空には暗雲がたれこめ、気温は下がりつづける。目前には、植物も死に絶え、降り積もる灰に覆われて廃墟と化した世界。そのなかを父と子は、南への道をたどる。掠奪や殺人をためらわない人間たちの手から逃れ、わずかに残った食物を探し、お互いのみを生きるよすがとして――。
世界は本当に終わってしまったのか? 現代文学の巨匠が、荒れ果てた大陸を漂流する父子の旅路を描きあげた渾身の長篇。ピュリッツァー賞受賞作。(解説:小池昌代)
ぞくぞく文庫化が進むコーマック・マッカーシー。国境三部作、『ブラッド・メリディアン』、『血と暴力の国』と読んできたので、邦訳が出ているものは一通り読んでみたことになる。
やっぱりこの作品は国境三部作→『血の暴力の国』→『ザ・ロード』って流れとして読みたいと思う。『血と暴力の国』のラストはこの『ザ・ロード』と繋がっていることは、両書を読んだほとんどの人が気付くことだろう。だから?と問われると困るけど、西部民がインディアンを「征伐」していた時代も、第二次世界大戦以前も、以後も、そして(ヴェトナム戦争を経て)現代も、更にある「破局」の後も、人間は変わらず誰かを殺している、そして抗いようのない何かに押し流され続けている、ということには気付くことができる。世界が破局を迎え、すべてが変わってしまったように見えるけれども、そういった意味から言えば「何も変わっていない」。
彼らは南に向う。理由がないわけではないが、そのどれも本質的なことではない。寒いから、狼を戻したいから、インディアンを征伐したいから。私たちは因果律にがんじがらめになっているように見えるけれど、実際のところある原因が何かの行動を引き起こすのではないかもしれない。マッカーシーの描く人物は(そしてともすれば私たちもまた)は何かに常に押し流されている。しかし、人びとはときにそれに抗おうとする。
破局後の世界において、人が生きるために誰かを殺す、あるいはそれを食べるというのは、弾劾されるべきことなのだろうか。少なくとも弾劾する人はいない。良心とか神とかによる禁止の声も、こうした世界においてはもはや届かない。少なくとも彼らのなかで神は既に死んでいるのだから。彼らは生きるために(彼らは何のために生きるのか?と問うのはあまり意味がないように思う)、あるいは生への執着に取り憑かれるようにして、他人から物を奪い、子どもを食べる。私たちは生きているというよりも、生への衝動に押し流されているだけなのかもしれない。
ここに登場する息子と、彼が迎えることになるラストシーンこそ、まさにこうした「何か」に対する抗いではないだろうか。このラストシーンはこれまで凄惨な人間の衝突を見続けてきた読者からすれば、ひどくありえないことのように思える。これまで人間の動物的な側面(単純化するためあえてこうした言い方をする)を見てきた私たちはここで初めて「人間的なもの」の交流を目の当たりにする。父子の関係を除いての話だけれど、言ってしまえばこの子どもだけが常に「火」を灯していたのだ。彼がいなければ、彼の父親は、それまで登場し続ける「悪者」と何ら変わらなかっただろう。(だからこの作品はひどくキリスト教的な世界観に裏打ちされているように思う。)
破局後の世界において、「火を持つ者」とは、こうした人間性を持ち続ける者であり、恐らくは神を信じる者なのだろう。結局のところ、「火」とは人間性の換喩なのではないか。そして恐らく「世界」はこうした「火を持つ者」において初めて成立する。他者との交流がなければ、あるいは他の「人間」の存在を想像することができなければ、「世界」を構成することはできない(「他者への想像力」という意味で、父親は「火」を持っていないことは明らかだ)。ラストシーンにおいて、彼は同じく「火を持つ者」と出会う。そして、父の死とともに失われた「世界」を、改めて構成することになる。こうした抗いこそが「世界」を構成するのかもしれない。このことはエスポジトが共同体=コムニタスを他者から/への贈与と位置づけたこととも結びつけられるのかもしれない。
……うーん、何の話をしているのか。とりあえず、『ザ・ロード』を読む前に彼の他の作品を読むことを薦めたいと思う。
破局後の世界だけあって動物の描写がないのがやや残念。その代わり自然の描写は、さすがマッカーシーという感じ。やっぱり僕はこの人の小説は好きだなぁ。
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