重苦しいかというと、そうではない。ここにベルンハルトの文学の奇跡がある。そこにはまるで別世界からさしてくるような透明な光が満ち、妙なる音が響いているのだ。世界を呪詛し自己を否定する独白は通奏低音のように暗く強いうなりを発しつづけるが、耳を澄ますと、その上に幾層にも積み重なった倍音が響いているのが聞こえる。その響きの中に、あるべき世界のイメージが浮かび上がるのだ。

なんと言えばいいのか、うまく言葉が見つからなくてもどかしい。圧倒的な小説。
改行は上巻と下巻の間の1回だけ。あとは改行なしに一気に続きます、ひたすらに。

しかも、内容もすさまじい。家族、故郷、祖国などに対する呪詛が延々と書き付けられる。というよりもあらゆるものに彼が恨み辛みを投げ付ける。もちろん自分自身にも。自己顕示と自己否定の間でもがき苦しむ様が痛々しいまでに伝わってくる。読むしんどさを幾度となく感じ、だけれども読み続けなければならないとも思う。なかなか区切れない彼の文体に、崇高ささえ感じ、ひどく魅了されてしまう。
閉塞感、絶望、不満、憤怒……しかし、なぜだろう。読んでいて主人公が自死を選ぶのではないか、と思うことはなかった。これは本当に奇妙なことで、彼の人生はどこまでも「出口なし」に見えるのだけれど。彼が唯一希望を抱くローマでの生活さえ、息苦しさからは免れえないのに。

けれども、そうした激烈な呪詛がときに読者の笑いを誘うのも事実で、閉塞感の行き着いた先に笑いがある、というのはとても面白い発見だった。こうしたベルンハルトの屈折したユーモア精神も見落としてはいけないのではないか。

最近の(特に日本の)小説の傾向として、ポリフォニックな形式を取ることによって、ある現象の多様な側面、あるいは全体性を描こうとすることが挙げられる。しかし、ベルンハルトはここでひたすらに独白を続けることによって、社会などに対する透徹した徹底的な批判を加えることに成功している。どこまでも自己を通して世界を見ることによって、「世界像」を形作っている。それはひどく醜悪な歪んだ世界の姿なのだけれど、それは世界の一面を凄まじいエネルギーで徹底的にえぐり出している。

彼は、自身にも向けられるこうしたあらゆる呪詛を「消去」という本に結実させようとする。全てを書き付けることによって、彼は全てを消去させようとする。この本は読んでいる途上では、決して書かれえないのではないかと読む者に感じさせる。彼は小説を書かない小説家であり、論文を書かない哲学者であるのだと。
しかし、彼は遂にそれを書き上げる。それは、あるいはこの本そのものなのかもしれない。
そして、書き上げることによって、彼は彼が呪った対象全てを消し去り、彼は生き続ける。この小説のラスト数ページはとても素晴らしい。それ(あるいはこの小説そのもの)はある種の文学的奇跡とさえ思える。

読者を呑み込むほどの圧倒的な力を持つ小説。喫茶店でこの本を読み終え、顔を挙げたとき奇妙な感覚に陥った。それを無理して言葉にしようとすると、とても陳腐になってしまうし伝えられることができないと思うから、言わないけれど。
たまには本に呑み込まれるのもいいものです。

フランコ・ベラルディ 『プレカリアートの詩』

70年代のユートピア的反乱はなぜ現在のディストピアへ行き着いたのか。自殺、自傷、ひきこもりの先に見える未来なき現在のために。ネグリとともに闘い、ガタリとともに歩んだ、今、最もアクチュアルな思想家/アクティビストがイタリア・アウトノミア運動といまを結び、現在の資本主義を分裂分析する。

