六月の夕暮れに起きた交通事故の結果、女医の目の前でその夫を死なせたバラードは、その後、車の衝突と性交の結びつきに異様に固執する人物、ヴォーンにつきまとわれる。理想通りにデザインされた完璧な死のために、夜毎リハーサルを繰り返す男が夢想する、テクノロジーを媒介にした人体損壊とセックスの悪夢的幾何学を描く。バラードの最高傑作との誉れも高い問題作、初文庫化。
バラードの最高傑作とも称され、SF小説の一つの金字塔とさえ言われるこの作品。クローネンバーグが映画化したことでも知られていますが…ごめんなさい、僕この小説だめでした。読むのがしんどくてしょうがなかったです。映画も見ようと思ったけれども、この小説を読んだだけでお腹いっぱいとなってしまいました(若干吐き気も…)。
僕が感じた「しんどさ」は、表面的には、何が起こっているのかわからない、誰がその場にいて何をしているのかがなかなか掴めないということにありました。この小説のスピード感に付いていけなかった、ということだと思いますが。あと、もっと深く考えようとすれば、こうしたテクノロジーとの性的な合一やこの小説自体の倒錯した暴力性に「嫌悪感」に近いものを覚えてしまったということにもあるのだと思います。こうしたものに「嫌悪感」を覚えるということ自体、この小説のテーマとも深く関わることでしょうし、考察に値することかもしれません。
ただ、幾つかのことはやはり書き留めておきたいと思います。一つは「車」というのは、閉ざされた特異な空間でありながら、身体の延長でもある、という点についてです。ジジェクでしたか、車は外から見るととてもちっぽけに見えるのに、中に入るととても広く感じる、という点にどこかで言及していたかと思います。どういう文脈だったのか思い出せませんが、そのことだけ妙に印象に残っていました。車というのは(基本的には)密閉された空間であり、内部と外部が明確に線引きされています。車内から眺める外の景色がなぜかリアリティをもたないように感じることさえあるように思います。同時に運転手にとっては車は自分の身体と同化させなければ、上手に運転することはできないでしょう。障害物を避けるときにどの程度ハンドルを回せばいいのか、車の幅はどれくらいあるのか、アクセルをどの程度踏み込めばスピードが出るのか、など、車の運転には、それを自分の身体へと接続する、身体化することが求められるわけです。また、車好きの車に対する愛着というのもそうでない人には理解しかねるほど、奥深いもののようです(僕にはよく分かりません)。ついでに言えば、僕は小さいとき、車の正面から見た姿を「顔」として認識していました。「あの車、嫌な顔してるね」とかそんなことを話したりしていた訳です。そういえば、この小説でカーセックスというのがたびたび出てきますが、なんでそんなことをするんでしょう。車の密閉性とか、にもかかわらず外部とガラス1枚で繋がっていることに対する露出狂的な欲望とかがあるのかもしれませんが、ドライブにはひょっとしたら人を性的に掻き立てる何かがあるのかもしれません。
なんだか色々考えていくと、人間と車との関係というのはつくづく「奇妙」なもので、車というのは単なる機械以上の存在のようにも思えます。人間の身体と車の接続というのが、運転の前提にあるとすれば、車と人間との合一というのもさほど奇異なものにも思えなくなってきます。テクノロジーの身体化とかサイボーグとか、気にはなっているのですが、なかなか本を読めていません。ダナ・ハラウェイとかも気になっているのですが。
他に気になったのは、「クラッシュ」や死への欲望とかそういったことについてです。破局や死への欲望はこの小説を通底して流れています。クラッシュが凄惨であればあるほど、その光景を見たくなってしまう、あるいは見たくないと思いながら見てしまう、ということはひょっとしたらあるのかもしれません。「うわぁ……」と言葉を失いながら破局的な光景に立ちすくむような、そんな魅惑が実はあるのかもしれないと思います。ただ、こうした凄惨な光景への欲望は、果たして破滅への欲望や死への欲望と同一のものなのか、これはよくわかりません。「人類滅亡」がことあるごとにメディア等で話題になることを考えたら、ひょっとしたら、私たちはどこかで滅亡したいのではないか、とさえ思えてきますが…。ちょっとわからないなぁ、というのが正直なところです。
そしてこれら2つのことが歪に絡まり合い同一化しているところが、この小説の奇妙さであり、魅力であるのでしょう(僕はそこに嫌悪感を感じた、ということです)。
きっともっとちゃんと読める人が読めば、ここから多くの論点を抽出できるのでしょうが、僕はちょっとできそうにありません。
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