上智の白石嘉治さんがどこぞで絶賛していたけれど、なるほど面白い。
内容を整理しようとしたけれども、なぜか挫折してしまった。
扱っていることはそんなに難しいことではない。むしろ大雑把とすら思えるほど、ざっくりとした議論のように思う。ざっくりしている、というのは、ここ数十年の流れ、転換を幅広い文脈からうまく抽出している、という意味だ。粗い部分がない訳ではないが(というよりかなりあるように思うけど)、かなり重要な一面をえぐり出しているように思う。

彼がまず注目するのは1977年という転換点。ユートピアからディストピアへの滑落を再現してみせる。その後過去30〜40年間の社会や労働環境の変化から、彼がコニタリアートと呼ぶ者たちの出現に至る過程に注目する。更にこの数十年間、メディア・情報圏において2つの決定的に重要な転換が起こったことに注目する。一つは60〜70年代に生じたビデオ電子圏の形成であり、もう一つが90年代以降に起こった、グローバルなインターネット圏の形成である。彼らはそれまでの世代と決定的な相違を生まれながらにして抱えている、とビフォは考え、この世代に蔓延するとされる精神病理へと分析のメスを入れていく。そんな彼の議論に通底するテーマはやはり自律性(オートノミー=アウトノミア)である。TAZではなく、Non TAZ、つまり永続的な一時的自律領域の確立を彼は論じている。あぁ、そういやハキム・ベイも積読したままだった。

これじゃあ伝わらないなぁ。とりあえず個人的に面白いと思ったところをいくつか抜き書きしてみよう。

世代という概念の意味するのは、テクノロジー的、認知的、想像的な形成環境によって規定された時間性を共有する人々の集合体である。過去の近代的時間においてはこの形成環境が時間とともにゆっくりとしか変化しなかったのに対して、生産関係、経済関係や社会階級間の関係のほうがもっとはっきりと変化したものだ。しかし、ひとたび文字文化的な諸技術がデジタル化へと移行するや、この転換が介在して学習、記憶、言語交換のモードを根本的に変更させ、形成過程における世代的属性の濃度こそが決定的なものとなってきたのである。…世代とは技術的かつ認知的な現象であり、意識の共有地平と経験的可能性を自己構成する横断的主体化の概念なのだ。認知技術的環境の変容が、個体化の可能性と限界を再定義するのである。(14−15ページ)

77年を資本主義支配に対する最後のプロレタリア運動だったということもできるが、それはまた近代の終焉を告げる年だったということもできる。…あの年の文化が含んでいたのは資本主義社会批判だけでなく、近代性批判でもあった。(40ページ)

「プレカリアート」という言葉は一般に、労使関係、賃金、そして労働日の長短に関連づけられた固定的ルールにはもはや規定されえない労働領域を象徴してある。しかしもし過去を分析するなら、労使関係の歴史においてこうしたルールが機能したのはごく限られた期間だけだったことがわかる。…労働運動の政治力が衰退したのにともない、資本主義における労働関係の本性的不安定性とその残忍さが再び出現したのである。(46ページ)

新たな現象であるのは、労働市場の不安定性ではなく、情報労働を不安定なものとしている技術的かつ文化的な諸条件の方なのだ。技術的条件というのはネットワークにおける情報労働のデジタル再結合のことであり、文化的条件というのは大衆的教育と消費への期待のことである。…本質的な点は労働関係が不安定化することではなく、むしろ労働力、能動的な生産主体としての個人の解体にあることがわかる。(46−47ページ)

カタストロフとはギリシア語で、位置の変化によって前には見えなかった物事が観測者に見えるようになることを意味する。破局は新たな可視性の空間を開くものなのだ。そしてこの可能性ゆえに、しかしまたパラダイムの変化が求められる。(234ページ)

テクノロジーの発達はここ数十年加速度的に進展した。これを単なるツールや科学技術の問題として捉えてはいけない、それは「全面的」なものであって、私たちの身体や思想の有り様を根幹から造り変える事態なのだ。しかし、それについての思考がまだまだ貧弱なように思う。それについて説明できるような言葉があまりにも少ない。ビフォがここで様々な用語を生み出すのは、そうした説明のための言葉の欠如を補うためなのだろう。それが読みにくさに繋がっているとしても、何らかの言葉を編み出さない限り、この転換を十分に議論することができない。
個人的な話をすれば、僕はこのビデオ電子世代と接続的世代のあわいに属する。だから、率直に言って彼の議論に対して違和感を感じるところもある。特に、母よりもテレビと関わる時間が多くなった、という下りはジェンダー的にもかなり問題のある議論だろうし、あまりに大雑把な感は否めない。だけれども、だから過去へ立ち戻ろう、という発想をビフォは微塵も抱いていない。それは不可能であり、どこまでも稚拙な発想に過ぎない。
彼は、自律性に何らかの希望を見いだす。それが破局の後にあるものだとしても。

花粉症と薬の副作用のせいで、頭がぼんやりしてまとまらない。もしこれを読んでいる人がいたら、すみませんと謝りたい気持ち。彼の分析は面白いんですよ、本当に。
(ビフォについては洛北出版からも近刊予定あり)

2010年3月7日日曜日

永井均×小泉義之 『なぜ人を殺してはいけないのか?』

14歳の中学生に「なぜ人を殺してはいけないの」と聞かれたら、何と答えますか? 日本を代表する二人の哲学者がこの難問に挑んで徹底討議。対話と論考で火花を散らす。文庫版のための書き下ろし原稿収録。

読み終えてから、どう感想を書き散らかしたものか、と悩んでいて随分経ってしまった。で、悩んでいるうちに、内容をほとんど忘れてしまった。
つまり対談の「噛み合わなさ」ばっかりに引きずられて、肝心の内容をすっかり忘れてしまった、ということ。とはいえこの本を600円で発売できる河出って一体どうなっているのだろう。よっぽどたくさん刷っているのだろうか。まぁいいや。

「噛み合わない」ということは「失敗」ということとイコールではない。この対談を「失敗」と評する人がいるけれども、そもそも対談が「成功」するとは、どんな状態だろう、と思う。こうした成功/失敗を評価する根底にあるのは、弁証法的な発想だと考えて間違いないだろう。テーゼ、ジンテーゼ、アウフヘーベンというお決まりの流れ、これに則っていれば対談は「成功」、則っていなければ「失敗」、と要はそういうことではないだろうか。この対談はそうした流れには明らかに沿っていない、だからこれは「失敗」である、と。また、Amazonレビューに散見される、どちらかに軍配を挙げたがる発想も何だかなぁ、と思う。対談に「勝ち/負け」もあるまいに。

単純に、この問いの立て方が間違っているのだろう。「なぜ人を殺してはいけないのか?」、この問いが発せられる文脈ってかなり特異なものではないだろうか。まず、ここには主語がない。この問いを「なぜ(私は)人を殺してはいけないのか?」と採るか、それとも「なぜ(人は)人を殺してはいけないのか?」と採るか。また、この問いはどこ(誰)に向かって発せられているのか。そして、この問いが本当に問いなのか、単なる修辞疑問に過ぎないのではないか。そもそも「(私or人は)人を殺してはいけないのか?」というこの問いを飛ばして、その理由を問うこと自体、かなり乱暴な問いの立て方という印象を拭えない。
これがこの対談がよく分からなくなってしまう一つの要因。両者でこの文脈の理解がズレている。
だけど、逆に言えばここから彼らの思想とその根本的なズレを取り出すこともできるはず。これは今後の課題。
むしろ、そっちに読み開いていかないと、もったいない。

あと、必ず出るだろうと思っていた、幾つかの話が出なかった。
「戦争」「収容所」「人間/動物の間」。これにはがっかり。「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問い自体が成立しない状況から考えていくやり方もあったのでは(特定の方向ばかりに向かってしまい、話も次々それていくのは対談の魅力であり、欠点でもある)。

面白いと思うかどうかは微妙ですが、600円なら買ってもいいのでは。

2010年3月2日火曜日

日野啓三 『あの夕陽・牧師館』

最初の小説「向う側」から近作「示現」まで日野文学の精髄を示す8篇を収録。

ベトナム戦争中、失踪した記者の行方を追う著者初の小説「向う側」、自らの離婚体験を描いた芥川賞受賞作「あの夕陽」等初期作品から、都市の中のイノセンスを浮上させる〈都市幻想小説〉の系譜、さらには癌体験を契機に、生と死の往還、自然との霊的交感を主題化した近作まで8作品を収録。日野啓三の文学的歩みの精髄を1冊に凝縮。

少し前に「風を讃えよ」と「七千万年の夜警」を読む機会があって、それからずっと気になっていた日野啓三。
先日古本屋でこの本が手に入ったので(「七千万年の夜警」は入ってないけど)読んでみました。

向う側/あの夕陽/蛇のいた場所/星の流れが聞こえるとき/風を讃えよ/ここはアビシニア/牧師館/示現(エピファニー)

の8篇、いずれも短編です。これらはほぼ時系列順に並んでいるのかな。
池澤夏樹みたく、これらに通底して日野啓三が扱ってきたテーマ、などというものを掘り下げることなどはできないけど。…というよりそもそも、日野啓三の小説を深く掘り下げていったら日野文学の核心、みたいなものに辿り着けるものだろうか。僕もそれに近いことをやろうとしているのかもしれないけれど、その先に「核」があるというのは幻想なんじゃないだろうか。結局、池澤が取り出してくる「向う側」なんて抽象的なテーマは日野啓三以外の人びとも取り上げていることで、そんなものを「核」だなんて大仰な言い方する必要ないでしょう、とか思ったり。とはいえ、そうした核心をつかみ取ろうとする運動や、「核」のように見えるものを呈示してみせることは必要なのかもしれない。
僕もそれに近いことをやろうとしている、と書いたけれども、違うとすれば、池澤がそれを客観的な「日野文学の核」として呈示しようとしているのに対して、僕のはただ主観的な、「読んで感じた印象」に過ぎないということだろう。

ともあれ、上に挙げた8つの短編のうち、前半の3つは正直言ってそこまで面白いとは思わなかった。デビュー作しかり、芥川賞受賞作しかり。自然の細密な描写とか色彩感覚、光への感受性とかはすごく気に入っているし、僕が勝手に思う「日野啓三らしさ」の一面はそこに描かれている。けれども、この3つであくまで主役なのは「人間」だということがいまいち気に入らなかった。これについては少しあとで考えるべき点かもしれない。

残りの5篇についてはそれぞれに素晴らしい短編だと思う。
「星の流れが聞こえるとき」に登場する少女、「風を讃えよ」に登場する癲癇の少年と風男、ここでも日野は人間を描いているじゃないか、と思われるかもしれない。けれども、彼/彼女らは、「器」のようなものだ。そうした「器」を介して私たちは星の流れる音を聞き、風の呼吸を感じ取る。彼が描きたかったのは、そうした人間そのものではなく「器(としての人間)」を介して聞こえてくる「自然」そのものではないだろうか(ひょっとしたらここにそうした「器への生成」も付け加えるべきなのかもしれないが)。彼/彼女を通して、私たちは雪の降る音を聞き、風の呼吸を聞く。
「風を讃えよ」について、ある精神科医が、この小説は、統合失調症の人間から観た世界を見事に描ききっている、と評したらしい。それについては僕は分からない、としかいえない。けれどこの短編を読むたびに、やはり「風の神殿」に響く風の呼吸が聞こえてくるし、ともすれば光の粒子すら見えるような気がしてしまう。癲癇を煩った人間が、発作時に感じるという恐怖と恍惚の混淆や、幻覚をこの少年は「ハクイ」と呼ぶ。モノも音もすべてが薄れ、溶け合い、透き通るような体験、それを少年と風男は共有している。そして、また彼らはその「ハクイ」を風の呼吸からも感じ取る。とても神秘的で美しい、短編小説。
「ここはアビシニア」もまた、印象的な小説。19歳で写真集を出版し、その後世界を放浪するなかで、カメラを捨てた写真家遠井一を巡る物語。戦災で全てが燃え尽きた東京は、その後奇跡的な回復を遂げる。そしてオリンピックを目前にした昂揚状態のなかで、彼は写真集を出版した。彼は、東京という虚構的な現実を下支えしているもう一つの「現実」を写し出そうとする。それは朽ち行くアパートであり、高架道路の裏にあるむき出しのコンクリートであり、メッキが剥げ落ち、緑青を吹いている流し台であった。そしてそれらは単に東京のもう一つの姿を映しているのではない。それは「現実」であるとともに未来の東京でもある。彼は「現実」を執拗に撮ろうとし続ける。しかし、カメラは現実のごく一面を切り取るに過ぎない。彼は海外を放浪し、アビシニアに辿り着く。そして圧倒的な現実を前に、それをカメラに収めることを放棄し、自分自身がカメラとなり、身をもって「現実」を浴びる。しかし、そうした「現実」に私たちは耐えられない。「現実」に近づきすぎた彼は、もとの世界に帰ることができなくなってしまう。そうした遠井の姿を「私」は「夢の島」で幻視する。そしてそんな彼の姿をアビシニアのランボーと重ね合わせる。私たち(こういう一般化は安易か)は「現実」を執拗に追いかけようとするが、私たちはそうした「現実」に耐えることはできない。恐らく創作というのはこの僅かなあわいの領域においてなされるものなのだろう、彼のように(ランボーを含めていいのかはわからないけれど)帰って来れなくなってきた人びとを私たちは数多く知っている。
「牧師館」は少し不思議な感じ。なぜ終盤部にいきなりキリスト教の話を持ち出したのだろう、またなぜ(教会ではなく)牧師館を幻視したのだろう。手術を間近にして、ふと奥多摩の渓谷に向かった「私」は渓谷で自然の音にじっと耳を澄ませるうちに、とくに夕陽の一瞬に自然と通じ合えたような心地になり、落ち着きを取り戻す。そして彼は駅に戻ろうとするのだが、そのときに森のなかに牧師館を幻視する。そのなかで老牧師は「われわれはもう自然に戻ることはできないのだよ」ときっぱりと言う。「われわれ」のなかには、キリスト教だけでも「男」だけでもなく、私たちも含まれることだろう。「男」と自然との交感をここで自ら否定しているのだろうか。それとも自然に戻ることはできないけれども、交感することはできる、ということだろうか。すこしよくわからなかった。
最後に「示現」について。これはオーストラリアについて書かれた文章のなかでもっともよくできたものの一つではないだろうか、と勝手ながら思う。ガッサン・ハージの『ホワイト・ネイション』などを読んでいて、広漠な自然(アウトバック)に対する恐怖感が白人オーストラリア人に根付いている、というのを少し言い過ぎだろう、と思っていたのだけれど、なるほどな、と納得させられた。日野の観察眼はとても鋭敏で、レストランでの様子や街の夜景からそうした恐怖感や孤独感を具に捉えている。オーストラリアの中心にある空虚、「広大な無」に対する恐怖感。自然の圧倒的な存在感によって、人間(白人)はそこで主役になることができない。
そして「私」は月夜のエアーズロックと対面する。ここの描写の美しさは感動的ですらある。面白いのはその後に「私」が死にそうになるところ。ここに「ここはアビシニア」との近似点を見いだすことができるかもしれない。
最後のアボリジニとの対話。これも、とてもいい。

なんだか好きな小説ばかり。
日野啓三、もう少し読んでみようかな。

2010年2月28日日曜日

吉本隆明 『遺書』

人間の死は「死ねば死にきり」でよい。一度は死の水際まで行った吉本隆明が、個人の死から、国家、教育、家族、文学の死までを根源的に考察。本当の遺書ではなく、「フィクションとしての遺書」として死を見据える。

少し前にブルータスで吉本隆明を特集していたという話を聞きました。なんで?
そのときはたいして気にも留めてなかったんだけど、数日前にそういえばいくつか文庫もってたなぁと思い、探していたら目に入ったのがこの本。
口述筆記スタイルの読みやすい本です。けれども、個人的にはいまいち。まじめに話をしているようには思えず、なんだかなぁと思いながら読んでいました。
テーマは、「死について」、「国家について」、「家族について」、「教育について」、「文学について」、「わが回想」みたいな感じ。
よく分からない提言とかとらえどころのない話ばっかり。こういうのが彼の思想のどの部分から引き出されているのか、を知っていれば面白かったのかな? 別に読まなくてもいい本。少なくとも「いま」読み返されるべき本ではないような。
もう少し彼の思想を追ってみないとなんともいえないけど、現時点では特に書くべき感想はないです。以上。

2010年2月27日土曜日

クレア・キーガン 『青い野を歩く』

名もなき人びとの恋愛、不倫、小さな決断を描いた世界は、「アイリッシュ・バラッド」の味わいと、哀しみ、ユーモアが漂う。アイルランドの新世代による、傑作短篇集。小池昌代氏推薦!

あんま期待してはいなかったけど、なかなか面白かった。
これってアイルランドっぽいなぁ、と思ってしまった。アイルランド文学なんてほとんど読んだことないし(興味深い人が沢山いるのは知ってるけど、なかなか手を出せず…)、アイルランド文学ってものから(そんな括りが有効だとして)何らかのテーマが抽出できるものなのかはよくわからないけれど。
荒涼とした自然と、ケルト神話(神話とまではいかなくとも土着的な伝承)と、カトリックと結合した封建的かつ家父長的な秩序。そしてちょっと幻想的だったりも。
とはいえ、何よりもそこに生きる人びと。

彼女の文体は、ほどよい透明感(この短編集のなかでガラスがしばしば登場するが、ちょっと曇ったガラス、のようなイメージ。自然でも人間でも透過させてしまうような、けれどもどこかぼんやりとしているような。うん、ちょうどこの本の表紙みたいに)があって描写力にも富んでいる。こねくり回したような、もってまわった表現はほとんど出てこないし、シンプルに文章を積み重ねていく。だからあっさりと読んでしまうのだけれども、語られる内容は同衾であったり不倫だったり、神父との性交渉であったり、とても生々しい。家族や、男女や親子の絆と、その破綻。あるいは取り返しのつかない過去。それは結構哀しい話なのだけれども、彼女はその哀しさを誰かに向かってまくしたてようとはしない。そうではなくて、しばしの沈黙のあとに、適切な言葉を選び取りながら静かに物語る、あるいは呟くような、そんな印象。ちょうど、『花様年華』でトニー・レオンがカンボジアのとある遺跡の壁の穴に秘密を吹き込んだように。
そしてラストの小さな決意。救い、というほどではなく、劇的に何かが変わる訳でもない。ただ、明日からも生きていこう、ということを決意する。たったそれだけのことだけれども、なぜだろう、とても心に残る。

動物の視点の挿入など視点の切り替えも節度を弁えていて効果的。自然や動物も巧みに描くけれども、やはりこの小説の主人公はアイルランドに住まう人間(アメリカの話もあるけど)で、彼らのやり取りや会話がとても面白い。うまいなぁ、と。
「青い野を歩く」、「降伏」、「森番の娘」あたりは印象的。

気になること。原文に当たらずとも気付いてしまうような、明らかな誤訳は勘弁して欲しい。興ざめしてしまう。